novel

ROLLIN'1-6

 響は仕事帰りに誰かに付けられている気がした。
 人通りは多い場所なのに、誰かに見られているような気がするのだ。
 こう、好気の目というのだろうか?
 自分が興味の対象になって見られているとはっきりと言えた。

 しかし、何度か振り返ってみても、そんな人物はいない。
 おかしいと思いながらも響は耀が待つ幼稚園に向かった。

 耀はいつも通り大人しく待っていた。

「こんばんは、迎えに来ました」
 保育士に声を掛けて、耀を受け取る。
 いつもと変わらない事だ。

 その時、ちゃんとボディーガードが一緒だったにも関わらず、響は誰かに見られている感覚に陥った。

 変だ。
 何だろう?

 そう思ってやはり振り返る。
 でも幼稚園では、怪しい人物は見当たらない。

「響さん、どうしました?」
 キョロキョロしている響を不審に思った九猪(くい)が尋ねてきた。

「あ、いえ」
 響は自分の勘違いだと思い、何も話さなかった。耀にとっては、危険な事かもしれないが、視線の主が自分をずっとつけているのだと、何となく解っていたので、話す事でもないかと思ったのだ。

 でも変だという感覚だけは残った。


 それから数日。
 そうした感覚がだんだんと広まっていく。
 自分が見張られているような気がしたのである。

 会社にいる時は感じない。
 ということは、会社関係の人間ではないと解る。
 会社を出て幼稚園に向かうとそう感じるのだ。

 では、なにか調べている人がいて、その視線なのだろうか?
 でも、何もしてこないのも気持ちが悪いもので、響は少し苛つきを覚えていた。

 そんなある日。
 残業があって耀の迎えにいけなかった日の事だった。

 部下の徳永と会社に残り、時刻は午後10時を回っていた。普段は残業などしない響であるが、これはどうしても終わらない仕事だった。

 家に持って帰る訳にもいかず、徳永と二人で懸命に作業をしていた。

「明日休みとはいえ、仕事終わりませんね」
 徳永は、そうぼやき、差し入れしてもらったハンバーガーを頬張っていた。ちょっと休憩というところなのだろう。

「そんな口叩いている暇あったら、これを終わらせろ」
 響は最後の一枚になる仕事を徳永の机に置いた。

「はいはい。月時さんは厳しいんですから」
 徳永はハンバーガーを素早く食べて、その書類に目を通した。

「俺の分は終わったから、もう帰るぞ」
 余裕のある徳永の態度を少し呆れながらも、響は自分の仕事が済んだと告げた。
 それに徳永は驚いた顔をした。

「ええー待って下さいよ」
 徳永は慌てて最後の書類に目を通した。

「却下で終わりです」
 徳永は物凄い勢いで書類に却下の判子を押して、素早く帰りの準備をした。どうやら、響と一緒に帰るつもりのようだ。

 会社を出ると、周りは暗く、それでもまだ宵の口なので、近くにある居酒屋などから二次会に移る人々が行き交っている。

「ああ〜久しぶりに残業して疲れた」
 会社を出ると響はそう言って背伸びをした。
 最近は耀の事もあり、残業しない程度に仕事をしていたので、残業は久しぶりだった。

 本来なら、残業など当然の身分なのだが、やはり仕事が出来る男としての評価は高いから融通 が効くのである。

「月時さん、どっかで飲んでいきませんか? 月時さんは飲まなくていいんで、飯だけでもですが」
 隣を歩いていた徳永がそう言ってきた。

 そういえば、飲みに行くのって最近ないなあ……酒はパスしても飯は食べていたから、全然行かなくなったらさすがに付き合い悪いかな。
 などと、思ってしまった。
 宝生家に入ってから一度も行っていなかったのを思い出した。
 でも今の時間からとなると、ちょっとまずいだろう。

「いや、このまま真直ぐ帰るよ」

 そう響が言った時、一台のベンツが会社前に横付けしてきたのである。
 高級なベンツを見つけた徳永が、おおーすげーっと言って立ち止まった。
 響は少し嫌な感じがした。
 まさか、というのがあった。

