novel短編

Dolls-兔(てう)-3

兔(てう)は暫く泣いていたが、やっと落ち着いたのか、お腹が張って眠くなったのか分からないが、こくりと眠り始めた。
 まさか相手がそこまで信用して体を預けてくれるとは思わなかった嘉藤(かとう)は、呆気にとられた。
 ご主人さまと言って、懐いてくるのは、いわゆる刷り込みみたいなものだと思っていたが、どうやらそれだけではないようなのだ。この兔(てう)の嘉藤(かとう)に対する信頼感の高さは異常だった。
 あったこともない人間をそこまで信用できるものなのか。
 兔(てう)をベッドに寝かせてから、暫く側で見ていた。
 本当に外見は白い。とはいえ、よく見ると真っ白ではなく、所々が金色っぽくなっているのでブロンドが混ざっているのだろう。そう、イリヤの金髪もまた、その遺伝として入っている感じだ。案外、イリヤの家系を調べたらアルビノがいるのかもしれない。
 けれど、ドタバタとしていて衝撃が多すぎて忘れていたが、イリヤはこんな子供に嫉妬をして殺そうとした。そういう事実は消えない。
 兔(てう)の首には小さな傷がある。首を絞められ、声帯が壊れるほどだった。手術で声帯を治そうとは試みたが無理だったという。生きていく上で、脳障害や麻痺が残らなかったのは奇跡だと言っていた。
 嫉妬に狂ってという言葉に、嘉藤(かとう)は頭を振った。
 だが兔(てう)は酷い暴言を吐かれて、裏切り者だの言われて殺されかけている。
 恨み言を一切思い浮かべもせず、裏切っていないと心から叫んでいた。
 つまりイリヤには懐いていて、親子のように暮らしていたはずだ。それがたった一人の男の存在で壊れた。
 そこでイリヤが本当に何を思ったのかは、結局分からない。日記の後半はすべて塗りつぶされ、博士を愛しているとだけ綴(つづ)っていた。嘉藤(かとう)のことなどほぼ一言もかかれてはいなかった。それこそ最初の数年程度だけだ。不倫が始まる少し前から嘉藤(かとう)のことには一切触れず、博士への会いだけが異常だ。
 兔(てう)は知っているのだろうか。
 二人がどういう関係だったか。
「いや、聞いても仕方ない」
 思わず呟いてしまう。ハッとして口を押さえた。
 兔(てう)が何を知っていようが、もうこれ以上の衝撃はないだろう。自殺の真相はほぼ楪(ゆずりは)博士が言ったようなものだろう。これ以上突き詰めても、辛くなるだけだ。
 もぞもぞと動いてこちらを向いた兔(てう)の手が、嘉藤(かとう)の腕に触れた。
『ご主人さま……』
 どうやら夢の中でも嘉藤(かとう)に会っているらしい。
 思わずクスリと笑ってしまい、嘉藤(かとう)は兔(てう)の頬を撫でた。
 誰かに触れて安心するのは、本当に久しぶりのことで、心地よい寝言のような言葉をいつまでも聞いていた。


