novel

everyhome 帰り路をなくして

 寺崎大雅(てらざき たいが)が三度目の引っ越しをしたのは、高校二年の時だった。
 一度目は小学5年生の時、二度目は中学三年の時。

 一度目の時は、両親の離婚直後。両親の仲は元から冷え切っていて、双方が好き勝手に生きており、大雅の面倒を見ていたのは、当時その家に勤めてくれていた家政婦だった。だから両親が離婚することは大した驚きでもなかったし、当然だろうと思えた。他の友達の家族は両親が仲が良かったし、家族旅行というものさえするものだと分かった時から自分のうちは余所とは違うのだと実感でき、納得できた。

 その両親が離婚することで、大雅は父親に引き取られたが、その直後に家に居た大雅は誘拐された。
 父親が地方議員だったこともあり、相当な権力を持っていたから、その権力への反発と身代金目的の誘拐だった。
 大雅は家から男に連れ去られ、廃墟にある捨てられたロッカーの中に縛られたまま入れられて三日間放置された。

 その後男は捕まり、大雅は救出されたが、夏の暑い中でロッカーに居られたことにより、脱水症状などから意識不明の重体だった。もう少しで死ぬところだったのだが、何とか障害もなく回復出来た。

 だが、父親は一度も見舞いに来ることはなかった。
 テレビニュースでは大雅の入院先へ父親が入ってくる映像が繰り返されていたが、大雅は父親を一度も見なかった。

 その事件のせいで、今まで大雅を見てくれていた家政婦が監督不届きとして解雇されていたことの方が大雅の心の中にショックとして残っていた。

 彼女は大雅の母親と言ってもいいような人だったのに、一度も会うことなく、大雅は父親の家から祖父の家に預けられることになった。
 これが一度目の転校の理由だ。

 祖父の家でもまた同じことの繰り返しだった。
 祖父は大雅に興味が無く、大雅を居ないものとして扱った。またしてもそこに通っていた家政婦が大雅の世話をしてくれた。

 どうしてここまで自分は父親や祖父に無いものとして扱われるのか、大雅には長年謎だった。
 これだけ家庭や環境が滅茶苦茶であったのに対して、大雅は学校や友人の前では明るく活発で成績も優秀な子供だった。

 それは早くから大人というものに見切りを付けていて、生きていくなら自分から環境を作らないといけないと思っていたからだ。

 しかし、その環境すらも大雅を裏切った。
 大雅に高校の進学先の推薦を取られたと思いこんだ友人数名に、大雅は襲われ、縛られてロッカーに押し込められ、そのロッカーを倒されて出口をふさがれ出られなくなるといういじめを受けた。
 ほどなくして大雅は発見されたが、大雅はふざけていてやったことだと言い張り、いじめなど認めなかった。

 だが、その仕打ちに何故か祖父が学校に怒鳴り込んできたのだ。
 普段、大雅のことなど居ないものとして扱っている祖父がだ。
 最初は関心がないのはフリだったのかと期待した大雅だったが、その祖父の言いようにまた裏切られた。

 祖父が学校側に大雅にそうしたことをした人間を探すように脅し、その数人を見つけ出してしたことは、謝罪の要求ではなく、金の無心だったのだ。

 生徒の親を脅し、学校の推薦が欲しいならそれなりの見舞金を出すべきだ。そうしたらこちらもなかったことにしよう。そう言ったのだ。

 その祖父の要求に推薦を取り付けていて、その遊びに関わっていた一部の生徒の親が金を払った。更に大雅の推薦枠を譲ってやるからといい、主犯の生徒にも大金を払わせて、大雅の推薦枠を勝手に譲った。

 ここまで祖父がやれば、当然大雅に不満がやってくる。
 それまでの評判や大雅が築き上げたものは、そのことで完全に壊れてしまった。関わっていなかった友人たちも、大雅に関わると祖父が金をゆすりに来ると噂をされ、大雅は居所がなくなってしまったのだ。

 そうした祖父の行動は、大雅に興味がない父親の耳にも入ってしまった。大雅をこれ以上預けていると、大雅を餌に祖父が金を強請るヤクザになり、父親の評判が地に落ちる。それを防ぐ為に大雅はすぐに転校を余儀なくされた。
 それが二度目の転校だった。