 でも降りて来たのは見知らぬ人。それでもその降りて来た人物は響に向かって言ったのである。

「響さん、お迎えにあがりました。楸様が心配なさってます」
 そう言われて響は首を傾げた。

 迎えにきた人物が初めて見る人物だったからだ。
 まあ、それもそのはず。

 響はいつも耀の側近としか一緒に行動しないからだ。耀が家にいるなら他の側近も家にいる事になる。
 それに、思い当たる事があった。
 楸が遅い響を心配して迎えを寄越した事も考えられる。迎えはいらないとは言ったが、心配になって迎えを寄越したのかもしれない。それに来てしまったのを断るのも変だ。

「う……」
 残業で遅くなってもこんな迎えはいらない……。
 迎えというモノを完全に拒否していた事は正解だったと思った。こんな状態では、会社の人間に見つかったら、どんな噂を立てられるか解ったものではない。

 現に、徳永も信じられない顔をしている。

 ああ、月曜日に何を言われるか……。
 どんな、噂が蔓延ってるのか。
 考えるだけでも、頭が痛い。
 そう思っていると、徳永が呟いた。

「月時さんって、もしかして、どっかの御曹子なんですか?」
 うっ……そんな詳しい設定はないから聞くな!そう言いたくなる響である。
 こうなるから、迎えはいらないと言っていたのに……!

 そう思いながらも何とか言い訳を考えた。

「そんな訳ないだろう。伯父さんだよ」
 伯父さんが金持ちだという事は、先に設定として会社では知られているから、それを持ち出した。

「伯父さんってそんなに金持ちなんですか?」
 疑うように言われて、響は焦った。

「みたいだね。と、徳永、駅まで乗ってくか?」
 とりあえず、この場を誤魔化すように言ってみる。
 だが、徳永はそれを断った。

「いえ、いいです。俺、どっかで一杯やっていきたいんで」
 御猪口をぐっとやるポーズをしていた。そのお陰で徳永の興味は、今日の酒とつまみに移っていったらしい。

「そうか。じゃ、月曜な。おやすみ」
 思わず、ホッとして響はそう言った。

「おやすみなさい」
 徳永とはそこで別れた。
 車に乗った響を見送った徳永は、暫く車を見送っていたが、見えなくなると駅に向かって歩き始めた。

 だが、その後の騒動など知る由もなかった。

 そう、そのまま響の行方が解らなくなったのである。






「響が戻らないだと?」
 その報告を受けたのは、組織の金融会社で業務報告を受けていた楸だった。

 耀のボディーガードの九猪(くい)が、耀に頼まれて電話をかけてきたのだ。時計を見れば、もう日付けが変わっていた。

「はい。午後11時までに自宅の方には戻ると連絡があったのですが、それから1時間以上経ってますが戻ってきません」

 こんなに遅くなるはずはない。しかも今は終電すら終わっている。帰ってくるなら、タクシーを使うはずだから、それでも時間にして、30分はかからないはずだ。
 けれど、響は戻って来ない。

「携帯は?」

「真っ先に連絡していたのですが、電源が入ってません」
 そう言われて、楸は舌打ちをしてしまう。

 響には仕事中でも、携帯は切るなと言ってある。何かあった時に緊急で連絡を入れれるようにと考えたからだ。
 その約束は、響は守っていた。

 まさか、とは思うが……。
 楸は、自分から逃げ出したのではないかと、ふっと頭に浮かんだ。今の状況に我慢が出来なくなって?
 だが、それなら響が居なくなる時になくなるものがあるはずだ。
 それを確認させると、保険証からパスポート、通帳などはそのまま残されていた。

 つまり、響は意図的に消えた訳じゃないという事だ。
 第一、響が逃げる事情が無い。
 姉はまだ入院しているし、そっちの方をボディーガードしている者からも連絡はない。
 となれば、どういう事だ?

 楸は、時間をもう一度確認して、響がいなくなってから猶に二時間が経過している事を知った。
 さっそく 仕事を切り上げた。

「響の行きそうな場所を当たれ」
 社長室を飛び出し、状況がまだ把握出来ていない、槙(まき)と二連木(にれぎ)を引き連れてエレベーターに乗った。

 楸はそう指示を出すと金融会社を後にした。

 道中、何度も響の携帯にかけるのだが、やはり「電波が届かない所にいるか、電源が入ってません」というアナウンスしか流れてこなかった。

 こんな都会で、電波が届かない場所といえば、地下しかないだろうが、そんな長い時間、地下にいるとは思えない。マナーで電車に乗っている間に携帯を切る事はあるが、その時には、楸の携帯にメールで「電車に乗る」というメッセージが入っているからだ。

