novel

everyhome 番外編 枡形尋(ますがた ひろ)の事情1

 俺の兄は、世間で言う、イケメンだ。
  スッとした鼻をしていてちょっと外国人みたいに高くて。顎は尖ってて今風に細く、顔のラインは綺麗にすっとしている。だが目は鋭くてあの目で見られたら大抵の人は怖がる。雰囲気はもう最悪。一緒にいるだけで息が詰る。そして出てくる言葉は偉そう。
  そもそも立場が立場だけに、昔から偉そうだった。

  初めて兄に会ったのは、10歳の時だったろうか、兄は二十歳で成人していた。
  最初にかけられた言葉は最悪。

「これが尋(ひろ)か」
  だった。
  すごく興味なさそうに俺を見て、一瞥しただけで視線はすぐに反らされた。
  目の前に座っていた母は凄く恐縮していて、自分の子供だと言うのに、敬語を使い気を遣い、挙げ句、息子を「氷室さん」と呼んでいた。

  正直、自分の兄に会えると思っていた俺の予想を遙かに裏切る光景に俺はその場に居ることが出来ずに部屋に逃げ込んだ。
  その後母に怒られはしたものの、俺は母を責めていた。

「なんで、自分の息子に敬語使ったり気を遣ったりして、母さんがそんなに怯えてるんだよ!」
  そう言った俺に母は寂しそうに呟いた。

「私がちゃんとしてなかったから、あの子は、氷室さんになったんだもの。仕方ないわ」
  後で父に聞いたことだが、母は病気をしてその時俺はお腹の中にいて、本当に大金が必要な手術や治療が必要だったのだという。

  その時、母の愛人だった男が母のことを聞きつけ、息子を渡せばその費用は全額出してくれると言ったそうだ。母はそれでも兄を手放すことは出来ずにいたのだが、そうしてまで守っていた兄が急に自分は氷室に行きたいと言い出したのだという。

  母は最初は強固に反対をしたのだが、それでも兄は氷室に勝手に行ってしまったのだという。
  父にそれを止めることは出来なかった。母が死ななくて済む方法はもう氷室の財力に助けてもらうしかなかったからだ。

  俺は兄が母を捨てたと思った。父が兄が母を救う為に氷室に行ったのだという話しをしていたが、あの場面を見たら、子供が貧乏が嫌で金持ちの本当の親のところへ行ったと思えてならない。

  昔、よく貧乏でもないのに、そのうち金持ちの本当の親が現れて、何でも買ってくれて何でもしてくれるようなところへ連れていってくれると妄想したものだ。
  兄には本当にそういう状況が訪れてしまったわけだ。

  普通、病気の母を置いて、さっさと東京の金持ちの家にあっという間に貰われていくか? と俺は思ったものだ。普通、心配して母が回復するまで傍に付き添っているとか、看病するのに通うとかそういうことしないか?と。

  兄は氷室に行ってからというもの、一度も母の前に姿を現したことはなかった。
  俺が10歳の時、逢いたいと我が儘を言ったから、母は兄にお願いをしてくれたのだ。

  だが、会いに来た男は、無表情で自分の母をも冷たい目で見るような、そんな男だった。当然俺のこともちらっと確認するだけだったから関心すらなかったのだろう。
  そう見えたから、すごく悲しかった。兄は自分の憧れだった。勉強はトップクラスだと聞いていたし、父から写真を見せて貰った時はみんなに自慢したいくらいにかっこいいと思える男だった。

  それがどうだ? なんだあの男。まるで貧乏人には興味ないような目をしている。
  それがとても悔しくて悲しかった。
 

 あれから8年経って、母はとうとう病気で死んだ。もう手の施しようがない病だったし、氷室の支援でもさすがに病は取り除けない。
  母は最後に俺に言った。

「あの子を本当は渡したくなかった……それがすごく残念。尋といい兄弟になれたかもしれないのに、私、手放しちゃったわ」
  とても悔いているようだった。それが最後の言葉だった。最後まで息子の名前すら呼ばず、あの子と言っていたのが気になってしまった。
  それがずっと残っていたから、葬式に来た兄に暴言を吐いた。

「お前なんか帰ってこなくてよかったんだ!」
  これはまだマシだった。俺は最低最悪にも。

「お前なんか、お前が死ねばよかったんだ! 母さんを返せ!」
  そんなことを口走っていた。

  喚いている間に父が俺が興奮しているから帰ってくれないか、とお願いしたところ、兄は本当に帰ってしまった。葬式に来た人たちはうちの事情を知っていたらしく、影でこそこそ何か言っていた。

  なんで……自分の母親の葬式だろ? なんでそんなにあっさり帰れるんだ?
  俺は自分が吐いた暴言すら棚上げして、兄を責めた。

  その後、母が残した通帳を父に見せられた。母が氷室から貰っていた金銭の額が驚愕するようなものだったから俺は愕然とした。
  これは氷室からというより、兄からの振り込みだというのだ。

  なんでこんな残酷なことが出来るんだ? あの母が実の息子から恵んで貰った金で遊びほうけて楽しく暮らすとでも思ってたのか? 馬鹿にするな!

