曦月の桎梏-1


 神元尚輝は、仕事の休みを利用して、北嵯峨に住む友人の家を訪ねる事にした。
 尚輝は、大学を出た後、京都府警に入ったエリートで、階級は現在警部である。
 尚輝は、昔から刑事に憧れていた。
 別に父親が刑事だった訳ではない。
 寧ろ、神元家の家系で、こういう職に就いたのは尚輝だけではないだろうか?
 というのも、神元家は代々神社を営んでいる。
 ただ参拝したりするだけのところではなく、きちんとした行事も行い、お祓いなどもする神社である。
 いずれは尚輝がその神社を継がなくてはならないのだが、今は現役で父親がやっているので、尚輝は自分が好きな刑事の仕事をしていられるのだ。
 その元気な父親を見ていると、尚輝がその後を継ぐのは当分後の話のようだ。
 そうした家業があり、神官の資格を持つ尚輝が刑事になったのは、ただの憧れである。
 昔、ある事件に巻き込まれ、その時親切にしてくれた刑事がいて、その人のようになりたいと思ったのが最初であった。
 大学から府警に入ったとたん、警部という立場を与えられた。
 憧れの刑事を目指したのはいいのだが、世の中上手くいかないものである。
 年上の部下に、昔ながらの頭の堅い刑事と苦労は絶えない。
 その原因が尚輝がエリートで、既に警部という肩書きがあるという事だけではなく、尚輝自身がボーっとした性格の上に、三十歳になっても尚、二十歳に見られる童顔にあるようだった。
 それを馬鹿にされる事もあったし、年相応に見えない為に嫌味を言われる事もあり、特に年上の部下には受けが悪い。
 尚輝本人もこの童顔が気に入らない。
 童顔でもいい男はいる。
 だが、尚輝の場合可愛いと言われる顔なのだ。
 それも十歳も離れた妹に似ていて双子のように間違えられる始末。
 つまり女の子に見えないこともないというのである。
 それがコンプレックスなのだった。
 それでも、それなりに頑張ってきた。
 実績も上げて、年上の部下にも認められるようにもなってきた。
 ここへきて、尚輝はある悩みに苦悩していた。
 他人から見ればそれはなんて事はない普通の悩みなのかもしれない。いや、それどころか、それを話したとたん、馬鹿にされ笑われてしまう話しである。

 だが、その悩みのおかげで尚輝は仕事が覚束なくなるほどだ。
 悩みに悩んで、仕事が覚束なくなるほど、本当に真剣に悩んでいた。
 そのために、とうとう上司から。
「君が優秀なのは解るが、これまで仕事のし過ぎじゃないか? ここはちょうどいいから、暫く休んでみてはどうだろうか? 幸い君は有休も他の刑事に比べたら殆ど使ってない。有休を使って休んでみてはどうだろうかね?」
 と言われてしまった。
 つまり、尚輝に今の状態で居られては仕事に支障が生じるという事だった。
 さすがにこれは尚輝にとっては致命的な通達だった。
 しかし、今回はそれに甘える形になってしまった。
 普段なら「そんなことありません!」とか「そう見えるなら善処します」とか反論しただろう。
 今回はそうは言えなかった。
 自分が仕事を怠けているつもりはなかったが、部下を持つ上司という立場である以上、部下に不安を与えているのは十分に理解出来ていた。
 それは上司として失格だ。
 仕事に支障を与えている以上、少し現場を離れて冷静に考えてみるのもいいだろうと尚輝は自分で判断した。
 休暇は十日与えられた。
 忙しく呼び立てる携帯も今は電源を切ってしまっている。それは、上司にそう言われたからだ。



 しかし、休みを貰って、狭い1人住まいのマンションに帰ってみても、一向に状態は良くならない。
 本当に何もしない、何も食べないでひたすら悩みをどうするべきなのかを考え込んでしまう。
 そうして二日が過ぎた頃、尚輝はふと北嵯峨に住む友人の事を思い出した。
 この友人は、小学時代からの幼なじみである。
 結局大学まで同じ学校に通い、就職して始めて別々になったという腐れ縁でもあった。
 ここ一年、殆どこの友人には会っていない。
