novel短編

Dolls-兔(てう)-1

 嘉藤高和(かとう たかかず)は、久しぶり訪れた建物の前で大きく溜め息を吐いた。建物は、一般的なビルであるが、病院のように庭などがあるほど大きな施設だ。だが、そこは病院でもなく、研究所名義だ。
 楪(ゆずりは)研究所と書かれた看板であるが、今や意味は成していない。
 遺伝子研究所だった昔から様変わりを果たし、今や秘密の施設となっている。
 周りには人家は一切なく、研究所の人間も一旦中に入れば、数ヶ月は出ることができないとされる。
 そんな施設が閉鎖されたのは、百年前。
 遺伝子操作による人間を作り出したことが世間に公表され、世界中から糾弾され閉鎖に追い込まれた。それから研究所は閉鎖したように見せかけて、実は多額の寄附によって運営が続けられていた。
 やがて遺伝子操作は進み、一つの可能性を作り上げた。それが十年前。
 Dollという遺伝子操作をされ生まれた人間。それは闇で販売された。
 十代から二十代の、百五十センチから百八十センチまでの四種類の身長を持つ少年、青年の遺伝子組み換え人間、デザイナーベビーだ。
 およそ百体生み出したところで、商売として成り立ち始めた。
 まず金を持っていた人間が永遠の子供を欲しがった。成長しない外見は、魅力的だったのか、そのうち性的な目的で購入をする人間が増えていった。
 闇の組織により、売春などを目的として生産され、死亡例が増えるにつれ、やがてそれが世界が知るところになり、摘発が世界規模で起こり、現在は完全に違法とされる。
 だが、それまでに生み出されたDollを殺すわけにもいかなかったため、生きているDollは保護される。しかし、国による保護も人数の多さから、個人に委託されることもあるようになっていた。
 中には、労働等もせずに安穏と暮らすDollに批判が寄せられるようにもなり、Dollでも労働可能なDollは働きに出ることもある。だがほぼ見世物のような状態で、客寄せか、金持ちの自宅の労働として使われるに止まっている。
 Dollは成長をしない生物で、遺伝子操作により、そのままの姿で生き、そのままの姿で老衰で死ぬことが分かっている。(世界で最初に作られたDollは九十歳で老衰した。その時の見た目は、十代の子供のままだったという)
そのDollを作り、世に送り出してから約百二十年経っていた。
 この楪(ゆずりは)研究所は、現在楪(ゆずりは)博士の孫が一人で研究を続けている。Dollに関しての知識がある研究所であるため、すべてのDoll資料は政府に持ち去られたのだが、再現が不可能な情報が多く、政府はDollの再生ができていない。また闇で販売されていたDollは、ただの遺伝子操作された人間が多く、成長もしていくことが違いとしてある。
 楪(ゆずりは)研究所の正当なDollは成長をしないのが特徴。
 そしてそれは誰も再現ができていない。
 ただ楪(ゆずりは)はその頭脳を使って、一体の再生に成功した。だが成功から十年し、それは研究所の事故で失われ、楪(ゆずりは)は失意のあまり研究をやめ、隠居をした。
 隠居をして約五年。
 五年前の事故で、ここへ来た時は絶望していた。
 妻が事故死したからだ。ここから遺体を見送り、事情が分からないまま葬式を出した。
 事故に関して、妻イリヤは研究施設の屋上から飛び降りの自殺だ。当時はまだ政府の関係者が多くいて、事情は話せないが実験の失敗が自殺の理由だと言われた。
 その後施設は閉鎖され、政府もDollの研究を封印したという。
 そんな因縁がある場所に、嘉藤高和(かとう たかかず)は楪(ゆずりは)博士に呼びされたのである。
 年齢は三十五歳になっていた。
