novel

spiralling-6

 言うことを聞かない老人というのは、今まで経験したことはある。
 けれど、その言うことを聞かない理由は、もう少しマシであったし、言い訳も仕方ないと思えた。
 寧野には16歳の時に殺された父親と、記憶にはない母親しかいなかった。親族とは縁を切っていた父親と、父親と結婚したことによって縁を切られた母親。なので親戚なんてものはいるけれど、一生会うこともなく、寧野は祖父母さえ知らずに生きていくことになった。それは不自由ではなかったし、寧野的には記憶にない母親がいないことも不自由ではなかった。
 だから周りから可哀想だと言われても、そう思われたからと言って何かがよくなることもないことを知っていた。
 実際問題、下手に肉親がいる方が不都合だったと今なら思えた。
 さすがに父親がいなくなったことへの気持ちの整理はまだ付かないままだが、それはそれこれはこれとまた目の前の問題に取り組もうとする。
 寧野にとって老人という年齢の人は、自分の後見人になってくれた榧希(かや のぞむ)くらいしか知らない。耀の側にいるようになってからは若い人や父親の年齢くらいの人にも会う機会は多かったと思う。
 耀の側に居る九猪や億伎ですら、寧野にとっては父親に近い人間ではある。そういう目で見ていることはきっと向こうは承知しているだろう。
 その中で榧(かや)は寧野の中では完全に師匠を超えた存在だった。彼が亡くなるその日までずっと。しかしその榧(かや)は、去年寧野が大学を卒業して、耀についていくと決めた決心を聞いた後、癌で入院していた病院で亡くなった。
 榧(かや)の後を継いだのは、意外にも孫の二人ではなく、月時響だった。榧(かや)が都内に持っていた道場を買い取ってしまうとそこで道場を始めた。最近の環境の問題で響は会社を思い切ってやめたそうだ。そこに寧野は通って響に相手をして貰っていた。まだまだ叶わないけれど、なんとなく共通の技が通用する自分よりも強い人がいることに寧野は安堵した。
 そんな環境を作りあげていた榧という人間は尊敬にあたるのだが、目の前にいる一時期は百人くらいはいる組織の頂点にいた男とは思えないほどの馬鹿っぷりを発揮しているじじぃは到底尊敬出来ない。
 萩野谷はこれまで運動というものに縁が無かったのではないかと思われるほど体型はふくよかだった。そして短い手足。顔も丸く、目尻が下がっているので見た目ではヤクザの凄さは一切無い。よくて金融業者の成金というとこか。だがそれもそのはずで、大抵のことは部下任せでやってきたと書いてあったので、本人はこれが普通の遊び方なのかもしれない。
 だが、たまにする普通の遊びだとしても寧野には理解不能だった。
 ホステスに囲まれて、お酒を並々と注いで貰い、半分も飲めていない様子でこぼすこぼす。それが一瓶百万するというのだから、世の中おかしい。飲めもしないものに百万。見栄を張る為だけに店にいる女性を同席させる。周りに聞こえるような大きな声で宝生組の名を使っている。
 最初の方のことはどうでもいいとは思ったが、最後の一言が余計だった。
「あの宝生の息子だが、あれはいかん、大体世襲制などばかばかしい。あんな子供が若頭で将来組長に決まっているだと? ふざけるな、そんなものの為に宝生組直参してたわけじゃない!」
 その言葉に寧野のこめかみに確実に怒りマークと言われる筋が浮き上がっていただろう。罵声が出そうな口を閉じ、奥歯が音を立てているのは耐えているという証拠だ。
 目に見える苛立ちを隠そうとしない態度に、少しだけ犹塚は笑みを浮かべた。さっきまで大して表情は変わっていなかった。淡々と与えられたものを取り入れ、処理していく。淡々として十分にこちらの要望通りにこなしていくところは、悲しいかな耀のやり方にそっくりだった。だからそういう風に育ってしまったのかと残念に思っていたら、予想外に感情的でもあるようだ。
 暫く馬鹿な老院の新人を眺めていた寧野だったが、ふうっと息を吐いて犹塚の方を振り返った。
「あの、あのソファを無駄にした場合。金銭的な問題は?」
 少しだけ不安そうに尋ねたら、犹塚は苦笑していた。
