novel

Howling-07

 寧野の病室から出てきた耀は、弁護士や病院関係者が心配そうに見ていた視線を受け流し、その近くに居た九猪と億伎に目配せをすると、先に廊下を歩いて行く。

 真剣だった耀の仕草に医者たちは固まっていたが、ボディガードたちは耀の後を追って歩き出し、耀に並んで病院を後にした。
 ここに呼ばれた理由から、耀の用事が済んでしまったことは解っていたし、耀が言いたくないことまで言わされたことも解っていた。

 しかし、耀が一番解っていた。
 自分と一緒にいられるほど、寧野は強くないということ。

 自分の父親の相手みたいに、何もかも受けれた上で立場が解っている相手でないこと。寧野が経験したことが、日常茶飯事として成立してしまう世界に耀は生涯いることになる。

 あんなに酷く傷ついていた人に同じ世界に居てくれとは言えない。
 あまりに普通で、反応が普通過ぎて、耀は一瞬心が冷えた。
 耀はあんな惨劇のあった現場を見ても、殺されたのが寧野の父親だとしても、寧野があんな目にあったとしても、寧野が憎んでいる吉村なんかどうでもよかった。
 警察に捕まろうが、遠海会に消されようが、貉に消されようが、本当にどうでもよかったのだ。

 だって寧野は無事だった。寧野はまだ生きている。
 それだけが解ってほっとしたのだ。あの現場を見て。

 ――――――なんて。
 なんて自分は残酷なのか。

 寧野が悲しんでいるのに、寧野が生きているからいいかとか、寧野以外は本当にどうでもよかった。

 自分がどれだけ非情なのか、それが解ったとたん、耀は寧野に知られたくなくて焦った。あの場にいた誰も気付かなかっただろうが、耀は惨劇を見て焦っていたのではなかった。自分の心が揺れているのが違うところだったから焦っていたのだ。

 今になって、よく解ることが沢山ある。自分の義理の父親である楸が、どうして今まで響を宝生組と関わらせないようにしてきたか。
 自分がヤクザの人間でしかもトップに立つような存在であることは、いやというほど解っていて、そこに来るまでに手を汚してきたことも後悔なんてしていないけれど、知られたくないと思うことはあるだろう。

 響はあながち間違ってはいない解釈をしてくれているが、本当は解っているのだ。楸が人を人と思っていない扱いを平気でしなければならないようなことだってやっていることを、本当は知られたくないと心の底で思っていることを、いやというほど知っているのだ。

 知っているけど、知らない。知られているけど、知られていない。
 そうやってお互いを気遣う余裕すらあの二人には最初から存在してる。

 でも耀と寧野の間にはそんなものは何一つ存在しない。

 あまりに綺麗にあの父親が育てたから、耀が吉村と同じような人間であることに気づけば、きっと今のように笑いかけたり感謝したりしない。無理矢理傍に置いたって、どんなに守ったって、寧野には迷惑以外の者にしかなりはしない。

 響にだって知られても平気だったことなのに、今更好きになった人にそんなことを知られたくないと思うのは、響が絶対に自分を裏切らない身内だと知っていたから、どれだけでも甘えられたからだ。

 あの宝生の組長代理である楸を相手にしているから、楸に似ているから仕方がないって言って貰えるから。
 けれど寧野にそう言って貰えるわけがない。
 こんな些細であった出来事が、とてつもなく大きな意味を持ってきた。 
 知らなかったんだ。残酷だということが、どれだけ好きな人を傷つけるのか。自分の中に恐怖を生むのか。

 耀はずっと知らなかった。
 キス一つで手放してやる方法しか思い付かなかった。
 


 病院から家に帰ると、珍しく楸が昼から家に居た。
今日は平日なので響がいないのは解っているはずなのに、何故家にいるのか不思議に思っていると、後ろをついてきていた九猪や億伎が下がっていった。

