novel短編

Hello.Hello-2

「五十嵐(いがらし)さん、ご飯食べます?」
 そう言って部屋のドアが開けられた時、伸哉(しんや)はパソコンの画面を睨み付けて考え込んでいた。

「お、もう夕方か」
 朝からアリスを放置して、ずっと仕事部屋に籠もっていたのだが、さすがにアリスも心配になってきたらしく、顔を覗かせた。

「仕事が大変なのは解るんですけど、食べないで倒れた方が困ると思うんです」
 アリスは仕事を中断させたことをそう言って謝ってくる。
 そうアリスが言うのには訳がある。

 アリスが来て最初の日に、五十嵐の電話が鳴り続けているのに五十嵐が気づいてくれず、アリスが代理で出たのだが、その時、取引先出版社の編集に、アリスは五十嵐の身の回りを世話する新しい人だと勘違いされた。

 そして、五十嵐に無理矢理でいいのでご飯を食べさせるように言われてしまったのだ。

 前に五十嵐は締め切りに間に合わせようとしてご飯も食べずに三日部屋に籠もっていたことがある。

 その後、書き上げた瞬間に空腹で倒れ、大騒ぎになった。そしてせめて身の回りの何かをしてくれる誰かを雇うように散々言われていたところだったので、アリスが間違われたのだ。

 これは都合がいいとアリスが上手く話しを合わせて、アリスがいることへの不信感をとってしまったのだ。

 五十嵐が電話に出た時には、そういうことになってしまっていて、今更違うと言うと、じゃあなんだ?と突っ込まれるので仕方なくそうしていた。

 アリスは自分に仕事が与えられたとばかりに本当に身の回りのことをやってしまう。
 なにやら、色々出来るようで、掃除も洗濯も料理も五十嵐よりも出来ることが解った。

 アリスを引き取ってから三日経っているが、アリスは自分で五十嵐の家の周辺を歩き回って、スーパーなどを発見しては買い物もしてくるようになった。

 そこまでしなくていいというと、することがないのだと言ってきて五十嵐の口を封じるのだ。

 記憶がないことへの不安はないようで、自分が色々出来ることを確認しているという感じだろうか。

 アリスがここまで出来るのは一人暮らしをしているからかもしれないと五十嵐も思っていた。
 記憶が戻らなかったら。という不安はあるのだが、それは話し合った結果。

「俺にも時間をください。とりあえず、五十嵐さんが動けるようになる、二週間。それを俺の考える時間にください」

 アリスは、今警察に行って身元が分ったところで、自分は何も思い出せない。もし親がいたとしても、それは誰?な反応しか出来ない。そしてそれは親も不安にさせることになるし、それはしたくないというのだ。
 行方不明のままの方が心配かけるのではないかと問うと、何故かアリスは。

「解らないんですけど、親はいないような気がするんです」
 と答えるのだ。

 親という者は解るのだが、自分が家族と暮らしたという感覚がどうしても掴めないのだという。
 それは病院の病室の誰かが見ていたドラマの再放送か何かを見ていて気づいたことだという。

 一家団欒が解らない。それは何?と。

 アリスの記憶は、自分のことばかり解らない状態なのだが、日常生活に困ることはない。自分が男だと解るし、病院も駅名も解る。

 ごくごく一般的なことは全て解るのだが、その一家団欒がどうしても理解できないのは不思議に思っていたらしい。
 もしかしたら、自分にはそれがなかったから、記憶がない以前の問題なのではないかと一人で考えていたらしい。

 そして、五十嵐の家でいろいろやっていると、ああやっぱりという納得できたらしい。
 そして、問題の手紙のことに及ぶと。

「これがとっても謎なんですよね」
 と、アリスは言った。
 五十嵐はそれを見せて貰って納得した。

「君が何を知りたがっているのか解らない。でも教えてあげることができるかもしれない。それでもいいなら、おいで」

 そうとしか書かれていない。
 リターンアドレスもない。
 こんな手紙を大事に持っていたアリス。

 身の回りの物を何一つ持っていないのに、これだけは持っていた。
 アリスの持っていたものは、この他に、所持金千円くらいだ。

 財布や携帯、その他の荷物を持たずに家を飛び出したことは容易に想像出来る。

 この手紙がとても重要なことは、アリスにも解っているが、これを手がかりに何かを探すことは期待できない。せめてリターンアドレスさえあれば、なんとか出来たかもしれないのに。