「構いません。後始末は私がしますのでお気になさらないでください」
 初めて寧野の前で愛想笑い以外の笑い方で犹塚が言ってきたので、寧野は、あれ?と首を傾げそうになったが、今はそれどころではないので尋ねないことにした。
「そうですか。解りました、後お願いします」
 寧野はそう言うと、近くで不機嫌そうにしているママを見つけて何か話を取り付けている。それに対して最初は子供が何を言っているというような態度で接していたママの顔が、奇妙に歪むとぶっと吹き出して笑い出して、近くに立っていたボーイに何かを持ってくるように言いつけている。
 それに対して寧野はにこりと笑ってママに礼を言い、ママは気にするなと寧野を励ましている。
 どうやら何かの方法で対処するようだが、その方法は度肝を抜かれるらしい。ママが笑っていたのは、きっとそうなった時の状況が楽しいだろうと想像して笑ったからかもしれない。
 そうして寧野はボーイが持ってきたバケツを受け取っている。そしてママは萩野谷の側にいる女性全員を避難させた。
「一体なんだっていうんだ、この店は!」
 ママのやりように文句を言い出した萩野谷の前に、バケツを持った寧野が悠然と立ちはだかる。
「貴様、ボーイのくせに、宝生組本家老院のわしに文句でもあるのか!」
 そう萩野谷が寧野に食いついてきた時だった。それまで静かに聞いていた寧野だったが、立ち上がろうとした萩野谷の腹を足で思いっきり蹴ってソファに押しつけるようにしてのしかかったのである。
 当の萩野谷は何が起こったのか解らない様子なのと、あまりの激痛と共に睨み返そうとしてみた寧野の見下ろしてきた顔に驚きを隠せないようだった。
 一体何があって、どうなってこうなっているのか、瞬時に思いつけるような人間であれば合格というところだろう。そう犹塚が思っていたら、萩野谷は苦しそうに言い放ったのだ。
「くそう、志智と音羽のやつだな!! きたねえぞ、自分で出来ないからって人を使うとは!」
 そう叫ぶ萩野谷に寧野の低い声が降り注ぐ。
「そこまで解っていて、真正面から叩くのが正論とばかりにこんな馬鹿げたことをやっていたというのなら、俺がここに来た意味も理解出来るだろう?」
 ゆるりとした口調でそう付けた。この言葉自体に周りは何が?と首を傾げるようなことになるのだが、志智と音羽が黒幕だとすぐに理解出来た萩野谷なら、それは違った意味を含んでいると理解出来るはずである。
「それこそ!」
 萩野谷が反論しそうになると、寧野が一喝する。
「愚か者が!」
 腹から出した声は、周りの客も従業員も一瞬飛び上がってしまうほど大きく、そして鋭かった。上から言葉が降ってきた萩野谷も大きな身体をすくみ上がらせている。強く鋭い視線が殺気を帯びて睨み付けてきたとしたら、誰だって一瞬は身の危険を感じるはずだ。まさに萩野谷はその状態だ。
「言いたいことがあるなら聞こうじゃないか。ただし頭を冷やしてからよーく考えて言葉を選んで欲しい」
 ニヤッとした寧野はまだかっかとしていそうだった萩野谷の頭の上からゆっくりとバケツに入った水を垂らしていく。一応老人なので一気にやるのはやめたらしいが、こっちの方がやり方が妙に恐い。
 真綿で締めるようにじわじわと殺るという、そうとしか見えない。
「あー、そうそう。耀のこと「なんて馬鹿だ」って言ってたって、耀に報告しておくね」
 全部水をかけ終わった後に、寧野がにこりとして萩野谷に最後通知を突きつけた。その言葉に萩野谷は咄嗟に言い訳をしようとして、ハッとして口を詰むんだ。それを見て寧野はにこりと笑う。それは本当に優しそうに、まるで幼稚園児を褒めるかのように言った。
「頭のいい子は大好き」
 人によっては馬鹿にされていると取られるような態度であったが、恐怖に震え上がっていた萩野谷には十分違った効果があった。そう、あり得ないことではあるが、褒められたと子供のように嬉しそうな顔をしたのである。
 それを一部始終見ていた犹塚は、これはもう調教し直していると言っても過言ではないなと思いながら、目の前ですっきりしたと笑っているママに水で駄目にしたソファと床に貼られたカーペットの総額、それに改装にかかる強制休業の損害を小切手で支払った。
