novel

spiralling-32

 織部寧野の意識が戻ったのは、入院して一週間してからだった。頭の怪我はすでに傷が塞がり、抜糸されていた。
 目覚めた時、全く知らない天井に寧野は驚いたが、自分の口にあった呼吸器をはずした瞬間、部屋の中が見えて状況を素早く理解し納得する。
(あの男……もう死んだんだったな)
 自分が襲われ、危なかったところを武藍(ウーラン)に助けられたことは間違いない。池(チー)の首が飛び、体が倒れたところに武藍(ウーラン)が立っていた。鬼のような形相というのはああいうのをいうのだろうと不意に思った。不機嫌な顔は拝んだことはあるが、怒りに満ちた顔はあの時だけだったように思う。それが自分に向けられたものではないと理解していても、あのままの武藍(ウーラン)と戦うのは正直ごめんと思えたほど、鬼気迫っていた。
 一応は助けられたことになるが、その原因を作ったのも武藍(ウーラン)であることは間違いにない。
(こうなることを見越してのことじゃなかったのか……)
 てっきり武藍(ウーラン)の策略でああいうことに陥ったのかと疑ったのだが、武藍(ウーラン)のあの顔を思い出すととてもそれをたくらんでいた人間の顔とは思えなかった。
 明らかに予定外のことが起こったという焦りが見えた。
 どのみち武藍(ウーラン)のせいであることは間違いないと思い直して、寧野は瞬きをゆっくりとして部屋の中を見回す。
 夜が明ける時間なのか、病室内は静かで物音一つしない。静寂に包まれた中で寧野はドアが開く音を聞いて慌てて目を閉じた。
 状況が分からない中で目が覚めたことを知られたくないと思ったのは、脱走する機会は今しかない以上、目覚めたことを知られれば監視を強化されると恐れたからだ。
 キュキュと誰かが部屋に入ってきて歩いている音がする。それと同時に廊下でガタリとドアに何かがぶつかった音がした。だがした音はそれだけで大声などは聞こえない。
 何が起こっているのか音だけでは明確に状況を判断出来ないが、明らかに異常だった。
(なんだ? 誰なんだ?)
 武藍(ウーラン)がこうする理由はどこにもない。むしろうるさいくらいに音を立てたとしても問題がないはずだ。だがこの侵入者は誰にも悟られたくないというように忍んでいる。
 誰か確認するために目を開けるか、それとも眠ったままでやり過ごすか。頭の中で計算が働いていた。
 だがそれを全て放り出せるようなことが寧野の中で起こった。
 さっき起きた時に呼吸器をはずしてしまっていたからこそ気づいたことだった。
 それは匂い。ただ単純に慣れ親しんでいた匂いで、今は懐かしくて堪らない匂い。
「……寧野、生きてた」
 ほっとしたような声が降ってきて、それが誰なのか寧野にはすぐに分かった。
 はっとして目を上げて見上げると、いるはずのない寧野の恋人である宝生耀が目の前に立っていた。顔をのぞき込み、頬を撫でようとしていたその姿が、寧野が目を開けたことで驚きに変わった。けれど、すぐに微笑みになる。
「起きていたのか、まだ起きたという報告は受けてなかったんだが」
 情報の些細なミスなのかと苦笑するその顔。涙が出てきそうなのを我慢して寧野は声に出す。
「……さっき、起きた」
 久しぶりに声を出したからなのだろうか、声はがらがらとしかすれていてとても聞けたものではなかったが、耀がゆっくりと寧野の体を起こして常備されていた飲み水をくれた。
 その水でのどを潤してから寧野はこんなうれしいことはないが余韻に浸っている暇もないのだと自分の腕に刺さっている点滴を乱暴にはずす。
「寧野、落ち着け。時間はある」
 耀がそう言って乱暴にはずした点滴の後を確認する。幸い綺麗に抜けていたのか、血はさほど出ていなかった。それを舐めとってから耀が言う。
「武藍(ウーラン)の様子は始終見晴らせている。病院内にいた武藍(ウーラン)の部下は一人捉えてほかは殺した。暗殺専門だと言われている男が私用か何かで抜けてくれたんで、忍び込めた。その男は屋敷に戻っているようだ。報告か何かだろうな。そういうわけでオレたちがここに忍び込むことは武藍(ウーラン)側には悟られていない」
