novel

Distance 9round Losing a distance 4

「え? 朝が?」
 翌日が土曜日になる金曜の部活の終わりに、下水流(しもつる)が景に言った。

「朝さんが景に会うって……どうする?」
「どうするって会うに決まってる」
 景が即答すると、下水流は朝が待っているというホテルを景に教えた。急いで準備して部屋を出て行こうとする景に対し、下水流は座ったまま動かないでいる。

「お前は付いてこないのか?」
 少し不安そうな景が問いかけると、下水流は下を向いたまま言った。

「そうすると朝さんも話しづらいだろうし、景も言いにくいことが出てくるかもしれないから、俺は遠慮するよ。どうせ成果は朝さんに聞くことになるだろうし」
 下水流はそう言うと、ホテルの場所と部屋のナンバーを景に渡した。其の手は少しだけ震えている。

「朝さんに聞いておいで。事の真相ってやつを」
 下水流はそう言うと一人で部室を後にした。
 景は下水流を呼び止めようとしたが、彼が朝と自分が会うことをあまり望んでいないような気がして、呼び止めることが出来なかった。

「……孝晃(たかあき)……ごめんな。色々分かってきたんだ。だから朝に会って決着つけないといけないんだ」
 自分の気持ちがはっきりしてきて分かってきたことがある。それを認めて乗り越えないといけない。

 その時、下水流が側にいてくれたら力強かったのにと思った自分を景は恥じた。
 このことは下水流を頼っては駄目だ。
 自分のことは自分で解決しなければならない。

 景がホテルの部屋を訪ねると、一年と少しぶりに兄、朝が顔を出してきた。

「久しぶり、景」
 ニッコリとした顔をして弟を出迎える兄は、昔より綺麗になっていた。体つきは前から細かったが、それも昔より健康に育っているのか、肉付きがよくなっていて体型は完璧と言えよう。
 あの写真に写っていた体が本物だとしたら、兄は家から失踪しただけで普通に生活をしているようだ。

「……久しぶり、兄さん」
 喉から出かかった怒声は全部兄の笑顔に持って行かれてしまったようだ。

「うん、じゃ入って」
 部屋に通して貰うと、少し大きな部屋らしい。ベッドが見えるが、その前にソファやテーブルが置けるスペースがある。

「座って、お茶でいいよね」
「うん」
 景は荷物を置いて座り、朝が出してくるお茶を受け取って飲んだ。そのお茶を飲んでテーブルに置くと、朝も目の前に座った。

「あの……何があったのか聞いていい?」
 慌てて景が尋ねると、朝はああっと呟いてから深刻な顔をして言った。

「実は、俺、あの頃凄く不安定だったんだ。色々あったんだけど、今はそれはないよ。ただ一人になりたくて、でも一人になると死ぬんじゃないかって心配するヤツがいて、その人の家でやっかいになってた」

 朝が何に悩んでいたのかを言おうとはしないので、それについて景は突っ込んで聞くのは止めた。
 そのことはもう朝の中で解決しているようだったからだ。それは顔を合わせた時に分かった。

「心配するヤツって、下水流孝晃(しもつる たかあき)?」
「そう。でもそのお父さんと言った方が正確かな? 俺が最近まで世話になっていたのはお父さんの方で、孝晃くんとはそこで会った仲だしね」

 どうやら朝は下水流の父親に世話になっていたらしい。その流れであの写真になったようだ。

「色々悩んでる間に、頭は忙しいようだが体は暇そうだって言われて、写真のモデルになったりして。それで一年が過ぎた。あっと言う間だったよ」
 悩んでいる間に一年が過ぎた。その悩みも段々薄くなって前に向かって行けるようになったというのだ。

「今度、その下水流さんの紹介で、あるカメラマンと一緒にアメリカに行くことになったんだ。カメラマンの助手するんだ。だから日本を離れる前に景には会っておこうと思って。親にはなんて言っていいのかまだ分からないけどさ」