 寧野は犹塚に途中で買わせた真新しいスーツを萩野谷に渡してトイレで着替えをさせ、それから店の人間に謝って萩野谷を連れて店を出た。
 すっかり大人しくさせられた萩野谷は何か言いたそうにしていたが、いつこのおっとりしている風に見える人がさっきのように切れた風になるのか予想が出来ないため、とりあえず大人しくすることにしているようだ。
 それにしてもと犹塚は首を振る。
 寧野は最初から萩野谷には水をかけてやるつもりだったとは。
 まさか新しいスーツを求められた時は、萩野谷のご機嫌を取るだけの作戦かと思っていたが、たしかに機嫌はとってはいるがそういう機嫌をとるつもりだったとは予想外すぎた。ここまで想定外な行動に出られると、もう観察はいいかと思ってしまう。
 基本的に宝生家に信者的な関心を持っている父親や祖父と違い、そこまで耀に心酔出来ないでいた犹塚であるが、父親の犹塚智宏が組長よりもそのパートナーである月時響の方に心酔しているところがあるのはなぜだろうと思っていた。
 ただ智宏は、あの人は違う意味で凄いからね、と意味深なことを言っていたが、要するにただ単に男として月時響の方に興味を持っただけのことなのだ。
 そして犹塚自身は、この目の前にいる織部寧野に興味を持った。
 宝生というだけで特別に教育されてきた耀が選んだ相手。それがただ者であるはずがない。そんな言葉を今更思い出す。
 確かにただ者ではないだろう。あの場面であの一喝と恐怖を与えるに十分のやくざらしい暴力の傾向は、実際やくざであればそれなりに興味を抱いてしまう素材ではある。
 男らしくない顔、綺麗すぎて顔を売り物にすればこんな生活とおさらば出来るはずなのに、あえてこの世界にいる納得できる理由。それが寧野にはなかった。
 だがそれが見え始めた時、思わず納得してしまうような出来事があれだ。この人は頭もいいのだが腕っ節もいい。頭だけでこね繰り返しても暴力団という代名詞をもらっているこの世界では、一切暴力沙汰という傾向がないというのは非常に弱いのだ。この人はそんなところが分かっていて効果的に自分の顔も使っている。
 見た目は大人しそうだが、実際はそうではない。想像するだに恐ろしいという存在の方が実に効果的に相手を恐怖の陥れたり、一撃で上下関係を決められることがあるのだ。
 寧野は意味のないことは一切していない。自然にそれが出来ることが宝生の看板を背負うにふさわしいといえた。
 犹塚としては、このままの寧野をキープして、父、犹塚智宏がなせなかったことをしたかった。智宏は月時響を極道から遠ざけてしまったために夢は叶わなかったと言っていた。だが、織部寧野は自分から積極的に関わろうとしている。
 ならば、それ相応に育てることだって出来る。今の老院は本当に暇と言っていいくらいだ。だったら人手はいくらでもあるし暇もある。協力すれば一人の姐さんを育てる感覚で寧野を育てられる環境も整っている。組長代理がいなくなった後、宝生家最後の組長の時代はパートナーも最強だったと伝説になる。そう、それを夢見て何が悪い。そう犹塚は思った。
 こんなくだらないしきたりで自分の人生半分台無しにされたのだ。ただ宝生耀という組長を育てるために。
「あの……大丈夫ですか?」
 とりあえず萩野谷は捕まえたので車に乗せて先に送らせたが、寧野と犹塚はその場にまだ立ったままだった。
「いえ、大丈夫ですよ」
 考え事をしていたのは事実だが心配されるような顔をしてただろうかと犹塚はじっと寧野を見てしまった。
「俺、何か失敗したのかと思って……」
 初めて寧野が自分がした行動の心配をしている。
「なぜですか? ちゃんと萩野谷も送り届けてお仕置きもしたわけですし、文句はありませんよ」
 本当にそうだったのでそう言ったのだがそれでも寧野はじっと考え込んでいる。そして思い切ったように打ち明けてきた。
「もしかして……あのソファやカーペット代、すごくかかったんじゃないんですか?」
 とそんな心配をしていたのだというのだ
 それにはさすがに呆れて、それから吹き出して笑ってしまう犹塚だった。寧野はどうして犹塚が笑っているのか分からずに首をかしげて犹塚を見上げている。