 兔(てう)が朝起きると、部屋にベッドには誰もいなかった。
 不安になった兔(てう)は慌ててベッドから出て、部屋のドアを開けた。
 するとテーブルには朝食が並んでいて、更にそこに嘉藤(かとう)が座って新聞を読んでいた。
「起きたのか」
 微笑んでそう言われて、兔(てう)は嬉しくなって嘉藤(かとう)に走り寄って抱きついた。
『おはようございます、高和(たかかず)』
「おはよう、兔(てう)。着替えて顔を洗っておいで、ご飯にしよう」
『はい』
 嘉藤(かとう)がそう言い、兔(てう)は元気よくその通りにした。
 着替えもさっさとすませ、顔を洗ってからテーブルについた。
「さあ、食べよう」
 ちょうど紅茶を入れてくれて、朝食となった。
 パンケーキを用意してくれていたが、嘉藤(かとう)は日本食のようだ。
「食の違いは気にすることはない。兔(てう)は食べたいものを食べて構わない」
 見透かしたような答えに、兔(てう)は頷いた。
 この人は触ってなくても人の心を読むことができるのかと思えるほど、表情や態度から色んなことを読み取る人だ。
 しゃべれなくてコミュニケーションが取れないから、ご主人さまと上手く付き合っていけるかどうか分からなかったが、触れるだけで心を読んでもらえるとは思わなかった。それは触れるという行為が面倒ではあると思えたが、それ以上に嘉藤(かとう)は人をよく見ている人だった。
 楪(ゆずりは)博士がその辺を心配してなかった様子がこういうことだったのかと納得した。
 さっさと食事を済ませると、すぐに部屋を出た。
 一旦、車に戻り兔(てう)を乗せてから、嘉藤(かとう)は会計をしてきて、ここから十時間の長時間移動となった。
 そのうち兔(てう)は外を眺めたり、眠ったりして、時間を潰したが、嘉藤(かとう)はずっと運転をしていた。
 どうやら新幹線や飛行機は、人に触れる機会があるので避けているうちに、遠くても車で移動するようになったと言っていた。
 確かに他人の心が触るごとに勝手に読めたら、正直辛いだろうなと思えた。けれど、兔(てう)はそうなりたいと思ったことがあった。
 あのイリヤの事件、あの時、イリヤが何を考えて自分を殺そうとしたのか。それが知ることができたはずだ。イリヤは博士と浮気をしながら、なぜあの時ああ言ったのか。その謎が解ける気がしたのだ。
(僕には最初からご主人さま、高和(たかかず)だけなのに)
 十時間以上かかって移動をして、兔(てう)が目を覚ました時は、夜になっていた。朝早くにホテルを出て、途中のサービスエリアでお弁当を買ってもらって車で食べ、そしてぶっ通しできて嘉藤(かとう)の自宅に辿り着いた。
「兔(てう)、起きてるか」
 兔(てう)は毛布からもぞもぞと出て、開いているドアを見ると、心配そうな顔をした嘉藤(かとう)が立っていた。
「無理をさせたな。乗ってるだけとはいえ、疲れただろう。家に着いたぞ」
 嘉藤(かとう)はそう言って降りるように言った。
 兔(てう)が車を降りると、そこはすでに玄関の前だ。
 ただし日本家屋の屋敷で、元いた博士の屋敷とは似ても似つかない。
 ただ日本家屋なのは、玄関のある古い屋敷の方で、奥には洋館が建っている変わった家だ。
 振り返ると、大きな塀に囲まれた屋敷だと分かる。暗くなっているが、周りにはそういう大きな屋敷がたくさん並んでいる、いわゆる住宅街なのだろう。
 そのまま玄関に入る。大きな玄関には、昔ながらの佇まいが残っているが、飾ってあるものは質素なものが多い。
「住んでいた祖父(じい)さんが残したままにしてあるから、私に合ってるものじゃないよ」
 玄関にあるものは、先代のものをそのままにしてる。それは派手になったり変わったりすることで嘉藤(かとう)のことを悪く言う人間が多くいるからだ。
「どのみち、こっち側は使ってないから、兔(てう)の部屋も洋館の方へ用意するよ」
 急にここに来ることになった兔(てう)の部屋は、もちろんない。これから用意をするのだが、それでもすべてをそろえるのには、時間がかかる。
『高和(たかかず)の部屋にいたら駄目?』
 兔(てう)はさすがにホテルのような部屋以外で一人になるのは怖かった。
 兔(てう)の不安が伝わって、嘉藤(かとう)は溜め息を漏らした。
「すまない、確かに知らないところで一人なのは怖いな。兔(てう)の部屋を作るまでは、私の部屋でも構わないか。ダブルベッドだしな」
 そう言われて兔(てう)は嬉しくなって微笑む。
 昨日は疲れて寝てしまったが、今日は寝てばかりだったので眠れるかどうか不安だった。
 日本家屋の屋敷は初めてで横目に見ていたが、夜の暗いところはやはり怖く、嘉藤(かとう)の手を取って必死に後を追った。
 洋館の家は、日本家屋からガラス窓の廊下で繋がっていて、大きな両開きのドアが付いていて、そこにも鍵がかかっているようだった。そこの鍵を開けて嘉藤(かとう)が部屋の電気を付ける。エントランスのような広間と二階への階段、奥にリビングがあり、そこのソファに座っているように言われた。
 説明によると、洋館の一階の部屋はほとんど祖父が使っていたらしい。日本家屋の部屋は客人用に開放していた。祖父という人は、人嫌いが進み、洋館を介護用に建て増ししてまで人との接触を断っていたという。
 まるで今の嘉藤(かとう)みたいに人が信用できなくなっていたのだろう。
 そんな状態でも嘉藤(かとう)のことだけは信用していて、泊まるための部屋も洋館には用意されていた。それが二階の部屋なのだという。嘉藤(かとう)はそこを使っていた。
「一階の祖父の部屋は清掃し直して、客間にしてあるが、兔(てう)の部屋は二階の私の部屋の隣にしておくね。そこは誰も使ってなくて物置になっていたところだけど、日当たりはよいから」
 本当は祖父がイリヤのために用意していた部屋だというのは、兔(てう)は後で知ることになる。
 わざわざ夫婦の部屋を用意していたということは、それだけ嘉藤(かとう)達のことだけは信頼し、一緒に暮らしたいほどだったと思われる。
 だからなのか、イリヤが死んだことを祖父は知らないまま亡くなったと聞いて、なんとなくであるが兔(てう)はホッとした。
 簡単に部屋を片付けた嘉藤(かとう)が二階から下りてきて、その間にお風呂の湯がたまっていた。
「風呂に入って寝よう」
 嘉藤(かとう)はそう言って、兔(てう)を先に風呂に入れた。風呂に入ってからは二階へと案内してくれた。
「あまり綺麗ではないが、ベッドの枕や毛布は新しいのを出しておいた。先に寝てなさい」
 そう言われて、兔(てう)はベッドに潜り込む。兔(てう)が布団に入ってしまうのを見届けた嘉藤(かとう)は部屋を出ていく。風呂に入ったりするのだろうと思ってそのまま兔(てう)はうとうとし始めた。
 すっと眠っていたのだと思う。ベッドが軋んだ音で目を開けると、嘉藤(かとう)がしまったというような顔をしていた。
「起こして悪い、もう大丈夫だ」
 嘉藤(かとう)も布団に収まってしまうと、いい匂いが嘉藤(かとう)の方からしてくる。
『高和(たかかず)、いいにおいする』
 クンと匂いを嗅いだ兔(てう)は、そのまま嘉藤(かとう)の胸に顔を寄せた。そしてそのままそこに収まってスウッと寝てしまった。
 嘉藤(かとう)はそれに驚きはしたようだが、仕方ないというように兔(てう)の体を抱きしめてくれた。
『うれしい……』
 そのまましっかりと抱きしめてもらって兔(てう)は深い眠りに就くことができた。
 嘉藤(かとう)も長時間の運転に疲れていたからなのか、そのまま兔(てう)と変わらないほど早く眠りに就くことになった。