novel短編

一瞬の夏-1

 あれは、いつかの夏だった。

 思い出すのは、いつもこの暑さのせいだ。それまではまったく思い出しもしないのに、この暑さに晒されたとたんに。湧き上がるように思い出す。

 今日もあの日々のような暑さだった。今日はと、カレンダーを見ると、ちょうど、高校は夏休みに入る前の試験補習の期間だ。

 そうか、あの時の。

 そう思い出して、高い空にある太陽を睨んだ。
 お前がいつも思い出させるんだ。

 そう訴えるように、翆尾貴史(すいお たかし)は、まぶしい太陽を仰ぎ見る。

「あいつも思い出してたりするんだろうか……」
 そんな言葉が口から漏れた。

 未練がましいことを口にして、貴史は苦笑してしまう。もう、5年も前のことだ。相手も覚えてないかもしれない。
 思い出したくないかもしれないじゃないか、と。

 

 

 



 翆尾貴史(すいお たかし)が、高校の夏休みを迎える前には、ちょっとした問題が残っていた。

 そう、追試だ。うっかりして、授業をサボったつもりが、ちょうどテスト日だったという、なんとも間抜けな話だ。
 お陰で、今週一杯はテストと補習とに通わなくてはならなくなってしまったのだ。

 他の生徒は、試験を終えたとたんに試験休みに入り、そのまま終業式を迎えるだけとなっている。

 このクソ暑い中、余分に学校へ通わないといけないとなると、鬱陶しくなってくる。
 自分の馬鹿さ加減を笑いたくもなるものだ。

 貴史はそうした中、学校へとやってきた。補習を受ける生徒は、ほんの数名という、一応は名門学校なだけあって落ちこぼれは少ない。

 故意にサボったのは貴史くらいだろう。他は、入学して授業についていけなくなってしまった生徒達だ。 その中で、貴史は涼しい後ろの窓側の席を陣取った。これで補習の間はこの席は貴史の席となる。こういう決まりごとがあるようだ。

 友人たちは、貴史の迂闊さを笑って、まあ追試が開けたら遊ぼうと約束していた。この夏は命一杯遊ぶつもりだ。

 補習とはいえ、一応教師が教壇の前に座って勉強している自分たちを見ている。だから、私語をするわけにもいかず、仕方なしに貴史は、教科書を広げ、友人が教えてくれたテスト範囲のメモを見ながら勉強をする振りをしていた。

 静かな時間が過ぎていく中、貴史はふと、風に誘われるように、校庭に目をやった。

 ちょうど、突風が吹いた時だった。その校庭に、一人の男子学生が立っていた。彼が持っていた紙の束が一斉に舞い上がったのだ。

 それは、まるで飛び立った鳥のように見えた。

 彼は、慌てて紙の束を追いかけたが、それは間に合わなくて、殆どが突風に浚われてしまったようだ。


 数枚残った紙を拾い上げる彼を見ていると、ちょうど一時間経ったと教師の声が教室に響いた。

 これで、本日の補習は終わりというわけだ。今日は数学だったから、割と真面 目に生徒は勉強していたようだが。

 ふと、貴史が教室を振り返って机を見ると、また風が軽やかに吹いてきたところで、机に広げていたテスト問題集が外へと飛ばされていくところだった。

「あっ!」
 思わず、声に出して紙を追ったのだが、それは校庭へと舞い降りていく。そのまま、さっきの彼が居る辺りにひらりと舞って落ちた。

 彼は飛んできた紙を拾い上げて、ちらりと内容を見ると、ふっとこちらを見上げてきた。
 自分が持っていた紙の束の一部ではないと気がついたのだろう。

「お、おい! そ、それ持って待っててくれ!」
 貴史は窓から身を乗り出して、彼に向かって叫んだ。

 彼はこちらをじっと見つめていて、紙を持った手を上げて、了解というポーズを取った。
 待ってるよ。と言われた気がして、貴史は慌てて帰る支度をすると、走って教室を出た。