  俺はそれを父親から受け取ると、即座に封筒に入れてポストに放り込んだ。
  通帳は全部で5冊あった。ただの一度も引き出されてない。
  頭を駆けめぐるのは、近所の人の言葉。

「あそこの長男。ほら、氷室っていう金持ちの子供だったらしいわね」
「まぁ、それじゃあの長男を? 通りであんな病院に行けたのも納得」
  あれは母が入院していたことを知っている人たちが、母が氷室に息子を売った金で悠々自適に暮らしていると思っていたから影で言っていたのだ。
  だが、事実は違う。母は治療以外のお金なんか一銭も使ってなかった。
  それを当然として受け取らずにいた事実を、兄に怒りと共に叩きつけてやりたかったのだ。

 
  兄はそれを受け取った後、直接俺を訪ねてきた。
  父は俺の非礼を詫びて、母に線香をあげることを許した。

  頭が怒りでどうなるかと思った。そう思ったのだけど。母に手を合わせていた兄の拝む時間が凄く長かった。本当は寝てるんじゃ?と思うほど長かったのだ。
  時間にして、10分くらいは拝んでいたんじゃなかったろうか。俺の足は当然のように痺れきっていたし、感覚もなくなっていた。
  振り向いた兄は、父に深々と頭を下げた。

「母を看取って頂き、本当にありがとうございました。母は私がいなくなった後も貴方がいてくれたお陰でここまで生きることが出来たのだと思っています。貴方が最後まで一緒に居てくださったことに感謝します」
  兄は8年前、自分の母のことを母と呼んだことはない。母が死ぬまでずっと、貴方と呼んでいた。それが今更母? 正直こいつ調子がいいと思った。
  だが顔を上げた兄はじっと俺を見て言った。

「葬式の時は人目があったから、尋にも孝さんにも迷惑になるだろうと思って一旦引き下がったが、今は時間もある。お前の恨み言は全部聞こう」
  そう真剣に言われてしまったのだ。更に。

「私は母を捨てたわけではない。助けたかったのだ」
  そう言い切った。

「じゃ、なんで、止める母さん放って出て行った挙げ句、10年も放っておいて、更に死ぬ間際まで逢いにこなかったんだよ」
  俺は怒りに怒っていたのだが、意外にも静かな声が出た。

「それは……私が頼んだことなんだ……」
  俺の怒りに答えたのは、兄ではなく父だった。

「……え?」
「私が、侑くんに頼んだんだ。お前や妻まで氷室に取られたくなかったから」

「……なんで? 俺は父さんの子だろ?」
  俺は信じられないものを見るようにそう呟いていた。
  すると兄がその詳細を話してくれた。

「氷室と言うのは無駄に財力がある。愛人の一人や二人、ましてや血筋でないものでも、母が望めば、その通りに囲ってしまうんだ。孝さんが、生まれてくるお前や母を氷室に取られたくないと思ったとしてもそれは当然だろう。私一人が氷室に行けば、それで全てが収まる話だった。母は助かる、お前も生まれてくる、孝さんはその両方と幸せになる、それが母がそのとき望んでいたものだ。氷室は私一人で妥協する。母は私がいなくなれば、お前や孝さんを守ろうとするだろう。散々苦労して手に入れようとしていたものが私一人で全て収まるんだ」

  ほら、全部綺麗に丸く収まったと言われても、俺は納得できない。
  だって母はずっとその一人である兄のことを手放したくなったんだから。

「いや、だって、母さんはあんたも手放したくなかったんだろう?」
  俺がそう言い返すと、兄は淡々と続けて話してくれた。

「そうは言っても、現実問題全部は手に入らない。母は命もお前の命も、そして私もを全部失ってしまうだろう? どれか一つ選べと言われれば、母が取るのはお前の命だ。だが、それには相当額の治療費がかかる。孝さんだって無茶を言ったわけではない。血の繋がってない私を引き留めてくれた。それはありがたかったけれど、私が氷室に行けば、母は確実に助かるんだ。そういう状況でお前ならどうする? 母が確実に死ぬと分かっていて、離れたくないと泣きわめくか? それとも死ぬのを待っているか? その状況に居て目の前に確実に助かる何かがあるなら何に縋る?」 
  兄はそう詰め寄ってきた。

