novel短編

ジキルでハイドな男-3

 凪(なぎ)は、毎晩真継(まつぎ)を好きなように抱いていた。
 真継が抵抗しようとも、それを封じて、何度も何度も真継を求める。


 そして、真継が気絶してしまうまで攻め、気絶した所で、それが終わる。
 真継にはそれが凄く長い時間に感じた。

 その間、真継は自分が自分でないような感覚に陥り、もう何がどうなってもいいと思う程、真継は凪に流されていた。

 真継は、こんな行為をされている間の自分は、絶対に自分の意志ではないと心を分離して、堪える事で正気を保っていた。

 いくら抵抗しても、力で封じられては何も出来ない。
 それでも凪が真継を殴るなどの暴力を加えることはなかった。


 凪が真継を抱くのは、夜の間だけで、昼間は凪はいつも何処かへ出掛けてしまっている。

 何処へ行っているのかなど、真継には解らないが、朝にはいつも姿がなく、夕方になると戻ってくる。


 凪は、いつも帰宅した時は、真継の姿を確認する。
 その時、安堵したような溜息を洩らしているのに、真継は不思議な感覚を覚えた。

 本当に、この人は、自分が逃げてしまっているのではないかと不安になっているのだと。
 逃げれるはずなのに、何故そんなに不安になるのだろうと思ったが、凪にとっては、10年という長い間探し続けてきた真継が目の前にいる事を確認する事で、自分の気持ちを落ち着かせているのだと、真継は思う事にした。

 そう思わなければ、凪の行動の意味が理解出来ないからだ。

 何もする事がない真継は、身体がやっと慣れてた所で動ける範囲で行動をしていた。
 TVを観る事は出来たが、電話などの外部と連絡を取るものは何一つ置いてなかった。
 もともと、電話は取り付けてなく、全て携帯で済ませていたのだろう。

 食事は、何処かで買ってきた弁当や、カップラーメンだったりで、本当に凪が家事の何一つ出来ないのだと、真継はこの時になって本当だったのだと思った。

 洗い物も、洗濯もしない。
 
 さすがにこの不器用さに、こういう状況でありながらも真継は呆れ果ててしまった。

 もしかしたら、汚れたシーツなどは、洗濯する事なく捨ててしまっているのかもしれない。


 そして、一週間が過ぎた頃に、真継は凪にこう申し出た。

「材料買ってきてくれたら食事作ります。洗濯も置いててくれれば、やっておきます」

 帰ってきた凪に、真継がそう申し出ると、凪は凄く驚いた顔をしていた。
 真継はそういう事を言い出すとは思っていなかったのだ。

「あ、いや、やっぱり弁当じゃ駄目か?」
 自分はそれでも大丈夫だがという口振りだったが、心配したような感じにも聴こえた。

「いえ、することがないんで」
 真継が素っ気無く返すと、凪は少し考え込んだ。

「じゃあ、リスト作ってくれ。明日、買ってくる」
 凪はそう言って、真継の前にメモ帳を差し出した。

 真継はそれを受け取って、メニューを考えていたが、ふと顔を上げて凪を見た。
 
「凪さんは、何か食べたいものありますか?」
 真継がこう言ったのが意外だったのだろうか、凪は更に驚いた顔をしていた。

「いや、俺は何でも」
 やっとその言葉を吐いたように凪は言った。

「解りました」
 真継は淡々と受けて、適当に買い物リストを作った。

 それを凪に渡すと、暫く眺めていて頷いた後、自分がいつも持っているバッグの中にそれを仕舞った。


 そして、凪はTVの前にある絨毯に座るといつも真継を呼ぶ。
 何をする訳でもないが、凪は真継を後ろから抱き、髪を梳きながら時々シーツを羽織っている真継の身体を摩ってくる。
 ただそうやって触るだけ。
 確認するように、確かめるように。