 あの紙は絶対に必要なものだから、取り戻さなければならないのだ。
 そうして玄関まで降り、靴に履き替えて外へ出る。そして校庭の方へと走っていくと、その先に彼が現れたのだ。

「さ、さっきの!」
 貴史がそう言うと、彼はにっこりと笑って、紙を見せてくれた。

「大丈夫、遠くまで飛ばなくてよかったね。僕のは随分遠くまで飛んでいってしまったから」

 目の前に立った彼を見て、貴史は凄く驚いた。見たこともない、生徒だったし、それより何より、男にこんな言葉を使っていいのか解らないが、とにかく美人だったのだ。
 これだけ目立つ容姿をしていたら、自分の耳にも一言入っていそうだが、あいにく、思い出せる人物には該当しないようだ。

「はい。大事なものでしょ? 試験の範囲かな?」
 彼はそう言って、呆然としている貴史に紙を渡してくれた。

「あ、ありがとう。あの、あんた、名前なんていうんだ? ちょっとそんな目立つ容姿なのに覚えがなくて……」
 貴史が申し訳ないとばかりにそう言うと、彼はふむっと考え込むようにしてから答えたのだった。

「まあ、こんな顔だし、目立つのは解ってるんだけど……。僕、碧海律里(あおみ りり)って言うんだ」

 碧海律里。妙な名前だ。男で律里なんて付けるのかと思ってしまうと同時に、彼には十分似合っている名前だったからだ。
 でも、その名前を聞いても、何年で何組の誰それだとは思い出せなかった。

「君の名前は?」
 興味深そうに律里に聞かれて、貴史は素直に答えた。

「俺は、一年の翆尾貴史(すいお たかし)っていうんだ」

「翆尾君か……。ごめん、僕も覚えがないや。これでお互い様だね」

 律里は、自分も貴史を覚えてないのだから、仕方ないと言って笑っているのである。
 初対面ではあるが、律里はかなり人懐っこいところがあるようだ。

「碧海(あおみ)さんは、何年?」

「僕は一年だよ。君と同じ」

「え? そうだったのか……」

 本当に覚えが無いというのが信じられない貴史である。こんな美人なら結構噂にもなっただろうし、聞きたくなくても醜聞なんかも聴こえてくるようなものだ。

 でも律里のことを聞かないということは、彼が真面目で目立つ格好なのに目立たないようにしているのではないかと貴史は思いついた。
 それなら、十分あり得ることだ。

「碧海さんってなんか変。律里でいいよ。僕も貴史でいいかな?」
 その律里の提案に貴史は直ぐに乗った。ここで親しくしておけば、この先もいいことがありそうな気がしたからだ。

「あ、ああ。それでいい。でさ、さっき飛ばした紙、何だったんだ?」
 さっき見ていたことを話して、貴史は尋ねた。

「あ、あれね。図書室で貸し出し禁止の本の一部のコピーなんだ。レポートにしようと思ってたんだけど、見事に飛んでいってしまったから」
 律里はそれを思い出したのだろう、少し表情を曇らせた。

「じゃ、もう一回コピー取ればいいじゃん。手伝ってやるから」

 貴史がそう申し出ると、律里は驚いた顔を上げて、貴史を凝視している。何故?という表情がしっかり顔に出ている。思ったことが案外顔に出るタイプのようだ。

「で、でも。どうして手伝うなんて……」

「それなら、これ拾ってくれたお礼とでも言おうかな? これすげー必要なものだったんだよ。だから」


 貴史がにこりとしてそう言うと、律里はああっという顔をして、それから少し思案しているようだった。

 初対面の相手、しかも名前しか知らないような相手と行動するのが嫌なのだろうかと貴史は不安になった。何故か解らないのだが、貴史は律里ともう少し一緒にいたかったのだ。

「うーん、そうだね。もう一度コピーとなると、ちょっと時間かかるけど、いいかな?」

 そう少し困った顔で言われて、貴史は思わずその表情に引き込まれた。自分の周りには居ないタイプの人であり、こんな魅惑的な表情をするような友人なんていなかったから、免疫がなかったのだ。

