novel

Howling-01

 日常の変化は常にある。
 だが急激な変化を迎える人は、その変化を受け入れるのに時間がかかる。

 自分の体の一部を奪われ、自由に動くことが出来なくなったりすれば誰でもその場で立ち止まる。けれどその恐怖の山を越えて立ち直り、前向きに生きてく人の方がどれだけ多くいるだろうか。

 その他に、身近な人を亡くし、呆然と立ち尽くす人もいる。父親だったり、子供だったり。とにかくどんな人間であろうとも失いたくない人が存在する。

 織部寧野(おりべ しずの)の場合、それは自分の父親だった。

 寧野の父親、織部寧樹(しずき)は、北海道出身の人間だ。中学から住んでいた地元では手の付けられない子供として扱われ、その言葉通りに父親は荒れていた。小さい頃に両親を亡くし、幼かった父親は親戚中をたらい回しにされ、最後に行き着いた北海道の親戚の家から高校在学中に家を飛び出して東京に出てきた。その時の状態を父親は語ってはいなかったが、よくドラマである実子との扱いの違いやらなにやらあったのだろうと予想は出来たが、周りが引くほど荒れていたというのは今の状態からは想像は出来なかった。

 扱いがひどかったとはいえ、高校を卒業していない人間に世間は優しくはない。それに保護者が必要な年齢なのに、誰も保護者が居ないと言っていい状態でまともに働けるわけもない。しかも父親は家出人だ。事情がバレてしまうと、元の場所に戻されるかもしれない。そんなのは御免だと父親は思っていたのだろうか、次第に裏街道に入るようになった。

 結局、親戚中が噂していたようにヤクザの元で汚い仕事をするようになった。それが噂で伝わってしまうと皆納得したようになったというから、父親の当時はかなりひどかったのだろうと寧野はやはりドラマを思い出すしかない。

 だが、ここから父親の人生は微妙に幸運が続いたのだという。何も学もない特技もない父親が、ヤクザであろうともやっていけるわけもなかったのだが、そこが上手く回ってしまった。ヤクザの人間と知り合い、そこから闇にはまっていく。だがヤクザの中でも父親は落ちるところまでは落ちなかった。

 父親の役割は、所謂シノギを得ることだったのだが、多すぎるみかじめ料を払いたくない人間は警察に駆け込んでしまう時代だ。そう上手くいくはずもないのが普通の中、父親はどういうわけか上手く用心棒料としてシノギを持ってくるのである。

 その地元の人間とはまったく問題を起こしたことはなく、ちゃんと皆が納めていたから、上の人間は何か特殊なことをしているのかと目をかけてくれたらしいが、結局父親が出来ることはシノギをきっちり納めるくらいのことしか出来ず、次第に興味はなくなったらしい。

 ヤクザも暇ではないらしい。
 なので寧野は父親がヤクザであることは幼い頃から知っていた。

 母親が居た記憶はあったが、ある日急に居なくなったのも覚えている。父親は笑ってお母さんは出て行ったと言って、夫婦でなくなると離婚をして離れて暮らすことになるのだと、それも仕方ないことなのだと寂しがる寧野をそれは大事にしてくれた。

 そんな父親は寧野に手を挙げたことはなかったし、寧野のことは母親が居なくなってからは必要以上に可愛がってくれた。それにそれ以来寧野の前にはヤクザらしい知り合いも現れなくなっていたから、寧野からみれば父親は普通の父親だった。母親がいなくなったけれど、怖い人もいなくなったのが印象に残っている。彼らがどうしていなくなったのかは解らないし知りたくもない。

 よくテレビで見るヤクザのように怒鳴り散らしたり、空威張りをするわけでもなく、ただ黙って人前にはなるべく出ないようにしていた父親だったから奇妙な目で見られたことはなかったので、ヤクザだと言われてもどうも印象が違っていた。
 まあ、仕事と言えるものをしていたわけではなかったし、昼間はパチンコ、競輪競馬と賭け事にいそしんでいたから、普通の父親というのはあくまで外見的なものである。

 けれどいくら普通のように見える父親とはいえ、周りは皆、関わり合いになりたくないから寧野には声をかけなかったし、寧野も迷惑になるのが分かっていたから静かにしていた。

 そんな寧野を可哀想だと思った父親は、せめていい学校に行かせてやろうと思ったらしく、寧野に中学受験をさせ、氷室秀徳館学院という有名な私立の進学校へと入れた。
 学力や学歴があれば、少しはマシな職業につけるだろうという自分の生い立ちを気にし、更にその後に至る経験から思いついたらしい。
 そんな父親に感謝しつつ、寧野は真面目に学校に通った。学校は嫌いではなかった。けれどやくざの息子だとバレると次第に知り合いたちは寧野と距離を取るようになる。それは自然なことだった。だからそんなことを恨んだりもしなかったし、悲観もしなかった。だって父親は寧野にとって、その人たちよりもずっと大事な人だったから、絶対に否定したくなかった。否定することが自分の生き方すら否定することになるからだと気づくのはずっと後のことだった。 

