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「呪いの話をしよう」

 四日部屋に籠ったまま。
 使用人が心配する中で、二人はただお互いだけを確かめあった。散々犯りまくって、ずっと二人で肌を確かめあって眠って起きた時、透耶はソファに座っていた。
 何か難しい顔をしていたので、鬼柳は話しかけれなかった。
 起きてご飯を用意しシーツを変えて、二人で風呂に入ってまたベッドへ雪崩れ込んだ時、透耶がそう言った。
「呪いの話をしよう」
 鬼柳はキョトンとして透耶を見た。
「a curse?」
「そう、それ」
 透耶は少し笑って言うと、寝転がって天井を見上げた。
 鬼柳はその横で肘をついて身体を起こして透耶を見た。
 透耶がそういう話をする時は、必ず最初に少しだけ笑う。それが重要な話であり、透耶が話す事によって不安になる話である合図だった。
「俺の母親の実家は、京都にあって、老舗の旅館とかホテルとかやっている名家。その家は、玲泉門院(れいせんもんいん)と言って、遡れば天皇家縁の一族だとも言われてる。京都では、ある意味知らない人はいない名家なんだ」
 呪いの話で、どうして実家の話なのか、鬼柳は首を傾げた。
「そんな偉い家なのか」
「まあ、偉いとは言わないけど、有名って事かな? でもその家は呪われてるんだ。玲泉門院は呪われた一族」
 透耶は意外にすんなりとこの言葉が出たのには驚いた。
 言えないと思っていた事は、こうしてスラリと言葉に出来る。鬼柳に話す時はいつもこうだ。
「呪われた?」
「昔、帝を愛した女性がいた。身分は低かったけど、美しい人で寵愛を受けてた。あ、寵愛ね、色んな意味で可愛がられたって事。でも、宮中の女性には恨まれてた。そこに子供が生まれた。男の子だった。母親に似て美しい男性に成長して、仕事も必要以上に出来るんだけど、女性問題が色々あって、東宮が彼を呪った」
「何故?」
「東宮が望んだ女性が、その男性を好きで、でも遊ばれて捨てられた。女性は入水して死んだ。昔なら行き遅れだと言われた二十歳。東宮はこう呪ったと言われてる。愛する人ができれば誰であろうとも呪い殺す。男性は、子供は残したけど女ばかりで、何人もの妻は子供を産むと皆死んでしまった。
  呪いを受けた子供は、皆父親に似て美しかった。でも、皆早くに亡くなった。二十歳で。男性は、権力を手に入れたけど、愛するものは皆失った。子供は子供を産んで、玲泉門院家は栄えるだけ栄えた。でも呪いの効力は100年経っても変わる事はなかった。早死にするんだ。
 流行り病、原因不明の病、時には辻斬りやら、事故死。でもそれならと、子供だけは沢山残して、家は栄える。普通 、こうして呪われた家は嫌われるものだけど、何故か玲泉門院家のやることは、全て成功するんだ。だから、当主が男なら、娘を差し出し、女なら男を養子に出す人は後をたたなかった。こうして玲泉門院家は、血筋が絶えることなく続いている。
  呪われた血を宿して。やがて、時代は移り変わり、二十歳で亡くなる人はそういなくなった。血が薄まったとも言われているけど、現在では平均寿命の半分は生きられる」
 透耶は一気に話を聞かせた。
 鬼柳はその話に矛盾を感じた。
「透耶、それは変だ。血筋じゃない者まで死んでる。それは血の呪いではないぞ」
 鬼柳がそれを指摘すると、透耶は少し笑う。
「うん、これは例え話。こういう伝説があるって京都の人は知ってるって事」
「じゃあ、呪われてる一族ってのはないわけ?」
 ただのジョークなのかと思ったが、透耶がそういうジョークを話す事はない。確かめる様に聞くと、透耶は本題に入った。
「ううん。あるんだ」
「え?」
 鬼柳が透耶を見ると、透耶は天井を見つめたままで、息を少し吐いてから、淡々とした口調で言った。