 妻を亡くした後、祖父が死去し、膨大な遺産を受け継いだ。
 妻のことで茫然自失になっているところへの遺産相続である。祖父には嘉藤(かとう)以外の孫はいない。人間不信で生きてきて、唯一信用したのは嘉藤(かとう)の両親だけだった。その父と母は祖父よりも早くに飛行機事故で死んだ。
 嘉藤(かとう)は祖父の援助で生きてきて、大学を出た後、銀行に勤め、三十の時には支店長にまで登りつめていた。祖父の力が働いていたことは否定はできないが、それでも実力がなけければ部下は付いて来ない。
 嘉藤(かとう)の妻は楪(ゆずりは)と同じDoll遺伝子研究者だった。
 念願の楪(ゆずりは)のところで働けるようになり、単身赴任で研究所に働きに来ていた。未来は明るいと言わんばかりの元気な人で、研究だけはやめられないが、それでも嘉藤(かとう)とはそれなりに上手くやっていたと思う。
 一年ほど電話連絡しかできなくなったのは、最後の年だけだ。
 嘉藤(かとう)も支店長になって忙しくなってきたところだった。
 そして妻は死んだ。


 門でチャイムを鳴らすと、入り口が開き。
「すまない、嘉藤(かとう)。そのまま車で研究所の裏に行ってくれ。その駐車場の隣に私の自宅がある。門は開いているので入ってくれ」
 そう受付のモニターからアナウンスがされた。
言われた通りに車を研究所の裏に止める。すると駐車場の奥に人工の光が見えた。門は煌々と照らされていて、嘉藤(かとう)が来るのを待っている。
 門を入ると、舗装された道が続くのだが、ところどころ草がコンクリートから生えていて、とてもじゃないが行き届いた手入れとはいえない。隠居を決めた五年前から年に一二回程度の申し訳なくらいの手入れしかしていないようだった。
 そこを抜けて玄関に辿り着くと、玄関のドアは開いていた。
 中を覗くと、エンドランスは明るいが、他の電灯は切られているようで、暗い廊下の先、部屋のドアが開いていて明るいのが見えた。
「楪(ゆずりは)博士」
「嘉藤(かとう)、そのままこちらへ」
 そう声がする方へと嘉藤(かとう)は歩いて行く。明かりがともっている部屋は、客を案内するリビングになっており、煌々と照っている照明は、当時の華やかな暮らしを思い出させるものだ。だが、それらには蜘蛛の巣や埃がかぶっており、低い場所だけは掃除したという形だ。
 その部屋の中央に大理石の床に虎の絨毯を引いた場所がある。その絨毯を前にしてソファに座っている男がいた。
 腰まである長い髪で、年齢は四十歳だったと思う。顔には幾分か皺ができ、当時の華やかさは鳴りを潜めていた。百八十はある嘉藤(かとう)と同等の身長であったが、研究者らしく身は細く、筋肉はほぼないと言っていい。それが酷さを増していた。
「すまない、歩くのもままならないので、わざわざ来てもらって苦労をかけた」
「いや……何か話があると」
 嘉藤(かとう)はそう言って、楪(ゆずりは)が勧める椅子に座った。
 すると十五歳ほどの少年がコーヒーを持って現れた。
 すぐにその少年がDollだと気付いた。よくその辺にいる中学生と同じ年齢でもDollは、その中学生とは思えないほど色気や気品に溢れるところがあるのだ。
 それは妻によく聞いていたDollの特徴で、嘉藤(かとう)は耳にたこができるほど聞いた情報である。
「博士、Dollは国が管理をしているのでは?」
 研究所にDollを残したまま国の研究所が撤退するはずもない。資料から何から何まですべて持ち去ったにも関わらず、Dollだけ置いていくことは有り得ない。
「ああ、これらは私のところに戻された、初期Dollだ。調整をし直してほしいと言われたり、Dollを扱いきれなくなった人間が置いていくこともある。捨てDollとでも言えば分かるだろうか」
