novel

spiralling-1

 何もかもが夢だったら人生が楽しくないだろう。
 そう言ったのは誰だったか。はっきりとは覚えていない。
 あの時、あの場所に居た数人はもうこの世にはいない。
 どれだけの時間が経ったのかさえ朧気だ。最近思い出したのは、側にあるアルバムの中では色褪せ、セピア色をした記録の記憶。その記憶は鮮明な色を持っており、それはただ皆が揃って食事をする何処の夕食時にでも見られるごくごく普通にある光景であり、一番楽しい時間でもあった。
 仕事で家を留守にしがちであったから、こういう普通の時間がことのほか大事であったし、子供たちも自分を待っていてくれていたように思う。それが鮮明に思い出せるのは、自分の脳内の記憶の回路が耄碌し、最近の出来事さえ二度と思い出せないように回路を死滅させているのではないかとさえ思えた。そうして残ったのは昔の記憶を司る回路のみ。
 そう考えると、何故か楽しく思えた。今の記憶を消せるのなら、自分が全てを忘れてしまえるのなら、それでも構わないとさえ思える。
 今はただ悲しい。悲しいだけなのだ。
 胸の中に穴がぽかりと開いたようで、その空虚を埋められるだけの何かが自分にはありはしなかった。その事実に驚愕し、そして今まで自分は何をしてきたのだろうか。そう考えた。
 初めは、友のためだった。今はもう居ない友の。そして増えていった家族のため。それが全て覆った時、初めて自分の過去を振り返ることが出来た。
 この国に於いて、もはや自分の立場を危うくする存在はそれほどいなくなっていた。しかし傲慢にも絶対に自分の立場が安泰であると過信していたのではないだろうか。
 結果はすでに出ていた。
 世の中は、もはや自分たちが活躍していた時代を終え、新たな偉材を持つ若い世代に移っていたのだろう。
 やっと自分の体が思うように動かすことすら出来ない事実を認める。
 スターシャ、お前は何もかも解っていたように常に忠告をしてくれていた。あの忠告を正確に理解していれば、こんな悲劇は生まれなかったのだろうか。
 報告書を一瞥して溜息が出るばかりだ。
皮肉なことに、昔介した人物が揃っていた。皆、それぞれに夢を見て、そして二度と介することなく、それぞれの組織の中で身動きがとれなくなっていった。
 その懐かしい顔ぶれの子供たちが、今や世界を握っている。
 内に飼う狂気を持つ人間の制御。この課題に見事打ち勝った人間はついぞ見なかった。あれほど優れた人材だったレイシンでさえ、己を滅ぼす結果になった。コウでさえ、時間稼ぎをするだけで手がいっぱいだった。
 そしてその狂気は、世界を敵に回して、チェス盤の上でコマを運んでいるだけなのだ。用心しなければ喰われる。それは当の昔に解っていたことだ。しかしそれを統御する力は誰も持っていない。いやただ一人いるのだろうが、そのコマすらチェス盤に乗っているのでは、迂闊には使えない。大抵そこで誰もが挫折する仕組みになっていることに気付いている者は左程いない。
「イグナートヴィチ?」
 ふと考え込んでしまった時、彼の前に座っていたモーテャが真剣に彼を見ていた。
「すまない、少し考え事をしていた」
 正直に今の自体を考えていたと告げるとモーテャは方に入っていた力を抜いた。報告をしに来てくれたモーテャも随分な年になった。スターシャを姉のように慕い、スターシャの子供を影ながら守ってきた。そういえばモーテャの息子はスターシャの孫とそれほど年は変わらないはずだ。
 スターシャの子供、青良(せいら)はまだ三十七歳だった。新しく迎えられた一族で望まれた子供を産み、そして幸せになるはずだった。それを遠くから見守ることで、スターシャの代わりを務めてきたのがモーテャだ。
 たまたま寄ったイタリアで、次の日に会う約束をしていた青良(せいら)がその夜に死んだことは悲しいことである。しかし、それが不審火であった場合、話が違ってくるのだ。
 その火事から二週間が経ち、事態はあってはならぬ方向へと動き出していた。自分の不甲斐なさを今更ながら感じるのは、モーテャから齎された報告書の一覧だ。
 昔介した友の子供たちがいるのは、もはやこの世界、仕方のないことだった。それは残念だと思うが、それ以上に彼の心を抉るような名前がそこにあった。