「疲れただろう」
 そう声がした。こっちを見ていなかったが耀に座るように言う。
 
 耀は楸にそう言われて初めて自分が疲れていることに気づいた。病院に行く前から気分はあまりよくない方だったが、寧野と好きな人と話してきたというのに、精神がすごくすり減って、それで疲れているような感じになっていた。
 ソファに座ってもじっと下を向いたまま言葉が出なかった。ずっと黙ったまま座っていたが、楸は何か言うでもなかった。
 楸はずっと書類を見ていたままだったが、耀は呟いていた。

「なんか……いろいろ考えたら、親父の気持ちが解ってきた」
 耀がぽつりと漏らすと、楸はやっと顔を上げた。
 耀は下を向いたままで楸とは目が合わなかったが楸が話を聞いてくれるような雰囲気を作ってくれているのだけは耀にも解った。
 この人はこうやって人の心を読む人なのだ。
 
「自分の好きだけじゃ、相手を傷つけるだけで」
 何にも出来てなかった。
 ソファに投げ出した手に力を入れて、拳を作り、強く握った。
 そうしないとみっともなく暴れ出しそうだった。それくらいに耀の心は揺れに揺れていた。はき出さないとどうにもならないくらいに追い詰められていたのだ。
 
「俺、全然足りてない。親父みたいに割り切れてなんか全然無かった。絶対に放したくなかった。でも、俺には何にもないんだ」
 そう自分を鑑みて、誇れる事なんて何もなかった。
 宝生耀という存在を作りあげてきたのは自分だったが、その存在に一度も疑問を持ったことはなかった。世間と違うことなど最初から解っていたし、理解しているつもりだった。
 
 自分の世界が揺らぐことなんてあるわけないと思ったし、そうして作りあげてきたものを投げ出す事なんて考えたこともなかった。
 
 でも世間が知っていることでさえ、耀は寧野に知られたくないと思ったのだ。人生で初めて自分のやってきたことを見られたくないし知られたくないと思ったのだ。
 動揺した。誰にも言えないことだったし、自分の父親には余計に言えない。だってこの人は自分の為に、この世界に残ってくれた人だ。本当だったらこの世界に居なくてもよかった人なのだ。
 この父親を今でもこの世界に繋ぎ止めているのは自分なのだ。
 なのに、汚いと思われるのが嫌なんだと泣き言が言えるわけ無い。耀が汚いことだと思った以上のことを、楸はずっとしてきてくれたのだから。
 泣き言なんて言えるわけない。
 
 けれど、吐きだしていいのだと、楸は人払いまでしてくれた。
 それは耀がまだ子供で、楸からすればただのガキの戯れ言だと聞き流せるものだからだ。器が違うのだと知るのはこういう時だった。
 そして我慢出来ない自分もまだ子供だった。
 
「解りきってたくせに! 俺がヤクザだって解りきってたくせに! だけど知られたくなくて、俺がすごく汚いことを知られたくなくて、絶対に理解なんかされないことが解って、今更いい人のふりして逃げてきた!」

 凄く酷いことをしていると思った。だって寧野は耀の本性なんて知らない。耀の本当の姿を知らせないまま手放したのは、少しでも良い印象を残しておきたかっただけだ。たとえ意味がないことだとしても耀はそれだけ残すのに一生懸命だった。
 だが自分が寧野の父親を殺した吉村と大して変わらない存在だと痛感するだけで、痛まないはずの心が軋むのだ。
 吉村を憎む寧野の姿が目に浮かぶ。あれはいずれ耀を見る目に変わるかもしれない。それが凄く恐かった。
 寧野は真実を知ったらきっと耀を恨むだろう。
 
「……あいつ、俺が謝ってるのに、すごいぽかんとした顔をしてた。俺のせいじゃないって思ってる……でも俺のせいだろ、俺が不用意な真似をしたからそうなったの知らないんだ……寧野の親父だって異変に気づいてた! 俺が近づいたから、考えなしに近づいたから、寧野の親父の計画が狂ったんだ! 俺が、寧野の親父を殺したも同然なんだ! 最初に遠海会と繋がっているのが解った時に、親父に報告して判断を仰げばよかったんだ。俺が近づかなければ大丈夫だなんて、甘く状況を判断したから、こうなったんだ!」
 