「捨てるって犬猫じゃ……」
「そうは言っても、殺すわけにもいかなし、国に預けるにも隠し持っていたDollのことで捜査されるのは嫌な立場の遺族もいるということだ。そこで、研究所の前に捨てていく。私はそれを調整して国に戻している」
 国はそれを知っているようで、やはり初期Dollやいわゆる楪(ゆずりは)Dollの調整は研究所でなければ上手くできないのだという。
「国はまとめて調整するために、ツアーで連れてくることもあったが、最近はめっきり減っている。私ほどの手を持った研究者が国にいるのだろう」
 楪(ゆずりは)はそう言って、Dollがいることは珍しくないと言う。
「だが、私も国のやり方には少々、気に入らないことも出てきて、こうやって個人でDollの主人を探していることもある」
 それでも国は何も言わないのだという。国にとってDollは今や厄介な財産を食いつぶす生き物だ。かといって人間と同じ姿をしている彼らを邪険にはできず扱いに困っているのだという。
 だから楪(ゆずりは)が勝手に主人を決めて、勝手にDollを渡していることにも目を瞑っている。これは世界中の国が同じように思っていて、扱いに困っているということだ。
「そこで、嘉藤(かとう)にも一つDollを受け取ってもらいたい」
 楪(ゆずりは)がそう言い出して、嘉藤(かとう)はやっぱりそういう流れかと思った。
「私は妻と違って、Dollに興味もない。だから渡されても困る。受け取れない」
 嘉藤(かとう)がそう言うと、楪(ゆずりは)は話を続ける。
「実は私は、癌にかかっていて、余命が一年と言われている。今さっき見てもらったDollはすでに次の主人が決まっているので、それのことではなく、もう一人、私が政府から隠し持っていたDollのことなのだ」
「だから受け取らないと言っている」
 そう強く嘉藤(かとう)が言うのだが、楪(ゆずりは)はこう言った。
「それが嘉藤(かとう)の妻が殺し損ねたDollだとしてもか?」
 楪(ゆずりは)の言葉に、嘉藤(かとう)は目を見開いた。
「なんだって?」
「殺し損ねたDollと言った」
「冗談はよしてくれ、イリヤがDollを殺そうとするはずはない。研究対象だったが、それは生かすためのもので、殺すものではなかった!」
 嘉藤(かとう)はイリヤが楽しそうにDollの話をして、彼らの未来をよくするために遺伝子の研究をしているという話を思い出した。
 殺すなんてそれこそ有り得ないと。
「君は妻が何の実験で失敗したと聞いている?」
「……いやそれは、専門分野のことで……聞いても分からないと思って聞いてはいない……のだが」
 Dollと妻の関係はそれこそ知らない。研究所でどんなことをしているのかは極秘だった。だからDoll自体の情報は普通に聞いたが研究内容は聞いたことはないのだ。
 その妻が実験の失敗を悔やんで死んだと聞いて、相当悩んでのことだったと思ったのだ。国の実験で失敗をした、しかも取り返しが付かない失敗だったとだけ聞いた。
 それがDoll殺しだったなんて。
「君の妻イリヤは、それはもう天使のような人だったよ。研究所の人はそれこそ、彼女こそ相応しい仕事をしていると思っていた。けれど、彼女は私と不倫を始めた」
「……っ!」
 楪(ゆずりは)の言葉に嘉藤(かとう)は強く目を閉じた。
 気付いてはいた。妻の遺品の中にあった日記で、研究に関することを書いてあるからと返してもらえなかったが、その日記を塗りつぶした状態にしたコピーメモがどういうわけか遺品の中に入っていた。
 誰かが密告するつもりで入れたのだろうと思った。イリヤが不倫をしていた事実を知らない旦那に事実を教えようとしたと。でもそうではなかったのだ。