 それが異様に優しい事に真継は安堵してしまっていた。
 それと同時に、そう思っている自分が不思議でならなかった。


 凪は、こうした真継の淡々とした全てを諦めてしまっている態度に、段々とイライラし始めていた。

 確かに自分がこうした状況を作ったのだから、批難されようが何を言われようが、それは甘んじて受ける覚悟はあった。

 しかし、真継を抱くごとに抱いている間は完全に自分を解放しているのだが、それ以外の時の真継の表情から喜怒哀楽が消えていくのが解った。

 まるで人形といるような感覚。

 いや、それどころが服従する事に慣れている。
 真継はそうは思ってないかもしれないが、こうした行為に堪える事を無意識に理解している。

 だが、いくら好きな人を抱くとしても、そこに感情がなければ、空しさが増して行くだけだった。

 それでも真継を手放す事が出来なくて、凪はその感情の狭間で苦しくて苦しくて、狂ってしまいそうな気がした。








 朝、いつものように部屋を出た時、真継の自宅に男が訪ねてきていた。

 誰だ?そう思って見ていると、向こうの方から話し掛けてきた。

「こんにちは。俺、令夏真継(はるか まつぎ)のクラスメイトの大岐(おおき)といいます。えっと、真奈さんの紹介で引っ越してきた方ですよね?」

 大岐と名乗った真継のクラスメイトは、いかにも体育会系で、凪(なぎ)くらいの身長がある男だった。

 凪は余所行きの笑顔を作って対応をした。

「ああ、そうだよ。九頭神(くずがみ)です、よろしく」
 凪が言って手を差し出すと、大岐は快くそれを握って握手をしてきた。

「すみませんが、令夏(はるか)っていないんですかね?」
 大岐は少し心配した顔で凪にそう聞いた。

 これを聞いた時、真継が大岐に、凪の世話をするという話をしているのだと解った。

「ああ、今朝食事持ってきてくれた時に、何処か出かけるような事を言ってたような……」
 凪は思い出すフリをして、そう口にした。

 それを聞いた大岐は、すぐに微笑んで。

「出かけたのか。そっか〜。久しぶりに遊ぼうと思ったんだけど、いないんじゃ仕方ないですね」
 大岐はそう言って、頭をポリポリと掻いている。

「残念だったね。じゃ」
 凪は簡単に言って、大岐の側を離れてエレベーターに乗った。

 大岐はその凪を見送った後、ある行動に出ていた。









 真継は、凪が出かける音をベッドの中で聞いていた。

 身体は相変わらず重く、朝はいつも辛い。
 夜になると慣れてくるが、すぐに凪が酷使する。

 後、何日と数えながら朝を迎える。
 
 うっつらとしていた真継の耳に、何処かからドンっという音が聴こえた。

「何の音?」
 真継はそれがすぐ近くで聴こえたので、ゆっくりと身体を起こした。

 すると、今度はベランダの窓が開く音が聴こえた。

 それは明らかにこの部屋の窓の音だった。

 誰かいる。
 凪さんじゃない。

 真継は誰かが部屋に入ってきたので、ドキリとした。

 この部屋に誰かが侵入するなど、不可能に近い。
 それなのに誰かが入ってきたのだ。

 真継は怖くなって、毛布を被り寝た振りをした。
 寝ている姿を見れば、もし泥棒だったとしても逃げて行くかもしれないと思ったからだ。

 ゆっくりとした足取りで、誰かは部屋を見ているようだった。
 次第に、真継がいるベッドルームに近付いてきて、ドアが軋みの音を上げて開かれた。

 真継は息を殺して、毛布の中で震えていた。
 どうやっても、自分はここから逃げられない。

 すると、その気配は一歩部屋に入ってきてこう言ったのだった。


「令夏?」

 真継は自分の名前を呼ばれて、一瞬で恐怖から抜け出す事が出来た。



 真継はゆっくりと毛布を捲り、声の主を見た。


 部屋の中央にいたのは、友人の大岐だったのだ。


「大岐……」
 真継はホッと息を吐いて、大岐の名前を呼んだ。

「令夏、お前一体……」
 大岐はそこまで言って、驚いた顔になり言葉を失った。

 大岐が見た真継は、裸で、しかも毛布を握る手には皮ベルトに鎖。

 そして、見える肌には赤い痕、キスマークが無数に付けられていたからだ。

 大岐が何に驚いているのかが解って、真継は慌てて毛布を深く被った。

「俺……」
 真継はその先の言葉が出なかった。

 真継が言葉を失って、俯いてしまったのを見て大岐は我に返った。

 この姿を見ていれば、真継に何が起こったのかなど、誰にでも予想は出来る。

 大岐は、真継に近付いて、真継の腕を取った。

「これは、あの男がやったんだな」
 大岐の声は怒気が混じっていた。

 皮ベルトと鎖。

 真継は何も言わずに頷いた。

 大岐がどこから入ってきたのか、それは真継にも予想は付いた。

 そう、真継の自宅。
 夕食を作る時に、食料を取りに行った時、真継は部屋のドアの鍵を締めてなかったのだ。

 大岐は偶然訪ねてきて、玄関の鍵が開いているのに不振を抱き、部屋に入ってみて異常を感じた。

 部屋は、一週間も閉め切ったままで、換気どころか空調も弄ってないから蒸し暑く、とてもそこで真継が今の今までいたとは思えなかったからだ。

 そこで電話を見て、留守電が入っているのに気が付いた。
 悪いとは思ったが、大岐はそれを再生した。

 相手は同級生の冬美からで、遊びの誘いだったが、その電話が入っていた日にちが三日前だったのだ。

 凪は、真継は毎日ご飯を作りに来ているようにいい、しかも今朝も一緒だったと言っていた。
 それだと話がおかしくなる。

 三日前の留守電を真継は聴いてないのだ。
 それなら、今、真継はこれを聴く事が出来ない場所にいる事になる。

 大岐はそこまで考えて、さっきの凪の様子から、真継は凪の部屋にいるのではないかと予想した。

 そして不法侵入なのは解っているが、マンションのベランダを乗り越えてこの部屋に入ってきた訳だ。

 その大岐の判断は間違ってなかった。
 真継は凪に監禁されているのは明らかだったからだ。

 チャリと音を立て、大岐は鎖を外そうとしている。



「……外れない……鍵がないと……」
 真継が力なく答えると、大岐は舌打ちをして、鍵の構造をよく見ている。

「強力なペンチとかないと駄目だな」