 耀が自分の行動を甘く見ていたことで結果寧野の父親の計画を台無しにした。耀の接近は寧野の父親には痛手だっただろう。遠海会はいくらでも騙せたが、その裏にいた貉を騙すことは出来なかった。寧野の父親は、貉という存在がいかに危険かを知っていたことになる。
 当然、宝生といざこざがあった時に、自分が狙われている原因にも行き当たっていたはずだ。ずいぶん前から寧野をどう安全に移動させて暮らせるのかと計画していたか、あの弁護士に事情を聞いたら全部解ってしまった。
 
「俺が寧野の人生をねじ曲げてる……これ以上」
 耀が寧野の人生を急に変えてしまったと告白すると、楸は言った。
 
「お前が、いい人ぶりたくて逃げてきたのは解った。しかし、手放そうと思ったところは俺に似なくてもよかったのにな」
 楸は普段は絶対にしないような、少し困ったような笑みを浮かべていた。暴走して失敗した過去を持つ楸としては、慎重だった耀がこうした結果になって、自分と同じ選択をすることは血は争えないなと思えた。
 そして自分が恐い汚いと正直に認める。それは恥ずかしいことではない。むしろ今まで色んな事をやってきた耀が何も怖がらない方が異常だったのだ。
 
「……」
 今日はいやに楸が優しかった。
 普段だって厳しいわけでもないが、今日は違った。
 
「お前が足りないと言っていることは、経験と自信の自覚だろうな。ヤクザであって汚いことをやってきた自覚があるからこそ、それを認めてそれが自分だという確固たるモノがお前にはないと言いたい訳か」
 そう言われればその通りなので耀は頷いた。
 だが楸はそう言った耀のことは責めなかった。
 むしろ今自覚してくれる方が面倒無くて済んだというかんじだった。
 
「これからお前はどんどんそういうことをしていくことになる。今更、汚いことをして嫌われるくらいならという甘い考えで組を動かすことは危険だ」
 楸はただ慰めているだけではないとばかりに耀に提案を持ちかけてきた。
 
「だから耀、選べ。このまま汚いことをしないような生活をするのか、それとも俺同様どこまでも汚れていくのか」
 楸が意外な展開を耀に要求してきた。
 それに耀は驚いた顔をした。
 
 ずっと宝生の唯一の跡取りとして生きてきた。組を継ぐことこそが耀の役目でそのために色んなものを犠牲にしてきた。寧野のことだってそうだったし、過去からすべてそうだった。
 その中の失いたくない大事な一部は、楸が守ってくれたものだった。
 仮の組長になって、耀が成人してやっていけるまで身代わりになってくれた。楸は今でも犠牲になってそれらを守るどころかどんどん大きくしている。
 
「……でも、それじゃ……」
 それでは耀はどうしたらいいのか解らない。宝生が耀のすべての世界だ。その為に生きるようにずっと言われてきた。自分で選んだのもあるが、最初からそうだった。
 それが全て無くなって一から生きていけと言われても耀には自分の体の一部になっている宝生を切り捨てることは出来なかった。
 
 しかし楸は、無理にやらなくてもいいのだと言った。
 今からだって変えていいのだと言われている。
 
「今や宝生の体制も変わった。本家のこともお前が協力してくれたおかげで、昔ほど気むずかしいヤツもいない。今や強いモノが組の頂点に立つモノだという認識が強まっている。世襲制がここで切れたとて、俺が死ぬまでは宝生を別の誰かが継承しても、酷く乱れはしないだろう、そのために本家の人間はきちんとさせたしな。まあ俺はすでに抜けられないところまで来ているし、動ける間は組長をやってやるから、お前が途中で抜けるならお前の代わりを探して教育し直すさ」
 
 楸が行ってきた宝生内の改革は巧くことが進み、今や宝生には宝生楸という組長が居るから宝生組なのだと言える状態になった。
 宝生の完全な直系継承を押す人間は少なくなっている。あれから5年経っているし、そのせいで何度も宝生が危機になっていると、宝生の体制が崩れるのはいつも本家絡みになっていたことになる。
 そんな本家筋をばっさりと切ってしまった。だから耀が無理に後を継がなくてもいいくらいにまでは体制も変わっている。
 ここで耀が抜けたいと言ったとしても、今なら抜けても何とかなるということだ。楸はそれすら考えて行動していたのだろう。耀に今選択を迫ってくる。
 