 中学三年の時期の転校は普通はないものだが、大雅が送り込まれたのは寮生でエスカレート式の学校だった。金さえ積めば馬鹿でも入ることが出来る学校だ。
 父親は大雅をそこへ放り込むと、金だけを送りつけて後は無関心を続けた。
 そうしてこのまま大雅はここで高校卒業までいるのだなと思ったのだが、その後父親が再婚した。

 そうすると父親は大雅に帰ってこいと言うのだ。
 どうして今更。そう思ったが、再婚した相手の女性が大雅が一人でいるのは寂しいだろうといい、呼び寄せただけだった。

 だが、それは相手女性のただの保身だった。前妻の子を蔑ろにするには外聞が悪い。嫌だが家族は円満だと見せたい。そうした見栄からくるものだった。

 だから、家庭内に大雅の居る場所は当然なく、敷地内に用意された小さな平屋、昔使用人が使っていた古い平屋が大雅の部屋だった。そこは高い塀に囲まれている敷地内だから外からは見えないし、後妻も大雅の姿を見る必要はない、裏口に近いところだった。

 だが、大雅はその環境にむしろ安堵した。
 大人と暮らすなど冗談ではなかったし、一度誘拐された家に入るのも嫌だった。それよりこの環境は一人暮らしの練習が早々に出来ると思えば寮生活より快適すぎた。

 そうして大雅はその近くの高校に入った。
 そこには大雅が昔誘拐されたことを知っている者達も多くいたが、大雅の昔を覚えている人間は、大雅には親切だった。

 大雅が入ったクラスは進学クラスだった。
 どうやら父親の権限で見栄を張ったらしい。
 だが、大雅の成績なら問題なくこのクラスに順応できた。

 そのクラスに入って数日、大雅は一人の生徒がこのクラスに馴染んでいないことに気付いた。

「なあ、あれ誰だっけ?」
 クラスの全員の紹介は受けたはずだが、彼が居た記憶がない。
 その人物は窓側の後ろの席に座って本を読んでいる。
 前髪が鼻先まであって、その中に眼鏡をかけていて、体の線が細く、いわゆるガリ勉というイメージの人物だ。顔は見えてなかったので、大雅は彼の名前も顔も知らないことになる。

「ああ、あれか。この一週間休んでたしな」
 大雅が興味を示した相手に対して、クラスの人間はあれと称した。

「あれは、高須賀さんちの妾の子」
「高須賀って言えば、高須賀グループ?」

「そうそう、そこの妾の子。名前は藍沢那央。そんだけ」
 クラスメイトはそう言っただけで藍沢那央について詳しく話そうとはしなかった。

「けど、高須賀には妾の子なんていなかったと思うが?」
 大雅が突っ込んで聞くと、周りは顔を見合わせてからこそっと大雅の耳元で言った。

「あの藍沢が小学生の時に母親が妾になったらしい。元々は北の方にある旧家のぼんぼんだけどさ。そのせいで父親は愛想尽かせて逃げたらしい。それに高須賀んとこの実ってやつがさ、藍沢と喋る人間をとにかくいじめ倒してて、それで有名だったんだ。実が東京の高校へ出て行っても休みにはわざわざ中学まできてさ。みんな怖くて近づけないんだよ。相手はもう大学卒業間近だけど、まだ高校にも来てたことあったらしいって噂が出てて。東京の大学とかマジヤバイじゃん」
 どうやら関わってはいけない人間だと判断されているようだ。
 だが、それは藍沢那央のせいではないのではと大雅は思った。
 すべて実とやらのせいではないか。

「ふーん、そんな偏見があるのか」
 大雅はその時はその程度の認識しかなかった。
 せっかくあそこまでして自分を押し殺しているのだ。彼は周りに迷惑をかけまいとしてああしている。向こうが関わるまいとしているものに近づいて台無しにするのは可哀想だ。
 そう思えたから、関わるまいと思っていた。
 
 そんな大雅と那央がちゃんと会話したのは、図書室でのことだった。
 大雅も家に居ると暇なので沢山本を読むことにしていて、毎日のように本を借りにきていて、そこで何度か那央のことは見ていたが、向こうもこちらには無関心なので関わらないようにしていた。

