novel

spiralling-26

 寧野(しずの)が目を覚ますと、周りはまだ薄暗い夜明けだった。
 窓から見える景色に、寧野(しずの)は「ああ捕まったのか」という思いがすぐに浮かんだ。
 海に飛び込んでから日が経っているのか、肌寒い感じがした。地中海の暖かさではない寒さに、寧野(しずの)ははっとして目を覚ます。
 起き上がろうとして目眩がして、一瞬だけ体が崩れかけるが腕で支えて起き上がる。息を吐いて改めて周りを見合わすと、そこが今までいた場所ではないことがはっきりとした。
 まず窓がない。窓から見える景色だと思っていたものは大きな絵だ。その周りに間接照明が置かれていて光っている。それが日光のように見えていただけだ。
 襲撃されたから場所を変えたのかと寧野(しずの)が思っていると、部屋の中に一人の人間が座っていた。
「起きられましたか?」
 そういう言葉が日本語で綺麗な発音だった。
「あの……」
 今まで俐皇(りおう)の屋敷にいるときは誰にも会ったことはなかった。最悪会ったというカウントにするなら九十九朱明(つくも しゅめい)だけだ。気配はするが姿が見えないメイドらしき人はいたと思う。けれど俐皇(りおう)の屋敷で寧野(しずの)が誰かに会ったり話したりはしていなかった。
 だからここにいる人間がどういう人間なのか想像すら出来ない。
「私は寧野(しずの)の身の回りの世話をさせていただきます、塔智(ターヂー)といいます」
 にこりと笑ってそう言われて思わず頭を下げてしまった。
「それよりここは……」 
「それについてはいずれ主人からお話があるかと思います。私からは身の回りのことしかお答えできることはありません」
 そうはっきりと言われて、寧野(しずの)は目を見開いて塔智(ターヂー)を見た。
 これは俐皇(りおう)の側近ではないという違和感だ。
 俐皇(りおう)は徹底的に自分の周りは隠そうとした。自分以外の誰かに助けを求められないようにだ。
 それがどういう意味なのかわからないが、この主人という人間は自分の周りを信用して絶対に裏切らないことを知っている人間だ。それが誰なのか予想するしかない。 
 寧野(しずの)は周りを見回した。飾り付けが完全に中華系のそれだ。竜や花がふんだんに使われたベッドの支柱。かかっているシーツも細かな花が刺繍されていた。寧野(しずの)が来ている服は、留め金が花になっていて、中華映画に出てくるチャイニーズドレスやそれに準ずる衣装のようだ。
 はっきりと和青同(ワオチントン)の教(ジャオ)か武藍(ウーラン)という人間かと二者選択となった。
 あのとき、九十九朱明(つくも しゅめい)が言っていた名前だ。そのどちらかだとしても教(ジャオ)であった場合、あんな風に戦闘態勢がむき出しの和青同(ワオチントン)だと、こんなに悠長に寝かせてくれるとは思えない。そうなると残りが武藍(ウーラン)だ。武藍(ウーラン)であるなら、問題なのは寧野(しずの)が武藍(ウーラン)を知らないということだろうか。
「どうしよう」
 逃げるにしたってここがどこなのかわからない。歯の中に仕込んだ発信器の寿命はまだあるから耀(あき)には居場所は伝わっているだろうが、それでも自分がここがどこで何の目的で連れてこられたのかわからないと、普通に不安なのだ。
 監禁場所に窓がなく情報は一切入ってこない。内部の壁は磨りガラスのようなもので覆われているが、このガラスが割れるとは思えない。防弾ガラスというやつだろうか。隣の部屋はあるが、たぶんここがベッドルームで向こうがダイニングみたいな違いだろう。これだけ派手な中華風の飾り付けをしている人が、食卓を一緒にするとは思えなかった。
 とりあえず動くなとは言われていないので、隣の部屋に移動してみた。
 やはり磨りガラスのようなものが廊下側の方にある。これは今のところこちらからはどうにも出来ない。ふと見るとテレビがあってチャンネルもある。
 まさか映るわけないだろうと思いながらも電源を入れると、普通にテレビが映った。 