 事実を確認しにいくまでもない。起こりえることだと誰もが気にしていたことであり、十分に気をつけるようにグリーシャには言った。それでもこの事態が起こったことが、ただの年増女の嫉妬から成り立っているなどと思う方がどうかしている。
 これは狂気から送られた舞台への招待状だ。
 コウという手桎足枷が無くなった以上、起こりえることでもあった。それでも8年は持った。狂気は新しいおもちゃを手に入れ、それで遊ぶ為に狭いチェス盤を捨て大きな世界という名のチェス盤を用意したのだ。
 悔しいと彼は思った。もはや影の人物と成り果てた彼が、先頭に立って動くということがどれほど組織にとって重大なことであり、更に混乱を招くのか知っている。
 それを狂気が狙っていることもよく解っている。それが狙いなのだ。こちらの組織の頭を押さえつけ、制御出来なくなった組織の末端から喰っていく。あれは悪食なのだ。最後のデザートの為には、たとえ美味くないものでも喰っておくという、史上稀に見る悪食の悪魔だ。
 コウが大人しくさせていたとは言え、それは日本に於いてのこと。海外で彼の名を聞くことは多かった。表だって動いているわけではないが、かなりの組織が作られており、実態はそれこそ闇の中だった。正直、チャイニーズを相手にしている方が楽と言えば楽だったかもしれない。
 彼らの動きならばまだ読めた。けれど狂気の相手はしようがない。
 狂気の最終目標が解っているだけに、何とか早く手を打っておかなければならないのだが、それさえも狂気のチェス盤の上である可能性がある。
 正直、目眩がした。実態が解らない組織を相手にしてどこまで今の自分がやれるのか、本当に解らなかったからだ。
 まだ日本で大きな組織とは言え、コウの子供が押さえられるような組織にいるようだが、それも時間の問題だろう。おもちゃを見つけ、欲しい物が目の前にある状態で狂気が妥協するとは到底思えない。
 約30年前に日本中を震撼させ、混乱を招いたのは記憶に新しい方だ。それが30年経ってもまったく変わらずにいることが、余り恐怖を感じることがない彼の恐怖を呼び起こすのだ。危険だと警鐘が鳴る。
 解ってはいる。組織の為には内々に処理をし、狂気の舞台には上がらないことが一番の安全策だ。しかし何処までが狂気の仕業なのかと思索にふけてしまう。
「アンリからは、リオウを引き取ったとだけ連絡がありました」
 青良(せいら)の兄は、事件が起きてからもイタリアには渡らなかったが、人手を使って一人だけ生き残ったリオウを引き取った。会ったことすらないひ孫ではあるが、二年前まで日本に住んでいたのだから、イタリアに残ったり、ましてここに引き取るというようなことは無理だろう。日本で日本人の身内に育てて貰うのが一番いいはずだ。
 その報告を聞いて、少しだけ彼の心は軽くなったようだった。
「モーテャよ。復讐する気持ちは痛いほど解る。だが、他人の手の平で踊っているような状態は、何処にとっても好ましくはない」
 心を落ち着けて考えるようにと促すとモーテャは、もう耐えられないとばかりに椅子から立ち上がった。
「イグナートヴィチ!」
 激しい怒りが見える。さっきも言ったように、彼は青良(せいら)をずっと見守ってきた。青良(せいら)もそれを知っていて、身内としてずっとやってきた。イタリアへ再婚に行ったのもモーテャは止めたくらいだ。
 いくら慣れているとはいえ、ジャパニーズ・ヤクザとイタリアン・マフィアが同等とは言えない。むしろ、イタリアンマフィアの方が危険が増すのは目に見えて明らかだった。
「イタリアは動きがあるのか?」
 彼が尋ねるとモーテャは首を振った。
 その言葉に彼は深く息を吐いた。視線を送ってくるモーテャは、早く何かの指示が欲しいのか、はやる気持ちを抑えている。五十になったばかりのいい大人が、感情だけで何かを成し遂げられる世界ではない。ここは落ち着かせなければならない。
「そもそも、あの家の長男は次男であるジョルジオが邪魔で仕方ないと人目憚らず言っているんだ。誰がやったのか知らないけれど、大歓迎というところでしょう」
 モーテャが吐き捨てるように言う。
 イタリアンマフィアであるデル・グロッソ家は、ロレンツォ・デル・グロッソが政治家と繋がって大きな組織へと成長し、ヨーロッパのイタリア系マフィアの中では一番と言っていいほどの組織となっている。