 しかし、その日は違った。
 那央は本を開いてはいたが、窓の外をずっと見ていた。
 窓側に椅子を寄せて、それに座り、膝に本を置いて、放課後を過ごすのが那央のいつもの姿だ。
 窓の外では運動部が練習をしていて、そのかけ声が聞こえてきている。夏前なので窓は開け放してあり、風が吹き抜けているから、窓側はちょうどいいところでもあったようだ。

 その那央が今日は本を読んでいない。
 視線の先に何があるのかを見ていると、どうやら部活で休憩している人たちを見ているようだった。
 顔ははっきりと見えないし、髪が鼻まで伸ばしてあるので、本当にそれを見ているのかは分からなかったが、その時突風が吹いて、那央の前髪を吹き上げてきたから、那央の顔がやっとはっきり見えた。

 綺麗な顔だった。
 だが、その綺麗な顔には、なんの表情も浮かんでいなかった。
 視線は確かに部活をしている人たちを見ているが、その目や表情にはなんの感情も浮かんでいない。
 まるで、全てに反応することを忘れたかのような、そんな表情だ。

 さっきまでは目くらい笑っているか、羨ましがっているか、そういう感情くらいは見えると思っていた。
 けれど、彼は何も思っていない。
 その表情は、大雅の心を見事に表しているようなものだった。
 何も感じなければ、何も期待しなければ、そうすれば自分は他人に迷惑をかけることもない。

 だが、大雅とは圧倒的に違っていることがある。
 彼は未来にすら期待していない。
 大雅のように、大人になって、大人の干渉を受けなくなれば、そこから自力で逃げることが出来るとも思っていない。

 大雅はそんな那央を見ているとすごく腹が立った。
 大人に振り回されて負けるなんて、そんなことは認めない。
 大雅は那央に近づくと、那央の前に立って言い放っていた。

「俺は絶対に親なんかに負けない。大人なんかに負けない。不幸がって生きてたって未来なんか見えるか。どん底だって這い上がってこい。それがお前の人生だろう」
 大雅がそう言い放つと那央は少し驚いた顔で大雅を見ていた。

「昔がなんだ。親がなんだ。それがお前の人生に何か有益にでもなったか。親なんか利用できるだけ利用して、こっちがさっさと大人になって強くなればいいんだ。そうすりゃ干渉なんて痛くもかゆくもない」
 大雅ははっきりとそう言った。周りには誰もいなかったから大きな声を出した大雅を注意する人もいなかった。

 少しだけ、静かになった。
 外から野球部のかけ声が聞こえる。

 大雅の言葉に那央は少し首を傾げてから、やっと言葉を言った。

「椅子、持ってきて座れば?」
 そう那央が言ってきたので、大雅は意気込んでいた自分にハッとなって気付いた。
 今言っていたことは、全部大雅が自分がそう思っていることばかりだ。 那央は大雅が立ちすくんでいるので、暫く見ていたが、自分が座っていた椅子を大雅に進めてきた。

「座って。落ち着いて。どうして俺にそういうことを言おうと思ったの?」
 ゆったりとした口調でそう言われて、大雅は那央に進められた椅子に座り込んでしまった。

 他人に八つ当たりなど恥ずかしいことだ。
 那央がどんな人生を歩んできたのかなんて、それこそ噂されるようなことではないかもしれない。

 那央と大雅は違うのだ。思うことや考えることも違う。
 何も表情に浮かんでないように見えたからと言って、その人は何も思ってないわけないのだ。そう、無表情は彼の防御の一つかもしれないのだ。そうしないと生きられない世界だったかもしれない。

 その大雅の前に那央は新しい椅子を持ってきて座って、またゆったりとした口調で話し出した。

「俺のことを聞いたんだね。高須賀の妾の子。でも、噂は噂。本当のことなんて誰も知らないからね。でも君には話してみたい気分になった」
 那央がそう言うので大雅はやっと顔を上げた。
 那央は大雅が何に苛立っているのか分かっていたらしい。不幸に酔うことを大雅が許せないと思っているのも全部分かっていた。だから話してみたくなった。

