novel

everyhome-1

「お前なんか帰ってこなくてよかったんだ!」
 実家に戻った瞬間、氷室侑(ひむろ ゆう)はそう言われて弟に出迎えられた。

今日は産みの母親の葬式だった。弟の枡形尋(ますがた ひろ)は興奮した様子だったから、それも周りは分かっていて宥めていた。しかし、その言葉を聞いた侑は少なからずダメージを受けていた。

 自分の産みの母親が亡くなった場所で弟に罵倒されることは普段なら耐えられるものであったが、今回の母親の死からずっと侑の精神状態は不安定であった。それでも世界有数の氷室財閥の副社長としてやってきただけはあり、顔にはまったく焦りや不安は出ていなかったらしい。それが弟の怒りを買ったようだ。

 さすがに母親の葬式をぶちこわす訳にはいかず、侑は母親の顔を見ただけで東京に戻ることになった。

 喪主は義理の父親になる男がやってくれているし、尋の側にはその人もいてくれる。
 家族の為、母親の為だからと言って今の身分に収まっている自分がぶちこわしていい葬式ではなかった。

 母親の最後は安らかであったと聞く。自分のことを手放したことも後悔して、申し訳ないと謝っていたそうだ。

 そうではないのだ。母親に楽をさせたかったただそれだけで、母親の元を離れ、氷室に戸籍を移した。

 今では偉い地位をもらってはいるが、家族が元気で暮らしている様子が分かるだけで、それだけで自分はここまでがんばってこれたというのに、その緊張の糸は母親の死を境に、少し切れてしまったらしい。

 人生の目標や目的としてきたものがなくなったのだと分かることが辛いのもあるが、それがなくなったところで自分は一体なんだったのだと思うこともある。

 確かに家族の母親の為に自分は氷室に籍を移した。その後は氷室の為に役に立つようになり、母親にそれなりの送金をし、自分も地位を掴んで家族に何かあった時に頼りにされる存在でありたかった。

 それなのに、母親は一度として侑を頼ってはくれなかった。母親は月々に送金されるお金をもらうことに恐縮していたらしい。
 息子が実家に送金することの何がいけないのか。

 それが分からなかったが、よくよく考えれば、母親からすれば、いくら息子が行くと言ったからと言っても、自分は息子をお金が欲しさ、生活を少しでも豊かにしたくて売ったも同然だと思っていたのだろう。

 そうしてくれてよかったのだと、そうしなければ自分たちは生きて行けなかったのだと納得して欲しかった。そうしなければ自分が生きてきた全てを否定されることになる。

 自分は間違った選択をしたのか。
 そう考えると眠れなくなる。
 その答えをくれる母親はもうなく、彼女は最後まで謝っていたというのだから、後悔だけしていたことになる。

 では、自分はどうすればよかったのだ? あのとき、あの貧困のなかでどの選択をすればよかったのだ?
 母親が死にそうな病気になっているというのに、死んでいくのをただ眺めているだけの子供でいればよかったのか?

 何度問いかけても答えは決まっている。見捨てるわけにはいかなかったのだ。自分の価値で母親が救えると分かっていて、その選択をしない子供はいないだろう。それを間違っているかのように言われたら、今までの自分は本当になんだったのだと悩む。

 列車で東京まで戻り、本当は明日まで居る予定だったから、今日東京に戻るつもりではなかったので、ポッカリと一人の時間が空いた。

 何となく帰る気になれず、新幹線のホームの椅子にずっと座っていた。最終が過ぎるまではまだ時間はあったから、なんとなく力が抜けて動けないのをいいことに居座ってしまった。

 本当ならここから本家の車を呼んで家に帰ればいいのだが、体が動こうとしてくれない。
 脱力だけがある。

 そうして座っていたのだが、気がついた時、隣に誰かが座っていた。新幹線でも待っているのかと思っていたが、そうでもなさそうである。

 ちらりと横顔を見ると、かなり若い青年で、女性かと思うような整った今風に綺麗なラインの容貌だった。
 髪は肩まで伸ばしているらしく、普通なら男なのにと言ってしまいそうだが、それが似合っていてとてもいいのだ。

 そんな感想が出て、顔をよく見ると、まるで今の自分と同じような悲壮感を漂わせている。
 瞬時に侑(ゆう)は同類だと見抜いた。

 同じように誰か大切な人を亡くし、その事実にただただ呆然としながらも、やるべきをことをやらなければならない立場。けれど、足が動いてくれず、脱力している状態。

 まさに侑と同じなのだ。

「……こういう時一人で泣くのって難しいですね」
 とても綺麗な声がそう言った。

「え?」
 侑は驚いて再度青年を見た。
 彼は侑を見ているわけではなく、ガラス屋根の向こうに光っている月を眺めている。 

「もうどうしていいのか分からなくて、でも泣くにも泣けなくて。それでもやらなければならないことがあって、けど、やる気がでなくて」
 青年はそう吐露する。

 その言葉はまさに侑の心の中をそのまま言葉にしたようなものだ。

「それでも自分は生きていくしかないんですよね。目標はまた立てなければならないんだけど」
 そう自分は母親の死ととも死ぬわけではないのだ。
 今の自分にはやるべきことや役割などが沢山残っている。それを全て放棄するわけにはいかない。

 責任というものがあるのだ。それを放棄したりすれば、尚更母親に会わせる顔がなくなるというものだ。

「亡くなった人は思い出になります。ずっとずっと心に残って、綺麗な思い出になります。その人のいいところをずっと覚えていようと思うんです」

 確かに亡くなった人は美化されてしまうけれど、青年はそれでもいいというのだ。そうしないと自分たちはまだ立ち直れないから。それでも先に進むことを選ばなければならないのだ。

「それでもいいけれど、今は悲しんで泣いてもいいんだと思う。泣いても今は泣いても」
 青年はそう言って綺麗な涙を流した。やっと泣けたそういう涙。

 この青年にどんな辛いことがあったのだろうか。亡くした人のことだけではなく、他にもそれに付随する何かで呆然としてしまうことがあったのだろう。

 そう考えてしまった侑はハッとした。今自分は自分のことに共感しながらも、青年の身の上を心配している。そんな余裕が自分にもあったのかと思うと、今までのやる気のなさが少しなくなっていく感じがした。

「すいません、何故か同じような境遇の方に自分で自分に言い聞かすようなことを愚痴ってしまって」
 青年はそう言って立ち上がった。

「そろそろ行かなければならないので、すみませんでした。愚痴を何も言わずに聞いてくれただけで、俺の心もなんとか落ち着いてきました。勝手に感謝したりします。ありがとうございます」

 青年はそう言うと、西行きの最終の新幹線に乗り込んでいった。
 侑は帰ってきたばかりであったが、青年はこれから侑が体験したようなことをしてくるのだろう。

「気をしっかり。君と私は同じような存在だ。今この瞬間、同じように思っていたのだから、一人ではないんだよ」

 そう侑が呟いたのに青年は振り返って、新幹線の入り口で深々と頭を下げていた。そのままドアが閉まり、新幹線は発車した。

 それを見送った侑はかなり気が楽になっていることに気づいた。こういう時でも自分は誰かを思いやる心を持っていたのだと気づかされたのだ。

 こんな時に不謹慎だと思うが、青年の印象はただただ綺麗な人という幻ではないかと思えるものだった。あんなに繊細でありながら強くあろうとする人間は尊敬に値する。
 出来ればまた出会いたかったし、また話をしてみたいと思った。

 青年の儚げな姿は、氷室侑の心にしっかりと焼き付いてしまったのだった。
 それが半年前の出来事だった。