 大岐がそう言った。
 だが、ここにはそんなペンチなどは何処にもない。

 暫く鎖を見つめて大岐は言った。

「今から取りに戻ってたら、あいつが帰ってくるかもしれないな」

 大岐はそう言って、真継を見た。

「明日まで待てるか?」
 心配そうな顔で、真継に言った。


「大岐?」
 真継にはその意味が解らず、キョトンとした。

「明日までにこれを外す道具を揃えてくる。だから、明日まで我慢してくれるか?」


 大岐は、あくまでこれを公にして真継を助け出そうとは考えてなかった。

 大岐には、この状況で真継が逃げようと努力してない訳が解っていた。

 大声を出したり、TVの音量を限界まで上げたり、水洩れがするようにしむけたり、逃げる為にやれる事は沢山ある。

 しかし真継はそのどれもやろうとしていなかった。


 理由は、こういう事をされているのを誰にも知られたくない。


 もしくは、期限付きでの監禁なのかもしれないから、真継が堪えているのだと判断したからだ。

「ありがとう……」

 大岐がそれを理解してくれていると解り、しかも助けようとしてくれている事に真継は感謝の意味を込めて礼を言った。

「いや。俺はこういう事しか出来ないから。明日まで我慢な?」

 大岐はそう言って真継の頭を撫でる。

 いつも真継が嫌がる行為なのだが、真継はそれを非常に懐かしく感じた。








 明日になれば、大岐が助けに来てくれる。

 そんな嬉しい事があるのだが、それを表に出してはいけないと、真継は必死に表情を押さえようとしていた。

 凪はいつもと同じように、夕方に帰ってきたのだが、今日は何故か一言も喋らなかった。

 思い詰めたような顔をしていて、真継を一度として直視しない。

 出した食事もいつもは平らげるのに、殆ど残してしまい、いつもTVの前で真継を意味なく抱き締めるという行為も、風呂に入る時でさえ、凪は何も言わず、一緒に入ろうともしなかったのである。



 そんな凪の態度が妙に思え、真継はいつの間にか、凪の姿を目で追っていた。


 その夜、凪が真継を抱く事はなかった。

 真継は久しぶりに一人のベッドで寝る羽目になったのだが、今まであった凪の温もりがなかった事が、不思議と寂しく感じてしまっていた。






 翌朝。

 凪と別々の部屋で寝ていたので、真継は凪がいつ出かけたのか解らなかった。

 部屋を確認して、凪が出かけている事を確認する。
 ホッとして寝室に戻り、大岐が来るのを待っていた。
 
 しかし、妙に眠りが浅かったのか、ベッドで寝転がっていると、真継はそのまま眠りに引き込まれてしまっていた。



 一時間程して、ベランダの窓が開く音がした。

 少し大きな音だったので、真継はすぐに目を覚ました。


「令夏?」
 大岐が部屋を覗き込んで言った。

「大岐!」
 大岐の姿を見つけて、起き上がった。
 
 やっとここから抜けだせると、真継が嬉しくて大きな声を上げてベッドから飛び上がった。
 
 それを見た大岐が顔を赤らめて、視線を反らした。

「あ、待てって。とにかくこれ羽織ってくれ」
 大岐は言って、真継の部屋から取り出してきた服を渡した。
 
「あ、ごめん」
 真継は赤くなって、それを受け取った。

 ここに繋がれてから、服など着せて貰えなかったので裸でいるに慣れてしまっていた。

 急いでズボンを履き、上はまだ皮ベルトの鎖があるので、着る事が出来ない。

「じゃ、両手出して」
 大岐が緊張した声でそう言い、真継は大人しく従う。

 大岐は、工具店で買い込んできた鎖を切るカッターを取り出して、鎖を切ろうとチャレンジする。

 たった一個外すだけでいい。それで真継はここから解放される。


 真継は、その時間が凄く長く感じた。

 ようやく一つの鎖に切れ目が入った時。




「そんなもんじゃ外れねぇぜ」



 その声が部屋に響いた。


 その声に、真継は顔を上げた。
 部屋の入り口には、凪が立っていた。


「……凪さん……!」
 真継は条件反射で、大岐にしがみついた。

 いつの間に!
 静かで物音すらしなかったのに、凪はいつの間にか帰ってきていた。

 見据える凪の瞳が怖いが、何故かそこから目を逸らせなかった。

「お前がっ!」
 大岐は叫んで、震えている真継を引き寄せた。

 それを見た凪は一瞬で形相が変わる。
 明らかに怒気が混じっている瞳。

 真継はその顔を見たくなくて、しがみついた大岐の胸に顔を埋めた。

 凪は無言で二人に近付いてくると、大岐と真継を力づくで引き離す為に、まず大岐を殴った。

 驚いた真継が大岐から手を離してしまうと、今度は大岐の胸ぐらを掴んで殴り倒した。

「……大岐っ!」

 床に転がって殴られた腹を押さえて蹲っている大岐に駆け寄ろうとした真継だが、ベッドを出た所で腕を引っ張られ、それ以上先に進めなかった。

「何で!」
 驚いて振り返ると、凪が足で鎖を踏んでいた。

 そして真継を見る凪の瞳は、冷えきっている。

「こっちへ来い」
 凪が低い声で言った。

 真継は無言で首を横に振った。

 もうこれ以上従えない。
 大岐まで巻き込む訳にはいかないからだ。

 首を振る真継を見て、凪は首を傾げ大岐を見た。

「ふーん。そいつの方がいいわけだ」
 凪は一人で納得をし、踏んでいる鎖を手に取って、そのまま真継を引き摺って引き寄せる。

「痛っ!」
 真継がそう言っても、凪は無表情のままでベッドに倒れた真継を押さえ付け、ベッドの固定する為にある鎖で鎖を繋ぐ。

 真継が暴れた所で、凪の力からは逃げられるはずもない。

「てめえっ……令夏を離しやがれ!」
 起き上がった大岐が近付いてきていたが、凪は気にする事もなく、ニヤリとして大岐に向かって言った。

「お前、真継がよがってる所見てみたいだろ? こいつ結構いい声で鳴くぜ」

 凪が大岐に言った言葉で、真継は暴れるのを止めてしまう。
 大岐も足を止めてしまった。

 凪はそれを冷ややかに見て、それから真継を見下ろした。

「なあ、真継。このままお友達に見てもらおうか? お前が俺にやられている所をな」

 その凪の言葉に、真継は目を見開いて、凪を見上げた。

 一体何を?
 今、なんて言った?