「どうする、お前はどの道を選ぶ?」
 楸がそう聞いてくるのだが、耀はふっと思い出した。
 楸だってあの時宝生を見捨てていれば、この世界から簡単に抜け出せていたはずだ。
 それなのに、楸は躊躇無く組長代理の立場を決め、放り出さずに組長代理をやり、今や実力で完全にその頂点に立っている。
 
 耀の目標はずっと楸だった。知っている組長の中で楸が一番手本になったし、何より尊敬する人間だったからだ。
 
 ずっとずっと進んできた道を急に変えることは難しいし、耀には結局この道しかないんだと思えた。自分の中の生粋の血がとっくに選ぶ道を決めていたではないか。
 好きだった寧野と離れたとしても、耀には宝生を捨てられない。後を継ぎたいわけではないが、耀の世界を作ってきたものから逃げることは出来ないだろう。
 
 もう他の世界で生きていけないことを耀はとっくに知っていた。自分が普通に生きていく道なんて微塵も残ってないからこそ、寧野と一緒に歩む道を捨てたのだ。
 子供の頃のように無邪気に一般人を巻き込めるほど、簡単な選択ではないことをちゃんと知っている。どれを選択すれば、寧野が普通に暮らしていけるのか知っていたから。耀に選べる道は一つしかなかった。
 
「……俺は、今まで通り変わらない。いつか宝生を継ぐ。そうしか生きられないんだ。俺はそういう風にずっと生きてきたから、今更他の何かになんてなれない」
 耀はそう思ったからこそ、寧野の手を取れなかったのだ。
 これから宝生の跡目を継いでどんどん残酷になる自分を、寧野はきっと恨むようになることが解っていたからこそ、弁護士たちの要求通りに話を合わせた。
 
「本当にお前は、嫌なくらい俺に似ているよ」
 楸は宝生を捨てられない耀の気持ちも十分理解出来た。
 運命を選ぶ瞬間、自分の環境を結局は捨てられない。だって何処にいても自分は変れないことを思い知るだけだ。
 でも嫌われたくないから離れて、そしてきっと後悔する。
 
「似ているから言ってやる。きっと俺のように後悔する羽目になる」
 楸はもがいてもがいて結局、ヤクザという立場やいろんな環境を自分に合わせた。そして耀が連れてきた響をも引き摺り込んだ。
 
 一度目は苦しかったが手放せてやれた。でも二度目は無理だった。あんな苦しい想いをするなら、いっそ側に置いておいた方がいい。自分が酷く汚れていることなど、そんなことは最初から解っていることで今更なのだ。
 相手が気にして離れていくなら放してやれたかもしれない。でも楸の場合は違った。それが幸運だったと言えるが、耀はそこまで試してもいない。
 この年代ならば、致し方ない。
 
 自分を見つめ直すのは思春期の子供なら誰でもある。
 その不安定なまま育てるのには、耀の境遇がそれを許さない。
 楸のように覚悟を決めるか、逃げるか、どちらかしかない。
 楸は耀に自分で選ばせた。その上で言えることが沢山あった。
 
「そういや、親父はずっと響のこと思ってたっけ……」
 無邪気に聞き出した話だったが、楸は今でもその思い出話をする時と同じ顔をして、響のことを見つめている。
 巻き込む時も最善の努力をして響が後悔しないようにしてきた。ただ響の背景は少し違っていた。
 響は宝生がどれほどなのか知らない。ヤクザで大きな組織だというくらいしか知識になかったくらいの一般人だった。でも寧野は父親がそうであったように、ヤクザについての知識は響よりある。だから宝生がどういう存在なのか嫌というほど知っているだろう。
 
「俺、親父みたいに時間も手も早くないから、キスしか出来なかったけど。でも守りたいって思ったんだ」
 せめて寧野が立ち直るまではそうしたいと思っていた。
 しかし、耀が心を決めたことで楸が意外なことを言い出した。
 