 尚輝の仕事が忙しくなっていったのにつれて段々と会う時間がなくなってしまったのだ。
 それはよくある自然な事だろう。
 時間が会わなくなり、疎遠になっていく。
 当然それらは尚輝にも起こり得る事だった。
 しかし、ただ一つ変わらない事がある。
 どんなに離れても、どんなに会わなくても友人は笑って迎えてくれる。
 それだけは、絶対に変わらないのだ。



 北嵯峨に住む友人の家の近くには、大覚寺がある。
 大覚寺は嵯峨御所と呼ばれた寺院で、王朝絵巻の世界が広がる、真言宗大覚寺派本山。もともと嵯峨天皇の離宮だった所。
 その側にあるのが大沢池。
 大沢池は、北嵯峨のなだらかな山々を背景に満々と水を湛える、嵯峨天皇の離宮だった頃に庭湖として作られた物である。
 古来、月の名所として知られていて盛んに観月の宴が催されてきた。
 今でも、中秋の名月の宵には、池に竜頭鷁首(りゅうとうげきす)の船を浮かべて、管弦を奏で、茶席が設けられて、雅やかな宴が繰り広げられるのだ。
 そうした自然の中に友人の屋敷を構えている。
 その家は玲泉門院家という。
 玲泉門院家は、名前を見ても解るように、平安貴族を先祖に持つ家である。
 もちろんそうであるならば、こんな山奥に屋敷を構えたりしないのだが、この屋敷は当時で言えば避暑に使われていた屋敷の後なのだそうだ。
 やがて、昭和に入ると同時に、このまま院の名前に縋ったままではいけないと考えた当主が、京都の町中にある、当時の本宅を改装し、旅館として経営を始めたのである。
 現在でも、その旅館は京都の町中で、古い屋敷を旅館として改装し、昔ながらの老舗の雰囲気を醸し出している。
 戦争が終わり、経営が安定してくる頃には、いくつかのホテルを経営する程に成長していた。
 つまり、尚輝の友人は、ホテル経営者の御曹子になるわけだ。
 しかし、玲泉門院家にも不幸があった。
 友人の両親はかなり早くに亡くなってしまっている。呪いと言われる程の短命の一族なのである。
 現在では、友人の姉が手腕を発揮して、ホテル経営を安定させている。
 とはいえ、当の御曹子はまったくホテル経営には興味の「き」の字すらわかなかったらしく、一切経営には口出しもしないし、そうしたホテル関係の財産は全て放棄してしまったのだ。
 友人が持つ財産の半分は、北嵯峨にあるこの大きな屋敷である。
 まず、この屋敷に入るには、大きな門を潜らなくてはならない。
 これがよく時代劇に出てくる武家屋敷のような門だから、尚輝が最初にこの家を訪ねた時は、ポカンと口を開けて見上げてしまった程である。
 それを潜ると、小石が引かれた道を進み、道中には見事な庭園が姿を見せ、綺麗に剪定された植木が立ち並ぶ。
 それを過ぎるとやっと玄関だ。
 しかし、これまた大きな玄関で、天気がいい日には常に開け放たれている。
 これでは、泥棒さんお入りなさいであるが、何のことない。
 ちゃんと最新の防犯システムがあり、誰かが門を潜るなり、玄関を潜れば、ちゃんと家人には解るシステムになっているのだそうだ。
 しかし、尚輝はその玄関には入らない。
 玄関の左にある、細い通路を通って中庭に入った。それを更に50メートル程進むと庭池が見えてくる。
 そこが尚輝の目的地となる。
 その池に面した部屋に友人はいつも居る。
 友人はいつでもこの部屋にある縁側で、毎日ふらりと訪ねてくる野良猫を膝に乗せ、日光浴を楽しんでいる。
 静まり返った庭にものおとがしたというのに、友人は一向に顔を上げようとはしない。
 その姿に尚輝は少し嬉しくなった。
 こうして庭から訪ねてくるのは、尚輝しかいないと思ってくれているからだ。
 だから、敢えて顔をあげる必要がないのだと態度で示してくれている。




その友人の名は、玲泉門院葵という。
名前だけみれば令嬢にも見えるのだが、葵の性別はれっきとした男である。
 この男、かなりの変わり者であると尚輝は思っている。
 まず格好である。
 今時、三十の男が、家柄、仕事に関係なく着流しの着物をきているのだろうか?
