novel

spiralling-24

 その日はいつもと違う気がした。
 妙な気配と言えばいいだろうか。
 それをなんと言って説明すればいいのか分からない。
 とにかく淡々と狂いそうな時間が過ぎていたのに、その日の異変はまず俐皇(りおう)からだった。
 部屋に入ってきた俐皇(りおう)は、いつも通り寧野(しずの)を抱こうとしてしくじった。
「離せ!」
 寧野(しずの)が足を蹴り上げると、俐皇(りおう)の顔面に蹴りが入った。俐皇(りおう)はそのままベッドの向こう側に転がり落ちた。
 確実な手応えに寧野(しずの)は戸惑った。
 これまで顔を蹴り上げて成功したことはない。顔だけはいつも死守されていたからだ。
 俐皇(りおう)がベッドの向こう側に消えて、寧野(しずの)はゆっくりとベッドを降りた。それでも俐皇は起きてこない。
 鎖は延びたままで向こうの部屋に行けるままにされていた。
 ドア一枚しか違わないけれどベッドで暢気に犯されるのを待つよりはマシだ。
 しかしドアから隣の部屋に逃げたとたん、スッと全身が恐怖する。
 警戒心が俐皇(りおう)の比ではない。全身が警戒音を発する。
 いくら俐皇に気を取られていたからって、この警戒に気づかなかった自分が信じられないと寧野(しずの)は頭を振った。
 その恐怖の主が部屋の中央に置かれているソファに座ってこちらを見ていた。
「見事な蹴りだな。響はいい弟子を持ったものだ。榧(かや)もおしいことをした。完成形が二人出てくるとは想像だにしなかっただろう」
 ただ感想を言っているだけなのに、体が震えて仕方が無かった。
 喋るだけでここまで恐怖をあおる人間が居ただろうか。自分が出会った中で一歩たりとも攻撃圏内に入れたくないと思ったのは初めてだった。
 耀(あき)や組長代理も確かに強い、けれど彼らはあくまでも味方だった。絶対に敵になることなどない人間。だがこの目の前にいる男は、その二人に匹敵する以上の恐怖を与えてくる。これが味方ではないとはっきり伝わってくる。
 それに月時響(とき ひびき)の名前を出し誉めて、榧(かや)のことまで持ち出した。
 そんな人物、話に聞いた伝説のテロリストしか思いつかない。
「……九十九(つくも)……」
 恐る恐る名前が出た。確証があるわけじゃないが、ここまでの恐怖を与えた人物がそうそういてたまるか。
「ご名答。勘も悪くはない。そうそう響もそうやって警戒心丸出しで、まるで獣みたいで美しかったな」
 月時響(とき ひびき)が九十九朱明(つくも しゅめい)に誘拐されたのは確か28歳くらいの時だったはずと思い出す。寧野(しずの)はまだ25歳だが、これくらいの年齢の時など3歳くらいの違いはそうそう出ないだろう。だから九十九朱明(つくも しゅめい)が見ているのは確実にその時の月時響(とき ひびき)だ。それと比べられていてなんだか気持ちが悪い。
 常に響が九十九朱明(つくも しゅめい)を目の敵にしていたが、そりゃ全身の体毛が立ち、警戒する人間などそうそういるわけじゃない。
「猫のように毛を逆立たせて、火をふきそうな感じ」
 まるで飼い猫がちょっと怒ったくらいの感覚でしかない。
 だめだあの人に超絶変態と言われるだけのことはある。
 妙な感心をしてしまって寧野(しずの)は意識を九十九(つくも)に向ける。
 どうしよう、まさか俐皇(りおう)と九十九(つくも)が繋がっていて、ここまで入り込むほどの親しい間柄なんて思っても見なかった。この恐怖の対象を相手に俐皇(りおう)も加わったらとてもじゃないが、適わない。
 俐皇(りおう)相手にしていても負けたと思ったことはない。次は確実にしとめると思ったが、今回負けるとはっきりみえた。恐怖だけで負けるなんて修行が足りないと言われそうだ。いやそうなのだ。
 なんであの人、この恐怖の対象を変態という言葉だけで片づけられたのか、なんか感覚おかしくない?と月時響(とき ひびき)の感覚をおかしいとツッコミ入れていないとおかしくなりそうだった。