「不審なことばかりだから一応織部氏のことは調べた。おかしなことが幾つか見つかった」
 そう楸が厳しい口調で言い、耀に聞く。
 
「お前、貉がどんな組織なのか、ちゃんとした知識はあるか?」
 そう尋ねられて調べた通りのことを耀は言っていた。
 
「香港でカジノを荒らし回っていたマフィアだが、いかさまをしたわけでもなかったし、株取引やいろんなところから資金源を得ているようだが、本当にそうなのか実態はよく分かっていない。基本的に彼らの情報を得ようとすると、ある街に入り込まないといけなくなり、そこが貉の拠点だからなのか、厳重に住人の出入りがされていて、街の住人は皆、貉の一族で彼らに養われているらしく、街から逃げ出すものはいない。しかし今でも一体何のルートで何処と取引をして大金を得ているのか分からないマフィアだって……」
 そこまで喋って耀はこれに似ている事例があることに気づいた。
 
「親父……まさかこれ……」
 さっきまでの気弱さから、しっかりとした強い意志を持った視線が楸を見る。楸はその視線を受けてにやっとした。耀の中の意識がしっかりと戻って来て、完全に楸の思惑通りに食いついた。
 
「そう、どこかで聞いた話だと思うだろう? 織部氏が出所の分からない金を簡単に用意していたように、貉の資金源も妙なところから正当に得ているにも関わらず、正確な金の出所が分からない組織。その組織から狙われていた織部親子」
 淡々と楸が事実を並べていくと、さらに耀は気付いた。
 
「まさか、そのカラクリを織部氏は知っていた? いや、情報を盗んだりしたわけじゃなさそうだし、調べた限り織部氏は日本人だ。中国のそんな街から逃げ出したわけじゃないはずだ」
 
「そうおかしな点は幾つかある。織部氏がどうしてその謎を知ったのか。そして何故貉は今まで放置していた織部氏を回りくどく手に入れようとしていたかだ。しかも親子でだ。ルートとかそんなものじゃないのは調べて分かっている。だが織部氏は自然にそれらを用意出来た。このカラクリ、俺の想像が間違っていないなら、織部寧野は今後も貉の連中から解放されることはないことになる」
 
 そう楸が言い切った時、耀にもそのカラクリはすぐに予想出来た。寧野はそのカラクリを「知らない」と言った。
 だが寧野が「知らない」のではなく、あの時初めて「知った」としたら、寧野は自分がそれを受け継いでいることに、今回初めて気づいたことになる。
 
 寧野が織部氏の秘密のルートを知ったとしても、寧野が継承したとしても使えないと耀は思って、寧野は宝生に取り込まれたから大丈夫だと言ったが、それでは貉は騙せない。
 
 貉側は、回りくどくして本来の目的を悟られることなく、穏便に織部親子を手に入れるために、遠海会を介しただけだ。それで織部氏が死んだことは貉にとっても予想外の出来事だったはずだ。
 貉はたぶん織部氏を手に入れることこそが目的で、その血筋である寧野は保険だったと考えると本命は織部氏で、寧野を捕らえることは人質として使えると思った可能性はある。
 
 貉のおかしな金の流れと織部親子。
 これは根本的などこかで繋がっている。
 貉のカラクリが外へ漏れないのは当然だ。
 貉が街を一族で固め、外部との接触を断っているのも、このカラクリが外へ漏れない、いや逃げ出さない為の檻なのだ。
 
 だがその例外が存在していた。
 
「金糸雀(ジンスーチュエ)」
 そう楸が呟く。
 
「え?」
 中国語でカナリア。それになんの意味があるのか。
 
「やっと手に入れた情報の中に、貉が1世紀も囲っている一族がいるそうだ。その中の一部の人間のことを金糸雀(カナリア)と呼ぶ。まさしく、詠うように鳴いて、金を呼ぶ人間のこと。織部氏はその金糸雀だった可能性が高い」
 
 人間の科学では証明できないことをする能力を人は恐れるか利用するかどちらか。不思議なことをすれば、異端者として見られてしまうのは一族の中でもあったことだろう。だから隠してきたものだったが、状況が変わってしまった。それを隠して生きてきたはずの一族は、貉によって発見され利用されることになった。
 