 洋服は滅多に着ないという徹底振りには、呆れるやら感心するやらである。
 そして今では珍しい片眼鏡を右にだけかけている。
 これは右目だけが異様に視力がない為で、大学からの時はすでにそうしていた。
 何故、右目だけが異常に視力がなくなってしまったのかは、尚輝も覚えがないし、聞いても答えてくれそうにないので、謎である。
 そして腰まである長い髪を後ろで一つに結んでいる。
 髪を長くしている理由は、短いと頻繁に散髪をしなければならないので面 倒だというだけだ。
 尚輝には、長ければ長いと洗うだけでも面倒だとは思うが、それは苦にならないらしいから変わっている。
 そして、更に変人だと決定つけるものがある。
 それが煙管だ。
 よく時代劇に見る、昔のタバコの事だ。これは本人が気に入って吸っているもので、タバコではニコチンが足らないのだそうだ。
 尚輝も一度吸わせて貰った事があるが、到底吸えたものではない。尚輝もタバコは吸っているが、ニコチンもタールも多くないものを吸っているので、大いに咽せて二度と吸うものかと心に誓った程酷かった。
 こうした変わり者の葵は、非常に美青年である。
 当然、女達は彼を放っておかない。
 しかし、葵は難攻不落の城そのものだった。どんなに綺麗な女性であろうが、可愛いと評判の女性であろうが、とにかく女というものに興味を示さない。
 でも一つ断っておくが、葵が女性嫌いというわけでもない。
 ただ、彼が決めた基準に寄ってくる女性が達してないだけなのだ。
 葵の外見は、180センチの背と、少し細すぎる体の線を持つが、体系が細いのは家系らしい。
 そのくせ、武術は一通りこなす。
 特に真剣を扱わせると右に出る者がいないとまで言われた腕前だ。
 葵に言わせると「自分の身くらい自分で守らないとな」ということらしい。
 だが、右目の視力が落ちたあたりから真剣を扱うのはやめているらしい。
 左右の視力の違いは剣を扱う上で非常に危険な事だからだ。
 それでも師範代の資格は持っている。弟子と呼べるものはいないが、敢えて言えば尚輝がそうであろう。
 そのお陰で、尚輝は警察官の剣道の試合では常に負け無しの連勝を続けているである。
 その葵は、前に尚輝が見た時とまったく同じ様相で、縁側で煙管を吹かし膝に野良猫を乗せて日光浴をしている。
「久しぶり、葵」
 尚輝が声をかける。
 それでやっと友人は顔を上げて尚輝の方を見た。
「よう、久しぶりだな。今日は非番か? まあ上がれよ」
 葵はそう言うと、膝に乗せていた猫を抱きかかえて部屋へと入って行った。
 尚輝も縁側で靴を脱ぎ、友人に続いて部屋に入った。
 葵は本当に変わってなかった。
 まるで先週も会ったかのような様子で反応で尚輝に接してくる。
 これが葵のいいところなのだろう。
 葵がこの調子で接してくるから、尚輝も以前とからぬ反応をする事が出来る。
 それには、この家の様子と雰囲気が、まるで寸分の一も違わず変わっていないのもあるかもしれない。
 厳格な家らしい建物でありながら、それでも訪問者を拒む事はなく、自然と和ませてくれる空間がある。
 明治に建て替えたらしい建物でありながら、それでも訪問者を拒む事はなく、自然と和ませてくれる空間が存在する。
 尚輝は、この家がすごく好きだった。
 尚輝が部屋に上がると、いつの間に現れたのか解らない、葵の執事である迦葉が側にいた。
「神元様、ようこそお越し下さいました」
 迦葉は背筋を伸ばして正座をし、尚輝に頭を下げた。
 これがこの迦葉という男の普通の態度なのだ。
「迦葉さん、お久しぶりです。お邪魔いたします」
 気の利いたセリフ出せずに尚輝は頭を下げる。
 葵に執事という存在がいる事自体、やはり葵はホテル経営の御曹子というイメージがあるのだが、実はそうではない。
 ただ単に便利がいいからという理由で側に置いているに違いないと尚輝は思っている。
 実際、葵に執事がついていなければならない事情はどこにもないからだ。
 迦葉の年齢は、尚輝や葵とは一つ年上というだけで殆ど変わらない。それなのにベテランの執事らしく、全てにおいて丁寧でピシッとしているのは、尊敬にあたる。
 迦葉は背も高く、体系もガッシリしているので、何か武術でもやっているのかもしれないと尚輝は推測していた。