「いえ、あれはそれほどかかってません。実に萩野谷老人が一日にキャバクラで飲み食いする金額よりは遙かに安上がりなのです。だから心配する必要はないですよ。むしろあれなら必要経費にしかなりません」
 そう告げてやると寧野はほっとしたように目尻を下げた。それと同時に零れた笑顔が犹塚の心に深く刻み込まれた。
 それは自分の父親が同じ思いをした気持ちとそっくりであることに犹塚は気づかないままだった。


 なんとか萩野谷とは一線を交えずに帰宅できたと思ったのだが、本家に到着すると元気を取り戻したらしい萩野谷が玄関先で暴れていた。
「ちくしょー! 俺は騙されないぞ!」
 そういうのである。いったい何に騙されたくないのだろうか。ふと寧野は気になってしまった。どうせならと直接萩野谷に尋ねた。
「何に騙されたって?」
 寧野が顔を覗かせて尋ねると、萩野谷は寧野を見た瞬間、仰け反って寧野から遠ざかろうとした。飛び退いた顔は真っ赤になっていて、どうやら寧野の顔をまともに見られないらしい。
 そこでふと犹塚は思い出す。萩野谷はああいう形をしているが、実は面食いであるということだ。本人が美形にコンプレックスがあって毛嫌いをするならわかるが、萩野谷はとにかく人間見た目が第一印象だと言い、部下のことにも気を遣っていたらしい。よって自然とより分けられた西塔組の幹部は、顔だけは宝生組一の美形集団と化しているらしい。もちろんそれで実力があるから質が悪い。
 その中では萩野谷が好むのが、少年から青年になり、青年であるが少年のように完全に育ちきらない青年が好きなのだ。そう、寧野はまさに好みのど真ん中なのである。
 思わず犹塚は「かわいそうに」と呟いてしまった。いきなりタイプの人間が目の前にひょっこり現れて、自分に怒っていて暴力を振るってきたら、萩野谷でもパニックになって慌てるだろうし、ヤクザらしい乱暴もしたくないと思ってしまうかもしれない。
 それにしても萩野谷が驚くのも無理はないだろう。ヤクザの世界を知っていてもなお、こんな顔が出来る一般人はいない。そもそも寧野の父親はそのヤクザの抗争で死んでいるのだ。ヤクザを嫌いになることはあっても、近づこうと考えるのは異常だった。
 そのギャップに犹塚は首をかしげた。寧野をそこまでさせる何か。それが宝生耀にあるとは思えないのだ。確かに助けてもらっただろうし、その時は耀しかすがれる人はいなかったかもしれない。だが、それは耀がそうしたからと今まで考えなかったのだろうか?
「あの、貴方は若頭に頼まれてこんなことをしているのか?」
 言っている言葉がおかしいのだが、言いたいことは解る。
「いえ、本家の方々に貴方の行動を止めてほしいと頼まれてやったことです」
 寧野が馬鹿正直に答えると、萩野谷は寧野の手を取り真剣に言った。
「いかんのです。それはいかんのです。私は何も考えずにこういうことをしているわけではないのです」
「というと。俺は貴方の計画を潰す手伝いをしてしまった馬鹿ということになりますね」
 さくっと釘を刺すように寧野が言うと、さすがにやり方がまずかったことには気づいていたらしい萩野谷は慌ててそうではないと言った。
「違います。貴方は今や宝生組の若頭の情人という立場になります。言い方は悪いですが、公式に決まった立場でない方が、出しゃばった真似をすれば方々から不満の声が上がってきます。そうなれば、若頭の立場も悪くなるんです。それに貴方だって何を言われるか……」
 確かにそれは正論だった。情人という立場であるというのが、一応は宝生組での寧野の立場だ。幹部たちが踏み込んで言えない部分があるため、何かあるとは解っていても公式に認められた立場でない限り、従う義理はないのだ。
「でも萩野谷さんはそれが解っていても俺の言葉に従ってくれた。それだけでは駄目?」
 寧野が軽く首を傾げたことによって、完全に萩野谷のハートに矢が刺さったようだ。
「そこまで甘くは……」
「ないのは解ってるんですけど。萩野谷さんは現役時代、皆に認められた立場の人で、その人が一応従おうとしているのを見て、皆は「腑抜けになったか」とは言わないと思うんです」