「玲泉門院家には、呪いがあるよ。寿命がはっきりしてる」
「寿命?」
「平均寿命は、最近結構伸びてきてるよね。でも、解っているだけで300年前から、玲泉門院家の人間は40才までに死ぬ 」
 それが呪いの正体。寿命。
 当然、誰でもそんなのは迷信だと思うし、そう言うはず。
  鬼柳も同じだった事を言った。
「そんな迷信」
 その言葉に透耶は首を振った。
「ううん、これはちゃんと調べられて統計まで取られている。それも、例え話のように、妻や夫、玲泉門院の者と婚姻もしくは愛し合った人は皆40までに死ぬ 。100%なんだ」
「100%? そんな確率あるわけない」
 出るわけない確率。100%。ただの一度も狂いがない。
 それにも透耶は首を振る。
「例外はない。愛し合わずに子供を残した人もいるけど、その人曰く、子供は好き同士じゃなくても出来るって事らしい。子供だけが欲しいと言われて作っただけだから、相手は死ななかったよ」
「それが例外じゃあ?」
 やはり透耶は首を振る。
「ううん、その人にはちゃんと本命がいたんだよ。その人は俺の母親を愛してたんだ。その人の従妹になる俺の母さんを。でも子供は残せない、そんなの自覚した時に覚悟してたけど、それでもいいから産んでくれって言われたから作った。それだけ。ああ、ちゃんと生まれた子供は自分の手元で育てて、凄く愛してたよ。俺はそれをよく知ってる」
 透耶は静かに言った。瞳は閉じている。
「その人は?」
「死んだよ。ちょうど40。殺されたんだ」
「他には?」
「俺の母親と父親もちょうど40で事故で死んだ。母親の両親も40で事故で死んだ。その人の両親も40で事故で死んだ。その両親も、その先も皆40までに殺されたりして死んだ。40以上生きた人はただの一人もいないんだよ」 
 早婚で子供を早くに産み育て、そしてその子が成人するときには、もう親は死んでいる。親は孫の顔を見れないか、見ても一歳二歳までしか見る事が出来ない。
 昔なら、法律が改正される前までは、もう少し見る事は出来ていた。
「それで呪われた一族なのか?」
「そう。これだけ見事に死なれると、子供心にも自分は40までしか生きられないってのは実感するわけ。何も、玲泉門院の血が悪いわけじゃない。医学的にも、早死に家系であるはずはないと言われてる。関係ない血筋まで死んでるからね。見事呪いって事だよ」
 もうそう言う事でしか証明する事が出来ない異常事態だ。
 透耶もDNAなど調べられたが、欠陥は見つかっていない。まったくの正常。親兄弟にもそれは同じ事が言えた。散々調べた挙げ句、原因不明と言われた程だ。
「透耶はそれを信じてる?」
「うん、俺は信じてる。いや、その血を引く人は皆信じてる。でも家を血を恨んだ事はないよ。同族愛ってのかな? 玲泉門院は結束が固いんだ。でも、もう5人しか生きてない。俺の叔父さんが最年長で32才。彼が死ねば玲泉門院の名はこの世から抹消される」
 それで呪われた家名は消える。
 僅かな血は残ろうとも。
「何故だ?」
「叔父さんは結婚してないし、誰にも子供を残すつもりはないからだよ。俺達は小さい時、その話を聞いて約束したんだ」
「何を?」
「誰も愛さない、好きにならない。子供は残さない」
 透耶は自分の中で何度も繰り返していた言葉を口にした。
 今まで透耶が鬼柳を受け入れられなかった理由。
 誰も愛さない、好きにならない。
 この呪いがある限り、人と愛し合うという事は、その人をもこの呪いにかけてしまう事を意味する。
 ただそれだけが恐ろしかった。
「……透耶、それじゃあ」
 鬼柳が不安そうな顔をして透耶を見つめた。
 透耶はニコリと笑って説明した。
「あ、ううん。大丈夫だよ、俺は鬼柳さんを好きだし、愛してる。俺は約束を破った二人目だから」