「若いというのはいいものだ。未熟なところもあり、成熟したところもあり」
「!」
 九十九朱明(つくも しゅめい)を前にして固まっていたが、後ろから気配もなく俐皇(りおう)が近づいていたことに気付かなかった。
「離せ!」
 腕を後ろから回されて上半身を固定され身動きがとれない。本気で押さえにかかっている相手では、体の自由が利くところがない。
 冗談じゃない。寧野(しずの)は焦った。
 九十九(つくも)が立ち上がって近づいてくる。あまりの恐怖にカチカチと歯が鳴った。子供みたいに泣くほど怖がったのは、父親が死んだとき以来かもしれない。
 九十九(つくも)が寧野(しずの)の顎を持ち上げて顔をのぞき込んでくる。こちらの戦闘態勢が崩れたのを見て笑っている。
「あいつらはつくづく面食いだな。作りは悪くない。響より美男子というやつかな」
 品定めをするように顔を右へ左へと移されても寧野(しずの)は抵抗が出来なかった。頭の中で警戒音が鳴り響いていて行動をしなければならないのに、この恐怖に勝てない。怖い。人間をここまで怖いと思ったことはないかもしれない。
「教(ジャオ)はこっちの意味でも使えると思って食いつくかもしれないな。支配するためなら何でもする男だが、殺しもする。さて武藍(ウーラン)はこいつの何が気に入った? あれも男色を気にしない男ではあるが、まさか一目惚れというようなことはないか?」
 話の内容から寧野(しずの)は自分がここからその教(ジャオ)や武藍(ウーラン)という輩に売られるのかもしれないと思った。
 俐皇(りおう)のやりように九十九(つくも)が何かしにきて、寧野(しずの)がいるのを知った。
 囲っているのもいいけれど、それでも教(ジャオ)やら武藍(ウーラン)やら何かが自分を欲しがって九十九(つくも)に依頼をした。そして九十九(つくも)は商品を取りに来た。こうやって寧野(しずの)を拘束しているとすると俐皇(りおう)は九十九(つくも)には逆らえないのかもしれない。
 だから様子がおかしかった。
「オレは食う趣味はないから、よく分からないが、俐皇(りおう)はいたくお前を気に入っていたぞ」
 ニヤリと笑う男を見て、寧野(しずの)は目を見開いた。
 こいつは人外だとさえ思えた。
 人外、言い得て妙で、それまで言葉に出来ない恐怖があったが、人外という言葉で妙に落ち着いた。
 顎をつかんでいる手を振り払い届きそうだったので噛みついた。
 小指側の手の甲にしっかりと牙を食い込ませて噛みついたのだが、九十九(つくも)は笑っていた。
 さすが人外、噛みついたくらいでは動じないらしい。
「響と同じことをするんだな、懐かしいぞ」
 どんなにきつく噛みついても九十九(つくも)は動じない。噛みついた手は牙が上手い具合に食い込み、血がぷつりと出た。それが顎を伝って垂れてきても食いついて離さないでいたが九十九(つくも)は感心したように笑っているだけだ。
 あ、これだめだ、こいつ痛覚がおかしいんだ。
 そう認識が出来た瞬間、噛みつくための力がなくなる。
 ゆっくりと牙を抜くと、九十九(つくも)はニコリとして俐皇(りおう)に言った。
「見ろ、すごいぞ、歯形じゃなくて牙だ」
 二本ほど尖った歯があるのだが、それが上手く刺さったのだが、それを見せて笑う人間にどうやって勝てというのだと寧野(しずの)は絶望しそうだった。
 だがそれも響が通った道。
 瞬時に恐怖で動かなかったはずの足が動いた。俐皇(りおう)が支えていたからそのままの体制で右足を振り上げ九十九(つくも)の体に向けたが、九十九(つくも)はすっと大きな一歩で足の距離から離れて避けた。
 その次の瞬間、俐皇(りおう)が焦ったように腕の力が抜けたので、寧野(しずの)は強引に体を反転させて次は俐皇(りおう)を攻撃した。
