novel

ROLLIN'1-16

「早瀬って辞めたんですね」
 いきなりの徳永の言葉に響はどきりとした顔をして書類から顔を上げた。

「え? 辞めたのか?」
 本当は知っていたが、今初めて聞いたというふうに響は言った。

 早瀬が翌日来なかったことで、会社では無断欠勤として扱っていたが、そのうち辞表が郵送されてきたことだけは聞いて知っていた。

 内容がどうなのかまでは知らない。
 そのことで響が問われることもなかったので、早瀬は早瀬の事情で辞めたのだと思っていた。

「辞めたんですよ。辞表は郵送してきたらしいんですけど」

「へえ」
「知ってます? あいつ、会社に忘れ物取りに来た時に腕折ったんだって」

「腕を?」
 そう響は驚きながらも、本当に楸が腕を折るように言ったのを槙が実行した事を知ったのである。

 本当に折ってたんだ……。
 でもその理由を早瀬は別の理由にしたらしい。

 まさか響を襲って、ヤクザに腕を折られましたとは早瀬も言えないだろう。そこまで根性があるとは思えない。

「ちょうど月時さんが帰った後らしいですよ。ドジですよねー」
 徳永はそう言う。

「そうなんだ」
 自分がいない時間にそうなったと早瀬は言ったらしい。
 それは響には好都合なことだった。

「俺、昨日風邪で休んだじゃないですか。その時病院で早瀬にあったんですよ」

「え?」
「その時、会社は辞めるってきいてびっくりしたんですよね。腕も折ってるし」

「そうだな」
 なるほどと響は思った。

 どうにも徳永が詳しく早瀬の事を知っていると思った。
 徳永は早瀬自身にあっていたから詳しい話を聞けたのであろう。

「それに何か怯えてたんですよ。月時さんには言わないで欲しいとか訳解らない事を言うし。月時さん、何か知ってるんですか?」

 徳永にそう聞かれて響はどきりとする。
 知ってるもなにも、原因は響にあるからだ。

 腕まで折らなくてもとは今でも思うが、楸がそう言ったのを止める力がなかったのは仕方ない。

「え?何を?」
 響はとぼけることした。

 まさか、襲われてしまって、助けてくれた相手が早瀬の腕を折ったとは言えない。ここはもうとぼけるしかないのである。

 とぼけた顔の響を見て、徳永は首を傾げた。

「何かあったから、早瀬はここ辞めると言い出したんじゃないかと思ったので」
「なんで俺なの?」
 やはりとぼける響。
 響が知らないと言っている以上徳永がいくら何を聞いても無駄である。

「月時さんと誰か間違えているんじゃないのかあ」
 徳永は最後にそう言い出した。

「なにか恐いことでもあったのかもね」
「記憶が錯乱してるとか?」

「そうかも」
「それならありそう」
 徳永はそう納得したようだ。

 ほっとする響。

 とにかく楸がした事は隠さなければならない。それも響の為にしたことだから、更に思ってしまう。

 たとえ、楸がやり過ぎたとしても、響が動けたなら自分でやっていたかもしれない事でもある。
 失態を演じたのは自分。それの責任を楸には問えない。

「まあ、早瀬のことはいいや」
 響はこれ以上その話をしていたくなかったので、話を打ち切るようにそう言った。

「月時さんが早瀬と仕事したのなんて2週間ほどですもんね。辞められてもあまり支障がないですよ。俺もそうですけどね」
 徳永もそう言って仕事に集中した。

「今日は残業なしで終わりそうだな」
「月時さんはそうですよね、俺、終わりそうにないですー」
 徳永は無駄話をしている間の分までが溜ってしまって残業決定のようである。