 耀がそう言うけれど、何があるか分からない。だから寧野は体をさらに起こしてベッドから出る。
「ちゃんと抜け出すまで安心してられない」
 焦っているわけではなく、ただの警戒だ。安全だと言われてもそうだった試しが今のところない。例え耀がそう言っていても、今は自分の中にある警戒音が鳴り止まないのだ。
 そう何かのカウントダウンのようなものがあって、時間が減っている。カチリカチリと音が鳴って減っている。
「……分かった行こう」
 どうやら耀の作戦では、廊下に立っていた部下を始末した遺体を隠し発見を遅らせたり、病院側の迷惑にならないように配慮した作戦を実行していたようだった。
 耀が簡単に説明してくれたが、ここに忍び込む為に買収した医者に迷惑がかかっては申し訳ないという理由がある。出来れば病院スタッフに内通者がいるわけがないという状況を作って起きたい理由もあった。
 だが寧野の異様な警戒ぶりに何かあっては元も子もないと耀も思ってくれたのだ。
 けれど他にも耀が信じた理由があることを寧野はこの時は分かっていなかった。
 入院服から耀が持ってきたワイシャツとパンツに着替える。寧野が起きていたら着替えが必要だと思って持ってきていたものだ。どうやら無駄にはならないで済んだ。
 頭に巻いていた包帯を耀がゆっくりと外してくれた。傷口はほぼ塞がっているのでとっておいた方が目立たない。時間的に夜勤を終えた医者たちの帰宅時間にかかっていて、軽装の方が目立たない。堂々と専用口から出られるのは、協力者のおかげだ。警備員もいない病院関係者出口から出たところで耀の携帯に電話が入る。
「……武藍(ウーラン)に動きがバレた? なぜだ?」
 耀は寧野を抱き寄せて地下駐車場を走る。寝起きの寧野が全速力で走れるわけがないから、耀の足も自然と遅くなる。
 やっと目当ての車まで到着すると、先に別の車が急発進していく。耀は寧野を車に乗せ、自分も乗り込む。まだ携帯で話しているのか相手が状況説明をしているのか、混乱しているようだった。
 とりあえず予定通り車を出そうとした時、寧野が突然口走った。
「2番出口ならダメ」
 突然の言葉に全員の動きが止まる。
 それを言った寧野さえも驚いて、少しパニックになりかけた。どうしてそう思ったのか説明がつかないのだ。
 さっきからそうだ。頭を打って起きてからずっと、何か違うことを思って勝手に焦っているのだ。その原因が分からずに寧野はなんとか耀に分かって貰おうと説明しようとしたが、説明のしようがない。
 そんな焦っている寧野を静かに見ていた耀だったが覚悟を決めたように頷く。
「寧野……落ち着け、思ったことなら口に出していい」
 耀は寧野にさえ分からない口走った言葉の意味を理解しているようなさとし方をする。
 肩に手を回し寧野を抱きしめて寧野の頭に、こつんと軽く頭をあてた。
「ヴァルカ、他に出口はあるか?」
「救急搬送口を逆走しかない」
「幸いサイレンは聞こえない」
「……仕方ない」
 耀の問答無用の行けという言葉にヴァルカは車を発進させる。救急搬送の入り口は1番出口の近くであるが、建物から出てからのルートが違う。
 朝のラッシュ前の道路は閑散としていて、車は少ない。町外れの入院や検査をする施設として立てられてる病院前はもちろん、車の通りはないに等しかった。さらに救急搬送車は病院の裏口にある道路から入る。通常の車は表側の駐車場が建ち並ぶ場所から入る仕組みだ。関係者の車と救急搬送の車がかち合わないように設計されていた。
 その救急搬送から出た車を誰も不審者とは思わない。乗っていた車が病院へ血液の搬送にきていた車に偽装していたのも疑われない理由だ。そしてそれより前に不審車は別のルートで逃走中。もし警察などに通報されてもそちらが疑われるだろうという計算なのだろう。
 山道を降りて反対側の道を下っている途中のことだった。急に車が狙撃された。
 パンと割れたガラスが目の前に飛び散って寧野は慌てて、割れたガラスの方をみる。寧野は瞬時に自分たちが狙撃されたと判断出来た。
 遠くの山とはいえ、400メートルほどのところに立っているビルの屋上で何かが光った。