 真継が呆然としていると、動けない真継を置いて、凪は大岐に手を伸ばした。

「凪さんっ!」
 また大岐が殴られると思った真継は、必死に腕を動かした。

「もう止めて下さい!! 大岐は関係ないです! 何でもしますから!! お願いします!」

 真継はそう叫び、力一杯腕を振り上げた時、いきなり腕が動かなかった所まで動いていた。

 そして、静かな室内にチャリという音が響いた。

「え?」

 真継が驚いて腕を見ると、繋がっているはずの鎖が途中で切れて外れていた。

 自由になった腕を見て、真継は呆然としていた。

 大岐が切れ目をいれた所が、力が加わった事で切れていたのだ。



 外れないと思っていたものが外れた。



 その中で動いたのは凪だった。


「タイムリミットか」

 凪はそう呟いて、ベッドにいる真継に近付いた。

 真継は、呆然としたままだったが、凪が手を伸ばしてた所で我に返った。

 腕を引こうとしている真継の腕を凪は力強く握り、離そうとはしない。

「凪さんっ! 離して!」
 真継がそう叫んだが、凪はそれを無視した。

 凪は、自分のジーパンのポケットに入れていた車や家の鍵が付いているキーケースを取り出し、そこから皮ベルトを外す鍵を出して外していた。
 
 皮ベルトがゆっくりと外されて、真継の手首からそれが消えた。

 凪は皮ベルトの痕が付いた真継の手首を一回だけ撫でて、掴んでいた手を離した。


「まあ、3日早いが」
 凪がそう言ったので、真継は凪を見上げた。

 手首に触れた優しい仕種とは裏腹に、凪は無表情だった。

 凪は真継をジッと見つめ、感情のない顔でこう言った。


「もう飽きてきた所だったから丁度いい」


 凪は言って、真継の腕を掴み、ベッドから立たせると、大岐に向かって真継を突き飛ばした。



「さっさと出て行け」



 突き放した、冷たい感情の篭っていない凪の声が真継に降り注いだ。

 凪はそう言い残して部屋を出て行った。


 真継はその言葉にまだ呆然としていた。

 望んでいた言葉なのに、真継は、まるで見知らぬ地に一人で放り出されたような気分を味わっていた。

「令夏、帰ろう」

 大岐が真継の肩に手を置くと、真継はハッとして顔を上げた。

 そうだ、大岐が居たから助かったんだ。

「ごめん、俺のせいで……」
 大岐の唇の端が切れているのを見て、真継はすぐに謝った。

 大岐は少し辛そうな顔で、笑顔を作る。

「いいって。それより帰ろう」

 大岐は言って、自分が持ってきた荷物を持ち、真継の背中を押した。

 



 真継は約二週間振りに、凪の部屋から出る事が出来た。

 縛っていたものから自由になったのだった。






 真継を一人で家に置いておく訳にはいかないと、大岐(おおき)は自分の自宅に真継を連れて行った。

 大岐の家は、コンビニを経営していて、忙しいのだが、憔悴している真継を見ると、大岐の両親は何も言わずに泊めてくれた。

 大岐自身も、凪の事には触れず、いつも通りに接してくれていた。

 それは嬉しい事だった。

 真継はいつもの生活環境に戻ったというのに、何か釈然としないモノが胸にあった。
 それが何なのか、いくら考えても解らない。

 ただ、凪の最後の言葉に、自分が思っていた以上、ショックを受けている事には自覚はあった。



 だが、3日経つと真奈が帰ってくるので、真継も家に帰らなければならなかったのだが、それが怖くて、それでも真奈にこの事を言えず、困っていると、大岐が付き添って家に来てくれると言った。

 しかし、真継はそこまで甘えるのはいけないと大岐の提案を断った。

 この三日、大岐は何か言いたそうな顔をしてたのだが、真継にはそれを聞いてやるだけの余裕はなかった。




 真奈が帰ってくると、さすがに忙しくなる。

 洗濯が山程あり、それをクリーニングに出すのや、家で洗濯するのやらに分けなければならない。

 更に、真奈に付き添っていた人に食事を作ったりと、やる事は沢山ある。


 家に帰り着くと、ちょうど真奈が車でマンションに着いた所だった。


「真奈さん、おかえり」
 真継がそう声をかけると、真奈はニコリと微笑んでこう言った。

「あんたねー! あたしが出張に行ってた間の留守電聞いてないでしょう!」
 真奈が物凄い形相で、真継を見て言った。
 
 真継に留守電を聞く暇などなかった。
 この二週間、真継は一度も自分の家に入ってなかったからである。


「わ、忘れてた……」
 真継は曖昧に答えると、真継の顔を覗き込んだ真奈が顔色を変えた。

「真継、あんた、何か言う事あるでしょ?」

 真奈がいきなりそう言ったので、真継はドキリとしてしまう。
 相変わらず、人の顔色で何かを悟る母親である。

「な、何もないけど……」
 真継は何とか笑顔でそう答えたのだが、真奈には通じなかった。

「解った。家帰ったらじっくり聞く事にしましょう」

 真奈は言って、真継に荷物の半分を持たせると、送ってくれた人を部屋には上げずに、今日は帰って欲しいと言って帰してしまった。




 部屋に入って、真奈は居間に荷物を置くと、すぐに後ろを付いてきた真継を振り返って言った。


「九頭神と何かあったのね」


 真奈はズバリと聞いていた。

 その名前に真継はビクリと震えてしまう。

 その様子を見ているだけで、真奈には解った。

「やっぱり」

 真奈はそう溜息を吐いて、ソファに座り、真継にも座るように言った。

「……やっぱりって……?」

 それがあの行為の事を言っているのか解らなかったので、真継は怯えながらも質問をした。

「あんたと何があったのかは知らないけど、九頭神から部屋を立ち退くって連絡があったのよ」

「え?」
 真奈の言葉に真継は驚いてしまった。

 凪さんが、引っ越す?