「俺のが終わったら手伝うよ」
 響はそう言ってさっさと自分の仕事を片付けて行く。

 もともと無駄話をするのは徳永の癖で、響はそれを聞きながらさっさと仕事を進めて行くことには慣れていた。

 内心、響は、早瀬の話が大したことなくてよかったと思っていた。

 報復に出るなら、腕を折られたと言い触らして響を会社から追い出す事も出来ただろう。響は早瀬に襲われた事は絶対に言わないつもりだったからだ。

 でも早瀬はそうは考えなかったようである。
 それが救いだったかもしれない。

 これからは会社でも油断するな。そう楸に言われている。誰にでもなく、誰も彼もにという意味だった。
 とくに残業する時は気をつけろと言われた。

 響は自分が特殊だとは思って無かった。
 まわりから綺麗だとか言われてもそれは社交辞令だろうと思っていたし、カラかわれてるとしか思って無かった。

 同期の社員は殆どいない状態だったので、年上から可愛がられて、年下からは慕われている。
 状況としては大変恵まれている方なのだろう。

 仕事も出来る方の響は重宝されている。
 だから、この仕事を辞めることは出来ない。

 もし辞めるとなったら、今回の事が原因でというふうになっていたかもしれない。

 それが表沙汰にならないで済んでいたのは、楸が脅してくれたお陰だろう。さすがにヤクザと解っている相手に喧嘩を売る早瀬ではなかったのが救いかもしれない。

 はあっと息を吐いて響は仕事に集中した。

 その仕事が終わったのは、定時前だった。約束通り、徳永の出来て無い仕事を手伝ってさっさと終わらせる。
 そうすると定時にはきっちりと仕事が出来上がっていた。

「月時さーん、助かりましたー」
 今日は飲み会があるらしい徳永は定時に終われたことに感謝していた。

 駅までの道を歩きながらたわい無い話をして駅で別れた。
 そこで、響のボディガードだという三束(みつか)と合流する。

「響さん、おつかれさまです」
「そっちこそお疲れ」

 自分にはボディーガードは必要無いと響は言い張ったのだが、早瀬が何かしてくるかもしれないと思った楸が、とりあえず一週間つけると言って、駅で待ち合わせることになっていた。

 いつも徳永と一緒にいるので、会社近くで見張っていた三束は後をつけてきたのである。

 その三束を引き連れて、響はいつも通りに耀を迎えに行った。

「響!」
 最近、残業も時々はいるようになってしまったので、耀の出迎えは久しぶりのような気がする響である。

「耀」
 手を上げて来た事を知らせる。先生がやってきて、耀の様子を話してくれている間に耀は帰る準備をしてくる。

「響、買い物して帰る?」
 手を繋いで車へ向かう途中で耀がそう言い出した。

「うん? 今日はしなくても大丈夫だよ。何か買いたいものでもあるの?」

「ううん、ないけど。響と買い物したら楽しいから」
 耀はそう答える。
 どうやら、買い物している時が楽しいらしい。

「ごめんね。この間買い物沢山したから」
「ううん。いいよ。ご飯作るの手伝うから」
 耀はにこっと微笑んで手を引いて先に歩き出す。それに引かれるように響は歩幅を合わせた。

 家に帰るとさっそく着替えてご飯を作り始める。
 楸がすぐに帰ってくると電話で言ってきたので、楸と槙に二連木の分の食事も用意しなければならない。

 耀は、響を手伝って包丁を使ったりできるようになっていた。でも大概は野菜を切ったりする程度である。

「お、いい匂いだな」
 楸がそう言ってダイニングに入ってきた。

「おかえり」
「おかえりパパ」
 響は火加減をみながら言って、耀は楸に抱きついていた。

「今日はシチューだよ」
「そうか。今日も手伝ったのか」
「うん、ニンジンもじゃがいもも切ったんだよ」
 耀は嬉しそうに報告している。楸はそんな耀を偉いと言って頭を撫でていた。

 響は最近になって気が付いたが、初めのうち、この親子にはスキンシップが足りないと思った。耀はそうしたことを求めていたのに、楸の前では出来ないでいた。そこに響がやってきてスキンシップと言って、抱き締めたり頭を撫でたりという事をやるようになった。それを見ていた楸も耀に対してスキンシップをするようになったのである。