 Doll殺しを実行した女の所業を、研究所の研究員は許さなかったのだ。
 それも不倫の挙げ句の殺人未遂。
「誰かが密告でもしたんだね」
「……日記には貴方の、貴方の名前が頻繁に登場し、褒め称える言葉から、感情的になっている言葉へと変わっていた。だから、イリヤは不倫を清算されて自暴自棄で死んだと思っていた」
 肩や有名な国の博士、肩や一介の研究者。どちらを国が大事にしているかなんてわかりきっている。首になるのはイリヤであり、博士には何の咎(とが)もいかない。
「確かに不倫の清算ではあった。私には女性との関係はいわゆる研究対象の一つであり、新たなDollへの道でもあった。そのために彼女の卵子が欲しかった」
 楪(ゆずりは)ははっきりとそう言った。
「……なんてことを」
 嘉藤(かとう)は拳を握りしめて唸った。
 イリヤが実験材料にされていたなんて、しかも彼女はそれを知っていたなんて。
「ただ人の感情とは制御できるものではない。彼女は研究に協力はしてくれたが、その条件が私との肉体関係だった」
 イリヤは元から楪(ゆずりは)に心酔していた。そこから女性としての感情を持つに至るまでに時間はかからなかったようだ。
 嘉藤(かとう)は言われてみればと思うことがある。妻は段々と帰ってくることがなくなり、最後の一年は電話で忙しいと言うだけであった。兆候はあったのだが、仕事が楽しかった嘉藤(かとう)はそれを見逃した。
「君たちは、肉体的にはもう夫婦ではなかったと聞いている。彼女は私と一緒になりたいと言いだし、私は関係を清算した」
 当然だろう。元からそういう約束だったのだ。博士は研究の材料に新たな卵子が欲しかっただけで、イリヤ自体はいらなかったのだ。
「彼女は、私のDollに嫉妬し、一番大切なDollを殺そうとした。そこを見つかってそのまま屋上へ逃げ、飛び降りた」
「……さっき殺し損ねたといいましたよね」
「そう、実質的には一度は死んでると言っていい。心臓は一回止まった上で蘇生をしたからだね。そして彼女のしたことは、Dollとして生きていく上で、必要なものを一つ壊した」
 そう言うと楪(ゆずりは)が、さっきの給仕をしていたDollに指示を出した。それから一分ほどで、そのイリヤが殺し損ねたDollが現れた。
 真っ白なDoll。それが第一印象だ。
 髪や肌、眉や眉毛まで真っ白で、多分産毛も白いはずだ。白とは言っても真っ白というよりはブロンドよりの白という方がいいだろうか。そして嘉藤(かとう)を見つめる瞳は真っ赤な色をしていた。
 身長はMサイズと言われる百六十センチ。体は普通の少年よりは丸みがあり、柔らかそうな感じがした。顔は陶器の人形のように柔らかい表情で、アーモンド型の瞳と少しとがっている唇が印象的だ。
 ゴスロリと言われるような黒の方で統一した服を着て、お行儀良くしている。少し緊張をしているのは、人前に出るのが久々だったからだけではない。
「「てう」という。兔(うさぎ)みたいな感じだろう? だから兔と書いて読みは中国語で、兔(てう)という名を付けた」
 真っ赤な目がしっかりと嘉藤(かとう)を捉え、その唇が自然と動く。
(ごしゅじんさま)
 だが声は出ていなかった。
「兔(てう)は声が出せない。君の妻が喉を潰したから」
 それを聞いて、嘉藤(かとう)はどうして兔(てう)をわざわざ殺そうとした女の夫に渡そうとしているのかが分かった。
 だがそれ以上の衝撃が嘉藤(かとう)を襲った。
「……どうして知っている……」
 これは誰も知らないはずのことだ。誰にも話してないし、話題にも出したことはない。それは兔(てう)のように先天的なものではなく、後天的に備わったものだからだ。そのせいで嘉藤(かとう)は世間から一歩引いたところで生きていく羽目になった。