「……」
  確かにその状況なら、自分も兄と同じようにしたかもしれない。いや絶対にしただろう。

「私は生きていて欲しいと思った。離れていても生きていて欲しいと願った。私にはそれが出来た。私さえ決断すれば、母は助かる。それで助けることができるんだ。無力だと思っていた自分が出来るんだ。恨まれたとしてもそれはそれで良かった」

「……でも母さんは、あんたのこと手放したくなかったって……なんで会いにこなかったんだ?」
  俺は母さんの最後の言葉を更に言っていた。会いに来ない訳が分からない。実際兄は10年前に会いに来ているではないか。その前に父がそう言っていたとしても母が会いたいと言うに決まっている。 

「母に会うわけにはいかなかった」
「……なんで?」
「……母は、お前が生まれてから小学生の途中まで、私のことはすっかり忘れていたんだ」

  …………え?

「は? 忘れてた?」
  いやもう、なに言われたのか分からなかった。
  なんだってぇ???

「私に関する記憶が暫くなかったというのが正しいだろうな。お前が小学生の時にふっと思い出したように私を「あの子」と言って思い出したそうだ。尋(ひろ)、お前が自分にもお兄ちゃんが欲しいと言った時に初めて母が私のことを話したのを覚えてないか?」
  そう言われれば、兄の話を聞いたのは、確かそれくらいだったはずだ。

  小さい頃ははっきり言って覚えてない。
  自分に兄がいるとは思ってなくて、友達の兄を見た時にそういう話になった。そうしたらそんな話は聞いたことなかったのに、突然兄がいると母が言い出したのだ。俺は興奮して兄に会いたいと言った。母はしょうがないわねと笑った。

「えっと……つまり、俺が言い出したから思い出したって言うのか?」
「そうだ」
  兄はきっぱりとそう言った。

  えええええ???
  頭が混乱して記憶も混乱してきた。

「いきなり母さんがあの子どこへ行ったんだっけ?って言い出して。お前が学校へ行ってる間中、侑くんの行方をふらふらと捜し回るようになって、それで困って、氷室の方に相談したんだ」
  父が当時を思い出して、本当に心臓が止まりそうだったと言う。

「思い出したと言っても、居なくなった時の私の姿だったろう。その時母がちゃんとした記憶を思い出していたなら、私はもう二十歳だ。心配して探すような年ではないとすぐに分かったはずだからな。だから、育った私を、無事でありながらも、私が氷室侑という戸籍になって育っていることをはっきりと分かって貰う為に、お前の我が儘に答える形で会ったんだ」

  ちょっと待ってくれ。それって、母の記憶を正常にする為に、この人はあえて、ああいう風に他人行儀を貫き通したって言うのか?
  自分の母親に10年ぶりに会えるのに、それを喜んではいけない状況でありながら?

「えーっと、つまり、母さんがあの時他人行儀になったのは、現実を受け止めたからってこと?」

「そうだ。まあお前が居て、そこに私が違う姿で居れば、当然、すぐに状況は把握出来るだろうと思っていた。実際家を訪ねて玄関で顔を合わせた瞬間に母は、私が氷室侑であること、そしてあの時の小さな子ではないことは分かって貰えたようだったがね」

  ええええっっとおおお!
  あの時兄に会えたと喜んでいた背景にそんな壮大な記憶操作が行われていたって言うのかあああ?
  そりゃ俺を紹介されたって、そんな場合ではないだろう。

  俺どころの話じゃない。もう母さんに徹底的に思い出して貰って、そういう行動に出ないようになってもらわないといけない状況だったんじゃないか。

「じゃ、じゃあ、なんで母さんは最後にあんなことを言ったんだ?」
  俺は混乱した。だって分かっていて、全部分かっていたらこそ、あの台詞は言ってはいけないものではないのか?