 だが人生、どこで何があるのか分からないものだ。そう目の前の出来事ほど、生きてきた中で寧野が理解できるものではなかった。

 それは高校二年の新学期だ。
「あんたに惚れた」
 というふざけた人間が現れたりしなければ、本当に普通だ。         

 いや、これが女の子だったらまだ分かる。だが何故男子校で、男のしかも年下から、熱烈に惚れたと告白されなければならないのか。
 父親がヤクザだと知った時より、周りが自分を避けていた時より、何よりも今が一番不幸だと思えたくらいだ。
 いくら近所の人が外見が父親の若い頃の美青年ぶりと似ていると絶賛し、写真を見て自分でもどんだけ似てるのだと思った嫌に整った顔は、鼻筋がすっと通って、アーモンド型大きな二重の瞳やふっくらとした唇や、小さな顔に配分よく配置されたそれらが、見た人間が綺麗だと言ったとしてもやはり男の体つきをしているのだから、女だと見間違えたわけでもないだろう。
 目の前の自分より大きく、身長的には10センチ以上違う男から見下ろされ、手を握られ、熱心に愛を語れて、寧野の頭の中はまるで死ぬんじゃないかと思ったほど今までの出来事が走馬灯のように浮かんでいたからだ
「一目惚れした。絶対、運命の相手はあんたに違いない」
絶対になどそれはあり得ない、ないない。
運命の相手なんてこんな学校には存在しない。
 だが目の前の男は、一年にしてはやけに大人びた顔をしていた。高校生らしくない顔と言った方がそれらしいが、制服を着ていなかったら大学生と間違えただろうし、ネクタイの色が見えなかったら年上の三年と間違える自信はあるような大人っぽい顔だ。
 すっとして高い鼻、細い顎は今時の美形を表すには十分な整い方をしている。だが目が異様に力を持っている。力強い意思を感じる瞳は、見ているだけで吸い込まれそうだった。
 誰かからこんなに強く見つめられたことはなかったし、そんな瞳を受け止めるような器は寧野にはなかった。悔しいがこんな自信満々に生きてきたわけではないから余計に受け止められない。
「いや、あり得ないから」
 世迷い言を言う相手に寧野はきっぱりないと言い切った。こういうのはきっぱり断るに限る。ただでさえ苦手そうな相手だ。それに寧野の現状をしれば、こういう輩は一発で離れていくのが通常だった。そんな怖い思いをさせる前にさっさと断るに限る。そうしておけば、すぐに寧野の父親がヤクザであることを知って、寧野に関心すら持たなくなるだろう。
そう思って断っていたのだが、彼はキョトンとした後、更に寧野に近寄ってきて言うのだ。
「男だからないとかは聞けないから。俺の家、父親が男と出来てる家だから」
 にっこりとして言い放った言葉を寧野は受け止めることは出来なかった。彼の台詞を信じなかったわけではない。それ以上に寧野が恐れている周りの声が寧野の思考を遮ったからだ。
「おい、あれ、宝生じゃん」
「あの相手って」
「あー織部か。あいつんところも似たようなもんだしな」
「宝生ってあの関東最大のヤクザだろ? しかも全国展開もしてきてて、関西のヤクザと双頭だって言われてる代表じゃん。あいつそこの跡目だろ?」
 そういう話が周りから聞こえてきて寧野はギョッとした。目の前の年下の生徒が、あの宝生というヤクザの跡目なら、寧野とは敵対する立場の人間だ。しかも跡目となれば、到底寧野とは天と地も違う立場だ。
 一瞬腕を振り払おうとして躊躇した。
乱暴にして怪我をさせたらマズイと不意に思ったのだ。
 どうしても瞬時に父親の立場を考えてしまう。宝生の跡取りに怪我をさせたとなって、父親の上層部にいちゃもんをつけられたとしたら、父親が危なくなる。そして寧野も同様だ。
出来ればそんな事態は避けたい。
「えーと、ごめん。そういうのは困る。男だからとかそういうんじゃなくて、お前の存在自体が俺にはとても困るんだ」
寧野は当たり障りないように言ってゆっくりと目の前の男の手を外して自由を取り戻した。彼は少しだけ目を見開いていたが、寧野はもう一度言った。
「困るんだ。そういうの」
本当に困るのだと伝え、寧野は彼の前から走り去った。彼は追っては来なかった。それだけは安堵出来ることだった。
 宝生と言えば、5年前に大きな抗争があったとされる関東を統べる暴力団組織だ。独特な背景を持ち特殊な成り立ちから、他のヤクザ組織とは違った位置にいるとされる。