 困ったように笑う朝に、暫く呆然としていた景だが、ずっと思っていたことは、下水流と似ていると思っていた兄の動作は何一つ似ていないということだった。

 心配して探した兄なのに、今何を考えているんだと思うのだが、似ていると浩紀にまで言われた、人なつっこい動作は何一つ似てないのだ。

 それもそのはずだ。兄はそんな甘えた動作からはすっかり卒業していて、大人の男になっていたからだ。
 随分景に甘えてきただろう兄が、一切景に甘えないのは、もう景が出る幕ではないということなのだろう。

「うん。分かった。無事でいるって聞いていたから、それはそれで良かったと思ってたし、もう心配もしてなかった。まあ、俺にはその説明でいいけど、親にはちゃんと言った方がいいよ」
「え?」

「誰かいい人が出来たんでしょ? 顔に書いてあるよ」
 景が笑って朝の顔を指して言うと朝はかあっと顔を赤くしていた。

「な、なんで……」
「その一緒にアメリカに行くカメラマンが相手でしょ。ついでだから、アメリカに居る親のところに紹介しておいでよ」
 景が両親がアメリカにいると言うと朝の方が驚いていた。

「え、じゃ、父さん昇進したんだ?」
「そうだよ、一年前にね。母さんはこっちに残ってたけど、今年向こうへ行っちゃったよ」
 本社がアメリカにある会社なので、昇進すればアメリカに行くことになるのは朝も知っていた。その問題は一年前から出ていたし、朝も気にしてはいたようだ。

「で、どんな人?」
「うーん、まあ、綺麗な人だよ。景みたいに、前向きで立ってる姿が綺麗な人。でも口が悪いところなんか似てるかもしれないね」
 笑って朝がその相手を紹介しようとするが、景を比べてくるので景は顔を顰めてわざと怒ったようにした。

「酷い、俺そんなに口悪くないよ」
「そうでもないよ、綺麗な顔して酷いこと言ったりするし、ズバッと人の心臓を貫くようなことを言うじゃないか」

「更に酷いこと言うなあ、もう。幸せなのは分かったから」
 朝がどんどん景のことを悪く言っていくので、景はもういいと止めた。

「幸せそうなのは、景も一緒だね。孝晃くんのこと好きなの?」
 ニヤッとして朝が逆襲してくるので一瞬ひやっとしたが、景はふうっと力を抜くとうんと頷いた。

「え、マジで?」
 驚いたのは朝の方だ。

「聞いて置いてそれはないんじゃないのか?」
 恥ずかしいのを我慢して言ったのにと呟くと、朝はあれれと首を傾げていた。

「いや、最近の景のことは聞いていたけど、孝晃くんはあんまりそうでもないような口調だったからなあ。景には他に気になる人がいるとか……」

「ちょっと、それこそなんだよっ!」
 朝がそう口にしたので景はムッとして怒鳴る。
 こっちは下水流に感情を掻き回されて大変だというのに、あいつはこの俺に別の誰か思う人がいると思いこんでいるのか。そう考えたらブチッとどこか切れたみたいだった。

「えーと景、怒ると怖いからね、落ち着いて」
「落ち着いている。十分落ち着いている」
 だが掴んでいるソファの肘掛けがミシッと音を立てている。

「それが落ち着いてないから」
「もう兄さんのことはいい。後は母さんや父さんの判断に任せるから。俺は俺の問題を片付けてくる」
 そう言ってすくっと立ち上がると景は鞄を持って部屋を出ようとした。しかし、一瞬だけ我に返って兄を振り返り言った。

「絶対、後悔しないように幸せに。向こうで頑張ってね」
「う、うん。景もね」
 さっきまで怒っていたのに、景はちゃんと笑って兄に幸せにと言えた。

「俺のはあいつ次第だ」
 思い出させられて唸るように景は言うと、部屋をすぐに飛び出した。
 なんでこんな遠くのホテルなんか指定したんだあのくそ兄貴、と、今まで心配でたまらなかったはずなのにそんなことはすっかり忘れて罵声を浴びせていたが、今はそれどころじゃない。