 しかし、尚輝は迦葉がどういう人物なのか殆どよく知らない。
 大体、「迦葉」というのが名前なのか、名字なのかさえ知らないのである。
 葵に最初に迦葉を紹介してもらったのが、ちょうど大学生になったばかりの頃だった。紹介され、その時の葵の紹介は、「執事の迦葉だ」であったし、当の迦葉も「迦葉です」としか名乗らなかったのだ。
 当時はさほど気にも止めなかったが、今更、「名字なんですか? 名前なんですか?」などとは聞けない。
 謎が多い執事だが、素性は別にして信用できる人物であることは間違いない。
 そうでなければ、他人をあまり信用しない葵が今でも側に置いておくことなどしないからだ。
 かれこれ、十年以上の付き合いになる。
 その付き合いが二人の信頼度を表している。
「尚輝、昼は食べたか?」
 煙管に葉を詰めながら葵が尋ねる。
 不意に声を掛けられて、尚輝は我に返る。
「いや、まだだけど」
「迦葉、久美に尚輝が来ていると言ってきてくれ」
 葵が言うと、迦葉はにこりとして頭を下げた。
「畏まりました。それでは失礼します」
 昼食を用意するように、と言わなくても用件は迦葉には解っている。
 迦葉が早々に部屋から下がるように言われたのは、迦葉がいては尚輝が話すことが出来ないことがあるという事を葵が解っていたからである。
 そうした気遣いを口に出したりしない。葵は優しさを隠してしまう、照れがある。
 そうした性格であることは、迦葉には嫌という程知っている。
 迦葉が下がっても、尚輝はすぐにここへ来た用件を話せずにいた。
 葵も急かして聞こうとはしない。
 尚輝もここにきて、その用件を話していいものか迷っていた。初めから相談しようと思って来たわけではない。悩んでいる時、葵を思い出したのだ。すると自然に足が向いた。
 ほほは、本当に初心に戻させる何かがあるのだろう。
 悩みを抱えている尚輝をホッとさせる雰囲気が尚輝の心を次第に落ち着かせる何かがあった。
 取りあえず、今悩んでいることを整理は付かぬものの話してみようかと思った時、荒々しく廊下側の襖が開いた。
 やってきたのは、この家の家政婦である清水久美である。
 久美は尚輝の姿を目でしっかりと確かめると嬉しそうに尚輝に駆け寄ってきた。
「まあ、尚輝さん。よくいらっしゃいました! お久しぶりでございます!」
 久美は今年で60歳になる女性で、元気溌溂といった感じで、いつもテキパキと行動する人だ。
 尚輝が初めてこの家にきた小学生時代からずっと居るので、先代時代からの家政婦なのである。
「ああ、久美さん、お久しぶりです」
 久美の異様な喜び様に一瞬驚いた尚輝だが、気を取り直して、いつもの笑顔でニコリと微笑みかけると、久美は尚輝の両手を取って握りしめると一気に喋りはじめたのである。
「ああ、尚輝さんがいらっしゃらなくなられて、久美はとうとう若様が見捨てられたのではないかと心配になりました。まったく訳の解らない話ばかり書かれて、まっとうな仕事にも就かないで、かといって、御主人様の後をお継ぎになるわけでもないし」
 久美の愚痴はいつもの事なのだが、今日のはいつもより力がこもった批判ぶりだ。
 久美は、葵の事を若様と呼んでいる。
 御主人様というのは、先代、つまり葵の父親の事である。
 葵の姉、朱琉の事はお嬢様と呼んでいる。他の使用人は、葵の事を若旦那と呼んで、先代は大旦那と呼び分けている。
 久美の昔からの「若様」という呼び方は一生直らないだろう。
 葵も一応は抵抗してみたが、やはり挫折してしまったようだ。
 その若様の批判はいつも尚輝が聞く羽目になる。
 そして、若様はいつも反論しはじめる。
「久美には訳の解らない話でも、一応読んでくれている読者もいるんだ。でなければ、執筆の依頼がくるものか」
 葵がそう言い返すと、久美はキッと葵をみらに見つけている。
 それから尚輝の方を向くと、また一気に喋りはじめた。
 この久美を止める事は誰にも出来ない。
「まあ、まだそんな事を言ってらっしゃる。久美は本当に嘆かわしいですよ。こんな若様の唯一の理解者である尚輝さんですのに若様ときたら、連絡を取ろうともなさらないし、これで尚輝さんが本当に愛想をつかされていたら一体どうなさるおつもりだったんですか! ああ、本当に久美はホッとしましたよ。こうして尚輝さんが来てくれて久美は嬉しゅうございます。尚輝さん、こんな若様ですが、若様の事を見捨てないでやってくださいませ」