 萩野谷が言おうとした言葉にかぶせて寧野がそう言うものだから、萩野谷も「ん?」と首を傾げた。
「ですから、それほどの人が一応礼を取るどころか、完全に従っていたら、周りの人は「あれ、もしかして何かあるんじゃないだろうか」と考えないものかなって」
 そう寧野が言うから、そこに居た人間は皆、なんだと?と眉を顰めた。つまり寧野はまわりが勝手に想像して勝手に勘違いしてくれたら儲けものと思っていたらしい。
「まさかと思いますが、そういう確かではないものに乗っかろうなんて思ってませんか?」
 犹塚もさすがに突っ込みたくなって言ってしまった。
 すると寧野はてへへと笑って。
「あ、やっぱ駄目? バレる前にそれなりに見えるようになってみようかなって思ったんですけど、やっぱ甘いかあ」
 寧野はケロリと平気でそう言い放ったのである。
 どういう計算をすれば甘い考えを貫けると思ったのか。この人はさっきは凄かったのに、まさかと思うがあれもこんな軽いノリでやったというのだろうか。そうだとしたらそれはそれで底が見えず恐いことなのだが。
「寧野さん、そういう不確かなものに乗るのはやめてください。ただでさえ不安定なのに、何かあったらどうするんですか?」
 犹塚が心配のあまりそう言うと、寧野の視線が地面に向いてしまった。
 どうやら本人が気にしていることだったらしいと、地雷を踏んでしまったと慌てかけた犹塚であるが、寧野が先に口を開いた。
「俺が不安定に見えるのって、たぶん俺が不安定なんじゃなくて、耀が不安定だからなんです」
 急に暗くなった寧野にさすがの萩野谷も騒動を大きくする気はなくなったようで、すすんで寧野に家の中に入るようにと勧めている。寧野は大丈夫だと手を振りながら言うのだが、さすがにあそこまで落胆されたのでは、何かあったのではと心配になって手を差し伸べたくなる。
 さっきの落胆ぶりはここに来た時の寧野の様子と似ている。彼が本当の自分を押し殺しているのは、さっきの様子から見て解る。
 ということは、織部寧野の本質を殺しているのは、他の誰でもない宝生耀ということになる。
 では、宝生耀は寧野にそういうところがあるのも知っていて敢えてやっていることになる。
 それはどうしてだ――――――?



 一応ではあるが寧野は老院の二人に萩野谷を連れて帰ってきたことを告げようと思ったが、これだけの騒ぎになっていても出てこないところを見ると、本当は大して関心がなかったのではないかと彼らの本当の目的が見えなくて、どうしようと考えてしまう。
 報告は後回しにするしか出来なかったのは、萩野谷が妙に寧野を心配して部屋に呼び、犹塚まで来て二人してどうしたんだと真剣に聞いてきて逃げられなかったからである。
 とりあえず萩野谷の今日の行動は阻止したが、今後萩野谷が真面目になってくれるかどうかは、どうやら寧野がさっきのことをちゃんと話すことにかかっているらしい。
 お茶やお菓子まで出されて、逃げるに逃げられない。
 特にさっき失言したことに関して、寧野は誰かに聞いてもらいたかったわけではない。耀が何かに不安になっているのは、ずっと側で見ていたから解っただけのこと。それが何なのかは解らないが、きっと耀にとっては都合が悪く、そして寧野にとっても都合が悪いことなのだろう。だが、それを耀はずっとひた隠しにしていて、それによって寧野の「手伝う」という発言がキーワードのようになってそれから起こる何かを恐れていることしか解らない。
 寧野が耀の手伝いをしたいというような言い方をすると耀はいやがるようなので、宝生組の何かを寧野が知る立場にあることが嫌らしい。
 だからこれは距離の問題ではない。色々な問題が山積みになっている状況が悪化している。だから耀以外の誰かに相談するのはありだった。きっと自分たちでは気付けない何かがあるはずだった。そうして寧野は数人の知り合いに相談はしていた。
 だが今は困ったことにこれをこの人達にも話さなければ先に進まない。
「耀様が不安定というのは貴方から見てということですよね?」
 さっきまで真剣味が一切なかった犹塚が真剣に問うてきた。