「君は元々、勘がいいというレベルを超えた聡い人だった。だからそんな君が人との接触を断って引きこもる理由なんて、調べてみれば分かること。ネットの買い物はできれば、クレジットカードではない方が足は付かないよ」
 どうやら楪(ゆずりは)は様々方法で、嘉藤(かとう)のその後を調べ、様子を窺っていた。Dollの預ける相手として、嘉藤(かとう)を調査してたのだ。
「あとは推測で。実際はどうかは問題ではないよ。君はきっとそのDollの心が分かるはずだ」
「だがっ!」
「兔(てう)は君の妻の卵子から作られた、最新のDollなんだ」
 そう言われて嘉藤(かとう)は目を見開いた。
「あ、あなたはっ!」
 なんてことだ。この楪(ゆずりは)はさらりと恐ろしいことを言った。
 最新のDoll。そして妻の卵子から作ったと。
「もちろん政府は知らない。研究員だって初期Dollの在庫だと思っていたから。知っていたのはその提供者の君の妻だけだ。二人で研究して密かに生み出した」
 政府が再三実験してもできなかった、強化Dollを楪(ゆずりは)は作ったと言うのだ。
「この兔(てう)の外見から、政府なら欠陥品と見る。遺伝子的には問題がないのだが、どうやら過去にアルビノの血統があったようで、このように出てしまった。研究所では後天的な白変種だろうと思わせておいたので、誰も疑いはしなかった。だが、私が死ねばこのことは政府の知るところとなる。喋ることができないDollなら、国は実験に使うだろう、悲鳴を上げないのは好都合だと」
 その言葉に嘉藤(かとう)はダンッとテーブルを叩いた。
「ふざけるな、お前らが勝手にやって後始末に困ったから押しつけるなんて!」
「そうだよ勝手だよ。研究者なんて勝手だ。君の言う通りさ。そしてこの様だ」
 そう言う楪(ゆずりは)は、癌で死ぬ。まるで報いを受けたかのように。
「だが君が受け取らなければ、他の誰かを探すしかない。君ならば、自分の不貞を働いた妻の遺伝子を持つDollを大事に愛してくれると思ったんだが、見込み違いだったか」
 それなら仕方ないと楪(ゆずりは)がさっさと諦めようとした時だった。
 それまで黙って話を聞いていた兔(てう)が、さっと走り出し嘉藤(かとう)の腕に触れた。
『いやだ、ごしゅじんさま、ぼくをすてないで!』
 それは兔(てう)の絶叫の声だった。
「おい、私に触れるなっ!」
 パッと兔(てう)を払いのけるのだが、兔(てう)は負けじと嘉藤(かとう)に抱きついた。
『おねがいします、たくさんべんきょうします! がんばります! すてないで!』
兔(てう)の必死な声が嘉藤(かとう)の中に響いて聞こえる。
「それを言うなら楪(ゆずりは)だろ! なんで俺が捨てることになる!」
『だってもうぼくのご主人さまです! きてくれました! だからご主人さまです!』
 嘉藤(かとう)が離そうとしても兔(てう)はどこからそんな力を出しているのか分からないほどの力で、必死に嘉藤(かとう)にしがみついている。
『おいていかないで! ご主人さま! 一人にしないで!』
「お前……」
 あまりにも必死な兔(てう)に、嘉藤(かとう)は圧倒される。
 この屋敷には、楪(ゆずりは)がいるが、その楪(ゆずりは)が死ぬことを兔(てう)は知っている。そして楪(ゆずりは)が死ねば、一人でここに取り残されるのだ。
『一人はいや!』
 一人で取り残される怖さは、嘉藤(かとう)にも分かる。妻が死んで、祖父が死んで、この世にいる身内がすべて敵になった。
 心配してきてくれる人が、心の中で何を考えているのか、嘉藤(かとう)にはそれが読めるようになってしまった。