「二人目?」
「うん。まあ、個人的な事だから詳しい事は省くけど。玲泉門院は女系の家でね。女性が強いんだ。心も強くて、呪いなんかどうでもいいって思うらしい。寧ろ、それを利用する。俺の母親はこう言ったよ。愛してる相手と同時に死ねるなら、それ以上の幸せはないって」
「同時?」
「そこがよく解らないんだけど。全員、夫婦で一緒に亡くなってるんだ。同じ場所、同じ時間。例外は結婚しなかった人と、愛している事を隠し通 した人。そしてただ寿命がきた人」
 これは呪いという人もいる。でも良く考えれば、当人達からすれば、これ以上の贅沢はないと言う。特に女性が思う傾向にある。
「透耶は寿命を選んだのか?」
「うん。結婚しない、誰も愛さない、思わない、好きにならない。だけど、長生きはしたくなかった。だから早く死にたかった。でも自殺はしない。そう約束で決めてた」
「自殺?」
 透耶が事あるごとに死ねばよかったと繰り返すのは、これがあったからだった。
 それほどまでに思うのに、自ら命を断とうとはしていない。それはこの約束事があったからだ。そうでなければ、透耶はとっくの昔に自殺していただろう。誰かが、それに気付いて予防線を張ったという所だろう。
「うん、これも約束ごとだけどね。また一人目が破るだろうけど。まあ、これは仕方ないね」
 自殺をする身内がいるというのに、透耶は本当に仕方がないと思っている言い方をした。
 透耶らしからぬ言い方に鬼柳は鋭く言った。
「何故、淡々と言える」
「淡々として言っている訳じゃなくて、そうしなければ、彼女は欲しい人が手に入らないんだ……死ぬ 瞬間、ほんの一瞬。その時、彼女は自分を自由にする事が出来る。その瞬間の為だけに彼女は生きる事を選んだんだ。……解らないならいいんだ。こんな事を理解してる俺はたぶん狂ってるから」
 透耶はそう説明して、息を深く吸って言った。
「だから、鬼柳さんに俺を捨ててさっさと何処かへ消えろって言いたい」
 いきなりこんな事を言い出した透耶に鬼柳は困惑した。
「透耶。それはどういう意味だ」
 鬼柳の低い声が突き刺さるように透耶を襲う。しかし、透耶は目を瞑ったままで言った。
「まんまの意味。逃げるなら今だよ。鬼柳さんが逃げるなら、俺はそれでも構わない。絶対に追わない。愛し合ってなければ鬼柳さんは死なない。俺がいくら思ったって鬼柳さんは死なない。俺といると、碌な死に方をしないよ。よくて事故死だから。40までしか生きられないから、死にたくなかったら、長生きしたかったら、早く俺の事なんか忘れて」
 透耶には鬼柳の顔を見る事は出来なかった。
 鬼柳は透耶が早急に答えを求めているのだと解った。透耶がこれを話したのは、この答えが聞きたかったからだ。
「……ちょっと待て。頭がこんがらがってきた」
「いいけど」
 鬼柳は一から透耶の話を再度考えて言った。
「……その話、透耶は信じてるんだな?」
「うん。実際の事であるし、統計でも出ている事だよ」
「愛し合ってると、同時に死ぬんだな?」
「今まではそうだった。たぶん変わらないと思う」
「で、透耶は俺と離れても構わないと本気で思ってるのか?」
「うん。鬼柳さんが望むなら」
 淡々と答えを返す透耶に、鬼柳は溜息を洩らした。
 それが透耶には怖かった。
 一瞬の沈黙の後、鬼柳が口を開いた。
「じゃあ、何で告白前にこれを話してくれなかった」
 この言葉を聞いて、透耶は手で顔を覆った。
 やっぱり、誰でもこう言うだろう。
 誰だって寿命が40までだと言われたら怖いに決まっている。しかもろくな死に方はしない。よくて事故死だ。
 これを言ったら終わるとは思った。
「……それは、悪かったと思ってる。俺が我侭だから、ズルイから、鬼柳さんを騙したんだ。御免……」