 それがないという事は、響は電車に乗っていないと判断出来る。そうなると、響自身の手で携帯が切られたのではないという事ではないか? という結論に至ってしまう。

 望みをかけて、何度もリダイアルをするが、その連絡先は、「電波が届かない所にいるか、電源が入ってません」という機械的な女性のアナウンスしか聴こえて来なかった。

 楸は苛立ちと共に家路についた。
 家に帰り着くと、耀が飛び出してきた。玄関で待っていたのだろう。探しに出た他の組員達とまっ先に出会う場所で待機していたようだった。

「パパ!響が帰って来ないよ!」
 楸を見ると、耀は見る見る涙目になって飛びついてきた。

「……耀」
 耀はパニックになっているようだった。
 泣きじゃくる耀を見るのは、初めてだった。普段、子供らしからぬ様子の耀でも、やはり母親代わりの響が急に姿を暗ました事は、ショックだったらしい。

「落ち着け、耀」

「だって、パパ!」
 これを宥めるには、相当な理由がなければならないだろうが、楸は適当に言い包めた。

「響はちょっとお姉さんの所へ行ってるだけだ。今日は遅いから、もう寝ろ」
 楸の言葉を受けて、少し大人しくなった耀は聞き返してくる。

「お姉さんの所? じゃあ響、遅いの?」

「ああ、遅いから先に寝てろと言ってたぞ。今日はもう戻れないからな」
 楸はそう言って耀の頭を撫でた。

「そうなの?」

 響には、雅という姉がいる事は、耀も知っている。その姉が入院している事も、長期の入院である事も理解している。その姉に何かあれば、身内が響しかいないのだから、耀に説明する前にいってしまう事もあるのだ。
 それを考えると、耀にも理解が出来たらしい。

「九猪(くい)、耀を寝かし付けておけ」
 楸はそういうと耀を九猪に引き渡した。
 楸にそう言われては耀も大人しくして部屋に戻っていった。

 それを見送ってから楸は厳しい顔になった。
 響の周辺を探させていた部下達は、何か情報があると全て槙の所に連絡するように言い付けてあった。

 その時、槙の携帯が鳴った。槙はその報告を聞いて、携帯を切った。どうやら有力情報らしい事は、電話をしてない楸にも解った。

「何か報告する事はあるか」
 その言葉に槙が答えた。

「はい。響さんが会社を出たところで別れたという、響さんの部下の方に事情を聞けました」

「それで」

「響さんは、黒ベンツに乗って帰宅したそうです」
 槙の言葉に楸は一瞬言葉を失った。

「黒ベンツだと?」
 改めて聞き返す。

「はい」

「どういう事だ……」
 楸は槙に聞いた訳ではなく、独り言のように呟いた。

 この組で、楸が使っているのは黒ベンツではあるが、そんな車は五万とある。それを疑いもせず響が乗ったのが不思議だったのだ。

 遅くなっても、会社にまで響を迎えにいくことはしてない。
 それは響が望んだ事だった。

 それに響が乗ったとなると何かあったに違いない。それは、乗せた相手が楸の名前を出したという事がありえる。
 そうなると、響は警戒をせずに車に乗るだろう。

 しかも、迎えに来た車は黒ベンツ。楸が使っている車と同じ。ナンバーまでは確認しないだろう。それで疑わずに乗ったと考えるのが話が通 る気がした。

「誘拐か?」
 楸はそう呟いていた。

 響を誘拐するなら、それは月時家の関係とは言えない。寧ろ、宝生組の方なら納得出来る。
 しかし、それならなぜ、誘拐した犯人が何も言って来ないのか……?

 組を狙っての誘拐なら、もう要求なりがあっても不思議ではないからだ。

 楸がそう考え、苛立っていると、家の電話が鳴った。こんな時間に、家の電話が鳴る事は無いと言ってもいい。こんな時に家の電話が鳴るという事は、それは響関係としか言えなかった。