「そういうことになります。他の人にそれとなく聞いてみたんですが、いつも通りですねと言われるだけで……でもきっかけはあります」
 一応他の人に指摘できないことであると伝える。
「俺が「手伝う」と言うと、周りにもわかりやすいくらいに動揺はするんです。でもそれは、宝生組に関わらないでいる彼の育ての親、響さんと俺を同等に見ているからこその反応だと思うんです」
 寧野の言葉に犹塚はふむと頷く。
 寧野の指摘や観察した結果は間違ってはないだろう。耀は月時響のように組には関わらない立場を崩すことなく、頑なに貫いた姿を一般人として当然だろうと思っているところがある。
 組長代理が月時響を宝生組と関わらせないようにしていたことは有名で、特に彼が伝説のヤクザと言われた男の子供であることが解ってからは、それまでとは真逆の意見「関わらせるべきだ」という周囲の意見を黙殺してきた。もちろん今ではそれが正しいことだと解っている。彼に極道の知識がないことや、彼がまったくその気がないこと。伝説のヤクザの子供であろうが、そうそう簡単にヤクザの世界に入ることなど出来ないと彼の方から啖呵を切っていたくらいだ。
 もちろんことあるごとに話を持ち出す輩が多いことは多いが、双方から黙殺されれば次第に言わなくなる。そうして彼は一般人として暮らしている。
 それはそれでハッピーエンドであるし、彼らが決めたルールに則ってしていることだから文句はでないだろう。
 耀はそのルールを自分も守らないといけないものだと思っているところがある。それも悪い意味でそのルールに従わないと織部寧野という人間を守れないかのようにだ。
「俺は、元々ただの一般人ではないし、それになれるとは思えない。うっかり誰かが俺のことを担ぎ出したりしたら、それこそ目も当てられないようなことにだってなり得る」
 そう寧野は自分がチャイニーズマフィア「鵺(イエ)」の直系にあたることを知っていた。なぜ鵺が寧野を助けるようなまねをするのかと思っていたら、実はと最後の最後で種明かしをされた。そして今でも鵺の龍頭(ルンタウ)としてではなく、昔学友だったという立場で鵺の龍頭と付き合いがある。
 そもそも鵺の龍頭としては、寧野の存在が解ると自分の身の危険が増えるから邪魔だと考えるべきだろうが、彼は自分の身内が直系ではいないらしく、寧野がその直系として一番近い位置にいることが嬉しいらしい。そしてその寧野が望む最良の関係と、寧野が望む現在を与えてくれているわけだ。
 本当なら彼なら寧野を耀から奪い返して、寧野をすべての危険から守るために、寧野をどこかの島に囲ってしまうことだって容易に出来る。だがそれをしないでくれているのは、寧野がそれを望まないことを知っているからだ。
 さらに彼は寧野が本当に望んでいることを理解している。
 恐いことを言うと、もし今鵺の龍頭が死去したとしよう。鵺は基本、龍頭には直系を重んじる。この場合、龍頭(ルンタウ)としての素質や知識が寧野にない場合でも、寧野をお飾りにしておけば、鵺(イエ)としては対面は保てる格好で存在することが出来る。
 さらに恐ろしく言えば、今の龍頭(ルンタウ)を殺して、寧野を飾りにしておけば、鵺(イエ)を自由に操ることだって出来る可能性もあるのである。そうした爆弾が寧野という存在にはある。
「確かに貴方の立場では到底一般人には戻れませんね。だからこそ宝生組にいることを許されている立場でもある」
 そう、つまり寧野は本人が望んだことと、耀が望んだことの結果、仕方がないから妥協して宝生組は寧野を大事に扱うし、耀は耀で寧野は自分でここにいることを選んだのだから恋人として扱う。
 だが耀が寧野を拒否したり、寧野がそれを望まなくなったら、寧野は自分の意思に関係なく、鵺(イエ)の資産として強制的に監禁生活となる。
 もちろん、その時鵺から宝生組に対して、報復があることは間違いない。耀が寧野を拒否して寧野を泣かせたりしたら、当然のように耀の命はない。そういう関係であるから、組の幹部は寧野と耀の様子をハラハラしながら見ている状態だ。