 どうしたらこの感情から逃げられるのかを知りたかった。

「高須賀さんは、ただ母さんが好きなだけなんだ」
 那央がゆっくりと語り出したことに大雅は聞き入っていた。

 那央の母親の実家藍沢家は、北にある旧家で昔は大きな財力を持っていたのだという。だが、母親が祖父母の意向で結婚した相手が悪かった。父親は湯水のごとく金を使い、会社を作っては潰しということを繰り返していた。

「家は、市内にあったんだけど、そこに怖いおじさんたちが来るようになって、俺と母さんはいつも家の中で物音どころか、息を吸う音さえさせてはいけない状況になってた」

 那央たちがそうやって身の危険を感じながら暮らしていたのに、父親がしたことは家族を護るどころか、祖父母に金の無心。それもまた新たに会社を建てて儲けたら返すという無茶な計画だったという。

 だが、その頃には旧家と言われている家でも、お金はほとんど残ってなかった。父親に何度かお金を貸していたから、もう貯金も底をついていた。家の為と見栄を張った結果だ。
 だからもうお金を貸すことも出来なかったのだが、父親は祖父母の家すらも抵当に入れようとしていたのだという。父親の実家はすでに彼を一族のモノとはみなしておらず、縁すらとっくに切った後だったという。もちろん、潰れる旧家に援助などするわけもない。
 藍沢家は母親の結婚相手に見事に食い尽くされたのだ。

「結婚は祖父母が決めたことだったし、母さんはその祖父母の育てた方のせいで、働くなんて考えたことすらない人だ。自分の両親に逆らうことなんて夢にも思って無くて、絶対にしちゃいけないことだと信じてた。ある意味可哀想な人。人生の全てを祖父母の思い通りに生きてきただけだから」
 その藍沢家に高須賀から連絡が入ったのは、その酷さが4年続いた時だった。

「高須賀さんは、昔母さんが好きだったけど、祖父母に嫌われていたから、結婚の申し込みをした時に邪険にされたらしい。その後、高須賀さんは、お金持ちのお嬢様と結婚して、高須賀不動産を高須賀グループにまで大きくした。祖父母は読み違えたんだってその時に気付いたんだ」
 高須賀は、妻を亡くしたばかりだった。
 そこへ昔好きだった人が酷い目にあっていると聞いて、何か力になることが出来ないかと尋ねただけだった。

「だけど、祖父母は、高須賀さんにこう言ったらしい。「うちの娘が欲しいなら、この家に相当の支度金を用意すべきだ。旧家の娘を貰うならそうすべきだ」って。どうかしてるよね」
 その言葉に高須賀は驚いたそうだ。
 だが、そうして差し出された娘は、その祖父母の意思に従った。

「母さんには、右から左に流される人生でも、祖父母の言うことは絶対だって信じてた。だからその通りにした。高須賀さんはショックだった。だってただ力になれればと思って尋ねた先で、娘を金に換えようとする親がいるんだもの」
 那央は淡々とその事実を口にしている。

「…………父親は……?」
 大雅はそうやっと口にしていた。

「高須賀さんのところに、妻を妾にくれてやるから、その代金を払えってきたそうだよ。みんなお金ばかりだった」
 那央はその全部を見ていたのだ。金の無心ばかりする祖父母と父親。そしてそれに逆らうことをしない母親。

 大雅は自分の祖父のことを思い出した。あれもまた似たようなものだった。大雅を使って金の無心ばかり。そして父親は自分の地位のクリーンさだけを保つ為だけに必死だった。那央の祖父母みたいに旧家という名にしがみつく妖怪。
 母親に至っては、子供を守ろうという気概すらなかった。

「お前、その母親とどうやって暮らしてたんだ?」
 そう大雅が問うと、那央は少しだけ笑って言った。

「俺が小学校にあがるまではお手伝いさんがいて、その人が俺を育ててくれた。けど、給料が払えなくなったから、ある日突然居なくなった。その後は俺がコンビニでお弁当買ってきたり、宅配のものを頼んだり。母さんは何も出来なかったし、父さんは何もしなかった。そもそも家に帰ってきてなかったから、俺がどうにかするしかなくて、近所の人の見よう見まねでゴミ出したり、買い物したりしてたかな」
 つまりその時も母親は何もしなかったというのだ。箱入り娘だけあって、自分で何かするという行動は一切しない人だったらしい。
 その期間、那央が5歳から9歳までの4年間。