 声に震えがあった。
 泣いている声だ。
 鬼柳は、また聞き方を間違えた事に気が付いた。
「あー、違う。そうじゃない。順番が違うって話だ。違うそうじゃなくて!」
 鬼柳はそう言って起き上がり、頭をガシガシと掻いて舌打ちをした。焦ると言葉が出て来ない。
 やっと言葉が出てきて、鬼柳は透耶の手を顔から外した。
 案の定、透耶は泣いていた。
「透耶、泣く前に俺の話もちゃんと聴け」
 どうもお互いにお互いの気持ちを早とちりしやすいらしい。
 鬼柳は言って透耶を抱き起こした。
「頼むから、俺の言葉をちゃんと聞いてくれ」
 鬼柳にそう言われて透耶は鬼柳を見上げた。
 一体何を言うつもりなのか……。
 鬼柳は真剣な顔をしている。
「先に話してくれたら、告白の時に一緒に生きてやるって言えたんだ」
「え?」
 透耶は潤んだ瞳で鬼柳を凝視した。
 意外な言葉を貰うと聞き返してしまう、こういうところも似ている。
 しかし、鬼柳は透耶のように繰り返す事を恥ずかしいとは思わないので、何度でも透耶に通 じるまで繰り返してくる。
「だから、透耶と一緒に同時に死ねるんだろう? 愛し合ってたら、死ぬ時は一緒なんだろ? 一人で死なせやしない。俺も一緒だ。だから、ずっと一緒に居よう。一緒に生きようって言いたかったんだ」
「……鬼柳さん?」
 鬼柳の言葉に透耶はまだ信じられない顔をしている。
「透耶の母親、イイ事言うじゃないか。愛し合って死ぬ時も一緒なんて幸せだなんて。寧ろ最高の死に方だ。残す事も残される事もない。二人一緒だ。40なんてあっという間だな。いっぱい楽しい事しようぜ、透耶」
 微笑まれてそう言われて透耶は惚けてしまう。
「……いいの? ねえ、いいの?」
「いいの。透耶とずっと一緒だなんて最高だ。嫌なのか?」
 鬼柳がそう言って透耶を覗き込むと、透耶はまたボロボロと涙を流した。
「……ううん。そう言ってくれるなんて思わなかった。本当にいいの? 俺といると本当に碌な死に方しないんだよ」
「いいの。死に方なんてどうでもいい。最後まで透耶といる事が出来るなら、そんなことどうでもいい。なあ、透耶。これがあるから告白してくれなかった?」
 こんな話しなのに、鬼柳は何故かずっと微笑んでいる。
「……怖かった……俺が、鬼柳さんを好きだって言ったら。鬼柳さんがこの話を信じてなくて、それでも好きでいてくれると、俺が鬼柳さんを殺してしまう事になるから。騙したままで、鬼柳さんの生死を左右してしまうから、受け入れるのが怖かった。そんな簡単な問題じゃないから……」
「でも告白してくれた」
「……それでも、俺、鬼柳さんが好きだから、手放したくなかった。離れてしまうのが一番怖かった。綾乃ちゃんに言われた。一生に一度くらい、誰かを好きになったっていい、最初で最後だって思えばいいって。俺、きっとこの先、鬼柳さん以外の人を好きになるなんて、出来ないよ。そう思ったら、何も言わないで消えるのは、卑怯だと思った。どんな事になったとしても、これだけは話して置かないと……例え逃げられたとしても、自分の気持ち、伝えて置きたかったんだ」
 透耶の瞳が瞬きする度に流れる涙が、頬に当てている鬼柳の手に流れてくる。
「たく、まだ俺を信用してないな。俺は透耶のもので、透耶は俺のものだって言ったじゃないか。全部くれるんだろ? だから俺も全部やるって」
 鬼柳の変わらない言葉に透耶は長い孤独から解放された気がした。
 この人は、最初から何も変わらない。
 ありのままで、ストレートで、一番欲しい言葉をくれる。
「透耶は泣き虫だな。可愛い」
 笑いを含んだ言い方で、鬼柳は透耶を抱き寄せた。
 透耶は自分が離れてしまう事を今一番恐れている。全てを曝け出して、全身でぶつかってくるくせに、当たって砕けてしまう事を勝手に想像して考え込む。いつも最悪を想定している。