 報復云々は、実のところ寧野はそこまで関与はしていないので、龍頭(ルンタウ)が冗談で言うことであると思っているらしい。だが宝生組からすれば冗談ではなく、これは鵺からの脅しであることは間違いないと判断できる材料でもある。これを逆手にとって宝生が鵺(イエ)を脅すことは出来る。だが鵺は最終的な手段を選ぶことが多い。宝生側がしびれを切らせるまで粘り、うっかり寧野を殺そうものなら遺体だけでも取り戻そうと宝生を完全に潰してでも取り戻しに来るということだ。
 どちらにせよ、全面戦争になる。
「それで、宝生組にただ居たんじゃ意味がないんです。俺は俺なりに目標があって、ここにいるわけだし……でもそれは耀を不安定にさせている」
 寧野が鵺(イエ)の龍頭(ルンタウ)の直系である以上、寧野を宝生組に関わらせてしまうと情報が寧野から鵺に筒抜けになるのではないかと不安がっている幹部もいる。そうした立場であるから不用意な行動をされたくはないのであろう。
「耀様は、貴方がスパイになってしまう状況を作りたくないんですね」
 それに頷くと、萩野谷が口を挟んだ。
「だがな、スパイと言ってもな。相手に敵だとバレているスパイからの情報なんて、鵺の龍頭がまともに信じるとは思えないのだが?」
 それにはさすがに寧野も驚いた顔をする。
 バレバレの状況でまともな情報を仕入れられる環境を宝生側が作ったとすれば、それは宝生が馬鹿なだけだと萩野谷は言っているのだ。しかしそういう状況を宝生側がまったく気づかないわけがない。
 むしろそれを想定して寧野の口から間違った情報を流してくる。それを耀や組長代理は平然とするだろう。それは鵺の龍頭も解っているだろう。
 そうした中で寧野をスパイにするメリットは実際のところ一ミリもないのだ。
「まあ、寧野さんが鵺の龍頭と友人として付き合っていることは公然としているわけだ。寧ろ仲良くし過ぎているくらい。そんなところから流れる情報を耀さんが押さえたいのは解るんだが、そうすると……」
「そうすると俺が耀から聞いた宝生組の情報をペラペラと鵺(イエ)の龍頭(ルンタウ)に喋っているとあいつは信じて疑ってすらいないと?」
 何かもの凄くミシッと音がした後、地の底から這ってくるような低い声が確信を得たとばかりに呟いた。
 萩野谷はギョッとしてまあまあと寧野を静める。
 スパイと思われても仕方ないと言われるのは状況的に納得は出来る。だが、一番信じて欲しい人に、信じる価値すらないと言われたも同然な状況であることに寧野は初めて気づいて、完全に頭に来たわけだ。
「俺が勝手に信じてただけだって解っているんだけど、なんか納得出来ないような、こう怒りがわいてきて仕方ないというか、なんでこんなことになってんだかとか」
 寧野はすでに怒りでどうにかなっているようである。
 犹塚はそんな寧野を見ていて、そこまでして耀を信用した理由がわからなかった。
「どうしてそこまで耀様を信用していたんですか?」
 犹塚の言葉に寧野は大して悩みもせずに即答してきた。
「俺が辛いとき、助けてはくれたけど、甘やかしはしなかったことかな」
「甘やかすとは?」
 よく解らなくて尋ねると寧野はさっきまでの怒りはどこへやら苦笑して言った。
「父親が死んだ時、俺、暫く腑抜けになってたんですよ。でも耀がいるだけで現実が見られるらしくて、その時だけは時間が動いているのが解ったんです。本当は耀が選んだことじゃないってのは、後で聞いてわかったんですが。でもあの時、耀が俺を手元に置いて慰めるんじゃなくて、敢えて突き放すようにいなくなってくれたことで、俺は今あるようなものなんです」
 その時、本当は辛かった。寂しかったし、側にいてほしかった。けれどそれと同時に自分より年下の子供にすべてを委ねてのうのうと生きていこうとしていた自分を恥じたのだ。あの時、耀の側に居たとしたらきっと人として駄目になっていただろう。それでも耀はきっとずっと側にいてくれたかもしれないが、そうなった自分を寧野は許せなくて生きていけなくなっていたに違いない。
 だからあの時、誰の何の思惑があったとしても、結果耀が言ってくれた言葉は、今の寧野を創り出した。
 寧野がそう言うと、犹塚はやっと納得したように頷いた。