 拳を振り上げた時には俐皇(りおう)も寧野(しずの)から飛び跳ねて逃げていたが、少しだけ俐皇(りおう)の腕をかすった。
 どうやら後ろの人外はアレだが俐皇(りおう)ならぜんぜん勝てると妙な自信が沸いてくる。
 人外はそのまま寧野(しずの)が噛みついたところを眺め、ニヤニヤと笑っていて気味が悪い。きっと師匠である月時響(とき ひびき)との思い出を思い出しているのだと思う。そうとしか思えない笑顔だ。
 確かに変態だ、あれを変態と言わなかったら変態に失礼だ。噛みつかれて喜ぶとか絶対変態だ。
 そう人外と呼べば呼ぶだけ恐怖心が消えていく。確かに怖いままではあるが認識がきちんと決まるとどうとでもなる。
「元気なものだな」
 俐皇(りおう)と向き合ったままで、人外を相手にしないでいると人外はソファに座り直した。その時だった。九十九(つくも)の携帯が鳴った。
「……教(ジャオ)の? 暴走したのか」
 それだけで電話が切れたらしい。
「どうする俐皇(りおう)、教(ジャオ)が暴走だぞ」
 九十九(つくも)は面白そうにそう言う。俐皇(りおう)はぐっと拳を握りしめて寧野(しずの)の攻撃圏内から出て行く。
 拍子抜けしたように戦闘態勢が終わってしまって寧野(しずの)は惚けてしまったが、次の瞬間、ドンと島の外壁が何かを食らって揺らいだ。
「派手だな」
 ちょうど島の反対側でこちら側が攻撃を受けたわけではないようだが、明らかにミサイル的な何かで攻撃されている。教(ジャオ)が暴走と言っていたがこれはその攻撃なのだろうか。
「さて帰る前に、お前のその鎖、外してやろう」
 九十九(つくも)が面白そうにそう言い出した。
「はぁ?」
「さっき俐皇(りおう)の荷物から鍵を見つけた。そこでこれをやる代わりに一つお前に聞きたいことがある」
 九十九(つくも)がそう言い出して寧野(しずの)はキョトンとする。九十九(つくも)ほどの男が何もない自分に何を聞きたいのか理解出来ない。
「響は元気か?」
「そりゃもう元気で道場で組員しごいてます」
 なんだそんなことかと思ってありのままを答えたら、九十九(つくも)はそれだけで本当に満足したように微笑んで鍵を放り投げた。
「なんでだ?」
 なぜ鍵を渡すなんてことをするんだ。自分は二人の人間のどちらかに売られるはずではなかったか。こんな攻撃を受けている原因だってそれのはずだ。なのにその商品を逃がそうとしている。
「オレは金を出す方に渡すからどっちでもよかったんだが、攻撃されて連れ去られましたでは、気に入らない。お前のミスであの傍若無人の教(ジャオ)に捕まってしまうなら溜飲は少しは下がる」
 よく分からない基準であるが、現在攻撃を受けているままで終わらせるのは気に入らない。しかもこの島はそれに対処出来るような島じゃなかったということか。
 俐皇(りおう)に助けを求めても無駄という意味もあるのだろう。だって俐皇(りおう)を頼るということは俐皇(りおう)は九十九(つくも)に寧野(しずの)を渡そうとしていたのだから。そのまま教(ジャオ)ではなく武藍(ウーラン)に売られるだけだ。
「そういえば、俐皇(りおう)は告白はしたか?」
「何の話だなんの」
 まるで女子高生の恋バナみたいな感じで言われて思わず寧野(しずの)はツッコむ。
「だよな、あいつそういう感情、抜けまくってるしな。愛を伝えるのにはまず言葉だというのに」
「ふざけてならいくらでも使ってたぞ。冗談にしか聞こえなかったが」
 人を怒らせる為に、愛してるとは使ったが、どれも本当に聞こえなかったから冗談ですらないのだろう。
 それには九十九(つくも)も苦笑ものだった。
「子供のままか」
 くくくっと笑った後、バルコニーに向かった九十九(つくも)はせり上がってきたヘリに飛び乗ってそのまま逃げていった。
 出てきてから退場まで、とにかくど派手な印象だったが、最後は俐皇(りおう)を心配する父親というようにみえた。が手助けはしないらしいのは九十九(つくも)らしいといえた。