 どういう経緯で彼らがそれが出来るのかは解らない。しかし一族が全員それが出来るわけではないようだ。それは一族を囲うようにしてきたはずなのに、今更外部に居る人間を捕らえようとしたからだ。 
 
「だけど、織部氏がすでに金糸雀だったとして、その織部氏は一体どこからその血を引いた? 貉が見つけて追ってくるくらいなら、織部氏の親族に貉から逃げてきた金糸雀の一族が居たということになるじゃないか」
 
 織部親子の身元調査をしたが、寧樹の親は四国の方で両親とも病で亡くなったことしか解っていない。しかし織部家は元々四国の香川出身というだけで不審なところはない。織部氏のように奇妙な金回りがあるような家ではなかったし、そんな不思議なことは調べても出てこなかった。
 
「織部家というよりは、織部寧樹の母親だろう。そっちを追わせてみても、何処にも繋がらない。名は愛子、これだけだ。どうやら寧樹の父親が何処からか連れてきて家に住まわせ、子供を産ませたらしい。愛子には戸籍がなかったので結婚は出来なかったようだ。しかし、逃げてきたにしろ追放されたにせよ、寧樹の母親愛子に繋がっているのは間違いないだろう。だが、それくらいならよくある話だが、追放した一族まで貉が追わなければならない理由が今更出てきたことが問題だ」
 
 愛子が追放された理由もわからないし、金糸雀の一族だった人間を外へと出した理由もわからないままだが、愛子が貉に繋がっていたと考える方が、彼らが織部親子を簡単に見つけ出すことが出来た理由が説明出来てしまう。
 しかし、なぜ織部親子が今急に追われなければならないのか、それが今の問題だった。
 
「まさか……内部で囲っていた金糸雀が全員死んだ?」
 まっさきに思い付くのはそこしかない。
 
「そう貉は内部で飼っていた金糸雀を失い、昔に捨てた金糸雀の一族を追って日本に入ってきたことになる。遠海会に接触したのは、マフィアとしてでなく、金糸雀の一族の末裔を穏便に手に入れるためだけだった。そう考えれば、遠海会に接触して、多少の恩恵を与えて織部親子を取り戻す方が、問題が起らずに済むと考えた」
 
「そうか、日本のヤクザともめ事を起こすと、他のマフィアからも問題が出る。特にうちとの取引がある鵺(イエ)は、貉を煙たがっているから、ことが露天したら、これ幸いと貉つぶしに出る。貉もそれを警戒していたから、うちと遠海会のいざこざを大きくしたくなくて、報復を見送ったわけか。道理でおかしい動きをしている割に、こそこそしていたわけだ。あの二人さえ手に入れさえすればいいんだから、大きな組織と下手にもめたり、取引したりする面倒を減らした。その分遠海会は都合が良かった。だが、吉村がカラクリは分からないが貉が手に入れようとしているのが本当は裏のカラクリがある資金源と気づかれてしまったから、事件が起きた」
 
 どうして吉村が暴走し、他のルートがあると勘違いをしたのか。その謎は貉の誰かが漏らした一言か、貉の行動から予想して織部氏を調べ直した。その結果、織部氏の秘密が解って暴走した。
 
 しかし吉村は自分が織部氏を殺したことで今更恐くなり、警察に逃げた。組長は狙撃され殺されたところを見ると、貉がかなり機嫌を損ねているのは解る。
 引き下がったのももめ事を起こして織部親子を狙っていた本当の目的を他の組織に知られたくないのと、宝生が織部寧野に近づき守っていたから手が出せなくなったのだ。
 
「とりあえず貉側もこんな結果を望んではいなかった。それに日本から手を引いたのも、宝生を敵に回したくないのと、この事件後に貉の内部で何かが起きたのだろう」
 
 現状、貉側が動くことが出来ていたとしたら、今度は宝生とことを構えることになっていただろうが、貉内部で何か異変が起きた。それがなんなのか解らないが、今はまだ耀の手の届くところにすべてがある状態だということだ。
 宝生を敵に回したくないと思っている様子から、貉側はまだ寧野に近づく機会を狙っている可能性がある。
 向こうはまだ諦めてなんかいない。
 それが解ってしまい、耀は呟いていた。
 