「寧野伏せろ」
 次の瞬間もう一発打ち込まれる。運転手側の側面ガラスが割れ、一瞬でヴァルカが運転を誤る。しかし、ガードレールにぶつかったが反動で斜線に戻り事なきを得る。
「あのビルの屋上にいる」
 寧野がそう言うと、ヴァルカがまさかと車を一旦止める。
 これ以上進んでも狙撃されるだけだ。
 耀が億伎に連絡を取り、屋上にいる狙撃者のことを伝える。
 億伎が屋上にいる狙撃者を追い払えるのか分からないが、それまで動きまわることが出来なくなった。
 時間のロスである。
 とりあえず、途中で見つけた山道らしい道に入って車を道から見えないところに隠して様子を見ようとした。
 するとパトカーやサイレンの音がなり響き、さっきまで進んでいた道からどんどん病院に向けて走っていく。それと同時にドンと大きな音が鳴り響き山が揺れる。
「何だ?」
 山の中腹にいる寧野たちでは頂上の様子は分からない。だが耀の携帯には連絡が入る。
 頂上の病院前で銃撃戦。寧野が逃げたことよりも寧野が狙われていると思った武藍(ウーラン)が別の組織と抗争中だというのだ。
「抗争って、誰と?」
 武藍(ウーラン)の屋敷から寧野が病院に移されたのはたった一週間前のこと。それも極秘で深夜の出来事だ。耀たちは武藍(ウーラン)を張っていたからこそ寧野の存在を病院で確保出来たのだが、他の人間が寧野のことを調べていてたどり着けるはずはないのだ。
「いや、一人だけいる」
 寧野がはっきりとした口調でそう言い出した。
「俐皇だ」
 その寧野の言葉に耀はさっき狙撃されたのは自分だったのだなと納得した。
「道理で寧野を狙ったにしては外したし、運転手を狙ったにしても外したわけだ……」
 狙撃手が俐皇なら、寧野を殺すことはない。よって寧野に怪我をさせるにしても死に至らしめるような行動はしないだろう。狙撃したのも足止めが目的で、ついでに耀を殺せればよかったという程度のことなのだろう。
「俐皇がいるのか?」
 突然のヴァルカの言葉に寧野がビクリとする。
 そういえばこの2メートルはあろうかというロシア人らしい男のことは耀から何も聞いていない。というよりも聞く暇がなかった。
 車の運転を任せているから信頼はしていたのだろうが、億伎が側にいないことも珍しいことであるし、億伎の部下もいない状況に寧野は初めておかしいと気づいた。
「ビルにいたのがそうだろうが、もう逃げてるよ。目的がなんであれ、狙いはオレたちじゃないってことなんだろうな」
 耀はそう言って車を捨てて山道を下ろうと言う。GPSが使えて山道の道が地図に載っていたのだ。そこから下れば当初の目的地の近くに出られるようだ。
「狙い……」
「たぶん、武藍(ウーラン)だと思う」
 寧野がそう言う。するとヴァルカが首を傾げる。
「俐皇の隠れ家を和青同(ワオチントン)に流して襲撃させ、混乱に乗じて俺を奪略ということをやったのが武藍(ウーラン)だから。俐皇からすれば、報復相手であり、宣戦布告でもあるんだと思う」
「宣戦布告だと? どういうことだ」
 歩きながら寧野は俐皇の隠れ家であった九十九のことを話す。
 俐皇の隠れ家に九十九が現れ、寧野を取引の材料にして武藍(ウーラン)か和青同(ワオチントン)の教(ジャオ)のどちらかに売れと言ったこと。それに俐皇は逆らえなかったこと。
「……やはり九十九が繋がっていたか」
 薄々は気づいていてもはっきりと俐皇と九十九が並んで話しているところをみたわけではないから確証はなかった。ただちらつく九十九の影をはっきりさせたかった耀には寧野がもたらした情報は何よりも重要なことだった。
 それでもたった一ヶ月で煌和会の龍頭(ルンタウ)に喧嘩を売るような作戦を立ててくるということは、九十九の商売を邪魔している行為だ。
 九十九はいったい何を考えていると一瞬でも考えてしまった自分を耀は呪った。
 あの男がこんな面白い状況で制止に入るわけがないということなのだ。九十九にとって商売がダメになろうが面白ければどうでもいいことなのだ。この世は面白ければ何でもいいというのが九十九朱明という男の基本だ。