 映ったチャンネルはアニメのチャンネル。海外のアニメチャンネルで書いてある言葉は英語だ。日本のアニメだったり、アメリカのアニメだったりと、変わっているけれど英語を使うようなところに移動した覚えはなかった。
「今日、何日」
 テレビで日にちを確認すると、日本表記で日時が出た。これは日本からわざわざ取り寄せた日本のテレビだ。海外で日本のテレビを買ったなら海外表記、それもその国に合わせた物になるはずだ。
 まさか居場所を探られないための工作をしたのかと寧野(しずの)は思ったが、そこまでしてもあまり意味はないはずなのに、警戒されていると思った。
 どうやらどこの誰か知らないが、自分のことを警戒しながらもこんな派手な部屋に監禁できる人間らしい。さらに中国語の名前、武藍(ウーラン)となると、和青同(ワオチントン)と競うような相手なら。
「煌和会(ファンフォフゥイ)」
 思わず口からその名前が漏れた。
「ご名答、この短時間によくたどり着いたね」
 いきなり声がして驚きながら振り返ると、170センチの寧野(しずの)より10センチほど背の高い男が立っていた。腰まである長い髪を後ろで一つにまとめ、長い前髪が肩の辺りを通って後ろにまとめられていた。顔は中国人というよりは西洋の彫りの深い容相で、想像していた人間より非常に美丈夫な感じだ。体つきも何か武術をしているような筋肉の付き方で、歩いてきた時もそこまで気配を発揮しない。
 俐皇(りおう)のような人間ならもっとわかりやすいのに、この人物、そういう感情が見えないのだ。
 好意はあるが俐皇(りおう)ほどではないためわかりにくい。
 つかみどころがあまりにない。見た目はこんなにわかりやすく存在感があるというのにだ。
 今の所恐怖や畏怖のようなものは感じない。どういう人物なのだとにらみつけていると、男は不用意に寧野(しずの)の戦闘範囲に踏み込んでくる。
 思わず身構えたところ、すっと持っていたテレビのリモコンを取り上げられた。
「うるさいからね」
 にこりとして言われ、寧野(しずの)はさらに一歩下がった。
 あれが攻撃だったら確実に攻撃を受けていた距離だ。
 なのに、警戒心が出てこない。なんだろうかするりと入ってくる猫みたいな人間だ。
 すっと構えたところ、向こうは面白そうに笑った。
「やるんだ?」
「は?」
 どうして嬉しそうに構えるのか理解できずに寧野(しずの)は問いただしていた。
「どういうことだ?」
「いや、一度はやってみないとどっちが強いかわからないだろう?」
  なんとも楽しそうに構えられて、どういうわけか向こうから仕掛けられた。
  いきなりの足払いに寧野(しずの)は軽く飛んで後ろに下がるが、そこを狙ってまた足払いだ。
 空中で一拍おいて地面に降りると、足払いをした男はすっと立ち上がって笑っていた。
「すごい、滞空時間がおかしいくらいだ。どうやった? どうして一拍あけられる?」
 わくわくして尋ねられて、寧野(しずの)は拍子抜けしように答えた。
「練習したら出来ただけで……」
 素直に答えると、感心したように男はうなずく。
「練習か……そういや監禁されていた間もずっと練習してたってね」
 そう言われてびくりと寧野(しずの)は体を震わす。
 どうしてこの人はそこまで知っているのかという疑問が、すぐに答えに出た。
 この人は、寧野(しずの)が監禁されている間も監視していたということだ。そして寧野(しずの)が海に飛び込んだ時も見ていて、気を失っている間に引き上げて連れてきたわけだ。
「可哀想に、あんなに執着されてさぞかし死にたかっただろうに」
 体を舐めるように見られて、寧野(しずの)の顔が青くなる。この人は気を失っている間に寧野(しずの)の体中につけられた痕を見たということだ。俐皇(りおう)が執拗に残したキスマークがあちこちに残っていて消えてくれないままだ。あれからたった二日だ。それはまだ残っている。
「大丈夫、あんなことはしない。君はいてくれるだけでいい」
 その言葉がどれほど残酷なのか、この男は理解しているのだろうか?