 これくらいの窮地、くぐり抜けて当たり前なのだろう。
「さて鎖は取れたが」
 寧野(しずの)は部屋からバルコニーに向かっていき、そこから下を覗く。ヘリが上がってきたくらいだからもちろん、断崖絶壁だろう。ただ下の階には降りられそうだった。古くなった雨樋を伝って下に降りるのは難しいそうだ。とたんに銃の発砲する音が鳴り響いてきて寧野(しずの)はさらに慎重になる。
「まずいな、拳銃相手じゃ一人か二人くらいしか対処出来ない」
 隙をついて殴れるのはそれくらいだ。なるべく遭遇しないように逃げないといけないわけだがと思っていると、下の階から銃撃の音が聞こえてくる。そしてバルコニーがある窓が開かれたのかクリアと声が真下から聞こえた。
「クリア!」
「ここにもいません!」
 誰か探してるのは間違いない。
 それが自分である可能性が高く、教(ジャオ)という人が織部寧野(おりべ しずの)を探して攻撃してきているのだろう。
 それが解っても寧野(しずの)に出来ることは逃げることだけだ。
 すぐに部屋の中に戻ると、シーツをありったけ抱えてバルコニーに戻る、そしてそれを全部繋げて手摺にかけると輪っかにして括りつけた。
 ゆっくりと下を覗き込むとやはり断崖絶壁で目が眩む。それでもここから降りる覚悟を決めてシーツをわしづかみして一階下まで降りた。
 ほっとするのも束の間に、シーツの輪っかを解いて上の階のバルコニーの桟から外す。一気に引き寄せてバルコニーに引き込むと上の階の窓ガラスが開いた。
「クリア!」
「ここの階に監禁していたようですが、いません」
「脱出させた後か…」
「そのようです」
 彼らが探しているのが自分であるとはっきり認識して寧野(しずの)は息を呑む。あのままあそこにいたらそのまま連れ去られていたかもしれない。
 そのまま彼らが去るまで待つわけにはいかない。 そうしていると銃撃戦が上で始まり、撤退だと叫ぶ声が聞こえた。
 バルコニーの窓が割れる音が聞こえたが、寧野(しずの)はそれを無視してシーツを手すりに結び下へ投げた。
 上を振り向かずにそのまま下へと降りる。
 それを繰り返して四回したまで降りた。騒ぎはどんどん小さくなっていくということは、侵入者を始末しているのだろう。そうなると自分がいないことに気づかれる。
 寧野(しずの)は慌ててシーツを手すりに結んで海までの距離を測る。高すぎたはずの断崖絶壁はかなり低くなり、シーツやカーテンの長さを足せばなんとか海まで届く距離になっていた。
 それを結びいざ手すりを跨ごうとしていると、俐皇(りおう)が部屋に入ってきた。窓ガラス越しにそれが見え、寧野(しずの)は慌てた。
「マズイ……!」
 だが逃げるところがない。急いで手すりを超えたもののシーツを握ろうとしたが届かなかった。ガラス窓をあけて俐皇(りおう)がバルコニーに出てくる。
「寧野(しずの)……こっちへ」
 後ろは海しかない。どうあがいても俐皇(りおう)の言う通りにするしかないのだが、寧野(しずの)は冗談じゃないと思った。
 このまま戻ってもまたあの生活が始まる。いや、今度こそ九十九(つくも)によって武藍(ウーラン)という人間に売られるだけだ。
 戻っては駄目だ。
 元々助けを期待していたわけじゃない。けれど逃げようという努力までなくしてはだめだ。
 一縷の望みを捨てない。ここから飛び降りれば逃げられる手段がえられるかもしれない。助からなくてもそれでもやるべきことをやる。それだけだ。
 寧野(しずの)は俐皇(りおう)の方を見ずにそのまま手すりから手を離した。
「寧野(しずの)!」
 あり得ないと俐皇(りおう)が叫んで助けようと手すりに駆け寄るがすでに寧野(しずの)は海の中だ。
 波の音が響いていてどれだけ叫んでも寧野(しずの)には届かない。しかも浮かんでこない。