 しかし近年イタリア政府はマフィアに対して、ボスを逮捕する作戦とマフィアの壊滅をスローガンとしている。その中で有名であったロレンツォ・デル・グロッソは監視されている家族を置いて、一人で20年逃亡しているマフィアのボスだ。
 ボスが捕まらない限り、そこに集う人間は後を絶たないまま、ロレンツォの組織は潤い続けている。
しかしロレンツォが逃げているとはいえ、彼はもうすぐ60という還暦を迎える年になった。そろそろ育った部下に組織を譲ることになる。そうした時に次男のジョルジオがロシア系日本人を妻にした。相手がジャパニーズヤクザであることは、すでに知られている。日本ではマフィアのボスがマフィアであることを堂々と名乗って身を隠すことはあまりしないという。
そのおかげでジョルジオがヤクザの娘を娶るということは、デル・グロッソの組織は次男のジョルジオが引き継ぐのではないかという噂が広まった。当の本人たちはそんなことは一切無く、デル・グロッソ家を出ていた。
 それで終わる話だったのに、ロレンツォの妹が病気で亡くなり、その葬式を取り仕切る為に本家に戻ってきていたジョルジオと青良(せいら)と子供が火事に巻き込まれた。青良(せいら)たちは煙に巻かれるまで火事に気付くことが出来なかった。
 現場検証や検死から煙をほとんど吸っていないことが解ったのは、それから三日後。マフィア同士の抗争だろうという見方がある中、それだけではないとモーテャは決めつけて調べてきた。
 その結果を受け、自分は決めなければならなかった。復讐を選ぶのか、組織を守ることに重視すべきか。
「少しだけ冷静に思慮してくれないか」
 そう真剣に言う彼に対して、モーテャは一瞬苛立ちをみせたが、その後暫く黙り込んだ。 
 もしモーテャに冷静な部分があったとしたら、この時期に報復に動く危険性を理解してくれるはずだ。そう彼は思ったのもある。今、解っている状況で動くことは、本当の敵を見逃すことになってしまう。手がかりは生かしておくべき。
 そう彼は思っていた。狂気による何かしらの計画であった場合、狂気はこの組織が弱体化することを狙っている。もしかしたら、この国にすでに狂気と繋がりがある組織が存在しており、この国を乗っ取るのに邪魔な彼らを狙っているとさえ予想すれば出来ることだった。
 そうした危機管理が誰よりも勝っていたからこそ、この国の混乱を乗り越えてきたのだ。そうでなければ、生き残れなかった。そしてこのモーテャもまたそうして生きてきた一人である。だからこそ意味は理解していると信じたいのだ。
 期待を込めて待っていると、モーテャは静かに立ち上がった。
「イグナートヴィチ……私はもうここにはいられない……。貴方が言っている意味はわかっているし、何か裏があることくらい私だって解る。だからこそ、この組織にいたのでは私は身動きが取れなくなる上に、貴方に不利になることをしたくても出来なくなる」
 そこまでモーテャは言って彼に向かって頭を下げた後、部屋を出て行く前に立ち止まり一言つけたした。
「今すぐ報復なんてしない。誰が裏にいて誰が絡んで、誰が何をして何をしなかったのか。その全てを調べ上げて、それから先はその答えが用意された時に決める」
 そう言って部屋を出て行こうとしているモーテャを彼は止めることは出来なかった。
 気持ちは同じである。そして彼が要請したことをモーテャは守ってくれる。真相がはっきりと解る頃には、きっと彼に組織というものが深く関わっていない、当分先の話になりそうだった。
 あの狂気が30年も待ったのだ。そして静かに生きてきた期間ほどではないが、彼もまた待てると思った。
 狂気に出来るのであれば、自分に出来ないことはないと信じたいのだ。
 たとえ、全てを失う結果になったとしても。




 イグナートヴィチとの話し合いが決裂したモーテャを外で待っていた息子のティーナは、自分の父親が酷く憤っていることを知った。
 つい先日まで居たイタリアで、ずっと父親が大事に見守ってきた青良(せいら)が死んだことは知っていたが、家族以上に大事にしていたと言っても過言ではない青良(せいら)たちがティーナは好きではなかった。
 けれど死んでいいわけではなかった上に、父親があれほど瞋恚の声を荒げるとは思ってもみなかった。普段から厳しい父親ではあったが、本気で恐いと思ったこともなかった。