「いてくれるだけ?」
「そうだよ、sexの相手なんてしなくていい。そんなものはほかでどうとでもなる」
 情人として扱うつもりはないと言いたいのだろうが、何もしないのにいてくれるだけでいいというのは、観賞用にしておくだけという意味だ。
「そのためにこの部屋を用意した。素晴らしいだろう、こうやってガラスを透明にすることも出来る」
  本当に寧野(しずの)を鑑賞するために用意した檻だと断言されて寧野(しずの)は目を見開いて男を見た。
「あなた、誰?」
「私は、操武藍(ツァオ ウーラン)、煌和会(ファンフォフゥイ)の龍頭(ルンタウ)だ」
  はっきりと自己紹介され、寧野(しずの)はまさかと一歩離れた。
  武藍(ウーラン)のイメージがあったわけではないのだが、こうやって堂々と現れるような人間ではないと思っていた。まして龍頭(ルンタウ)と名乗るようなのは、ありえないのだ。
  黒社会において、龍頭(ルンタウ)の存在は隠されている。名前がわかったところで姿がわからなければ、暗殺をされることはない。だから幹部の人間しか顔を知らないなんてことはよくあることだ。日本のヤクザのような顔や名前がはっきりしているのはものすごく珍しいことなのだ。
つまり名乗ると言うことは、寧野(しずの)を外へ二度と出す気はないという意思表示でもあるわけだ。
「俺を本当の金糸雀(ジンスーチュエ)にするのか?」
  籠の中で鳴いているだけのカナリアにしようとしているのかと問うと、ふむと武藍(ウーラン)は考えて頷く。
「なるほど、まさしくそれだな。ここにいてくれればいい。何をするでもないから簡単だよ」
 まるで仕事を与えてやったかのような言いように、寧野(しずの)は頭が真っ白になる。 
 こいつ何を言っている? どういうことだ? 観賞用にわざわざ誘拐をしたというのか?
「君はここで私のために暮らしていればいいんだ」
 にこりと笑っているのだが、何という傲慢な笑い方だ。まさしく龍頭(ルンタウ)として頂点に立ち、有無を言わせない力を持っている人間のやることだろうか。
 耀(あき)はもちろん、俐皇(りおう)とも違い、自分に触れることをしない不思議なことを言い出す男。
 聞いているだけで頭がおかしくなりそうなことを平然と口にする様子から、この男にとってそれは普通のことなんだろうか。
 違う怖さが出てきて、寧野(しずの)は理解できず顔をしかめる。
「さあ、食事を用意した。好き嫌いはないといいがね」
 武藍(ウーラン)は満足したように部屋から出て行く。ガラス窓の一部が開いたのだが、その外には十人ほどのボディガードがいる。あそこをなんの知識もなく飛び出すのは無謀すぎる。
 どうしようかと迷っていると、窓ガラスに入っていた白いもやが一斉に消えた。窓の外には壁であるが、窓がある。そこから見えるのはやはり海だけで陸は見えない。この屋敷もまた海岸線か孤島になるのだろうか。
  そして下へ降りていく階段がある。武藍(ウーラン)はそこから降りていったが、その階段の広間は20畳ほどあり、少しのスペースにソファとテーブルがある。いったい何をするために用意しているのかわからないが、まさか本当に鑑賞するために用意したと言わないでくれるとありがたい。
  部屋の中はガラスですっかり見えるようになり、さっきまで居たベッドルームもガラスだけでだから丸見えになっていた。唯一壁になっているところはベッドやタンスがあるだけだ。着替えるように用意したのか、下半身が隠れるくらいのところまで木の板があり、上部分が欄間のようになっている屏風がある。その向こう側に透明なガラスのトイレと風呂がある。
 さすがに感心しない趣味だと思って顔をしかめたところ、塔智(ターヂー)が言った。
「中に入れば一応ボタンで隠れますよ。お風呂の方は申し訳ないですが監視が中にいない場合は透明なままですが」 
 さすがに排便の眺めるほどの趣味には達していないようで少しだけほっとした寧野(しずの)である。
  さてどうしようか。
  逃げようとして失敗したのはさっきの話のようなもの。慣れないことをして別の者に捕まったなど、耀(あき)に知れたら怒り狂いそうだ。よく考えて行動しなければならない。