「だが煌和会に喧嘩を売るということは、あいつ嵯峨根会にいられなくなるんじゃないのか?」
 俐皇は日本のヤクザ、嵯峨根会に参加している高岸一家の総長だったはずだ。嵯峨根会は煌和会と繋がっており、取引相手としている。宝生組がチャイニーズマフィアの鵺(イエ)と関係が続いていることで、日本のヤクザは他の鵺(イエ)以外の組織と繋がるしかなかった。そこで嵯峨根会が大きくなるために繋がったのが煌和会だ。
 煌和会は嵯峨根会新会長になるために裏から手を貸していたことまでは分かっている。だから嵯峨根会は今煌和会を裏切ることは出来ない。それもたった一つの一家の総長が勝手にふっかけた関係ないところでの戦争だ。
 だから俐皇は一家を捨てたことになる。
 嵯峨根会としても俐皇を捨てるしかない状況だろうが、それでも俐皇も利用価値が十分あったはずだ。
 なにより九十九朱明と明確に繋がっている唯一の人間だからだ。
「俐皇ならもう日本にいられないようだ」
「は?なんで?」
 寧野の知らない間に俐皇の立ち位置は変わっていた。
「俐皇に警察から任意同行で嵯峨根会元会長の事故死に関して話を聞きたいと警察が嵯峨根会本部まで行っていたらしい。その件で嵯峨根会は一家より俐皇を追い出さなければ嵯峨根会から一家を破門させると通達が入った。それで一家は俐皇から総長の地位を剥奪させ、高岸清影(きよかげ)が総長になった。だから嵯峨根会は表向き俐皇を切り捨てたように装っているというのが日本でのことだ」
 耀がまとめてそう言った。
 日本を寧野が離れてからもう三ヶ月以上経っている。だから何が起きてもおかしくないが、俐皇の立ち位置がまったく変わってしまっているのには驚くも、元々総長として活動していたようには見えなかったことと、嵯峨根会が切り捨てたように装っているという耀の言い方が気になった。
「つまり、嵯峨根会はまだ俐皇を本気で切り捨てるわけにはいかないんだよね。なのに、急に俐皇に前会長の殺害に関する不利な情報が警察に入って、俐皇が嵯峨根会から追放されそうになっているってことだよね?」
「そう言った」
「じゃあ、前会長を暗殺した人間は俐皇を捨てるわけにはいかなくて、現会長を押している人間は、俐皇や現会長と仲違いしている人間が邪魔だと思っていることになるけど?」
「そうなるな」
「それに現会長は飾りだって言われているって前に耀は言っていたよね?」
「言ったな」
「それって……現会長が飾りじゃ満足できなくなってのことじゃないの?」
「……寧野でもわかるんだよな。なのに、どういうわけか、嵯峨根会の中ではわかってないくらいに、現会長の存在自体が軽視されている可能性があるということなんだ」
「革命には成功したけど、案外処遇がよくない人たちがいて現会長に何か吹き込んでる。現会長はこのままいけば元会長暗殺の指揮官として警察にマークされることに気づいて反撃に出たけどっていうかんじ?」
「表向きはそうだな」
「あーじゃあ、現会長はやっぱどっちに転んでも飾りのままなんだ」
 寧野がそうなるかなあとうーむとうなっている。それを聞いていたのがヴァルカだ。一緒に行動しているのだから当然話は聞こえてくる。日本語も分かるヴァルカは二人の話も当然理解できる。ましてヤクザの話だから裏社会の話。裏社会の人間でしかも幹部であるヴァルカは日本のヤクザのことも知っている。嵯峨根会のことも取り引きしたことがあり知ってはいる。
 だから当然、話の内容も全て理解している。
 そのヴァルカですらため息が出そうなほどの思考回路で状況を把握していく寧野の能力と予測できるだけしてしまう洞察力ははっきり言って異常だった。
 たしか織部寧野は、宝生組組長若頭だった宝生耀の情人である。金糸雀(ジンスーチュエ)の血筋であることは有名であるが、そんなことが吹き飛ぶほどの思慮分別のある人間だとは聞いたこともないのだ。
 だがこうなって実際に目の当たりにしてみると、思い出すのは父親や祖父が話していた金糸雀(ジンスーチュエ)の話だ。花(ツェピトーク)の話ではなく金糸雀(ジンスーチュエ)の方だ。