 必死に願い込む久美の姿に尚輝は少し葵が可哀想になってきた。
 葵の事を産まれた時から全て知っている久美に、葵が適う訳ないのだ。
 しかもまるで幼稚園か小学生の子供のように葵を扱う久美。
 もう三十になる男友達に言うことではないのだが、久美にとっては、いつまで経っても葵は小さな子供のようだ。
「いや、あの、葵だけが悪い訳じゃないんですよ。俺も連絡出来なかったし。それに仕事が忙しかっただけですよ。今日は久しぶりの長期休暇になったので伺ったんです。久美さんの手料理食べたいなぁとか思って。図々しいですかね?」
 尚輝がそう言って、少し首を傾げると、久美は本当に嬉しそうな顔をして、首を振ったのである。
「いえいえ、とんでもありません。尚輝さんが久美の手料理を愉しみに来て下さったのであれば、久美は腕によりをかけて料理を作らさせて頂きます!」
 久美はそう言って立ち上がると、挨拶をそこそこに台所にすっ飛んで行ってしまった。
 久美から葵の話題を反らすのには、食事の事を持ち出すのが一番である。
 慌ただしく久美が去って行くと、葵がクスクスと笑いを洩らした。
「何だよ」
 尚輝は葵が笑っている訳は解っているのだが、取り敢えず聞き返した。
「いや、相変わらずだなと思ってな。久美のあしらい方が上手いな」
「あしらい方とは失礼だな。俺は思った事を言っているだけだぞ」
「だから、それが上手いって事だよ。俺が口を挟むといつも反撃を食らうんだ。お前みたいに、旨い飯が食いたいと言ったって、何か企んでいると思い込むからな」
 そりゃ何か本当に企んでいるんだろうが、とは尚輝も言わない。
 それは久美の言い分の方が当たっているからだ。
 それを言うときっと葵が拗ねてしまう。
「久美はお前がここに来なくなったのは、俺がオカルト小説を書いているからだと思い込んでいるんだよ」
 久美には小説を読むという趣味はないので、小説家はただの道楽としか思えないのであろう。
 昔でいうカタギの職ではないのだ。
 今だそれを言うのだから、そう思っているのだろう。
 葵はふと思い出した様に。
「毎朝、久美がなんて言って俺を起こすと思う?」
「さあ?」
「今日こそは、尚輝さんに手紙でも電話でもして、淋しいから会いに来てくれって言えって言うんだぜ」
 葵はその台詞に寒気を覚えたらしく、身震いをしていた。
 尚輝はそれを聞くと、爆笑した。
「笑い事じゃない。なんで俺がお前に淋しいから来てくれなど言わなければならん」
 久美の言うことは、本当に子供に言い聞かせる為の説教だ。
「確かにそうだ。お前がそんな事言うはずない。だが、もし、そんな手紙でも電話でもくれたら、俺はすぐにでも飛んできたぜ」
 尚輝は冗談でそう言って一人爆笑する。
 冗談でも面白すぎる。
「嘘付け。そんな事したら、お前は気味悪がって二度とこの家には近付かんだろう」
 尚輝の性格をよく知っている葵が断言し、そう言うと尚輝もそうだと腹を抱えて更に笑い続けた。
 本当にそんな電話をかけてくる葵を想像したら余計に可笑しくなってしまったのだ。
 あまりにウケている尚輝に、呆れた顔をして葵が言う。
「阿呆、笑い過ぎだ」
「せやかて、可笑しい」
 久しぶりに爆笑という笑いが止まらない程笑った尚輝。
 本当にここの人々は変わらない。
 尚輝がこの家に出入りしていた頃となんら変わりないのが、尚輝には嬉しくてたまらなかった。
 暫く笑って、やっと笑いの発作が治まった尚輝は起き上がって言った。
「久しぶりだ、こんなに笑ったのは」
 尚輝が涙を拭いていると。
「お前、何を悩んでいる」
 唐突に葵がそう言った。
 尚輝は驚いて、葵の顔を凝視する。
「解らないとでも思ったのか? お前がここに来る時は、いつでも何かに悩んでいる時だ。そうじゃなきゃ、俺のところなんか来やしない」
 葵のハッキリとした言葉に尚輝は神妙な顔をする。
 そうだった。
 ここへ来る時は、いつでも何か相談しようと思っている時くらいだ。