  そういう所から鬼柳は透耶を救ってやりたかった。自信を持って鬼柳を信じると、透耶が思う、そういう存在になりたかった。 
 子供の様に泣く透耶は、いつ自分がこうやって泣いたのか記憶にはない。家族が死んでも、伯母さんが死んでも、誰が死んでも泣いた事はない。涙を流した記憶は、鬼柳に会ってからだった。いつも鬼柳の前だけだった。
 散々泣くだけ泣いて、透耶はそのまま泣き付かれて寝てしまった。鬼柳はずっと透耶を抱き締めて背中を摩ったり、頭を撫でたりしていたが何も言わなかった。
 安堵して眠っている透耶を見つめて、鬼柳は満足したように何度も頬を撫でる。
 透耶が泣くということは、それだけ鬼柳に気を許している証拠だ。感情を露にして剥き出しにする。それが段々と出来始めている。一番怒って、一番泣く。たぶん、それは誰も見た事がないだろう。
 それが全部自分のものなのだ。
 願った事が全部叶った。
 結婚式の誓いなんかより、死が二人を分つまで……そんな言葉より、死んでも二人一緒に居られる呪いがあった。
 思わず、不謹慎ながら、この血を呪った相手に感謝したくなった。
 そう、呪われた一族は、呪いには負けてない。
 それどころか、それを最大限利用して、一生の恋をして幸せに生きた。誰も後悔などしていない。

 ねえ、神様。
 永遠を下さい。

 透耶が無意識に呟いていた言葉が心地よく耳に残った。

 5日ぶりに部屋を出て居間へ降りた透耶は、子機を持って部屋を出ようとする知念と遭遇した。
「お久しぶりでございます。透耶様」
 物凄く、刺が一杯な言葉に聞こえる。
「お、お久しぶりです……」
 思わず小さくなってしまう透耶。
 知念は透耶の顔色を見て微笑んだ。
 鬼柳が無茶をしてなかったのは、透耶を見れば解る。
 それから、続いて入ってきた鬼柳に言った。
「鬼柳様、綾乃様からお電話です」
 知念にそう言われて鬼柳は子機を受け取った。
 透耶は首を傾げながら、電話に出ている鬼柳を見上げた。
「どうした綾乃? は? 何?」
 綾乃は何か支離滅裂な事を言い出して、鬼柳は眉を顰めている。
「落ち着けって。MDを聴かれた? バレたって何が? 高城? ピアニスト? ああ、謝るのはいいが、俺じゃ解らん。透耶に代わるぞ」
 鬼柳はそう言って透耶に子機を差し出した。
「聞いてやってくれ」
「いいけど」
 よく解らないままに透耶が電話を代わる。
「綾乃ちゃん、どうしたの?」
『先生、御免なさい。あたし、迂闊な事しちゃった』
 帰った時の元気は何処へやら、綾乃は落ち込んだ声で謝ってくる。だが、透耶にはやはりさっぱり解らない。
「えーと、最初から話してくれる?」
 透耶の呑気な言い方に安心した様に綾乃は話を整理した。
『……鬼柳さんにMD貰ったでしょ。あれを人に聴かせちゃったの』
「んー、俺、あの中身知らないんだけど」
 サインはしたものの、結局あれが何だったのかは聞きそびれていた透耶である。
 綾乃が何も言わなければ、透耶はあのまま忘れてしまっていた事だ。
『あれ、先生のピアノ弾いてた時の音なの。鬼柳さんが、録音してくれて、それをあたしにくれたの』
 それでサインが必要だったのか、と透耶は納得した。
「はあ、なるほどねえ。それで?」
『あれを、学校の先生の車の中でかけてもらって、それで、その同乗者にピアニストの高城直道さんが一緒に乗ってて、先生だってバレたの』
 ここが重要な事だったのだが、透耶は首を傾げて言った。
「高城? 誰それ?」
 まったくもって意味がさっぱり。
『先生が学校行ってる時に、特別師事で来た事がある人。その、先生が高城さんに付きまとわれて、邪魔扱いして近付くの禁止させた、ウィーンで活躍している人』