 金糸雀(ジンスーチュエ)は花(ツェピトーク)よりも世間では有名であり、人前にも出ていた。それ故に見たこともあり話をしたこともある人間が沢山いた。
 その中で彼女たちを奴隷だと嘲る人間は金糸雀(ジンスーチュエ)と実際にあったことすらない人間たちが言う言葉だったという。
 金糸雀(ジンスーチュエ)は黙っていればいいというわけではない。誰かに話しかけられれば受け答えもする。当然バカにする人間も相手にしなければならない。なのに、彼女たちの悪評を聞いたことがないというのだ。
 それは頭脳明晰であり話し上手でとても奴隷には見えなかったからだ。彼女たちのどの金糸雀(ジンスーチュエ)も一族を代表しているわけだから英才教育もされている。だから外へ連れ出しても恥ずかしくない奴隷として育てられる。
 環境次第でいくらでも己の声色を変える魔女のように、彼女たちは変身していたといえよう。
 美しく鳴く金糸雀(ジンスーチュエ)と見た目を誤れば、使い方を間違える。まさに貉(ハオ)は愛子(エジャ)の使い方を間違えた。
 そこで初めてヴァルカは自分たちも花(ツェピトーク)の使い方を間違えている可能性に気付いた。
 金だけを呼ぶ人間ではないということ。数字関係に強いのは生まれであるが、そうならば頭はいいことになる。育てる環境でどん欲に成長するのが金糸雀(ジンスーチュエ)。鳴いているだけに見えても目にはいる全てを記憶し活用する。
 愛人は賢い方がいいと皆言う。だが賢すぎる愛人は嫌う。
 使うものが劣るようでは見栄えがよくないという理由でだ。
 金糸雀(ジンスーチュエ)が奴隷にされたのは、そういう理由もあるかもしれないと思えた。そう奴隷に物事は教えない。必要最低限のことだけ出来ればそれでいいと考える。
 だがそれでも金糸雀(ジンスーチュエ)は人間だ。
 奴隷という枠から解き放たれた金糸雀(ジンスーチュエ)が本当に鳴いているのだ。ヴァルカの目の前で。
「すまないが、都寺会長が結局飾りというのはどういうことなのだろうか?」
 流暢な日本語で丁寧に話しかけられて、寧野は何で聞き返されたのか不思議だとばかりに言う。
「都寺会長が現嵯峨根会にとって飾りとして立てられたのはわかります?」
「それは知っています。本人がやる気ないようで、実質理事長の天下だと」
「ええ、それで嵯峨根会元会長が事故死した事件を警察がなぜか今掘り返しているということはそれなりに証拠や証言が得られそうだとふんだからで、実際俐皇が関わっているとまで断定して捜査していますと嵯峨根会に投げ込んだんです。それは俐皇だけを揺さぶっているわけではなく、関わりがあったであろう理事長や会長にも脅しをかけたわけです。もうすぐ逮捕するよって」
「ええ、警察がよくやる手です」
「都寺会長は飾りです。まあ殺してもいいよくらいは言っただろうし、反対はしなかったら同罪ですが、本格的に計画を立てた首謀者ではないことは本人が一番よく知っているわけです。都寺会長もその罪を着せられるよ、早く本当の犯人を始末するか、証人を消さなきゃねって誰かが囁ていたら?」
「部下に大丈夫か聞くが……」
「大丈夫ですよって言うけれど、本当にそうかなって疑いたくなる。じゃあ自分で調べて自分でどうにか出来るならやってみようとしませんか?」
「ああ、なるほど。都寺会長は唆されて疑心暗鬼になって独自に動いていると? 警察が急に俐皇の名前を出したのは、会長が自分でリークしたからなのか……!」
「だと思います。散々調べて出てこなかったのに急に俐皇だけを疑うのには無理があると思います。警察はリークされた情報を内部分裂だと嗅ぎつけて焚きつけたわけです。お前のところ怪しいよって」
「警察は何を狙っている」
「嵯峨根会の幹部逮捕。元々は暗殺疑いのある事件捜査だったんだろうけど、きな臭くなってきて掘り返していたらいろいろ舞い込んできたという感じかなあ。ただ会長側が結構動いているけど、幹部や理事長が疑いすら持たないのは、内部分裂もあるし、会長側に付いた人間もいるし、何より会長が使っているであろう情報筋というのが理事長側ですら予想だにしないほど優秀なのかもしれないけど……」