「ほんとに何なんでしょうね、これ」
 何度も手紙を見ては、アリスは首をひねる。自分はこれを見て家を飛び出したくらいだろうに、まったく心に引っかからないのだ。

「とにかく、警察には行きたくないんだ?」
 五十嵐が再度確認すると、アリスはしっかりと首を縦に振る。
 それは最初からずっと変わらない。

 よく解らないのだが、警察にはいい印象がない。それだけははっきりと解る。
 五十嵐に迷惑をかけているのも解っているが、警察にだけはいきたくないのだ。

 五十嵐の方も警察に届けるべきであるのは解っているのだが、嫌がるアリスを見ているとどうしてもそれを強行できない。
なにか警察に行きたくないことでもあるのかと思ったが、警察に追求されたくないことがあったとして、それが即犯罪に繋がることはないと思える。

 というのも、五十嵐の主観でしかないが、もし家に来て何かするタイプなら、もっと違じるからだ。

 こう言ってはなんだが、作家の職業柄というか、犯罪の手段は解っている。取材もしているし、情報は常に最先端を仕入れている自信がある。

 記憶喪失というネタを使って家に入り込んで住み着くというのはかなり神経を使う詐欺である。

 一応、警察関係者には知り合いがいるので、こっそり相談はしてみるつもりであるし。これはアリスには内緒であるが、家出捜索人くらいの情報ならいつでも手に入る。

 それに、アリスを疑わない理由の最大の理由が、アリスをこうしたのは五十嵐であるということだった。

 駅の階段でアリスを見つけた。その瞬間に目を奪われて、階段を踏み外し、通り過ぎたアリスを抱えるようにして階段から落ちたのだから。

 恥ずかしい話。自分が一目惚れしたようなものなのだ。

 目の前に理想がふっと現れたと思ったのもある。そしてそれが現実であるのかを確かめたかったのもある。

 なにより、そんなことを実行に移して試したのは、ただ単に寝不足だったからだ。

 まったくと、当時の自分を思い出して五十嵐は恥ずかしいと思うし、これは口が裂けても言えない。

 とにかく、アリスが一番いいようにという流れになってしまった。
 もしアリスが何らかの詐欺をしているのだとしても、五十嵐は別に痛くもない。

 家に居られたとしても邪魔ではないし、金銭などは仕事部屋にあるし、アリスが忍び込んで盗めないようにしてある。

 まあ、自分の気分の問題なのだが、理想の相手が盗みをしてましたや、何かの勘違いで金銭が無くなったという状況を作りたくないのが一番だったので、そういう風に隠した。

 元々それほど現金は持ち歩く主義ではないし、他人に大金だと言われる金額であっても手元にある分が無くなることには痛くもない。 アリスに買い物用に渡してある金は、無くなってもどうでもよく、寧ろアリスを預かっているからこそ、自由に使って良いと渡してあるものだ。

 だが、ここで意外なことがあった。
 アリスは一旦お金を預かっても、毎回きちんとレシートをお釣りをきっちり提出してくるということだ。

 そんな面倒なことはしなくていいと言っても、何かが嫌だというのだ。

 二日それでもめたのだが、三日目にはアリスの方が新しい手段に出た。

 なんと家計簿を付けだしたのだ。

 よく節約などでやっている、レシートを貼って、毎日の出費などを書くあれだ。まさかそんな手段でくるとは思わなかったので意外過ぎた。

「なんか、慣れてるな」
 夕食を食べながら家計簿を見せられた五十嵐は、その几帳面さにびっくりした。

 どこの節約主婦ですか?と問いたくなるような詳細な付け方に唖然としたくらいだ。

 昨日まではアリスも遠慮していた服を今日こそは絶対に買ってこいと言ったのだが、安い店の有名店で購入している。
 五十嵐がこの金額では、自分はワイシャツ一つ買えないなと思った金額で、アリスは洋服を二着購入してきている。

「よく解らないんですけど、自分でも慣れてるなって思いました。頭で考えるより、自然と動いたという感じで」
 アリスはそう感想を漏らす。
 感覚が残っているという感じなのだろう。

「それから、さっき面白いことが出来たんです」
 アリスは淡々とそう言う。

「なんだ? 何か思い出すきっかけにでもなったのか?」
 五十嵐は味噌汁を飲んでそう言うと、アリスはきちんと食べ終えて、さっと席を立つとリビングに移動した。
 それについて行くと、アリスはテーブルにおいてあるトランプを手に取った。