「じゃ、さっそく」

「あ、ああ。早くしないと、昼には図書室も閉まるぞ」

「え! そうなの!」

「午前中しか開けてないって教師が言ってたぞ」

「あ、それは急いだ方がいいね。じゃ、貴史、よろしく」

 少し急ぎ足になりながらも、律里はにっこりと微笑んだ。
 それにつられて貴史も笑い返していた。それはいつもの自分の表情ではなかったかもしれない、新しい表情だったかもしれない。




 結局、その日の昼までかかって、やっと二人してコピーを終えた。

「やー、意外に時間がかかるんだなあ」

 今は学校近くにあるマックでシェイクを飲みながら、貴史が呟いた。

「ごめんね、実は、あれ昨日もやってたんだ。それで纏めて持ってきたのがいけなかったんだ。まさか、突風に持っていかれるとは思わなかったし。僕のミスだね」

 そう言って、律里(りり)は苦笑している。その笑い方も何故か綺麗だと貴史は思ってしまった。
 俺、どうかしちゃったんじゃないか?と思えるほどだった。

 でもこの変化は別に嫌ではない。楽しくなかった日々が清算されていく感じがしたのだ。

「だから。ファイル持ってろって言っただろ。購買で買って正解だな」

「そうだね。これは役に立つよ。思いついてくれた貴史のお陰だね。ありがとう」
 にっこりと微笑まれて、貴史は焦ってしまった。この笑顔にはどうも弱い自分がいる。

「い、いいって。それで、これ奢ってくれてるんだし」
 そう言ってシェイクとハンバーガーとポテトを指差した。これはどうしてもと言って律里が奢ると言い張って買ってしまったものだ。

「ジャンクフードは久しぶりだし。誰かと食べたこともなかったから、貴史が居てくれてよかった」

 本当にそう思っているのだろう。律里は嬉しそうに周りを見回しながら、自分たちと同じ学生が、ジャンクフードを口にしている姿を見て感激しているようだった。
 

 どうやら家が厳しいらしく、こういうのは食べては駄目だと言われているらしい。

「そんなに家が厳しいのか?」
 貴史がポテトを摘まみながら聞くと、律里はうんと頷いた。

「ほとんど、過保護みたいなもので、あれは駄目、これも駄目って感じかな。僕はそんなに頼りないのかなって一瞬思っちゃうよねえ」

「そこまで縛られたら、俺なら暴れるなあ」

「貴史はそういう性格だよね。言いたいことはっきり言うタイプに見えるよ。僕は、言いたいことを内に閉じ込めちゃうタイプかな。よくないとは思うんだけど、どうしてもそうなっちゃって」

 自嘲するように律里は言う。自分では何も決められない環境におかれているのだと、瞬時に貴史は感じた。そりゃ、名門高校に通 っているくらいだから、親が金持ちってのもあるだろう。世間一般の子供と同じようなことをしてくれるなという訳だ。

「ちょっとは、羽目外してもいいんじゃね? 俺だったら付き合うけど?」

 貴史がそう申し出ると、律里は驚いた顔をして貴史を見た。まさか、そんなことを言ってくれるとは思ってなかっただろうし、期待もしてなかったのだろう。そんな表情だ。

「え、でも。貴史は補習とか追試があるんでしょ?」

「それはそれ、これはこれ。これでも俺、成績だけはいいんだ」

「なのに、追試なの?」
 と、不思議がる律里に貴史は自分の間抜けな話をしていた。それを聞いた律里は何とも言えない顔になって、それからプッと吹き出して笑い出したのだ。

「な、なんか、貴史らしいって感じがして……ごめん」

「いや、いいよ。散々言われた」
 暫く、クスクスと笑っていた律里だがやっと笑いを収めてくれた。

 それが、第一日の出来事だった。