 何も後ろ盾を持たないであろう飾りの会長がそこまで動けると言うことは持っている情報筋が完璧なのだ。だがその完璧さは裏を返せば、そこに恐ろしい何かがいるということでもある。
「最初から会長側がそこまでの優秀な人間を持っていたなら飾りをやる前から完璧になっているはず。途中から仕込まれたなら、明らかに何かの意図があってやっている。だから……結局飾りなのか!」
 やっとヴァルカにも寧野がうなった意味が理解出来た。
 たったあれだけの会話でそこまでのことを話し合う情人はいない。またそれらを理解してやれるほどの力量がなければ、今のヴァルカのように話が長くなる。
 宝生耀はそれを自然と理解して織部寧野を自由にして話をさせている。
 重要性は十分理解していないと気軽に天気でも聞いているかのような会話は出来ない。
 思った以上に宝生耀の度量が深すぎてヴァルカはめまいがしそうだった。これだけの知識をずっと織部寧野に与えていたのは宝生耀だからだ。
 俐皇が煌和会に喧嘩を売ったという情報からここまでただの雑談だ。なのに確信を持ててしまうのはなぜだろうか。
「一応日本での俐皇の情報は渡したぞ」
 耀がそう言うとヴァルカははっとする。
 どうやらこの情報はヴァルカがいる間に入ってきた情報で、確認がとれるまで話すことを保留にしていた情報らしい。
 寧野がここまで的確に当ててしまったのと、耀から情報を引き出したせいで話す羽目になったようだ。
「え、何、ヴァルカさんは俐皇を追っているの?」
 よくわからない事情で耀に同行しているようで、寧野はそう思って問う。
「そうだ。ついでにお前にも用事があるから、とりあえず脱出を手伝って貰っている知り合いの息子さんだ」
 深い事情を話すわけにはいかないので耀は濁した言い方をする。耀の方では寧野がロシアのマフィアと繋がっていることは知らないことだ。
「そうか。じゃあ、今絶好の機会なのにね」
 煌和会ともめる前なら狙撃手から俐皇を追うことは可能だったはずだ。まさか俐皇から話を大きくしていくとは想像していなかったことだ。
「いや、これで俐皇が死んだとすれば、それはそれで問題はないし、逃げられたとすれば、それはそれでまた探せばいい」
 ヴァルカがそう割り切ると寧野はそういうものなのかと納得することにした。何度もあったであろう機会をつぶされたりもしたのだろう。慣れた様子であるが苛立ちが消えたように見えたのはなぜだろうと寧野は首を傾げる。
「寧野疲れないか?」
「んーちょっとだけ。ずっと暇で鍛えてたから、ちょっと寝てただけでも問題なかったみたいだ」
 入院前にみっちり体を鍛えていたおかげで筋肉が落ちるなんてことはなかったようだ。その場で跳ねて見せて元気であることを証明する寧野。
「そういや体引き締まってたな」
 着替えをじっくりと見ていた耀はそんな感想を漏らす。
「帰ってからねー」
 じっくりと真剣に言われて寧野は身の危険を感じて先回りをして言う。
「……分かってる」
 渋々という唸るような分かってるという答えにヴァルカがいても、追われているこの状況でも青姦でもしそうな凄みを感じた寧野だ。 山の上の騒ぎはパトカーのサイレンと消防車のサイレンなどが入り交じってヘリの音まで聞こえてきた。
 相当な騒ぎになっているが、これは俐皇が望んだ騒ぎのようだ。もしかしなくてもわざと騒ぎを大きくして寧野が逃げるのを待っているかのようでもあった。
 山を下るのに一時間ほどかかったが、それでも追っ手もなくまともな道に出られた。少し離れているからなのか、車道に出たら車道脇に止まっている車が多くあるところにでた。大抵が大きな煙を吐いている山の病院を見上げて止まっている車であり、山から下りてきた寧野たちには気付いてなかった。それをいいことにさっさと人通りを避け、待ち合わせていた車にたどり着いた。
 予定とはかなり違ったが、脱出には一応成功した。
 途中で服などを着替えて、車も変え、さらに離れて車を変えと何度も繰り返しながらイタリアを出て、スイスに入った。アルプスを越えるあたりではもう追っ手の心配は一切なくなっていたが耀は用心したままだった。
 その後スイス内部で借りていた山荘までたどり着いた。