「九頭神の言い分では、自分が真継を怒らせたからとか言ってたけど。本当はどうなの」
 
 凪は、ここを去る理由を真継と巧くいかないからという理由にしていた。
 どう思ってそれを真奈に言ったのかは解らない。



「どうって……」
 そんな事になっているとは思いもしなかったので、真継はすぐに返答出来なかった。
 
 真奈は溜息を吐いてから、真継をしっかりと見つめて言った。

「あんたが何をそんなに怒って、九頭神が出て行く羽目になるかって考えるとね、まったく理解に苦しむわけよ。もし九頭神があんたを怒らせたのなら、あんたからあたしに連絡があってもいいわけよ。それがないくらい怒っているとしても、無断であんたが家を空けたり、あたしとの約束を破るとは思えない。どう間違ってないでしょ」

 確かにそうだった。
 真奈から頼まれた事を真奈に相談なく真継が放棄するはずはないからだ。

「……間違ってない」
 真継はボソリと答えた。

「九頭神と何があったの。あたしは話せない事なの?」
 真奈は少し、声を優しくして真継に問う。


「………」
 それでも真継が答える様子がなかった事で、真奈にはある考えが過ってしまう。

 自分の息子に聞く内容ではないのだが、真奈の性格上、黙っている訳にはいかなかった。


「まさかとは思うけど。九頭神(くずがみ)、あんたに手を出したんじゃあ……」



「え?」
 真継は真奈の言葉に驚いてしまった。

 この真継の驚きようからして、真奈の言った言葉は図星なのは明らかである。

 真奈は真継が真っ青になっているのを見て、頭をガシガシと掻いた。


「……あいつが探してたの、やっぱりあんただったんだ」

 真奈が意外な事を口にしたので、更に真継は驚いてしまう。

「どうして……」

 何故、真奈が、凪が探している相手が、自分の息子だと知っているのだろうか。
 真継が信じられないという顔をしているので、真奈は普通に答えた。

「ん? どうして知ってるかって? そりゃあいつが話してた探している相手の条件が、あまりにもあんたに当てはまってるからに決まってるでしょ」

 九頭神凪は、ある人物を探し続けているという話は、真奈の耳にも入っていた。
 その条件が、真継の記憶がない時のものと同じだと真奈は気付いていた。

 しかし、真継と凪が交わした約束の内容までは知らなかったのである。
 それを知っていたのなら、真奈は決して凪を真継に近付けたりはしない。

「俺、記憶ないのに」
 記憶のない自分と、凪を合わせた所で、一体何があるというのだと、真継は言った。



「うん。あんたの記憶は抜け落ちてる。だから、九頭神があんたの事を知っているなら、流れに任せて、あんたが抜け落ちた記憶が必要だと思うなら、無い記憶の事を話していこうかと思ってたのよ」

 真奈ははっきりと言った。


「話すって! 今まで何度聞いても話してくれなかったじゃないか!」

 真継は立ち上がって真奈に怒鳴った。
 それでも真奈は動じずに静かにそれに答えた。

「話す時期が早過ぎたからよ。せめて高校になってからとあたしの母、あんたのおばあちゃんに言われてたのよ。でもあんた、ここに来てから一度として記憶の事なんか言わなかったでしょ? あたしと暮らしていれば、何か欠片でも思い出すとは思ったけど、全然だし」

 真奈はそれならそれでいいと思っていた。
 だが、それでは、祖母との約束を違える事になる。
 だから、一度だけ、真継にそのチャンスを与えようとしたのだ。
 それが、九頭神凪という存在だった。


「暮らしてればって……」
 母親と暮らしたからって、何を思い出すというのだという言葉を含めた真継に、真奈は淡々と話していく。

「早い話が、あんたが記憶を無くす前、あたしはちゃんとあんたと暮らしてて、あんたを育ててたって事」

 真奈の言葉に、真継は自分が聞いた内容と違うのに驚く。

「俺って、親父と暮らしてたんじゃ……?」

 真奈とは暮らした事がなく、父親が死んだから真奈の実家に引き取られたのだと真継はずっと思っていた。

「それは当たり。家族で暮らしてたんだもの。まったく誰が吹き込んだのか知らないけど、九頭神もそれについては喋って無いわけだ。たくっ」

 真奈はそう言って、ちょっと待てと言い、自分が持ち帰ったバッグ、それも論文とかを詰め込んでいる、真継が絶対に触れない大きなバッグの中から三冊の簡易アルバムを取り出した。

 それを真継の前に置いて言った。

「ここにあんたの過去がある。これを見せるのは、はっきり言ってあたしは嫌だった。でもこれを見る権利はあんたにある。過去に何があったのか、あたしが話して聞かせる事はできるけど、あんたが自分で思い出す方を選ぶなら、これを見るといいわ」

 真奈はハッキリと言い切った。

 
 真継は暫く真奈を見つめていたが、視線をアルバムに落とし、恐る恐る手に取り、中を捲ってみる。

 そこには、真継が産まれた時から、記憶を無くすまでの間に撮られた写真が納まっていた。

 写真には、真継の身に覚えのない家や、父親らしい男。そして、家政婦らしい女性が写 っている。

 それは本当に幸せそうで、円満家庭の姿を見ているようだった。

 何故、真奈はこれが嫌だったんだろう?

 真継にはそれが不思議でならなかったが、途中、家政婦が変わった辺りで、唐突に真継は恐怖を覚え、アルバムから手を離してしまった。

 怖い。
 瞬時にそう思ったのだ。

 何故、家政婦が怖いんだ?