 きっと朝もそれどころじゃない事態だったのだろう。その原因が予測出来るだけに、朝の大変さは仕方ないと思えたし、失踪する理由も分かる。
 後で下水流のお父さんにはしっかり礼を言っておかなければならない状態だが、今はその息子に向かって怒声を吐きそうな勢いだ。

 駅まで行って帰るのも時間がかかる。ホテル前でタクシーを捕まえてそれに飛び乗り、下水流の家までの住所を伝えた。

「あの馬鹿。今日様子がおかしかったのはそのせいか」
 思い当たることがあるだけに、下水流が何を考えているか読めて仕方ない。だから余計に違うだろうが!と怒鳴りたくなる。
 それを我慢して前方を睨み付けたまま、一時間ほど走って家の近くまで辿り着いた。
 料金を払ってタクシーを降りると、走って下水流のマンションに駆け込んだ。ちょうどマンションに入る人が居たのでその後ろから入り、エレベーターで25階まで行った。

 エレベーターを出てから部屋番号を確認して下水流の表札を探した。やっと部屋の場所を確認してチャイムを押す。
 怒りにまかせていたため、かなり連打になってしまった。

「け、景?」
 連打したとはいえ、玄関に顔が分かる監視カメラが付いているから景が来たのは解って出てきたはずの下水流はそれでも驚いた顔をしていた。
 それもそのはず、目の前にある顔は明らかに最高に怒っているからだ。

「邪魔をする」
 景はそう言って下水流の腕を掴むと、一緒に中に入っていく。

「え? 景? 何がどうなって……ええ? 朝さんとは?」
 ズルズルと引き摺られながらも下水流は状況を把握しようと精一杯だった。しかし何故景が怒っているのか、そして朝と何があったのかさえ分からないのでは、何ともしようもない。

 リビングまで来ると景は下水流をソファに叩き付けるようにして座らせると、その上に乗りかかるようにして下水流を逃がさないようにしていた。

「えーと、景? 何か怒ってる?」
「怒ってないように見えるか?」
 怒ってるようだ。下水流はそう判断したが、一体何があったらこうなるのだろうかが分からない。

「お前、朝が俺のことを好きだったのを知っていたんだな?」
 恋愛感情で兄弟を好きなり、悩んで失踪した事実を全部知っていたから、景が朝に会いたいというのを下水流は気にしていたのだろうし、一緒に行くのも嫌がっていた。理由がわかるだけに余計に腹立つのだ。

「景……あのそれは」
「朝はその事は言わなかったけど、俺には当時俺のことを可愛がっていた様子から分かったんだが、そんなことはどうでもいい。お前は知ってたんだな?」
 景が何に怒っているのか分かってきて下水流も体の力を抜いて答えだした。

「知ってた。朝さんがそう言っていたから。たぶん今でも好きなんだと思う」
 これだけは言えなかった。朝が禁忌を犯していることを話してくれたのは、ただ下水流には景に会う機会はないだろうと思っていたからだ。まさか下水流から会いに行くとは予想も出来なかっただろう。

「今はだと、そんなことはない」
「あえ? え? ないって?え?」
 何を言われたのかさっぱり分からなかった。

「無いって。朝は他に好きな人がとっくに出来ている」
「え?え?ええぇぇぇぇ?」
 下水流はやはりそれを知らなかったらしい。

「何で、俺聞いてない! 確かに朝さんには半年ほど会ってないけど、ええええ? その間に? 誰と?」
 本当に相手になりそうな人も予想が付かなかったらしい。しかし半年も会ってないなら朝の心が変わったことも知らないだろう。

「一緒にアメリカへ行くカメラマンとだそうだ」
 景が朝から聞いたことを言うと下水流の顔が驚きでいっぱいになった。
「えぇぇぇぇ、宮さんとぉぉ?」
 どうやらもっともあり得ない人と朝はくっついたらしい。

「宮っていう人とは意外なのか?」
「意外って言うか……宮さん、朝さんのこと女々しいって嫌ってたから」
 下水流はそう言って「おかしいな」と繰り返している。確かに景が知っていた朝なら女々しかっただろう。でもさっき会ってきた朝はしっかりとした男になっていた。だから印象ががらりと変わったように見えたのだ。