「くそ!なんでだ。なんで鎖の鍵が外れて……!」
 鎖を回収して寧野(しずの)は鎖が外れない寧野(しずの)は自然と寝室に戻っていたはずだ。そこで俐皇(りおう)の仲間が寧野(しずの)を回収して避難出来たのに。それなのに、あの騒動中にどうやって鎖を外したのか、寧野(しずの)は抜け出してもう少しで逃げられるところだ。
 けれどこれは誤算だ。寧野(しずの)がまさか死ぬ覚悟で海に身を投げるとは思わなかった。助かる勝算などないというのにだ。
 それにどうして寧野(しずの)が鎖を外して脱出できているのか理解できない。何故誰が鎖を外したのだと考えたとき、その可能性は一つしかなかった。
「そのために来たのかあの人は……!」
 わざとだ。わざとやったのだあの人は。そうとしか思えない。
 わざと寧野(しずの)に鍵を渡し、寧野(しずの)が勝手に殺されることを期待したのだ。
 俐皇(りおう)はその可能性について否定はしない。あの人が望んだことはそれしかないのだ。ただ面白いから。それだけなのだ。
 あの人のそういうところは面白いと思っていた。だが今日は違った。ひたすら憎くて仕方がなかった。ここまで憎らしく思ったことはない。寧野(しずの)がもし死んでいたらどうしてくれようとまで思った。
 こんなことを考えるなんて本当に久しぶりで、あの人に対して思ったのは初めてかもしれない。
 そんなことを考えて寧野(しずの)を探すために船着き場まで降りてきた。堂々と忍び込んできた和青同(ワオチントン)の兵たちは寧野(しずの)がいないことに気づいてさっさと引き上げていった。きっとあの人にはめられたと思っているのだろう。
 それにしても問題だった。
 どうして和青同(ワオチントン)などに情報がもれたのか。まさか宝生組(ほうしょう)と和青同(ワオチントン)がつながっているなんてあり得ないだろうから、それは問題ではない。ではあいつらはどこからこの情報を仕入れたというのだ。
 これは問題だ。この場所はあの人でさえ、探し出すのに時間がかかったはずだ。
 それを準備万端で乗り込んできたとなると、あの人が探し出す以前にそれを知っていたことになる。
 内部にスパイがいると思った方がいい。
 いろいろ考えていてもどうして寧野(しずの)が躊躇もなく海に飛び込んだのか理解できない。
 いくら俐皇(りおう)を嫌っているとしても、それでも死んだ方がマシだと考えるような人間ではないはずだ。そう思っていたが、それもあの人が関係しているのか。
「うっかり二人っきりになんてするんじゃなかった」
 二人っきりでどんな会話をしたのかはわからないが、寧野(しずの)に恐怖を与え、パニックにさせることだってできただろう。
 寧野(しずの)は監禁生活もいやだったろうが、それ以上に得体の知れない何かに売られることがもっといやだったのかもしれない。
 それでも俐皇(りおう)は寧野(しずの)を手放したくなかった。ずっと好きだった。それだけなのに。再開してやはり好きだった。それだけなのに。どうしてそれすらかなえられないのか。あの人ほど力がないからなのか。
 どんなことをしても手に入れてやると決めた時から、寧野(しずの)のことは何が何でもどんな手段を使ってでも手に入れると決めたのだ。
 それをあの人は、小馬鹿にしただけでなく、邪魔までしていった。
「本当にどうしてくれよう」
 苛々した態度がそのまま出てしまって、船を出すときも乱暴であった。
 だがその苛々が頂点に達した。
 船が一艘逃げていく、その船に寧野(しずの)の姿が見えた。
 本人は意識がないのか抱きかかえられていた。その抱きかかえている人間が問題だった。
 煌和会(ファンフォフゥイ)の人間だった。
 何度か面会をしたことがある人間ではないが、煌和会(ファンフォフゥイ)の中でも要注意人物として知られている豹(バオ)という人間だ。