  観察してしっかりと穴を見つけないと。だが今度は監視までつけられている。だがあの人を人質にしても脱出出来るとは思えない。あの狂人ぶりの武藍(ウーラン)の選んだ人間だ。助けを求めることはおろか、死んでしまいそうだ。そして新しい人間に変わってしまうだけだ。それではキリがない。
 なんとか味方にしてと思ったが、味方になりそうにない人物なのだろう。
 でもそこまで強いような人間に見えないから、その時までに人となりまで調べることにしよう。
  塔智(ターヂー)がドアの近くまでいくと、外から食事が運ばれてくるのだが、見ている限りとてもじゃないが出られる要素がない。
  さっき居たボディガードはここの警備で全員がこちらを見ようともしないで淡々と仕事をしている。さすがに龍頭(ルンタウ)が見学していった後に茶化すような人間はいないようだ。一人一人顔を見たが誰も目を合わせようとしなかったのが印象的だ。
 塔智(ターヂー)が食事を受け取るのは小さな窓だ。入り口に一カ所だけドアを作る関係でガラス以外のものがあるわけだが、そこに小さなドアをつけてそこから食事の受け渡しをしている。さすがに待遇がいいのか、食事の量は圧倒的に多い。
  塔智(ターヂー)が並べてしまうと食事を勧めてくる。
 さすがに二日ほど眠っていたらしく、お腹は空いていた。だから断る理由はない。それにあの様子では武藍(ウーラン)が他に自分を移す気がないことは読み取れたので、おとなしく食べることにした。
 出てきた料理は中華料理である。麻婆豆腐やチャーハンといった、妙に馴染みがある一般的な日本人が思い浮かべる中華料理だ。小篭包を頬張りながら、寧野(しずの)はいろいろ考えた。
 二ヶ月経っている。そう耀(あき)の怪我はそろそろ全快していると思っていい。もし骨折をしていたら、それも肋骨だった場合、もっとかかるかもしれないと億伎(おき)が言っていた。
 その予想が十分わかったのは、助けが来ない理由になっていた。それくらいの予想は最初から立てていたから、耀(あき)が来ないことを恨めしいとは思っていない。
 それよりも自分の我慢が足りないと大反省するばかりだ。あのとき、飛び降りずに俐皇(りおう)と一緒にいるべきだったはずだ。ただあそこにいたくないばかりに自力で脱出しようとした結果がこれでは落ち込むばかりだ。
(ややこしくしたなぁ……ほんとどうしよう)
 本気で自分の失態を嘆いていると、それを傍目に見ていた塔智(ターヂー)が慌てたように尋ねてきた。
「美味しくないですか?」
「え……あ、いや、美味しいです」
  食事がまずくて泣いていると思われたのかと思ったら情けなくなった。
「よかった」
  塔智(ターヂー)がにこりと笑っていて、思わず釣られて笑ってしまう。
(なんかこの人、戦闘とはかけ離れた生活にいるような人っぽいな)
  そんなか感想が出来たがそれでもこの人も敵であることは変わりない。たとえこの人が奴隷としてここにいるとしても、逃げるためには敵である認識を捨てては駄目だ。
  耀(あき)がよく言っていた。見知らぬ人がどれだけ親切でも、ヤクザの世界に身を置いているなら信じるなと。それは寧野(しずの)にはよくわかる。ヤクザの子だからと煙たがられていた方がまだ楽だったこと。下手な味方は守ってあげられないのだ。
(いい人っぽいのにな)
 食事が終わると片付けも塔智(ターヂー)がやってしまい、本当に寧野(しずの)がすることがない。風呂が沸いていると言われ、風呂に入る時も塔智(ターヂー)が監視する。唯一一人になれるのはベッドの中とトイレくらいだ。
 見ていないように見られていることには慣れているが、堂々と見られるようなことになるとは思わなかった。
  風呂に入って着替えまで用意されていて、シンプルな服に着替えて後は寝るだけの時間になると、寧野(しずの)はおとなしく寝ることにした。二日も寝ているから眠くならないと思っていたが、意外に眠くなるものだ。
 考えることに疲れるというのだろうか、脱出するための考えはやめるわけにはいかないから、寧野(しずの)は布団に入って自然と眠れるまでずっと脱出することに役立つことを覚えようと頭を働かせた。