 寧野が先ほど見せた暴力性は、寧野本人のものではなく、寧野が感じていた耀の隠したい部分ということになる。耀ならどうやったか、どう対処したか。寧野は自分のやりたいようにやっているかのように見せておいて、実のところ耀にとって不利にならないようにしているだけなのだ。
 あの場面は、寧野が萩野谷に舐められてはいけないところ。当然、恐怖で支配して後は戻ってからとなるので、その場は早々に退去するのが手っ取り早い。だから一番効果的に萩野谷が出て行かざるを得ない状況を作り上げ、さらには迷惑をかけていた店からすれば、ソファ代だけでは満足出来ないだろうが、床の総取り替えを迷惑料で払ってくれる客に化けてくれたと思って満足してくれるに違いない。
 当然その店は萩野谷にはいい場所ではないが、その後に訪れるかもしれない宝生組の人間にとっては、ちょっとだけ気前のいい幹部がいたお陰でその場が盛り上がったということになるだろう。
 後半に至っては犹塚もなんとなく理解が出来たので、萩野谷が飲み食いした料金より安いくらいだと言ったのはその為である。
 寧野はただ耀の損得を考えて自然とやったらしいが、実は極道の世界において要領のいい部下で、決して自分の上に立つことのない人間は、相当の金を払ってでも欲しい人間の一人になる。
 寧野は決して耀の上には立とうとしないが、前に立って引っ張っていくことは出来るのだと証明したのだろう。
 それが耀には伝わらない。
 耀の価値観と見てきたもの。その残酷性を否定出来ない。
 世間がそれほど甘くないことを、結果がすべてであることを耀は知っている。
 寧野の処遇に関しても、耀はすでにもてあましているのだ。それが恋人という立場だけで引き留めようとしているからおかしなことになってきていることにも気づかないくらいにだ。だから寧野がそれを正そうとしたとき、耀はそれを否定するようなやり方で寧野に接してくる。
 だんだんと何かがおかしいと気づいているはずなのに、何がおかしいのか理解できていないのは、耀の寧野に対する思いだけが成長を遂げないからだ。
 寧野はとっくに立ち直って、前を向いて歩き出しているのに、耀はそれに対して「そこでいいのか」「その先は危ないんじゃないか?」と危険があることが当然であるとばかりに先回りをして行動範囲を狭めている。
 その檻から寧野も出ることが出来ずに居たため、耀の不安定なところがさらに大きくなっていた。耀だって本当は解っている。だから不安定になるのだ。
 きっと耀の中で結論が出ているのだ。
 寧野が生きていく上で、耀といることが、何よりも危険であるということ――――――。
 だが耀は見ようとしない、その先にもまだ道があり、寧野と共に歩む道が沢山あるということを――――――。


「まあ、そのお礼の部分もあったんで、あんまり強く出られなかったのもあるんだけど、さすがに他人から言われて気づくほど、耀が馬鹿だとは思わなかった」
 さっきの怒りがぶり返してきたらしい寧野に萩野谷は慌ててとっておきのプリンだととっておいたものを出してなだめている。
「まあ、怒れるということは、寧野さんは耀さんのこと大好きなんですな」
 萩野谷がそう言うと、寧野は真顔で返していた。
「好きじゃなきゃ怒らない」
 と答えるのである。本人曰く、嫌いになったら関心がなくなるのだという。関心がなくなれば興味も薄れ、相手が何をやっても鬱陶しいと思う以外の表現が出来なくなるのだそうだ。
「耀に直して欲しいところや、言って欲しいこと。俺だってこう思ってるんだって知って欲しいことがあるってことは、より自分を見せたいっていう願望であって、それはやっぱり興味がある人にしかしたくないことだと思う。俺は一度も耀を本気で嫌いだなんて思ったことないし、むしろ昔より大好き」
 さらっと言う大好きは、それこそ愛しているという表現の方がいいような気がするほど穏やかに微笑んで寧野は言った。 
「本人に言ってやった方がいい」
「言えるわけない。だってあいつ調子に乗るもん」
 寧野はそう言ってむっとしている。
 そういう顔をしていると年相応に見えて可愛いものだと犹塚は思った。
 これなら、きっと自分が目指している究極の宝生組が作れるかもしれないと。
 そして――――――。