 あらゆる諜報活動をしているスパイで、どこにでも現れ、情報をさらっていくといわれている。そんな人物に寧野(しずの)を連れて行かれるということは、武藍(ウーラン)もまたこの俐皇(りおう)の隠れ家の情報を持っていたことになる。
「いったいどこから……」
 追いかけようにも向こうの船は高速船だ。さらに俐皇(りおう)の高速船は燃料が抜かれていて動かすことができず、残されているのはヨットだけであるが、それで追いかけるなんて愚の骨頂だ。追いつくわけがない。
「武藍(ウーラン)……覚えていろ……」
 やっと誰が情報を和青同(ワオチントン)に漏らしていたのかわかった。
 武藍(ウーラン)だろう。彼がどこかで寧野(しずの)に目をつけていて、この時を狙っていたのだ。道理で情報の抜けが早すぎる。
「あの人はわかっていて放置しているのだろうが……」
 俐皇(りおう)の内部にスパイがいるのではなく、九十九朱明(つくも しゅめい)のほうにスパイがいるのだ。だがあの人のことだ。面白いからという理由で放置しているのだろう。そうなると、寧野(しずの)を武藍(ウーラン)のところに売ったのは九十九(つくも)であり、武藍(ウーラン)はその受け取りをしただけだ。
 九十九(つくも)は寧野(しずの)がああいう行動をするだろうと予測していての受け渡しなのだろう。
 俐皇(りおう)にも無駄だとわからせるためにもだ。
「甘いですよ。本当に」
 武藍(ウーラン)に負けたわけではない。所詮二人ともあの人の手のひらなのだ。わかっている自分とわかっていない武藍(ウーラン)では勝敗はきっと違ってくるはずだ。
 それがわかっただけで俐皇(りおう)はいったん、寧野(しずの)のことからは手を引いた。
 まだやるべきことがある。それがなんなのかははっきりとわかった。


 織部寧野(おりべ しずの)を拾い上げた豹伊迦(バオ イージャ)は、わざわざこの人間のために自分が呼び出されたのかと少しだけ奇妙な気分になった。
 決して自分は男色ではないのだが、織部寧野(おりべ しずの)の顔は好みだった。写真で見た時はそこまで思ったわけではない。けれど、直接見るのとでここまで印象が変わってしまう人間も珍しかった。織部寧野(おりべ しずの)は、一見華奢で情人というだけのことはあり、美形であるが、その方ばかりに目がいってしまう。だから、ここまで男らしく、行動力があるようなタイプには見えない。
 そう豹伊迦(バオ イージャ)は寧野(しずの)がバルコニーに現れる前、一週間ほど前から、俐皇(りおう)の屋敷を張っていた。もちろん見えないように近くの島に勝手に上がり込んだ。そのとき見えていた寧野(しずの)は常にトレーニングをしている姿だった。鎖に繋がれているのにそれをものともせずに平然と跳んだりはねたりを繰り返すトレーニングだ。最初は元気なもんだと思っていたが、次第にそうではないのだと気づいた。 
 ああやって繰り返すトレーニングではなく、逃走するための下準備なのだ。そのすべての行動のためのトレーニング。 
 それがわかったのは、先ほど寧野(しずの)がやったバルコニーからの飛び込みだ。本人は10メートルほどの高さからなんて飛び込んだことはないだろうが、それでもなんの躊躇もなく飛んだ。
 逃げるということに対して本気でいつもいる。まして二度と俐皇(りおう)のところに戻るつもりもないとばかりの行動が妙に心を揺さぶった。
 前向きな人間は好きだった。弱くて泣いているだけなら誰にでもできる。でも寧野(しずの)は常に戦う気があり、いつでも戦闘態勢がとれていた。
 こういう人間は好きなのだ。本気で戦う気があり、常に戦闘態勢。人によっては威勢がいいなんて言われることだろうが、寧野(しずの)は本気でいること。そしてあの俐皇(りおう)の時のように度肝の抜くような行動に出る。
 あれには豹(バオ)も驚いた。本当に飛び込むなんて思わなかったからだ。