  そんな寧野(しずの)がやっと寝てくれると塔智(ターヂー)はドアの方へ移動した。
  寧野(しずの)の食べ物には少しだけ睡眠剤が入れてある。寝ないで行動されると困ることもあるからだ。本人は気づいていないだろうが、それでいいと塔智(ターヂー)は思っている。
  寝ている寧野(しずの)を使って何度か精子を取るための作業をしたことに寧野(しずの)は気づいてなかった。
  今日もそれを行うわけだが、今日はそれまでの反応とは違うことに塔智(ターヂー)は気づいた。
「ふっ……ん」
  達かせるための行為に寧野(しずの)が反応しているのだ。甘い声が漏れ、顔を赤く染めている。それまでの反応では深く眠っているだけでそこまでは反応していなかった。
  塔智(ターヂー)は少しだけドキリとする。純粋に達しているところが見たくなって寧野(しずの)を達かせる。
「あっぁ」
  試験管の中に精子が放たれる。
  体が反れて足先がシーツの波に泳いでいるのを見て、妙に満足したのだ。
  乱れている寧野(しずの)がひどくかわいいと思え、それまでに見えていた強さはそこにはなかった。
  好きな人に抱かれている時の寧野(しずの)はきっと可愛いに決まっている、そうはっきり確信が持てるようなかわいさだ。弛緩する体を整え、取り上げた精子を試験管に密閉して外で待っている研究員に渡す。
  その研究員の後ろには豹(バオ)が立っており、すべての様子を見守っていた。
「あなたがいうかわいさというのが少しわかった気がします」
  素直に好みだという豹(バオ)の意見に初めて賛同したくなったのだ。
  その言葉に豹(バオ)は少しだけ驚いていたが、それでもわかるだけに頷く。
「長くいるだけきっと、魅力を感じるようになるんだろうな。だから気をつけろ塔智(ターヂー)、向こうからすれば俺たちはただの誘拐犯だ。決して彼の味方じゃない。それだけは肝に銘じておけ」
「わかっているよ。私たちが武藍(ウーラン)様に生かされているのは事実なんだから」
  わかっていてもわかりたくないことだってある。自然と芽生える何かを押さえることなんて出来ない。
  武藍(ウーラン)にとって観賞用であっても、触れたいと思うような人間がいるのだ。
  その相手が眠っているのを邪魔しないように豹(バオ)は下がっていった。 
  塔智(ターヂー)は椅子に座って眠りにつく。物心ついたときから寝室などというもので眠ったことはない。偵察者である豹(バオ)について行くために身につけた一つの身を守るためのもの。今日は違う意味で眠れそうにないことなど、寧野(しずの)は知らないままなのだろう。

  織部寧野(おりべ しずの)を手に入れた操武藍(ツァオ ウーラン)はその日機嫌がよかった。
  二ヶ月かかってやっと手引き通りに商品を手に入れたわけだが、武藍(ウーラン)が望んでそこまでかかった品物は、今までなかった。欲しいものは何でも手に入れられる。たとえ人の命であろうとも簡単だった。それがたった一人の日本人を手に入れるまでに二ヶ月もかかるとは思いもしなかったのだ。
  あの九十九朱明(つくも しゅめい)に頼んだのにだ。九十九(つくも)はいつでも手早く商品を取り寄せる。それが今回、消えた真栄城俐皇(まえしろ りおう)の居所がわからない限り、織部寧野(おりべ しずの)の居場所もわからないとあり、かなり苦労したようだ。
 その場所を見つけ出した九十九(つくも)だったが、和青同(ワオチントン)につけられていることにも気づいていた。仕方が無いのでそのまま和青同(ワオチントン)も巻き込んで俐皇(りおう)を翻弄し、寧野(しずの)の脱出も成功させた。ただ飛び込むとは思っていなかったようで怪我をさせていたら済まないと一言あった。
 だが怪我もなく元気な状態で引き受けて連れてこられたのはラッキーだ。
 その寧野(しずの)を見た瞬間、少しやつれているように見えた。
  監禁生活は思いの外、神経を使っていたようだったが、その苦労もここで終わる。
「ああ、なんて美しいんだ。生きているというのは本当に」