「そのうち食べ物買うお金も口座に入らなくなって、水道ガス電気も止められて、あまりにお腹が空いたから、お巡りさんに助け求めちゃった。お金がなくてご飯が買えません、どうしたらいいですか?って。そしたら祖父母に連絡がいって、みっともないって怒られたな」

 那央は家政婦に育てて貰うという大雅と同じ育ち方をしているわけだ。
 まだ大雅の方が、家政婦がずっと居てくれたから両親がどんな人間でもどうでもよかったし、諦めもはやくについた。
 しかし、那央はその家政婦にすらすがることは出来ず、見よう見まねで母親を一生懸命支えて生きてきたという。親に絶対に守ってもらわなければいけない時期に何もしてもらっていないのだ。

「俺もお金のことばかり気にしてたから、人のこと悪く言えないけどね。現実問題、それがなければ俺も母さんも生きていけなかった。実家に戻ってもお金無くて、母さん以外はみんな、どこからお金を頂戴すればいいのかってことばかり考えてた。だから、高須賀さんの登場はみんなの希望に見えたんだろうね」
 那央は苦笑してそう言った。

 その後高須賀は、母親を受け取るのに祖父母に金をかなり渡している。それで娘とは金輪際縁を切るように言っている。
 父親の方には、離婚に応じるなら、1千万を現金で払うと言った。
 それにみんなが群がった。

「高須賀さんは、母さんを守りたかった。でもやり方が分からなかった。祖父母と無関係にさせることや父さんと無関係にさせる方法。全員と手を切らせること。それも母さんには出来ないから、祖父母や父さんからそれを誓約書として書かせることしか出来なかった。でも高須賀さんは母さんとは婚姻しなかった。息子の実さんが嫌がったし、妻を亡くしたばかりで、いろいろ体裁があったんだと思う。それをみんなが言う、妾というなら、俺はそれでもいい。高須賀さんの努力を無駄になんかしたくないから」

「お前も、母親を守りたかったのか……だから」
 大雅がそう言うと那央の唇が笑っていた。

「そうだよ。母さんさえ守れればそれで良かった。でも高須賀さんは必要のない俺まで引き取ってくれた。あそこに居たら可哀想だって思ったんだって」

 那央が高須賀の妾の子であることを否定しないのは、それを全て知っているからだ。あの状況にあって、何も出来ない母親を守る方法は、高須賀に縋ること。
 那央もまた高須賀に希望を抱いた人間だった。だから、那央は甘んじて、周りの批判を受けるのだ。自分も藍沢家の人間と変わらないと思っているから。

「高須賀さんは母さんが好きなだけ。家に呼んでから、指一本母さんに触れてない。母さんはゆったりとした時間を過ごしてる。だって何も出来ないから」
 那央がそう言った時、大雅はやっと那央の絶望に気付いた。

 那央は、そんな母親を守りたいと言いながらも、そんな母親を憎んでいる。だが、可哀想な人なのだと言い聞かせて、憎しみを隠そうとしている。
 金の無心をした祖父母や父親などの話は淡々と話すのに、母親のことだけは異常に繰り返し、何も出来ない、ということを言っている。
 それは自分が守って貰うはずの時期に、守ってすら貰えなかったことを恨んでいるからだ。

「……母親を憎んでるのか」
 大雅がそう言うと那央は素直に頷いた後に続けた。

「でもね。そんな母さんが、こうやって髪を伸ばして、眼鏡をかけて、とにかく目立たないようにしなさいって言った。そうすれば、高須賀のうちにいても身を守れるからって」
 那央の母親が初めて息子を守ろうとしたのは、実からだった。だがそれも本当はどう思っているのかは分からない。世間体が悪いからという祖父母の言いつけを守っているだけなのかもしれなかったからだ。那央はあくまでおまけなのだと。