 ここまで来るとさすがに異常な事態が起こっていると認識出来た。ただ死んだだけだったら、ここまで父親が呪詛を吐くようなことはなかったはずだ。それが解るようになっただけ、ティーナも大人にはなっていた。
 父親に付いて、様々な用務を果たしてきたが、この火事について調べることもティーナの仕事の一つであった。
 亡くなったのはイグナートヴィチの孫の一人。スターシャの子供で、スターシャによく似ていたという。スターシャが病気で亡くなる前に不安になったのか、父親に青良(せいら)のことを頼んでいったという。兄アンリとは似ても似つかない双子の上、アンリは非常に日本人的な顔立ちをしていたのとは正反対に青良(せいら)はスターシャに似すぎていた為、一目で日本人ではないとわかってしまう。育った環境はアメリカ人に似ていたとしても不思議ではない土地柄ではあったが、青良(せいら)のような北から来たような顔立ちは目立ってしまい、地元では上手くいっていなかったのだという。
 そこから飛び出して結婚をした。相手は再婚であり、子供も一人いた。その子供とは上手くいかず、次第に夫婦仲も冷めていった為、青良(せいら)は離婚を申し出、そして離婚後にジョルジオ・デル・グロッソと出会い、四年後に結婚してイタリアに渡った。  
 しかしたった二年で火事で死亡。
 こう考えてみると青良(せいら)の人生は大変そうだった。
 幸いだがティーナは昔こそ父親の不在や約束を破るような仕事が大嫌いではあったが、仕事に関わっているうちにそうなるのは仕方ないと解ってしまい、父親を理解出来、また尊敬出来るようにはなった。だから唯一の不満はこんなに側にいるのに、自分が父親の中では一番ではないという独占欲からくる嫉妬だけだった。
 早くに母親を亡くし、父親が仕事に行っている間は親戚に預けられて育ったので、父親と一緒の仕事に就くことはティーナの希望だったが学校の成績はよかったので大学まで行くように言われて仕方なく、今年の9月から通う予定になってしまった。しかしこの夏の休みの間に様々な仕事を覚えていった。
 早く父親の一番になれるようにである。
 だが父親の中で一番だった存在が消えた今、嬉しいとも思わない自分の心があることに気付いていた。自分が勘違いしていただけで、父親の中の一番は青良(せいら)でもスターシャでもないことが解ってしまったのだ。一番なんていないのだ。
 それに父親が自分の前で泣き崩れるのを初めて見た。そして強いと思っていた父親が自分に弱いところをみせるという異例の事態に、もっと強くなってスターシャや青良(せいら)の復讐をし、父親が元気になるところが見たいと思ってしまった。
 しかしイグナートヴィチは父親を呼び、どうやら説得をしているらしい。窓から見える場所で父親の肩が何度もあがったりしていたからだ。
 どうしてイグナートヴィチは復讐をすぐにしないのだろうか。それをするからこそ、このマフィアが恐れられた上にその地位を保ってられたはずだ。
 正直、失望した。恐れられていたマフィアのボスとは思えない。
 家族が大事ではないのか。父親はあれほど大事にしているというのに。 やがて、父親は何かを宣言して部屋を出た。向けることが出来ない怒りの力が足音と共に大きく響いている。玄関を出てくると、父親はティーナの前に歩いてきて止る。
「親父?」
 一体何を言われたのだと聞こうとした時、父親の目に涙が浮かんでいた。
「イグナートヴィチは、時期をおけとおっしゃる。その時期がいつまで続くのかは解らない。だが、やれることはあるはずだ。ティーナ」
 真剣に視線が降ってくる。ティーナは息を呑んで父親を見上げた。
「その時期になったとき、お前の力が十二分に発揮できるようにしておきたい。残念だが、私はもう若くはない。やれることとやれないことの区別くらいは自分で解る。けれど部下に全てを任せてしまうのは、どうしても出来ない。最後は自分の手で始末をしたい。だからお前の力をその時全て貸して欲しい。頼む、この通りだ」
 生まれて初めて父親が頭を下げてきて、力を貸して欲しいと願われた。その時の高揚感とあのボスであるイグナートヴィチよりもまだ力もない自分の将来を買ってくれて言っているという事実。それがとても嬉しかった。
「解ったよ、パーパ」
 そうティーナが返事をしたのは、もう12年も前のことであった