背景には老院たちにより支えられている宝生の本家があり、その下に宝生組が存在するとされる。本家の老院はそれまで宝生を支えてきたヤクザの組長が座り、宝生組の組長を監視する役割も持つ。唯一、組長に口出しが出来る存在が本家である。
 だがそれが5年前から徐々に変わってきていた。内部から組織の構築を現在の組長代理が行い、本家は今やほとんど力がないらしい。
発言権を持つ今まで仕えてきた組長たちが老院に座り、組長を支える形で別の力をつけてきている。その力は、寧野の父親の組織が懸念するほどだ。
 今まで宝生の本家は組長を束縛するだけの存在で、いわば周りのヤクザからは、そのせいで宝生の組長代理は本来の力を発揮できないと思われていた。その体制が変わり、力ある組長が望んで本家に入り本当の意味で組長代理を支え始めると、その存在を無視出来なくなったのだ。組長代理に使える元組長たちの情報網や力が、すべて宝生組組長代理に集まって、それが組自体を強固にして、鉄壁となっていたからだ。
 宝生は5年前の抗争以来、完全に生まれ変わり、二重にやっかいな存在として関東で君臨している。
 それは全国にまで及び、今や宝生と真っ向に向かい合って抗争できるのは、関西の如罪組(あいの)だけと言われている。東西を大きな組織が牛耳っており、しかも五年前に抗争した相手が最高幹部としている以上、少しの事件が日本全国にある双方の組織が動いて大抗争となるのは誰にでも想像出来ることだった。
 そしてそうなった今、海外のマフィアは迂闊に内部に干渉できずにいると言われている。双方の組は海外マフィアとも繋がりがある。下手をしたら海外マフィアまでも巻き込まれかねない。日本入りするマフィアで双方に不利益なことをした海外マフィアで、現地で報復された人数はかなりいるという。そうしたことを踏まえて、手を出すべきではないと判断されているようだった。
 5年前の事件は表向きは暴力団事務所を狙った爆破テロとされていて、実は関西の内部抗争と関西の覇権を狙った下克上と、その騒動を起こした九十九と呼ばれる男と宝生の抗争であったことは、警察すらも分かっていることだった。
ただ証拠は一切出ず、事件として立件出来ずにいるので、公式には爆破テロとされているだけだ。
 そのテロ関係の有様は海外でも取り上げられていて、あれがヤクザ同士の本気の抗争なのかと知った者たちは、やり方が日本のヤクザの域を超えていることを早急に理解しなければならなかった。まるでイタリアマフィアのようではないかと。
 元々武闘派と言われ、その形を潜めていた宝生が現役で武闘派であることは、彼らがその事件の裏で少々暴れたことが噂として流れていて、あの事件で付け入る隙があることが分かったはずの宝生に誰も手を出せなかったのだ。
 寧野の父親が居る組もまた宝生の弱っている隙をついて行こうとして失敗した組織だった。
元々名古屋という関西にも関東にも属さない地帯に縄張りを持っていた組織だったのだが、最近は東西から食われていて続々と宝生か如罪(あいの)かと接触を取り始める組織が増えていて、かなり上層部が大変らしい。
 そんな時に宝生の跡取りと関わっていては寧野の父親が危なくなる。
ただでさえ普段何も言わない父親が、なるべく周辺に気をつけるようにと言ってきたばかりだ。
「冗談じゃない……」
思い出しただけでも寧野はぞっとした。
 ただのかっこいいだけの後輩だったらまだよかった。どうとでも出来たし、噂を聞けば自然と消えていっただろうから。でも同じヤクザ関係で向こうの方が上の立場だ。
だから元から恋愛対象なんてものにはなりはしない。そのことに向こうが気付いてくれるとありがたいと寧野は思った。
 けれど、世の中は単純に回ってはくれない。
寧野が望まなくても、周りが望むことだってある。あの告白をしてきた彼が望まなくても、それは自然に動き出すことだってある。
あそこで出会ったこと自体、すでに時はこの時に向かって進んでいたのかもしれない。
 寧野が覚えているのは、真っ赤な色。
匂いが酷くて、噎せ返るような、腐臭。

 そして、宝生耀の泣きそうな顔。
思ったことは、ああ綺麗で透明な雫だという、その場に似合わないこと。

 あまりに理解出来ないことばかりだったから。
 あまりに信じられない事実だったから。
 心は何処かへ行ってしまった。