  生きている人間をほしがったのは二度目であるが、一度目はうっかりで殺してしまった。
  今度は性別も違う上に、元気なのを選んだ。今度こそ失敗はしない。
「たしか愛子(エジャ)は美しすぎてカジノではひどく目立っていたらしいな。写真を見たが、そこまで似てはいないからいろいろ混ざったんだな。たしか沖縄の人間だったか」
  だがその容相に聞いていたこととは少し違うことに気づいた。茶色から赤に近い髪はその方面より違う血が混ざっている証拠だ。母親は沖縄の人間だが、父親が外国人だということ以外の情報はない。母親が父親の素性を語っていないことから出生は不明だ。
「その辺を調べましたところ、秋篠啓悟(あきしの けいご)からもしかしたらという憶測の話があるとのこと」
  柴敬信(チャイ ジンシン)がそう言い出した。
  言葉なく武藍(ウーラン)が促す。
「愛子(エジャ)の相手ですが、貉(ハオ)の龍頭(ルンタウ)新雪(シンシュエ)というのが一般的な認識であるのですが、本当は鵺(イエ)の龍頭(ルンタウ)司空(シコーン)だったのではないかと」
「はっ面白い!」
  嵯峨根会理事長の秋篠啓悟(あきしの けいご)の憶測は、ただ身近な知人に話した程度のことである。それを調べたところではっきりとした証言が出てくるわけではない。それこそ司空(シコーン)がそうであると認めたという話もきかない。だがそれを裏付けるような内容がある。
  新雪(シンシュエ)は出生を知っていて黙り通し、そのまま死んだ。解放されてたった二年での死去。死ぬまで持って行った秘密であるが、あの司空(シコーン)が貉(ハオ)を壊滅させる原因となったのが、織部寧樹を貉(ハオ)の手先のヤクザが殺してしまった事件だ。
  そこから宝生組(ほうしょう)に鵺(イエ)の繋ぎが出来、織部寧野(おりべ しずの)は宝生組(ほうしょう)に預けられた。
  そもそもここで鵺(イエ)が首を突っ込む理由はほとんどなかったはずだ。ただ日本の縄張りに入り込んだ中国人を排除していた鵺(イエ)と宝生はもめていたのに急に協力体制になった。
 対立することはあっても協力することはあり得ない。ここがおかしいことに当時は誰も気づいてなかった。
 カジノで愛子(エジャ)と司空(シコーン)が出会うことは絶対にあったはずだ。カジノで何度も会っていたとすれば、恋が芽生えても不思議ではない。
「面白い、面白いよそれ。つまり織部寧樹は時期龍頭(ルンタウ)だったわけだ。それを日本のヤクザがうっかり殺してしまったのか。そりゃ身内を殺された鵺(イエ)は悟られないように報復したいわけだ。ははは、それで表だって動けないから宝生を使った。で、宝生の組長代理はそれを知った上で知らぬ振りをして貉(ハオ)壊滅に力を貸した。若頭が織部寧野(おりべ しずの)を純粋にほしがったから、寧野(しずの)はそのまま若頭のところにいるわけか」
 司空(シコーン)は織部寧樹が自分の息子であることを知っていた。しかし当時立場がそこまで確立出来てなかった司空(シコーン)がよその組織の奴隷として飼われている金糸雀(ジンスーチュエ)が生んだ子供を龍頭(ルンタウ)の子として迎えることは到底出来ないから、そのまま引き取らず日本で暮らさせていた。
 しかし迎えることが出来た時には、寧樹は家庭を持っていて司空(シコーン)の誘いを断った。
「それで司空(シコーン)は引き下がったって?」
 武藍(ウーラン)は自分で疑問を投げかけて、首を横に振った。
「龍頭(ルンタウ)である自分の決定に従わないなんて有り得ない」
 そこまで言うと月英(ユエイン)がはっとする。
「それで織部寧野(おりべ しずの)の母親は死んだのですか?」
「さあそれはわからないさ。だけどその結果、織部茅乃が死んだのは事実だ。そして織部寧樹は一人で寧野(しずの)を育てた。さてどうして司空(シコーン)は引き下がることになった?」
 さて問題だとばかりに武藍(ウーラン)が言った。
 もし寧樹を引き取るために断る原因になった母親を殺そうとした。子供は寧樹の血を引いているから殺すのは躊躇した。けれど母親は殺してもいいと判断した。寧樹は関係ないと言って一旦茅乃と離婚した。けれど数ヶ月後に殺されている。それも交通事故で何度もひき殺された。