 それでなければ、無理矢理葵に呼び出されるくらいである。 まあ、葵は滅多な事では尚輝を家には呼ばないのだが。
 呼ばれなくても、尚輝は好きな時に訪れる事が出来る唯一の場所である。
「ここは悩み相談所じゃないんだが、お前は思い詰めて追い込まれなきゃ、絶対に俺には話しちゃくれないからな。仕方ないから聞いてやる。話せ」
 葵はいつもの陽気な姿とは違い、真剣な口調でそう言った。
 葵には、尚輝が悩んでいることは初めから解っていた。
 尚輝は悩みがあるとすぐにこの家を訪れる。 
 しかし、モジモジとして決心をするまでに時間がかかるのだ。
 長年、尚輝の友人をやっている葵には、最初の姿を見た時からすぐに解った。
 この一年、この家に寄り付かなかったのは、悩みすらなかったからだ。
 だが、葵が全て解決できる訳ではない。
 それでも話せる相手がいるだけでも尚輝の気がすっきりするだろう。
 そういう時だけでも、葵が頼りにされていることは、葵にとっては嬉しいことでもあった。
 当然、こんな小さな葵の喜びに尚輝が気付くはずない。
 これが尚輝以外の人間なら、必要以上に話を聞こうという仕種すら見せない男である。
 葵は、いつも尚輝が喋り出すまで待ってくれるが、特に尚輝が話せずにいて、それさえ悩んでいる時は、いつでも葵の方から切っ掛けをくれる。
 尚輝はいつも葵に感謝している。
 葵に急かされて、尚輝は少し考えた。
 話そうとは思っているが、何から話していいのかが解らないのだ。
「まあいい。飯食ってからでも構わない」
 尚輝の考えが纏まらないのを見て、葵がそう言った。
 それから十秒もしないうちに久美と迦葉が部屋に現れた。
 尚輝の悩みを他の者に聞かせない為に話を後回しにしてくれたのだ。
 特に久美が絡むと話がややこしくなるから、葵は久美の前ではそういう会話をしないようにしている。
 尚輝も久美には心配させてはいけないと黙った。
「さあ、尚輝さん。沢山召し上がって下さいませ!」
 久美がお膳に乗せた料理を尚輝の前に差し出した。
 まるで旅館で食事をするような感覚で食事が並べられる。
 久美は葵の分は並べる気はないのか、そっちの作業は全て迦葉に任せている。
「前もっていらっしゃるのが解っていましたら、もっと凝った物を作りましたのに…」
 そういう食事は十分立派なのに、久美には不満だったらしい。
「すみません。今度はちゃんと前もって連絡します。いつもの癖で、大体、葵は家にいるし、留守だった事がなかったので」
「若様は出無精ですからね」
 久美はチラリと恨めしそうに葵を見て言った。嫌味である。
「悪いな。家で仕事をしているんだから仕方ないだろ」
「まあ、だからそんな仕事おやめなさいと言っているのです」
「……」
 ああ言えばこう言うではないが、葵が反論すると決まって「おやめなさい」の言葉が出てくるようである。
 葵は反論をやめて黙り込む。
 思わぬ所に若様の弱点ありである。
「さあ、お食べ下さい。おやつも用意しておきます。尚輝さんの好きなショコラにしましょうね」
 久美は満足そうにそう言うと、さっさと台所に戻ってしまう。
 どうやら、食事の作りながらお菓子作りの準備もしてたらしい。
 尚輝は甘いモノが大好きだが、中でもケーキのショコラには目がない。それに久美の作るお菓子はどれも絶品なのだ。
 昔からこの家を訪れる時の尚輝の楽しみの一つになっている。
「お前が来ると俺の胃がおかしくなるな」
 忌々しそうに言い放つ葵。
 尚輝とは違い、葵は甘いモノが好きではない。食べられない訳ではないが、好んで食べるモノでもないと思っているらしい。
 とにかく甘ったるいモノは、今では寒気がするやら、胃がおかしくなるなどと言って、敬遠している。
 その反動か、辛いモノが好きらしい。
 久美もその事を知っているのだが、わざと嫌味を行動で表してるのか解らないが、甘いお菓子を作っては、葵に食べさせようとしている。
 相変わらずなこの家の住人達を嬉しく思いながら、尚輝は自分の為に作られた料理を平らげた。
 そして、食事の後片付けが済み、迦葉が下がる頃には、やっと尚輝も落ち着きを取り戻していた。
 落ち着いた尚輝はやっと相談事を話し始めた。
「俺が事件で、亀岡に行った時のなんだけど」
 それが悲しい事件の始まりだった。