「最後だから言ったんだろう。本当にそう思っていたし、そうしたかった。今更仕方ないと分かっていても言わずにはいられなかったんだろう。なにせ10年忘れていたんだ。それくらいは許してやれ」
  兄はそう言って少しだけ口元を緩ませた。
  たぶん、笑っていたのだと思う。
  そう思っていてくれたことが嬉しかったのだと思う。
  他人行儀を貫き通すしかない立場だったから、絶対に母を母親として求めてはいけなかったから、最後の最後にそう思ってくれていたことが嬉しかったんだろう。

  実際、母は18年生きながらえた。この俺も生まれてここまで育った。それは全部、この人が兄が決断してくれたことから始まっているのだ。

「だったら、なんで今まで黙ってたんだ?」
  俺は今度はそれを恨みたくなった。分かっていたら、あんな言葉吐いたりしなかった。あんな後悔するような言葉を言ったりしなかった。それも母の葬式にだ。

「お前に話そうとすると、お前、孝さんに食ってかかって話にならなかったからな。ここは孝さんの家で、お前はその息子だ。その二人がいがみ合っていたら母が困るだろう。私は赤の他人も同然の間柄だった。だからそうまでして話す必要はないと判断したまでだ」

  うはぁああああ。

  俺は現実でも頭を抱えてしまった。確かに俺は父にその話をされた時、兄のことをボロクソに言っていた。父が真実を話してくれようとしていたのに、俺は聞く耳を持たなかったんだから話になるわけない。
  全部俺が悪いですかそうですか。泣けてくるね。

「お前は子供だった。たった10歳の子供だったんだ。私は二十歳で分別つく年だった。それだけだ」
  兄は恨み言を言われたことはなんとも思っていないというか、子供が恨みを持つことは普通であると言ってくれる。

  でも俺も兄が分別つくと言った年に近くなっている。
  昔みたいに喚いて恨み言を言うだけではなくなっている。葬式の時は色々混乱していたのは、みんな分かっていたから見逃してくれたんだ。

  でも今はちゃんと話が出来る状態だったし、いや、まさか、母が兄のことを10年忘れていたなんて思いもしなかっただろう?

  そりゃ母は恐縮して申し訳ない気持ちになっただろう。自分の中にあの子に関しての記憶が10年分吹っ飛んでるんだから。兄はそれを責めたりはしなかったようだし、むしろ母が助かる為に自分に関する記憶が消えたことは、その時はそれでもよかったと思っているらしい。

  兄は会いに来なかったわけではない。母が兄に会わせる顔がなかったから、その気持ちを察して兄からの接触はしなかったんだ。
  だがまだ納得出来ないことがある。

「あの、そこまでは分かったけど……あの、その通帳のは酷いと思うんだけど……」
  俺がそう言ったとたん、父がはあっとため息を吐いた。

「お前、母がどういう性格か、ちゃんと理解しているか?」
  兄にそう問い返されてしまった。

「だから、実の息子からお金貰って、それを母さんが使えるわけじゃないじゃん。息子から恵んで貰ったって嬉しくないだろう」
  俺はそう思っていたが、どうも違うらしい。

「お前はまだまだ甘いな。あの母が息子を持って行った氷室から黙って金を受け取るとでも思っているのか? 突っ返すに決まっている」

「いや、まあそうだけど……って……え?」

「だからあえて私からの送金にした。もちろんあれは私がちゃんと稼いだものだ。それが分かっていて母が突っ返すはずはない。まあ、それを母に使ってくれとは言っていない。それに母が何を思ったのかは想像するのは簡単だ。また何かあった時、それは十分に役に立つ。息子から貰った金とはいえ、この世の中、何も簡単にはいかないのは母が一番よく知っていて体験だってしている。今度はその時にこそ、それを使うだろうな」

  兄はそう言う。悪魔だ。悪魔。母が息子が働いて送金してくれるお金をいらないと言って突っ返すような性格ではないことを、兄が一番よく知っていた。それにこの家に何かあった時に、それはあった方がいいものだった。世の中何があるか分かったものではない。それは母が一番よく知っていただろう。
  考え抜いた母が出した結論は、俺に残しておくことだったというのだ。

  兄がくれたお金ではあっても、今度こそ、自分の息子を守る為に、手放した息子が好意でくれるものを使おうと取っておいてくれたのだろう。兄が手放したはずの息子がそうして家族を影から守ってくれていることを母が一番理解していたのかもしれない。

  一緒に暮らしたかったし手放したくなかったのは本音ではあっても、母は兄に迷惑をかけるようなことは二度としたくなかったし、兄は兄で今度もまた母を助けようとしただけに過ぎない。
  離れていたって、この親子はちゃんと繋がっている。

  それが金銭の送金という俗物なものであっても、それが入金されている間は、母は兄の無事を知ることが出来て、兄の方はこっちの家族を心配してくれていて、もうこれだけのことが出来るのだから心配しなくてもいいという、不器用なお互いの安全確認のような儀式だったのかもしれない。