 不思議に思いながらも、再度それを見ると、ただただ恐怖しかないのを悟る。

 これに何かあるんだろうか?
 それを知りたいのに、身体の奥から恐怖心だけが襲ってくる。


 怖くて写真を閉じようとするが、ここで逃げてはいけないと、写真を捲っていく。

 その家政婦らしい女性を見た後の写真の父親は、それまでの父親のイメージからガラリと別 人のように見えてしまう。

 父親も怖く見えるのだ。

 震えながら、時々目をきつく瞑りながら写真を見ていくと、その頃からの自分が、凄く怯えているような顔にしか見えない。

 そして、顔や腕に怪我をしている事が多くなっている。

 真奈と写っている写真は本当に笑っているが、父親と二人になると、明らかに怯えている表情になっている。

「どういう事…。なんで、俺は家政婦が怖いんだ? なんで自分の父親が怖いんだ?」
 そう真継が呟いた瞬間。

 真継の脳裏にフラッシュバックのように場面と言葉が出てきた。

『ねえ、この子って、本当に何も言わないわねえ』
『そりゃ、俺の教育がしっかりしてるからな』
『仕込んだら、客取れそうじゃないの』
『それもいいかもな』

 男女の声。
 そして、いきなり身体に走る痛み。

 痛くて痛くて、涙が出るのに、誰も助けてくれない。

 どうしてお父さんは、お母さんがいないときに、お母さんの悪口を言うの?
 どうしてお父さんは、お母さんがいないときに、家政婦さんと二人で僕の身体に痛い事するの?

 そんな疑問はあったが、それを口に出したりすれば、父親が逆上するのは解っていた。


『たくっ。あの女にそっくりな顔しやがって、そんな目で俺を見るな!!』

『お父さん……』

『あの女が居ない所で、俺をそう呼ぶな!!』

 お父さんは、僕を嫌いなんだ。
 僕、何か悪い事したの?


「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 真継はそう呟いていた。

 何度その言葉を口にしただろう。
 だが一度も許された事はない。


 涙がボロボロと零れて、痛く無いはずの身体が痛い。
 両手で身体を抱き締めて、真継はそのまま倒れてしまった。


「真継!」
 真奈が慌てて駆け寄ってくる。

 その声に、真継は何とか意識を保つ事が出来た。
 真奈が上から覗き込んでいる光景。

 これも前にあったものだ。
 真継が安堵した、瞬間のモノ。



「お母さん……あの時も助けてくれたよね」
 真継はそう言っていた。

「あんた……思い出した?」
 真奈は、真継が自分を「お母さん」と呼んだ事に信じられないという顔をしていた。

 真継は、記憶を無くした後、真奈の事を「お母さん」と呼んだ事は一度もないからだ。

「うん……思い出した。俺、父さんに殺されそうになったんだ。だから怖いんだ。家政婦さんは、俺をいつも殴ってて……言う事を聞かないと……。お母さんに言えなかった」

 真継は段々と鮮明になってくる記憶を辿り、昔を思い出していた。
 夢なのか、現実なのか、ただの記憶なのに、真継はそれが混合して、意識がどうにかなりそうだった。
 だが、それを押しとどめるのは、真奈の姿だった。


「ごめんね。あたしがもっと早くにあんたの怪我の事を疑ってたら、こんな事にならなかったのに……」
 真奈が涙を流しながら言っている。

 母親が泣いている姿を見るのは、たぶんこれが二度目。

 あの時助けてくれた時と、そして今。

 泣いている理由はどちらも同じだった。
 そして、真奈が今まで真継の前で泣かなかった訳。



 真継の家庭は、本当に円満だった。
 それが崩れたのは、二人目の家政婦に変わった時。
 父親は、その家政婦と不倫関係にあった。
 真奈はいつも大学講議や病院の事で忙しく、めったに家に帰る事がなかったので、家政婦を雇っていた。
 父親は、普通のサラリーマン。それでも資産家の末っ子とあり、子供っぽいところもあった。
 家に帰らない真奈に、段々と嫌気がさし、家政婦と出来てしまった。
 父親は、優秀な妻が自慢だったのだが、真奈の仕事が軌道に乗ってきた辺りで、自慢が嫉妬に変わっていっていた。
 だが、真奈をどうにかする事も出来ず、真奈に似ている真継に当たるようになった。
 最初は、些細な事で怒鳴ったりする程度だったのが、次第に暴力を振るうより、それに家政婦が加担していた。

 大人しい人見知りをする真継は、父親や家政婦が怒って殴るのは自分が悪いからだと思っていた。

 真奈が心配するから、心配かけたくなかったら黙っていろ。というのが父親の脅しだった。真継も怪我をする自分を心配する真奈の顔を見たく無くて、イイ子になろうとしていた。
 だが、暴力は一層酷くなり、真継は始終包帯や絆創膏を貼っているようになった。

 さすがにドジでよく転んだりしては怪我をしていた真継でも、ここまで酷いのはおかしいと真奈は疑い始めた。

 それで真奈は、仕事があると言って出かけた振りをして普段なら帰らない時間に家に戻ってみると、父親が真継に殴る蹴るの暴力を振るっていた。

 それに家政婦までもが一緒になっていて、真継を殴っていたのだ。
 それも夏でも肌が見えない腹部などをだ。
 父親の正気を失ったような暴力に、真奈は一瞬で足元が抜け落ちたような感覚になった。
 真奈は、家政婦が暴力をふるっていると思っていたのだ。
 それが実の父親にやられていたなど、真継に言えるはずもない。