 事件の衝撃と、様々な混乱がもたらした、心的な問題は嘉藤(かとう)にテレパシーという能力を与えた。幸いなのは触れなければ読めないこと。むやみやたらに人の心が読めるわけではないから、触らない生活をすればいい。
 けれど、日常において特に仕事ではそれが無理だった。握手をする、それだけで人の心が読めてしまう。ただその時に何を考えているのかが読めるだけだが、これが意外に大問題であった。
 嘉藤(かとう)はそれで仕事を辞めた。周りは奥さんの事故死で心身ともに病気になったと思ったらしいが、そうではなかった。
 だから、今兔(てう)に触って聞こえているのは、兔(てう)の心だ。
 人が怖くて人の世界から逃げ出した嘉藤(かとう)だが、一人でいることの寂しさは始終感じた。元々人といるのが好きだった。察しがいい方で心が読めるわけではなかったが人付き合いは上手くいっていた。
 真っ赤な目が、泣いているように見えて、嘉藤(かとう)はそれ以上兔(てう)を振り払うことができなかった。
「兔(てう)は、しゃべれないだけで、他の能力は一般の中学生よりは利口だ。だが問題は一般常識があまりないことだ。こんな研究所育ちでは、人間も変わり者ばかりでまともな一般常識も与えてやれなかった。まあ、その容姿だから外へ出すことは無理だろうが、屋敷内ではそれなりの常識を与えてはいる。知能は少し高めで言うことは理解も早いが、納得できないことに対しての執着は人一倍あるから気をつけてくれ」
 楪(ゆずりは)がそう言い出して嘉藤(かとう)は慌てた。
「待て、俺はまだ……」
「兔(てう)と会話ができるのは、君みたいな人だけだ。筆談では会話らしい会話もできないし、兔(てう)が遠慮してしまう」
「いやだから」
 嘉藤(かとう)が断ろうとしても、楪(ゆずりは)は勝手に話を進める上に、兔(てう)はすっかり嘉藤(かとう)に懐き、胴に腕を回してしっかりとくっついていて離れない。
 挙げ句である。
「政府の実験は、人を人とも扱わないって兄様が言ってました」
 そう言い出したのは、初期Dollである。
「兄様って……」
「僕より先に作られたDollのことです。僕たちは兄様と呼んでいます。その話を何度か聞いたことがあるのですが、全身麻酔で解剖もするそうです。兄様は体中に解剖された痕が残ってました」
 そう言われてさすがの嘉藤(かとう)も眉をひそめた。
 えげつない実験をしているだろうと思っていたが、政府が解剖までやっているとは思ってなかった。しかも生きているDollを使ってだ。
「初期Dollは貴重だと言いながら、研究所ですらしない解剖や死後の検体をやっている。政府が保存していると言っている初期Dollの遺体は埋葬されずにバラバラにされて実験材料になっていると聞いた」
 楪(ゆずりは)の言葉は実際にその現場を見た人間から聞いたという。
 それを聞いた嘉藤(かとう)の視線は、しっかりと自分にしがみついている兔(てう)に注がれる。
「兔(てう)は奇しくも、最新のDollだ。私はその記録をすべて抹消したが、兔(てう)が残っている。国は兔(てう)を欲しがるだろう。公表されていない最新のDollが手に入る機会を逃すわけがない」
 楪(ゆずりは)はそう言う。
「君の妻が余計なことをしなければ、通常の実験は続けていけたんだが、縮小した研究は続けられたが、今や私は動くこともやっとだ。初期Dollは明日、引き渡しが済み、私はその足で入院をする。この屋敷は文字通り、空き家になる」
 そう言われて嘉藤(かとう)は絶対に引けないところに自分がいることを知った。


 妻が殺し損ねたDoll。妻の卵子でできたDoll。妻の忘れ形見のDoll。
 名前は兔(てう)。
 それを連れて帰り、一緒に暮らすことになる。