「ということはお前も結構嫌われていたな?」
「ぐはあ、なんでバレてんのォ? 宮さんに会った?」

 この様子だと本当に嫌われていたらしい。相手は犬系の人間は好きではないらしい。けれど朝が変わっていったお陰でくっついたようだ。朝が変われたのは宮という人物のお陰のようだ。だからあんなに変わっていたのだろう。

「会ってない。だが当時の朝の様子からお前に似ているところが多々あるからな、だからだ。お前、俺に近づく時、わざと朝の印象を受け付けるような態度で接していただろう」
 はっきりと言ってやると下水流にも分かっていたらしく、しょんぼりとした顔をしていた。どうやらそうやって景に近づくのが有効だと思って派手に使ったらしい。

「うん、ごめん。でも基本、俺は朝さんに似てるよ」
 似せようとしてわざとした部分もあるが、基本は似ていると言って落ち込む下水流に景はため息を吐いて言った。

「別に俺はそれを嫌いだとは言ってない」
「景?」
 景ははっきりとそう言って下水流を見ると、唇を下水流の耳に近づけて聞いた。

「お前、俺のこと好きなんだろう?」
「あ、うん、好き」
 即座に返事が返ってくる。感情には正直なようだ。

「俺もそうだって言ったら?」
 景がそう言ったとたんだった。
 それまで大人しくしょげていた犬が尻尾を大きく振って景に抱きついてきたのである。
 お腹に抱きつかれて体制を崩した景を上手いこと体を捻ってソファに下水流が押し倒した。

「景……マジ?」
 真剣な顔が覗き込んでくる。

「マジ……朝にまでバレたし」
 さっきまでしっかりと下水流の困る顔を見ていたのに今度は景の方が下水流の顔を見ることが出来ないで反らしてしまった。

「朝さんに俺のこと好きだって言っちゃったの?」
「言ってはいない……バレただけだ。それで突っ込まれたから頷いただけだ。はっきり好きだとは口に出して言ってない」
 頷いたことは言ったことにカウントされないはずだと景は信じている。訳のわからないこだわりを持って誤魔化している景に下水流は笑顔になった。

「バレただけって、頷いてもいけないって! 景は照れるとすげー可愛いんだから!」
「…………は?」
 必死にそう言われても困るところだ。
 何が照れると可愛いのか。そんなところ見たことないくせに。

「だって、キスした時、顔真っ赤にしてて、すげー可愛かったんだから!」
「…………お前、キスした後逃げたじゃん」

「違うって、すげー可愛くてあの場で押し倒しそうになったから怖くて逃げたんだよ!」
「………………はい?」
 では、あれは押し倒してその場でどうにかしそうになった下水流が自分に怖くなって逃げたと。ただ照れていた景を暫く放って置いてくれたわけではなかったのだ。

「景、あの時かわい……って!」
 あまりに可愛いと連発されるので段々恥ずかしくなってきた景は喋ろうとする下水流の口を強引に塞いでいた。顎を持ち上げてなので大変危険だった。

「景ちゃん……これは危ないよ……」
 さすがにヤバイ状態だったのでそう言うと景も悪かったと分かって慌てて手を離した。

「お前が、色々言うから……恥ずかしいんだよ」
「うん。景、可愛いから正直に言うよ」

「だからそれが……っ」

「好きだ」
 可愛いと言った後に文句を言う景の口を塞ぐことなく、下水流は言葉だけで景の怒鳴りを防いだ。

「景、好きだ。景は?」
 真剣だが笑って、優しい笑顔でそう尋ねられるのは弱い。何より景が怒鳴れないくらいに弱い下水流の表情だ。分かっててやっているのは分かってるのに、その笑顔には逆らえないのだ。
 そう出会った最初から。

「……好き……」
 ボソッと呟くように言うと下水流は更に笑顔になり、最高に優しい顔をして下水流がキスをしてきた。
 唇が重なって少し開いた唇に下水流の舌が入ってくる。それを受け入れながら景は静かに下水流の首筋に手を回していた。

 けれど、その先のことは意識が薄れていって何があったのかは覚えてなかった。