「この事件、まだ終わってやしないってことか。親父それ解ってて、俺に逃げるのかどうか聞いたのか?」
 耀は最初にこの話をしてくれていたら、弱音なんか吐く前にちゃんとしたというのにと怒って聞き返したが、楸はしれっとそれを受け流した後に言う。
 
「そうしないとお前が潰れそうだったからな。愚痴ぐらい吐いておかないと先が長いこの事件、お前に任せられないからな」
 そう楸が言うので耀は真剣な顔をして楸を見た。楸はこの事件がそう簡単にいかないことを実感している。貉が派手に動けばどうにかなるのだが、相手が慎重に動きすぎている今、こちらから動く理由がない以上、派手に動くわけにはいかない。
 
 この世界には均衡というものがある。それを崩したら、また宝生は大変な事態になる。やっと九十九とやり合った結果にもたらされた弊害から宝生は立ち直ったところだ。
 動くと決めるなら、それ相当の覚悟をしなければならない。耀のように怯んでいる状態で組を動かすことはさせてはならないことだ。
 だが、楸が宝生を使うことを許したことに耀は感謝しながらも、耀はやっと元に戻ったように真剣に言った。
 
「いや、宝生を動かすのは、もっと後。貉も同じ鉄は踏めない。もし寧野が金糸雀そのものだったら、貉も慎重になるだろうし、こっちも潜った貉まで追わなきゃならない。そんなことに派手に宝生の組員を使うのは利口じゃない」
 耀がそう言い切ると、楸は満足したように笑って言った。
 
「この件はお前に任せる。好きにするといい」
 楸はそれだけ言うと部屋を出て行った。
 耀は楸が置いていった書類をまとめて読み、そして覚悟を決めた。
 汚い自分を自覚したら、それを利用してでもあの綺麗な存在を綺麗なままにしておける方法があるはずだ。
 
 だって忘れようと思ったって忘れられるわけ無い。好きだと思った気持ちは嘘じゃないから、醜くもがいても嫌われても守りたいと思う。
 
「俺、好きになると結構一途で長かったっけ……」
 自分が恋愛をしたと思える相手をずっと特別に思っていた期間は10年だ。
 いずれ宝生の為だと言われて結婚したとしてもきっと相手を思うことなんて出来ないだろう。だって嫌われたくないと思って手に入れることなど考えずに手放そうと思った相手なんて今まで存在しなかった。
 
 どうして寧野がそこまで好きなのか。
 見た瞬間に好みだったからと言ってしまえば簡単だったけれど、あの不安定な存在が耀の目には魅力的に映った。
 
 どう生きていけばいいのか、どう世界をみればいいのか、そう迷って生きている人間をみるのはいつも不快だったけれど、わからなくても泣きわめくでもなく、じっと時がくるのを待ってるような人間は、強いのだと思えた。
 そういう人間を見たのは二人目だった。
 だから余計に惹かれた。
 目立つ容姿でありながら、何者も近付けないのは、ヤクザの子供だからと言われていてその噂が本当だからというわけではない。
 近付けない雰囲気を醸し出している存在だからだ。
 
 その強さを折ってしまったのは、一部は耀のせいだ。
 しかし寧野はあの事件で弱ったけれど、きっと強くなってくれる。今は人に頼って生きるしかない子供だけれど、一人でいることの怖さを知っている人間は、無理をして強がったりしない。
 環境さえ整えてやったら、きっと立ち直って自然と普通に生きていける。
 
 けれど、その邪魔をする存在が、まだ寧野の周りをうろつくことになる。そんな邪魔な存在は、絶対に許さない。寧野の唯一の肉親を奪っておいて、まだ寧野から何かを奪おうとするのを見逃せるはずはない。
 
 守ると約束した。寧野がいらないと言っても、耀はその約束くらい守ろうと思う。
 
「最後にした約束くらい、守ろう」
 寧野が耀の手を必要としないくらいに大丈夫なように守ろう。
 それが寧野を手放した耀の唯一出来ることだった。