 槙が素早く番号を確認したが、一瞬電話を取るのを躊躇った。通知された番号が意外な所からだったからだ。
 それでも、 電話を取り。

「老幹部の方々ですが」
 と、そう告げたのだ。

「またくそじじいどもが何か言ってきたのか」
 楸はそう言って電話に出た。

 しかし、そこで意外な事を言われたのだった。





 響は夢うつつのまま、誰かに運ばれている感覚で目を覚ました。

「ん……」
 目蓋が重い。
 はっきりと目が開けない。
 手足は鉛が付いたかのように重く、動かす事すら億劫だった。

「そろそろ、お目覚めのようですな」
 その声を聞いて響はうっすらと目を開いた。
 聞いたことのない声。

 誰?
 それは声にならなかった。
 ただ、周りに誰かがいる気配がする。それも数人だ。

「もう少しお眠りして頂かないと」
 少し笑いを含めた声がそう言った。

「準備は揃っておるな」
 今度は違う声が言う。

「そろそろ、あれにも連絡を」
 その声に誰かが歩いて行く気配がした。

 声は数人分頭の中に響いてきていた。
 周りがうるさい。そうした感覚で響は聞いていた。

 だが身体は動かない。
 頭はだんだんはっきりしてきたのにだ。

 どういう事だ?
 響は考えた。

 そう会社の前でベンツに乗せられた瞬間に何かを嗅がされた。

 あれのせいで自分は今も動けない。
 それから何処へ運ばれたのかは解らない。
 一体自分に何が起っているのかさえまだ把握出来て無い。

 すると何処かの部屋で、響は運ばれている感覚から解放された。
 どうやら何処かに寝かされたらしい。

 そうしていると、何かお香の臭いがしてきた。
 甘ったるい臭い。

 それが全身を覆うように重なってくると、更にずっしりと身体が重くなった気がした。
 気配を澄ましてみると周りには誰もいないようだった。

 すると隣の部屋から声が聴こえた。

「売りに出したくなる様な美人ですな」
「形もよい」

「あれが囲うのも解らなくは無い」
「だが我々に何も言わずというのも悪い」

「そこまで深く考えていないのかもしれない」
「だが、家に囲っているくらいなのだ。何か使い道があるのだろう」
 そうした声が聴こえている。

 意味が解らない。
 ゆっくりと身体に力を込めてみるが、なかなか感覚が戻って来ない。

 くそーこの甘ったるい臭いのせいだ。
 少しずつ力を込めて力の回復を試みる。

 かなり長い時間、力を込める事をに集中していると、だんだんと感覚が戻ってきた。
 目が開いた。視界には、日本家屋にある、天井が見えた。
 ゆっくりと身体を回転させて起き上がる。
 まだ四つん這いだが、それでも身体は起こせた。

「くそっ」
 吐きそうな臭いから逃れる為、声のしない方の襖を開けた。そこはまた部屋があった。
 とにかくそこは甘ったるい臭いがしないので、そこへと逃げ込んだ。襖を閉めて、やっとあの臭いが薄らいだ気がした。

「……くそ、何なんだ、あの臭い」
 まだ頭に靄がかかっている気がする程、強烈な臭い。
 頭を振って気分を変えようとする。頭を振ったせいか、また臭いが広がった。

 少し身体を抑えて、深呼吸を繰り返した。そのお陰か、思考回路が少し戻ったような感じになった。
 ようやく、余裕が出たのか、周りを気にする事が出来た。

 ここ何処だ?

 やっと周りを見渡せるようになって自分の周りを見渡した。
 広い部屋。周りは襖で仕切られている。20畳はあるだろうか。そうした部屋だった。

「なんだ?」
 広すぎる部屋を横断して襖を開けてみるとまた部屋である。その部屋もまた襖に囲まれた部屋だった。
 つまり、まだ先がある事が解る。
 まさしく迷路。

 どうなってんだ?
 ここは何処なんだ!?

 自分が誘拐されたのだろうとは予測出来ても、何故こんな大屋敷なのかが解らない。
 それにあのお香の意味もさっぱりだ。

 暫く考え込んでいると、周りが騒がしくなった。
 慌ただしい気配がする。

「そっちはどうだ」
「こっちか?」
 などという声が聞こえる。

 自分を探しているのか?