  けれどそれで寧樹と諍いがあっても司空(シコーン)は強引に寧樹と寧野(しずの)を引き取ることが出来たはずだ。それこそ誘拐してもいいのだ。だがそうならなかった。何故だ?その疑問には足りないピースがある。
 寧樹と寧野(しずの)に手を出すことが司空(シコーン)にすら出来なかったという理由。
 それが何なのか。一つのピースは母親の茅乃だ。
「離婚後の名前は、真境名茅乃(まじきな かやの)、真境名(まじきな)家は沖縄の人間で茅乃の母親はるみ子。るみ子の夫は不明で、るみ子はフランスに留学中に事実婚をしていたらしいが、そのまま別れたようです」
「はははは、これは面白い。真境名(まじきな)るみ子はあの光藍(こうらん)と兄妹だって?」
  沖縄にあるヤクザの組織、高嶺会(たかみねかい)。その前会長が真栄城光藍(まえしろ こうらん)という。もちろんあの真栄城俐皇(まえしろ りおう)はこの光藍(こうらん)の孫だ。つまり寧野(しずの)は俐皇(りおう)とは親戚なのだ。
  真境名(まじきな)るみ子の母親、はやは真栄城(まえしろ)刀藍(とうらん)と結婚し、光藍(こうらん)とるみ子を生む。しかし離婚して、るみ子だけつれていった。光藍(こうらん)は真栄城(まえしろ)家の長男であるので刀藍がそのまま引き取った。結果真栄城(まえしろ)家には刀藍が再婚しても女の子供しか恵まれず、光藍(こうらん)が後を継いだ。そして光藍(こうらん)は高嶺会(たかみねかい)を作り、そのヤクザのトップに収まる。
  るみ子とはやは今現在、光藍(こうらん)の世話になっており、寧樹が死んでも寧野(しずの)を引き取ることは出来なかった。というのも、光藍(こうらん)が引き取りたがらなかったというのが本当のところだ。
 なので寧野(しずの)は天涯孤独ではないのに、すべての親戚から見放された。
「その中で唯一手をさしのべたのが、宝生耀(ほうしょう あき)だって? ははは、それはそれは。なんだあの二人、恋愛関係であるというのに、根本的なものがこれなのか」
  武藍(ウーラン)はそのことを知って嬉しそうに微笑む。 
「刷り込みで好きだと思い込んだまま、ここまできたわけだ」
「それだけ根が深いのではないでしょうか」
  月英(ユエイン)が喜んでいる武藍(ウーラン)に忠告している。
「どういうことだい?」
「それから何年も経って一緒に育んできたのなら、それだけ想いの根が深いのではないでしょうか。それこそ他人が入ることなんてできないほどの想いが育ってて。事実、二ヶ月経っても俐皇(りおう)はものには出来てなかった」
「私に出来ないと?」
「武藍(ウーラン)様がそのままであられるなら、きっと彼は死ぬまであのままだと思います」
  武藍(ウーラン)の機嫌が悪くなるだろうが、それは真実だから媚びずにはっきりと月英(ユエイン)が言う。これで自分の首が飛ぶなら、武藍(ウーラン)はそこまでの男になる。
  反対意見も聞きたくなく、自分の言う通りに賛成するだけなら誰にでも出来る。けれどそれはしてはいけないところもある。月英(ユエイン)はずっとそうしてきた。だから崩さない。
  一瞬激高しかけた武藍(ウーラン)だが、深い息を吸って吐くとそのままソファに座った。
「私が未だに陽妃(ヤンフェイ)のことを思っているようなものなのか?」
そういう感情に覚えがあったために、武藍(ウーラン)は月英(ユエイン)に尋ねた。
「ええ、似てます。ただ陽妃(ヤンフェイ)様は亡くなられましたが、寧野(しずの)さんの彼になる宝生耀(ほうしょう あき)は生きている。生きている限り会うことが出来る。その違いがあります」
 月英(ユエイン)がそう言ったのが間違いだったのか。
 武藍(ウーラン)の歪んだ愛情を織部寧野(おりべ しずの)が理解できるわけがなかった。武藍(ウーラン)が未だに好きだという陽妃(ヤンフェイ)も理解できなかったように。武藍(ウーラン)は寧野(しずの)を金糸雀(ジンスーチュエ)のように扱い、籠の鳥にして鑑賞することで生かそうとした。