 真奈がすぐに止めに入ると、父親はすでに正気を失っていた。
 家政婦は、真奈にばれたとなれば警察沙汰になると思ったのか、そのまま家を飛び出して、二度と戻って来なかった。

 真奈はすぐに真継を病院に運んだ。
 全身打撲、煙草や熱湯による火傷。脚や腕の骨折。
 そして性的暴行の痕跡。

 もし、真奈が戻るのが遅かったら、真継は確実に死んでいただろうと医者は言った。
 重体ながらも、今、生きているのが奇跡なのだと。
 医者が警察に届けを出そうとしたのだが、そこに父親の父親が寄越した弁護士が、これは内密に処理をしたいと言ってきたのだ。

 当然真奈は怒りを露にしたのだが、当の父親は正気を失い、そのまま精神病院に入院が決まり、加担していた家政婦は行方不明になっていた。

 相当額の慰謝料と、離婚。それが口止め料だった。

 離婚には真奈はすぐに応じたが、慰謝料は断り続けた。
 だが、真継の教育費や維持していく入院費は、まだ臨時の講師として安月給で働いている真奈に払える額ではなかった。

 何故なら、真継は昏睡状態から中々醒めず、集中治療室で過ごす事になってしまったからだ。
 それがいつまで続くのかさえ解らない状態だった。
 祖母の提案で、教育費は大学費用まで、慰謝料は、真継の治療にかかる費用を全額支払わせる事に落ち着いた。

 そして真継は意識を取り戻した時。
 真継は全てを忘れてしまっていた。
 物心ついた頃から、あの暴行のあった時間まで、その全てがごっそりと抜けてしまっていたのだ。

 当然、真奈を母親だと認識していなかった。
 真奈はこの事で、自分が真継を助けるのが遅かったから、真継の記憶から消されてしまう罰を受けたと思った。
 自分は母親失格なのだと。母親だと言う資格もないのだと。

 この事で、真奈は真継にその事を思い出させるような行為はしたくないと思い、祖母と相談し、警察沙汰にはしない事に同意した。

 真奈は、仕事も辞めて真継の側にいようとしたが、それを祖母が許さなかった。
 幾ら教育費などを受け取っているとはいえ、育てて行くには別途費用もかかる。現実問題で、お金がどうしても必要なのだ。

 真継の側には、始終祖母が付き添い、片時も離れず面倒を見ていた。
 それは一番自由が利くのが祖母だったからで、真奈は、大学の臨時講師の仕事を疎かにする訳にも、急に辞める訳にもいかず続いていた。

 仕事を辞める事だけは、祖母は頑固として反対した。

 それは、真継が記憶を取り戻した時、真奈がそのせいで仕事を辞めたと知ったら、真継にとってそれは負担となり重荷になると言い切った。
 ある意味それは正論だった。

 真継の性格からして、嬉しがるところか、好きだった仕事を辞めさせてしまったのは自分に責任があると思い込んでしまうからだ。
 真奈の性格と、真継の性格を良く見抜いていた祖母の意見に真奈は反論出来なかった。

 父親は、真継は記憶を失った頃に亡くなった事にし、辻褄を合わせた。
 つまり、真継は物覚えが悪くて、昔の事はすっかり忘れているという事だ。

 だがそれが通じるのも、小学まで、中学になれば、その矛盾を指摘され、不信がってくる。案の定、真継もそうだったが、父親の事でショックでそうなったと言い続けてきた。
 しかし、真継にはそれだけとは思えなかった。

 そして、祖母の葬式の時聞いた言葉で、自分の父親が生きている事を知った。
 それでも真継はもう追求しようとはしなかった。

 あの何でもハッキリ言う、祖母や真奈が頑固に隠し通しているのには、真継が知ったらたぶん耐えられないくらいの出来事があったに違いないと思ったからだ。

 覚えている記憶だけで、真継には十分だった。


「真奈さん、泣かないでよ。真奈さんが泣くと俺も辛い」
 泣きじゃくる自分の母親の頭を撫でて慰める。

 真奈は、真継の記憶を封じてしまいたかった。
 だが、それを思い出す事を望んだのは真継であり、祖母の意向でもあった。

 だから、真奈が嫌がっていた写真が綺麗に残されている。
 それには、幸せだった頃の想い出も全て詰まっている。
 多分、真奈にとっては至福の時であると同時に最悪の時でもあるのだ。

 仮にも自分が愛して結婚した男と、信用して任せていた家政婦の所業。

 それを知った時の真奈は、どれだけの衝撃を受けただろうか。

 真継は、知らないままでいる訳にはいかない。
 真奈だけにこんな辛い事を抱えさせるのは、あんまり酷すぎる。

 真継はそう思い、真奈に事の真相を全て喋らせた。

 真継も、真奈に隠し事をする訳にもいかず、この二週間にあった出来事を全て話して聞かせた。 







「九頭神は、ある意味、最後の切り札みたいなものね。過去を知る人を前にしても、あんたが記憶を必要としないのなら、この事は一生話さないつもりだった」
 真奈はそう言った。

「なのに、最後の切り札が、とんでもない事をしたのよね。ごめん。謝って済む事じゃないのは解ってる。あたしの判断が甘過ぎた。あたしはいつもこうして失敗するのよ。大丈夫、もう、九頭神とは接触させないから」