 そう思っても立ち上がって逃げる事が出来ない。
 倒れ込むようにして部屋に隠れていたが、すぐに発見されてしまった。

「見付けましたよ」
 そう言われてハッとなって見上げると、大男が立っていた。

「ど、どうして!」
 響は逃げるように立ち上がろうとしたのだが、前のめりに倒れてしまう。だが、畳に叩き付けられなかった。その変わり、大男に支えられた。

「やっと見付けました」
 ホッとしたように言われたが、響はパニックになってしまった。

「は、離せ!」
 必死に暴れたが、相手はまるでプロレスラーのようにガタイがよく、190センチ以上ある身長の男だ。
 響はまだ身体が完全ではなかったから、その男を投げ倒す事も出来なかった。

「悪いようには致しませんから、暴れないで下さい」
 男は淡々として言う。

「人を誘拐しといて!」
 響は必死で暴れたらガッシリと押さえ込まれてしまった。

 う、動けない……。

「お願いですから、静かにお願いします」
 そのまま、さっと抱え上げられてしまった。
 男は響を楽々と抱え上げると、器用に襖を開けて、さっき響がいた部屋へと戻った。

 その部屋は、あの甘ったるい臭いがする。部屋中に充満していて、少し臭いを嗅いだだけで、全身の力が抜けていくのが、手に取るように解る。
 それだけで気分が悪くなる。

「この臭い……どうにかしてくれ……」
 響は男にそう頼んだ。逃げたりしないから、その条件にこの臭いをどうにかしてくれと思った。

「それほど臭いますか?」
 男はそう返した。まるでそんなに臭っているのが、不思議な感じが含まれている。

「臭う……気分が悪い……」
 ゆっくりと布団に寝かされた響が必死に訴えたが、男は臭いの元をどうにもしてくれなかった。その様子から、まるで普通にある芳香剤程度にしか感じてないようだった。

 くそっ!

「受け入れてゆっくり吸って下さい。それで気分は楽になりますから」
 そう言われて男は響を見張るように、側に座った。
 これで、響がさっきのように逃げ出す事は出来なくなった。

 臭いはもう体中に行き渡っている。
 響は、なんとか意識を失わないように、喋ろうと思った。
 このまま意識を失ったら、自分がどうなるのか解らないからだ。それは恐怖でもある。少しでも状況が解る方がいい。

 だんだんとふわふわしてくる感覚に、これではいけないと叱咤して、なんとか意識を保とうとする。
「ん……」
「何か?」
 男はすぐに響が何か問いたがっている事を察したようだ。

「なんで……あんたに効かない……んだ……」
 一番の疑問を口にした。
 なぜ、この男はこの臭いを何とも思わないのだろう?
 この臭いで自分がおかしくなっているのなら、この男だって身体がおかしくなっているはずだからだ。

「この臭いですか。これはあなた用になっているので、私には効きません」
 男はそう答えた。

 俺用?
 そういう風に答えられるとは思わなかったので、響は何がなんだか解らなくなってきた。

 そうしてだんだんと響の意識はなくなってくる。
 しっかりとしているつもりでも臭いのせいで変になってくる。

 そうしていると、ドカドカと歩いてくる人の足音と、大声で叫んでいる声が聴こえてきた。
 響の側に座っていた大男が、少し身じろぎするのがなんとなくではあるが、響には解った。

「ふざけるなっ!」
「お待ち下さい!」
 その声を聞いて、響は、「ああ、楸」だと思った。

「どういうつもりだ!」
 隣から叫び声が聴こえた。
 襖一枚隔てた場所に楸がいる。
 響はそれで安心したのか、ホッと溜息を吐いた。

 しかし、何を揉めているのか、なんで行き先を知らない楸がここにいるのか、楸がなんで怒っているのか、襖の向こうにいる人達は何なのか。そんな事が頭を巡っていく。

「何、少し顔を拝みたかっただけだ」
 誰かがそう答えた。

「響は関係ないだぞ!」
 楸がそう叫んだ。
 どうやら、何か事情があるらしい。それも響の事に関してである。

「関係あるかないか、それはこちらがきめる事であろう」
「五代目。どうぞおすわり下さい」

「響は何処にいる」
 楸が低い声で聞いた。楸が座る事もしなかったらしい。

「なに、隣で寝て貰っておるよ」
 一人がそう答えたとたん、声がした方の襖が開いた。

 



「響!」

 楸が襖をあけるとそこに一人の大男が座っており、布団には響が寝かされている。スーツから着物に着替えさせられているが、それ以外、響が何かされた様子はなかった。
 だが、もし何かあったら楸は絶対にここいる者を許さないだろう。それほどの怒りがあった。
 楸は一歩部屋に入ったとたん、異常を察した。
 この部屋には、独特のお香の臭いがしたからだ。
 この屋敷でこのモノの臭いというのは、使った事がない楸にもすぐに悟れる事だった。