 そう言われて透耶は薄らと思い出した。
 やたらしつこかった師事がいた事を。
 だが、顔はすっかり忘れているし、それ以外はしつこかった事しか覚えていない。
「あー、あの人ねえ。まあ、聴かれた事は仕方ないよ」
『先生、怒ってない?』
「どうして? 別にバレた所でどうにもならないし、俺は気にしてないよ。綾乃ちゃんも気にしないでいいよ」
 透耶は笑ってそう言った。
『……でも、折角鬼柳さんに分けて貰ったのに……あたし有頂天になって、先生、人に聴かせたくないって知ってるのに』
「MD取られた訳じゃないでしょ? 綾乃ちゃんが持ってるならいいよ」
『うん、御免なさい』
 あまりに真剣に謝られると、透耶も何だか申し訳なってきた。
「大体、プロの人が聴いたら笑っちゃう音だしねえ。あんまり人に聴かせないで。綾乃ちゃんが恥をかくから」
 笑って言って、最後は綾乃を心配する。
 鬼柳に聴かせるのはいいとして、プロが聴いて耐えられる音ではないと透耶は思っている。
『……先生、それ本気で言ってるでしょ』
「は?」
 意味が解らないという返事をする透耶に、綾乃は受話器の向こうでクスクス笑っている。
『ううん。先生、本当に御免なさい。ちゃんと、説明しておいたから。先生はただ一人の人の為にしか弾かない人だって』
 ただ一人の人の為にしか弾かない。
 この台詞を人から言われると、かなり恥ずかしいと透耶は自分の言葉の重要性に今頃気が付いた。
 ……なんか、俺、物凄い台詞吐いてるし。
「もう、解ったから。気にしない気にしない」
 透耶が笑ってそう言っていると、鬼柳が言った。
「透耶、代わってくれ」
「あ、うん。鬼柳さんに代わるね」
 透耶が電話を代わる。
「綾乃、あんまり落ち込むな。透耶がいいって言ってるんだから。それと、やっぱりいい事あった。ありがとうな」
 鬼柳が綾乃に礼を言って電話は終わった。
 子機を知念に渡していると、透耶は考え事をしながら居間のソファに座る。
 鬼柳も追い掛けて、透耶に聞いた。
「高城って何者?」
 真剣だ。
 透耶は、もう高城の存在など忘れてたので、少し驚きながらも、鬼柳の要求に応じて一生懸命思い出していた。
「あ、うん、プロピアニスト。ウィーンで活躍してるらしいけど。昔、特別 師事として学校へ来た事があったんだ」
「ふーん、そいつが綾乃に何か言ったのか?」
 なんか……綾乃ちゃんに何かあったら、高城って人に何かしそうなくらい真剣だよ……。
「よく解らないけど。MDの音聴かれたって事だけみたい。ああ、俺ってバレたって」
 透耶は何でもない事のように言って、居間に置きっぱなしになっていたノートを取り上げて中を読む。
「透耶とそいつは何かあったのか?」
 これも真剣。
 本当に何かあったら、今からでも何かしに行きそうな勢いが感じられる。
「んー。あの人と俺はあまりにタイプが違い過ぎて、反りが合わなかったのを覚えてる」
「タイプ?」
「うーん。俺は別に誰かに聴いて貰うより、一人で黙々とやって自己満足するタイプ。あの人は、沢山の人に聴かせて認められて絶賛される事で喜ぶタイプ。だから、練習の仕方とか集中の仕方、基本的な考え方が違うわけ」
 透耶が分かりやすいように説明すると鬼柳は納得した。
 まったく正反対のタイプだった訳だ。
「なるほど。それで透耶は嫌われてたのか?」
「うーん、今は恨まれてるとは思うけど。前、話したよね、俺の音は人に聴かせるもんじゃないって」
「うん」
「だから、俺、クラスメイトの前じゃ弾かなかったんだ。練習室にいつも籠ってた。でも、その特別 授業で弾かされそうになったんで無視してやった」
 今思い出しても嫌な事だったと言わんばかりの透耶。
「透耶らしくないな」
 今の透耶なら、妥協して弾きそうな感じなのだが、昔と今は違う。