 今まで甘えられなかった分、耀は楸に甘えることができるようになったのだ。
 こうした光景は初め珍しがられていたが、今では誰もが不思議とは思わなくなった。

 やっぱりスキンシップは必要だよね……。

 などと思っていると、楸が近付いてきて、響の頬にキスをしてきたのである。

「ちょっと!」
 響はキスされた頬を押さえて、がたっと音を立てて後ろに逃げた。

「おかえりのキス」
 耀が嬉しそうにそれを見て言った。

「耀!」
 響は思わず叫んでしまう。
 また耀が何かを楸に吹き込んでいたようである。

「夫婦はおかえりなさいのキスをするんだそうだ」
 真面目な顔で楸がそう言った。

「それは普通の夫婦がすることで、俺とお前がすることじゃないんだ」
 響は即座にそれを否定した。

 冗談じゃない、という所であるのだが、キスが嫌だった訳では無かった。

 だんだん感化されてる気がする……。

「キスくらいで動揺するな。やることはやってる仲だろうが」
 楸はそう響の耳元で囁く。そう言われて響はまた飛び退くように楸から逃げる。顔は真っ赤になっていた。

「くそー」
 完全にからかわれているのである事は解っている。楸は面白そうな顔をしているからだ。
 響の初心な反応を面白がっているに違いない。

「照れるな、可愛いな響」
 またさっと触れるようなキスをしてくる楸。それから必死に逃げようとしている響である。

「響とパパって仲がいいよね。やっぱり夫婦なんだ」
 耀が響が脱力するような事を言い出してしまう。

 お陰で逃げ遅れた響は、今度は唇にキスを許してしまったのであった。
 盗まれたキスに響は猫のように毛を逆立てて怒っていた。

 楸はニヤリとしてさっさと自室に戻ってしまう。響一人が怒っている状態で、他は皆楽しそうにしていた。

 この状況に慣れている槙、二連木、九猪の三名はまったく驚かなかったのである。

 皆、慣れ過ぎ……。
 そう思ってしまう響である。

 シチューを人数分出すと、まるで定食屋みたいになってしまう。
 槙(まき)、二連木(にれぎ)、九猪(くい)、億伎(おき)、それに三束が加わってしまうので大所帯の食卓になってしまうのである。

 その給仕をするのは響の日課になっていた。
 だが、作るだけでお代わりなどは自分でやることになっているのが面白い所だろう。

 食べ終わった後片付けは耀や三束が手伝ってくれて手早く終わる事ができる。

 それが終わると、ボディーガード陣は一斉に部屋へと戻って行く。

 その間に響は風呂の準備や洗濯の準備をする。
 まず最初に耀と響が風呂に入る。
 続いて楸が入っている間に響は耀を寝かし付ける。

 午後9時を回ると、耀も大人しく眠ってしまう。
 それからが大人の時間になるのである。

 響はウーロン茶のペットボトルを出して、それを飲みながらテレビを観戦する。その間に楸が風呂から出てくる。そうなると楸だけが酒を飲む時間になるのである。

「お前、早瀬の腕本当に折ったんだな……」
 響はそう切りだした。

「早瀬?」
 楸は一服しながら不思議そうな顔をしていた。

「俺を襲った奴」
 そう言うと、楸にも誰のことか解ったようだった。

「あれでも甘い方だぞ」
 楸はあの時の事を思い出したのか、声を低くして唸るように言ってきた。怒りが再発したらしい。

「甘いって……」

「そいつがどうした? 会社でも辞めたか?」
 楸はニヤリとしてそう言ったのである。
 響はまさかと思った。

「お前、何かしたのか?」

「何故何もしないと思った」
 楸はビールを一気に飲んで、二本目を取りにキッチンへ入った。冷蔵庫からビールと取り出すと飲みながら戻ってきた。

「何をしたんだ?」
 響はもう一度聞き返した。

 楸はソファに座ると、ニヤリとしただけだった。
 答えるつもりはないらしい。

 それで響は考えた。
 もしかしたら、あの後、楸は早瀬について調べたのかもしれない。
 報復を考えていないか、響の不利になるような事を言い出さないかとか。様々な事を考えて、そして早瀬を脅したのかもしれない。

 早瀬が響に何をしたのか。
 それを言えば早瀬はもっと悲惨な状態になっていたかもしれない。

「早瀬を見かけた奴がいて、早瀬が俺にというか、俺の後ろにいるお前に怯えていたような事を聞いたんだ」

 響は徳永からきいた事を話した。楸は顔色を変えずに最後まで聞いていた。それからニヤリとしたのである。

「ふん。逆らう程の度胸もない奴だったのか。腕一本で儲けたな」
 楸はそんな事を言う。
 どうやら本当に脅しをかけていたらしい。

 そうなると度胸がない早瀬では、これ以上響と関わった仕事は恐くて出来ないだろう。辞表さえも郵送するくらいだから、二度と響の前に姿を見せるつもりすらないことになる。

 まあ、それは響にとっても良いことだったので、響はそれ以上踏み込んだ事は聞かなかった。

 楸の事を悪くいえるほど、響は自分の失態に対して厳しかったのである。