 この人間は非常に興味深い、そう思えた。
 船に運び込んですぐ俐皇(りおう)がこちらを見ている視線に気づいた。
 あの視線は、本当に織部寧野(おりべ しずの)が大事で仕方ないというような目をしていた。だから豹伊迦(バオ イージャ)に横取りされたことに対して怒っていた。
「けど平常心取り戻すのは早かった」
 思わず口から俐皇(りおう)への感想が漏れた。
 俐皇(りおう)は、一瞬で誰が犯人なのかわかって、追えないことに関しても納得していたようだった。
 なかなかどうして胡散臭い男だ。九十九(つくも)が飼っているだけの坊ちゃんだと思っていたが、それ以上の何かが見えた。
 一瞬にして化けそうな男だ。要注意人物だ。
 要注意人物だが武藍(ウーラン)が気にするような人物ではない。
「塔智(ターヂー)」
 寧野(しずの)を預けていた昶(チャン)塔智(ターヂー)はクルーザーの中に用意されていた寝室で寧野(しずの)の体を温めていた。
 風呂というものがないので裸で暖めるしかないため、ベッドにありったけの毛布を持ち込んで抱きしめ合っていた。
 さっきまで海の水で冷えて震えていた寧野(しずの)は、暖かい体の塔智(ターヂー)に抱きついている。暖かくなったのかほっとしたような顔をしていた。
「伊迦(イージャ)、俐皇(りおう)は撒けましたか?」
「問題ない、船は救難用のヨット以外は壊しておいた」
「まあ」
 豹(バオ)の言葉に塔智(ターヂー)は苦笑する。そこまでやっていたならさっきの尋ねた言葉は無用だった。
「それで寧野(しずの)はどうだ?」
「さっきまで震えていましたけど、やっと暖かくなったのか震えはなくなりましたね。あとは打ち所が悪いということはないようで、ただひたすら寝てるという感じですか」
「寝てるのか」
  豹(バオ)は呆れたようにため息を吐く。 
「目の下にクマがあるから、きっと寝不足だったんじゃないかな?」
 塔智(ターヂー)はクスリと笑って寧野(しずの)の頭を撫でた。濡れている髪は半分だけ乾いているけれど、ドライヤーを使うわけにもいかないのでそのままだ。一応タオルは巻いているのでそれを外して新しいタオルをとってもらう。軽くまき直しをする。
 それを眺めた後で豹(バオ)は持ってきたバッグから医療道具を取り出す。注射器と薬の入った瓶を取り出してそれを注射器の中に入れた。精神薬のようなもので、打たれると思考回路が鈍っておとなしくなる。通常普通の人には使わないものだが、途中で寧野(しずの)が目覚めた時の予防だ。
 鎖で繋いでもあれだけ自由に動いていた人間だ。ロープで拘束していても安心はできない。
 出来ればロープでぐるぐるに巻いてしまいたいところだが、それを武藍(ウーラン)が望まなかった。
 煌和会(ファンフォフゥイ)の支部までそれほど時間がかかるわけでもないので、物理的に動けなければいいだろうと判断した。
「それにしても武藍(ウーラン)様も困ったものです」
 いきなり人一人誘拐してこいと言い出した。それは別によくあることだからかまわないが、問題は監禁され拘束されている人間を誘拐してこいという特殊な話だった。
「寧野(しずの)が金糸雀(ジンスーチュエ)だからといわれたら分からなくないが……」
 半分とは中国人である寧野(しずの)は、ある意味自分たちと同類だ。違うところといえば、寧野(しずの)は生まれながらにして特殊ということだろう。
 金糸雀(ジンスーチュエ)と呼ばれる一族。金の流れを読むことができ、それを自由に出来る。だが彼らが歴史上、優位に立ったことはない。常に狙われ、奴隷として扱われた。籠の鳥の意味でもある金糸雀(ジンスーチュエ)。ロシアに近い国境あたりの山脈に一族が住んでいたといわれている。言われているというのは、その村はもうないからだ。近くは貉(ハオ)に追われ、さらにはロシアの皇帝にも狙われていたという。