「まさか、あれを使ったのか」
 信じられない、と楸が呟いた。

「あれを使わせて貰った。大人しくついてくるとは思えなかったのでな」
 そう言うように、月時響という人間を知っている者ならば、この人物がどれだけの男なのかは調査していれば解る事だ。喧嘩になれ、武術にたけいる男だから、脅して大人しく従うような奴ではない。なにしろ、この男は不意をつかれなければ、冷静に判断して攻撃が出来る男なのだ。

 それがピクリとも反応しなくなっているということは、そういう事なのだ。  

 響はぐったりしていて声もだせなくなっていた。

 あれとは、人間用マタタビのようなモノだ。
 普通、ヤクザの妻になる者に使うモノで独り独り処方が違う。

 それを使うと、頭がボーッとなり、簡単に女が抱けるというものだ。
 昔から気に入った妾に使っていたりしたものである。しかし、現在はそんなモノは必要なくなり、この屋敷で製造法が保管されているのだ。それを勝手に使ったというのだ。
 響はそれを使われて動けないでいる。

「どういうつもりだ」
 本当に楸は静かに怒っていた。だが、冷静でもあった。
 響が無事であると解っただけで、自分はこれほど落ち着けるのかと思う程だ。

 そこには、5人の老人が座っていた。どの人物も楸のよく知る者達ばかりだ。それだけに油断はならない。

「どういうも何も、五代目はどうするつもりです」
 一人が進んでそう言ってきた。

「何?」
 楸はその者を睨み付けて問うた。

「こうやって一般人を巻き込んだ事が起こり得る事を承知の上で囲ってらっしゃるのか」
 響が一般人であるのは、誰でも知っている。それでも手元に置きたいと、楸は望んでしまった。その責任はどうするのだと言われているのだ。

「……」
 すぐには答えられない質問だった。自分が迂闊であるのは解っている。できれば、響を巻き込みたくない自分の役目だ。だが、それでもと望んでしまった。それを捨て去り冷静でいる事が出来なかった。
 だから、その責任は自分で負わなければならない。

「今回はたまたま我々だったから良かったものを」
 もう一人が何度も頷きながら言った。

 それは、もっともな事だ。否定は出来ない。もし、別の人物が響を誘拐したのなら、これほど簡単に響を見つける事など出来なかった。
 今回は、身内だったからまだよかったと言えた。

 そう、この老人達は、一応は楸の味方達、つまり身内だったのだ。この屋敷には5人の老人が住んでいる。先代に使えたヤクザで、組長をも取り仕切る権利がある権力がある者達だ。

 楸ですら、迂闊にモノが言えない事もある。

「そう、これが対抗するモノだったらどうなっていたか。あなたの様子で解りましたぞ」

 つまり、楸は響一人の為に、組組織すら動かしてしまう事が解ってしまったのだ。その行動が危険だとも言われたのだ。暴走する組長では、今の時代生き残れないからだ。

「確かに、俺は暴走していたらしいな。思ったより、こいつが、響が大事だ」
 楸は響を見つめてそう呟いた。

 また、響が目の前から居なくなる。そう思っただけで、胸が張り裂けそうになった。目の前が真っ暗になるというのは、こういう時の事なのだろうと思った。

「解っている」
 楸は呟いた。認識してしまえば、今後、感情を表に出しての行動には気をつける事が出来る。
 そして、今後の響の位置というものを決定付ける事が出来る方法が一つだけ残っていた。

 話が聴こえている響には何を言っているのかさっぱりだった。
 何の為に自分がここへ連れて来られたのかも解らない。

「儀式通りに抱けばいいのか?」
 楸は低い声で聞いていた。

 響を手放すように言われたのだが、楸はそれに納得しなかったのである。そうなれば、響を身内にして、認めさせるしかない。その方法は、過去に組長達が使ってきた儀式に同意するしか道はなかった。

「それならそれで準備致しましょう」
 一人が言って、側にいた大男に命令を出した。

「扱いもそれなりに致しましょう」
 男達は納得したようだった。

 楸が耀に家督を譲る日が来るだろう。そうなったとき、楸には女は邪魔であるのは誰もが承知していた。万が一にも、子供を設けられては困るのだ。その分、男の嫁ならそんな心配もない。

 その代わりに響を迎える事はよいとしたのである。

 それが儀式に繋がるのである。