  そういえば、月一の通帳記入は、母がしていた。嬉しそうにしていたから父の給料目当てだと思っていたけど、それは違っていた。

  月一、兄から兄の名で振り込まれるのを記入してそれが沢山になっていくだけ、母は安堵していたのだ。兄の名前が増えれば増えるだけ、安心するものだった。母はきっとその横にある丸が増えていく金額の確認なんてまったくしていなかったに違いない。

「お前、孝さんが通帳だして説明をしようとした瞬間に話も聞かずに勝手に行動したようだな」
  兄はもう俺の話を聞かない性格というか、こう思いこんだら突っ走る性格をよく分かったらしい。

  うああああ!!
  もう俺、なんで人の話というか、父の話真面目に聞いてないんだよ!
  頭を抱えて蹲った俺に兄はふっと息を吐いて任務を終えたような雰囲気になった。

「本当は、こんなことを話しても今更と思っていた。だが、お前が真実を知りたがっているんじゃないかと言う人がいてな、そこで孝さんとちゃんとした事情をお前には話しておこうということになった。お前、突っ走ってそのままグレそうだったからな」

  ぐはぁぁぁ!!
  確かに怒りにまかせて行動するから、そのままグレたこともないけど、グレそうだったのは事実だ。
  道を踏み外しそうな雰囲気の俺を気にかけて、父は兄の話に乗ったらしい。

  それに俺が兄のことを、葬式でいくら混乱していたからといって、暴言を吐いたことを父は父なりに悪いと思っていたようだ。
  自分たちの幸せのために、兄は氷室侑になったというのに、その弟である俺にここまで誤解されたままでは、さすがにマズイと思ったんだろう。

  その父の顔を見ると、やっと顔に笑顔が浮かんでいる。
  母の葬式以来、ずっと暗かった父の顔に笑顔が戻っている。

  この父も、氷室を恐れて家族を守る為とはいえ侑に会いにこないで欲しいと言ったが、いざとなったら侑を頼って迷惑をかけていたことは恥じていたようだ。
  だが、その兄は母や俺、父の孝の幸せのためには、忙しい時間を空け、無理をしてでも駆けつけてきてくれる頼もしい存在なのはもう疑いようはないらしい。

「話は以上だ。他に聞きたいことはあるか?」
  兄はそう言って時計を見ている。

「時間あるのか?」
  俺がそう聞くと、兄は。

「実は時間がない。最終の新幹線を取ってはいるが、そろそろ出発しないと間に合わないな」
  実に正直で困る。この人はこの正直さ故にこんな人生を送っている。けれど、母をあの時救えたことに満足して、その後もその幸せを守る為に氷室侑として生きることをしてきた人だ。
  ある意味、壮大な人生かもしれない。

「んじゃ、聞きたいことあったら、俺からあんたを訪ねるよ」
  そう言った俺の言葉に驚いたらしい兄は少しだけ眉が上に上がっている。

「あんた、今、副社長で忙しいんだろ? どうせこっちには墓参りくらいしかこないだろうし、俺から会いにいくしかないだろう」
  俺がそう言い返すと兄は納得したように頷いた。

「確かに、そうしてくれるとありがたい。では、今日はこの辺で。孝さん、騒がしくて失礼しました。それからありがとうございます」
  そう言って頭を下げる兄に父も頭を下げている。

「こちらこそ、ご無理を言いまして。これからは、こいつにも会ってやってください」
  父はあれほど氷室を恐れていたけれど、兄の確固たるものが何なのかをはっきりと理解すると、柔軟になれたようだ。
  今更息子を取られることはないし、俺だって取られるわけにはいかない。
  俺は生涯、枡形尋だから。兄がそうしてずっと影から守ってくれたものだから。
 だが、兄が帰った後、俺はちょっと怒っていた。

「尋、もう諦めなさい」
  父が呆れたようにそういうけれど。

「くそ兄貴、なんでこんな大事なもんを忘れていくんだ!!」
  そう俺の目の前にあの送りつけた封筒が、そのまま残っていたんだ。

  もちろん中身は通帳なわけで。
  絶対わざと置いていったに違いない。
  だってそこにある通帳は一冊になっていて、母名義だったものが俺名義になってるからだ。

  もちろん、母の相続税をさっさか払って整理した額を全額そのまま残していきやがったんだ。

  手が込んでる。やり手過ぎる。こいつマジでなんとかならね?