 貉(ハオ)の拘束から解放された元金糸雀(ジンスーチュエ)一族は、村へ帰ると言っていたが、そこで暮らしていけるほどの力はなかったようだ。結局、鵺(イエ)の力を借りて小さな村に腰を下ろして暮らしている。
 それは今までの暮らしの中で、もっともゆったりとした時間のようだった。
 元々金糸雀(ジンスーチュエ)の子供が生まれないという理由で破棄された一族の残党だ。金糸雀(ジンスーチュエ)の資格を持った人間が外の世界にいることは、黒社会でも知っていることだ。
 その可能性が一番高いと言われる織部寧野(おりべ しずの)は、父親が確実に金糸雀(ジンスーチュエ)だった。
 この血筋に金糸雀(ジンスーチュエ)の血統が生まれるならば、寧野(しずの)もそうであると誰でも思う。だが寧野(しずの)には一向に金糸雀(ジンスーチュエ)の力は見えず、すでに絶えた金糸雀(ジンスーチュエ)の兆候すらみえなかった。
 誰もが本気で一度は金糸雀(ジンスーチュエ)をほしいと思い、織部寧野(おりべ しずの)を調べる。だが、そこで真っ先におかしなことに気づく。金糸雀(ジンスーチュエ)としての力を発揮していない事実に。
 そこでありもしないものに踊らされていると考え、誰もが手を引いた。あの鵺(イエ)でさえあっさりと宝生組(ほうしょう)の若頭に織部寧野(おりべ しずの)を渡しているところから、金糸雀(ジンスーチュエ)の力はないとはっきりしていると考えた。
 もちろん中にはその力の恩恵を受けたいと考える人間は多い。しかし織部寧野(おりべ しずの)に力がないという見方が強い今、誘拐してまでして後継を育てるほどの悠長な人間は存在しなかった。
 そこで武藍(ウーラン)は最初こそ興味はなかったが、本人に興味がわいた。そしてそれを誘拐する理由に、わざわざ後継を育てるという話にした。子供なんていても仕方ないのだが、それを理由にすれば織部寧野(おりべ しずの)を誘拐してもおかしくはない理由が存在出来た。
 まさか惚れただの、観賞用に監禁しようとしたという理由なんて、誰も想像だにしないだろう。唯一同じ趣味である俐皇(りおう)や寧野(しずの)の恋人くらいなものだ。
 はてと豹(バオ)は考える。
  武藍(ウーラン)のことはほかに任せるしかないが、織部寧野(おりべ しずの)の恋人はいまどこにいるのか。俐皇(りおう)から解放された宝生組(ほうしょう)若頭宝生耀(ほうしょう あき)はあれから二ヶ月経っているが行方不明のままだ。
 宝生組(ほうしょう)は動いている様子はなく、宝生耀(ほうしょう あき)のことは棚上げしているらしい。本人が誘拐されて消えたままなのも、放置するほど余裕があると見せているのか。それとも本当に関心がないのか、宝生組(ほうしょう)組長代理の宝生楸(ほうしょう ひさぎ)の考えていることは読めない。
 もし武藍(ウーラン)と事を構えることになるのは、宝生耀(ほうしょう あき)の方ではないかと密かに豹(バオ)は警戒している。
 恋人を奪われたまま怪我をしていたとはいえ、そのままで済ませるとは思えない。
 それくらいに俐皇(りおう)に屈辱を味あわせられているはずだ。
 だがその宝生耀(ほうしょう あき)がどこに潜んでいるのか、豹(バオ)でさえ探せていないとなると、あの因縁がある九十九朱明(つくも しゅめい)ですら探せていない可能性がある。
 日本のただのヤクザが、味方がそれほどいるわけではない欧州でここまできれいに姿を隠せている事実を誰が問題視している?
 わかっているものなら驚異に感じているはずだ。

 敵地で潜伏できるということは、内部に張り込むのも容易だということ。
 それが宝生耀(ほうしょう あき)には出来ているという事実。
 豹(バオ)はそこまで考えて、これを武藍(ウーラン)に報告したほうがいいのではないかと思った。
 この織部寧野(おりべ しずの)を監禁するならば、一番警戒すべき相手を甘く見ていないかと。