 真奈はそう言っているのだが、それを話していた時の真継はいやに落ち着いていた。

 記憶を思い出した事により、真継の心の中は昔と今が入り交じり、感覚的にもおかしくなっていたのかもしれない。

「俺……怒ってる訳じゃないんだ」

 真継はボソリとそう言った。

「え?」

「ただ、凪さんが怖かった。10年前の約束だけで、そこまで思えるのかって……」

 確かに真継は凪と約束した事を思い出していた。
 それでも、10年。
 そこまで自分が思ってもらえる程、何かをした訳ではない。

 なのに、10年。
 凪は、ずっと真継を探し続けていたのだ。

「……待って」
 真奈がふと考え込んだ。


「ん?」


「九頭神が最後になんて言った? いや違う、その前の日だ。抱かなかった?」
 真奈は、いつもの真面目な表情に戻って、真継の話を思い出す。


「……うん。ずっと暗い顔をしてて、俺を直視しなかった。その日の朝まで俺を監視するようにしてたのに、帰ってきたら人が変わったみたいで」
 
 真継は一度話した事をもう一度繰り返した。
 一体、真奈は何を気にしているのだろうか?
 そんな疑問が浮かんでいた。

「……毎日出かけてた? あんたの記憶云々の事は言わなかった? 思い出させようとはしなかった?」

 真奈は確かめるように聞き返してくる。

「出かけてた。毎日、朝から夕方まで。記憶の事は何も……」

 そういえば、凪は、真継の記憶の事は、最初の夜以来一言も言わなくなっていた。
 目的さえ果たせば、凪にとって真継の記憶などどうでもいいのだろうと、真継は思っていたので敢て記憶には触れなかった。


「今、大学は休みだよ。なのに出かけてた?」

 真奈はそれが不思議でならないという顔をして真継を見た。

「休み?」
 真継はキョトンとする。

 

「休みに入るのは高校と変わらないからね。だけど、あいつがバイトってのも、夜なら解るが昼間にってのは変だ。じゃあ、あいつ一体何をしに……」

 真奈はそこまで言ってから、ハッとして携帯を取り出した。

 真奈は大学の管理室に電話を入れた。
 そこで聞き出したのは。

 九頭神が、真奈の部屋の鍵を借りていたか。
 そして、それはいつからやまったのか。

 それだけを真奈は聞き出して電話を切った。
 真継は訳が解らず、オロオロしていたが、真奈は深い溜息を吐いていた。

「あいつ。あんたの過去、全部知ったんだよ」

 真奈がそう言ったが、真奈の部屋に入ったからと言ってどうやってそれを知る事が出来たのだろうか。

「どういう事?」


「あたしの部屋には、あんたの当時のカルテとかがコピーで残ってる。それを見たんだろう。あんたが記憶無くしている事は解ったとしてもどうしてそうなったのかをあいつは知りたかったんだろうね。あたしが記憶の鍵を握っているのは、普通 に考えれば解る事だし」

 真奈はまた溜息を吐く。
 ここまで凪が行動するとは思っていなかったようだった。
 真継に絶対に見られないようにと思い、大学の部屋に置いていたのだが、それを悟られるとは真奈も予想しなかった。
 
「どうして、そこまで……」

 それこそ、真継には解らない。
 約束だけなら、もう十分果たしている。
 真継が了承していなくても、凪は、それでも構わないと真継を抱いたはず。

 なら記憶などどうでもいい事にならないのか。
 真継はそう思ってしまっていた。

「フォローするのも何だけど。あいつ、付き合ってくれと女が寄ってきても、いつも、「自分には好きな相手がいる、だから付き合っててもしその人が見つかったり目の前に現れたりしたら、その人に夢中になって他が見えなくなると思う」そう言ってたんだ。それくらい思ってたから、突然目の前から消えられたら、その理由を知りたくなるのは当然だろう。九頭神は、あたしの部屋には結構自由に入る事が出来るからな。掃除しにきたといえば鍵を貸さない管理人はいないし。盲点だった」

 真奈は、三度目の深い溜息を吐く。

 それ程思っていた相手が、自分の父親に性的暴行をされていたとしたら。
 それも、その約束をした時には既にそういう状況にあったとしたら。
 真継が何を思って、その約束をしたのか、凪には痛い程理解出来たはずだ。
 真継は、約束をする事で、凪に密かにSOSを出していたのだから。


「……触るのも嫌になる程……俺、やっぱり、汚いのかなあ?」
 真継はそう呟いてしまった。

 もう飽きたという凪の言葉を思い出し、あれは、もう触るのも嫌だという意味だったんだと真継は思った。

「はあ?」
 真奈がキョトンとする。

「……そりゃ、凪さんにされた事は今でも怖い。でも、思い出したから。昔、凪さんが凄く優しかったのを思い出したから。俺、あの時、本当に凪さんにならって思ってた」

 過去の自分は、本当に凪を好きだった。
 父親にされるくらいなら、凪の方がいいと思って、あんな約束を交わしたのだ。
 自分には、それさえ許されない事だったというのに。

 真継はそう思って、深く考え込んでしまう。
 だから、この後に言った真奈の言葉を聞いていなかった。



「……あいつもあんたの事、ちゃんと思ってたんだな。やったことは許されない事だけど。過去を知った時の衝撃はもっと酷かっただろうね。可哀想に」

 真奈がそう言った。
 
 
 何より、真継が記憶を失った原因である父親と同じ事を凪はしていたのだから。

 だが、凪は一度として殴ったりしなかった。
 それは、薄々当時から、真継が家族、それも父親に暴力を受けていた事を知っていたからではないだろうか。

 性交渉をする時は無理矢理だったが、それ以外では、優しかったと真継が感じたのならそうなのだろう。


 でも真継は真奈の様な考えをしていなかった。


 凪は一度として、今の真継を好きだとは言わなかった。

 だから、余計に、凪がした行為は、10年前の約束を果たすだけの行為としか真継には思えなかった。

 それでも、飽きたという言葉が、真継の胸に突き刺さっているのも確かだった。