「なんだマジックでも出来たのか?」
 面白そうに五十嵐が尋ねると。

「似たようなものですね。たぶん」
 アリスはそう言うと、トランプを切って、そしてそれを扇状に広げてじっとそれを見ると、今度は神経衰弱をするようにテーブルにそれを並べだした。
 それが終わると、一枚引いた。そして次にカードを広げると数字が合っている。
 その作業を淡々と進めていく。

「お……待てよ……」
 五十嵐は最初は面白そうに見ていたのだが、段々信じられないものを見ているような顔になっていった。
 神経衰弱というのは、普通は一旦開いたカードの数字を覚えていて、その後に出てきた数字をここらかなと開くものだ。

 だが、アリスは全て何処にどの数字かあるのか覚えているらしく、流れ作業のようにただカードを開くだけなのだ。それが全部会っている。

 そして最後まで一回も止まることなく、カードをめくり、作業が終わる。

「ね。なんだかマジックみたいですよね」
 アリスはにっこりして五十嵐を見た。

「それをずっとやってたのか?」
 五十嵐がやっとその言葉を口にすると、アリスは暇だったのでと答えた。

 このカードは五十嵐が小説のネタの為に買ってきた普通に
売っているカードである。

 もちろん、マジック用なんかでないのでタネもしかけもありはしない。カードに細工する意味もないし、アリスは今日初めてこのカードに触ったのだから、細工してまでこれを見せて五十嵐の気を引いても意味はない。

「どういう風にやってる?」
 五十嵐は興味を惹かれてそう尋ねると、アリスは普通に答える。

「さっき、扇状にした時にたぶん覚えているんだと思うんです。普通に神経衰弱すると凄く時間がかかるんで、どうやったら簡単にできるのか挑戦してみたら、この方法でやると凄く時間短縮できるのに気づいて。何度かやったんです。そうしたらマジックみたいになっちゃって」
 まさかこんな方法で全部のカードを覚えられるとは思ってもみなかったらしい。

「今日買った服の総額は?」
 五十嵐はいきなり別の質問をした。
 アリスはキョトンとしながらも必要な質問と判断して答えた。

「一万三千五十円です」
 アリスがそう答えると、五十嵐はすぐにダイニングに戻って、アリスが付けた会計簿を見る。
 合っている。

「昨日、買った。丸スーパーの買い物金額は?」
 更に五十嵐が問うと。

「三千二百十二円です。えっと、五十嵐さんのキッチンには薄口醤油がなかったし、香辛料もなかったので、そんな金額になってしまって」
 アリスは必要なものだから買ったのだが、それでも買いすぎだと思っているらしい。

 そんなことより、五十嵐はレシートを見て唖然としていた。

 アリスの言う通り、丸スーパーではその薄口醤油と香辛料を買っている。だが、驚くのは、その日は二回買い物に出かけていて、丸スーパーは最初に行ったところで、その後に味噌などがなかったので、もう一度買いに行っている。そのスーパーは別のところで、安かったらしい濃口醤油も買っている。それを間違えて言わないのだ。

 それが解った五十嵐は、はあっと溜息を吐いた。なんだってこんなに記憶力がいいのに、よりにもよって自分の情報に関する記憶だけなくしたのだろうと。

「あの、つまらなかったですか?」
 アリスは溜息を吐いた五十嵐を見て、不安になった。自分では面白いと思ったことでも、五十嵐からすれば大したことでもなかったのかもしれないと。
 その不安そうな声に五十嵐は我に返る。

「面白かった。非常に興味深い。そこまで記憶力がいいのに、なんでその記憶がなくなるのかと思って……」
 五十嵐が慌ててそう言うと、アリスはホッとしたようだ。

「それは俺も思いました。どうして自分の記憶だけなんだろうって」
 それは本当に不思議だった。

 五十嵐がさっきした質問は、記憶力のテストみたいなものだったのは解った。五十嵐の反応から答えは合っているのだろうと解るが、だったらなんでと思う。

「まあ、記憶がなくなったのは、俺が悪いんだが。ここまで面白い記憶力があるとなると、これからは困りそうにないな」
 五十嵐にそう言われて、アリスはキョトンとする。
 こっちを見た五十嵐はニヤリとしている。

「だってそうだろ。これだけ生活能力があって、身の回りのことにも詳しくて、記憶力が異様にいい。ということは、これからだって何かを記憶することは出来るし、元々あった能力だってかなり高い。何も出来ないわけじゃない。一人でだって暮らしていける」

 誇らしくそう言われて、アリスはふっと顔を伏せた。