「だから、複雑なんだ」
 那央は助けてくれたはずの高須賀に愛想笑いもしない母親のことを憎んでいる。

 恨んでいると言えるのに、そうする母親のことを完全に憎みきれない。憎しみとやりきれなさに那央は表情を殺した。
 母親に憎んでいることを悟られないため、高須賀に母親を憎んでいることを悟られないため。そして実から身を守る為。

 そうしているうちに那央は喜怒哀楽を表情に出すことが出来なくなった。そして髪を伸ばしているせいで、その変化に誰も気付いてやれなかった。
 高須賀が那央の衣食住は確保してやれても、那央の心を救ってくれるものはどこにもいなかった。

 大雅と同じだ。
 誰も大雅の心は救ってくれなかった。
 そして今でも誰も救ってはくれないことを痛感している。誰も救ってくれないなら自分が変わるしかないと分かっているのに動き出せない。

「君は、どんな過去を?」
 那央は全て話してしまうと、大雅のことを聞きたがった。
 大雅はここまで聞いてはいさようならとはいかなくなった。

 大雅は自分の不幸な話を他人にするのは嫌だったし、同情されるのも嫌だった。だが、分かってくれる人は欲しかった。その人は今目の前にいる。自分と同じ親に関心すら持たれなかった人が。
 大雅は自分に起った出来事を初めて赤の他人に話していた。

 那央は静かにその話を聞いていて、驚いたり同情の言葉を吐いたりはしなかった。ただ静かにそれを聞いてくれた。
 そうして全て語り終えた時、那央が言った。

「君は将来、何になるの?」
 那央はその話に感想すら漏らさずに、大雅に尋ねた。
 大雅も感想など求めたわけではなかったので、全部言ってしまったらすっきりしてしまった。
 だからそれに素直に答えた。

「俺は、弁護士になろうと思う」
 そう大雅言うと那央は少し笑って言った。微妙な表情の変化だったが、昔話をしている時より表情はかなり動いている。

「いいね。俺も弁護士になろうかな」
「ええ? お前、そんな適当に……」
 大雅が驚くと、那央は苦笑して言った。

「さっき話した昔のこと。法律知ってたら、あの時どうにかなってたかもって思ったんだ」
 那央がそう言うので、大雅は苦笑した。

「俺は、こういうことがあって、自分を守るものは法律だって思えたから、それを選んだ。けど、親父が助けを求めてきても、そんな案件扱っておりませんって言ってやろうと思ってるから動機は不純だな」
 だがそれを那央は悪いとは思っていないようで、続けて言った。

「弁護士って言っても、人によって得意な分野ってのがあるみたいだし、君がなるのはどの分野?」

「さあ、どの分野になるかは勉強してみないと分からないな。ただ政治家なんか弁護するものは死んでも扱わないモノにはなろうと思ってる」
 大雅がそう言い切ると、那央はそうかと頷いた。

「あ、俺、寺崎大雅って言うんだ」
 自己紹介すらしてなかったことを思い出して大雅が言うと、那央は手を出して言った。

「俺は、藍沢那央。同じクラスだったよね?」
「ああ、そうだ。これからもよろしくな、那央。俺のことは大雅でいいからそう呼べよ」
 大雅はそう言うと那央と握手をしていた。

 同じように大人に人生を翻弄されて生きてきた二人が、初めて名乗って出会って、そしてお互いの過去を知った日。
 他のクラスメイトには理解できないことを二人だけは共有出来た。

 そこから、大雅と那央の付き合いは深くなっていった。
 周りが不審がって近づかなくなるような、そんな雰囲気を醸し出すような二人だった。二人は大抵無言でいることが多かったが、ただ傍にいて過ごすだけでも何故か安堵出来たのだ。
 そうして二人は、そのまま大学の学部まで進路を同じにし、自分たちを束縛してきた親というものから、早くに自立する計画を立てていた。

 強くあろうすることは、誰かを守れることにもなる。
 何かあれば、二人で助け合って生きていくのもありだ。
 友情はずっと変わらない。
 これは生涯続くことになるのは、二人にも分かっていたことだった。

 もう振り回すだけの親への帰り路など必要ない。自分たちは前に進むだけなのだ。ずっと未来を夢見て、前進するのみだった。