 しかし、無視するほどだったのだから、何かあるとは鬼柳も感じた。
「言い方が嫌だったんだ。俺みたいに弾けばコンクール上位に入れるとか、訳解んない説明するわけ」
 透耶は、今でも、それだけは許せない事だと思っていた。
「ははあー、そりゃ透耶怒るなあ」
 鬼柳は思いっきり納得してしまう。
 透耶はペンを手に取って何かを書き足しながら話を続けた。
「なんかねえ、お祖父様とか母さんの信者なんだよ、その人。相手してるのがバカバカしくなって無視決め込んだら、まあ熱血なのかなあ、しつこく弾けとか言ってきて、付きまとうから練習全然やらなかったんだ。
  そしたらお祖父様に呼び出されるし、適当に邪魔だって言ったら近付かなくなったんだけど。あれ、禁止命令が出てたんだって。そりゃ恨まれてるだろうねえ、俺は。綾乃ちゃん、大丈夫かなあ? あの時、適当でも弾いてればよかったかもしれないなあ」
 自分の事はどうでもいいので、それで綾乃に迷惑がかかる方が透耶は気になってしかたない。しかし、鬼柳はどうってことないと言った。
「綾乃は上手くやるだろう。あれでもあの歳にしちゃあ、しっかりしてるからな」
 妙な所で綾乃を評価している鬼柳。
「確かにねえ。……それより、鬼柳さん、勝手に音取らないでよ」
 透耶はやっと思い出した様に鬼柳の方を向いて言った。
「悪かった。もうやらない。怒ったか?」
 さすがに無断はまずかったと反省している鬼柳。だが透耶は別の事を気にしているだけだった。
「怒ってないけど、取るなら取るって言ってくれないと。俺、ベラベラ喋ってんだよ、恥ずかしいじゃないか」
 あの時何喋ったっけ?と思い返しても思い出せない。
 意外だが、透耶なら言いそうな事でもあった。
 ピアノの音なんかより、自分が喋った内容の方が気になるだけなのだ。
「言ったらいいのか?」
「それならいいよ。でも、どうするの、それ」
 本当にそんなものどうするんだ?という顔だった。
「透耶が仕事してる時とか、構ってくれない時に聴く」
 にっこり微笑まれて言い切られてしまうと透耶は呆れるしかない。
「何それ……」
 まったく、予想もしない事をやってくれるよ……。

 
 
 昼食を食べ終わった後、鬼柳がコーヒーと一緒に何かを持ってきてテーブルに置いた。
「透耶、これ。返しておく」
 そう言って差し出されたのは、透耶の財布と携帯電話とシステム手帳だ。
 今まで信用されず、隠されていた透耶の持ち物だ。
「え? いいの?」
 透耶が見上げて言うと鬼柳が微笑んで言った。
「うん、だって透耶はもうずっと俺と一緒に居てくれるから」
 逃亡防止は取り合えず解除されたらしい。
「ありがとう……」
 しかし、今までこれをまったくと言っていい程必要としなかったのが不思議なくらいだ。
 結構、俺って恵まれてたのかなあ?
 などと感想が出てしまう。
 携帯は充電してなかったので、バッテリーがピンチだ。
 取り合えず、留守電とメールを呼び込んでみた。
「……何だこれ」
 恐ろしい程のメールと留守電。
 まず留守電を聞いてみると。
『透耶!何処にいるんだよ!一日一回義務電話忘れてんじゃねえ!』
 光琉だ……。
 後は怖くて聴けない。
 メールを確認すると、方々から入っている。
 光琉が圧倒的に多いが、当麻、京極、谷崎……。
 ほぼクラスメイトからだ。
「これは全員に連絡しないといけないのかなあ……俺って無茶苦茶迷惑なやつだ」
 透耶は呟いてしまう。
 それにまだ他にも連絡をつけないといけない場所が数件ある。
「連絡するのか?」
 隣に座って透耶の様子を見ていた鬼柳が言った。
「うん、これはさすがにマズイ。件数多いけど、屋敷ので掛けていいかな?」 
 透耶がそう言うと、鬼柳が居間の隣にある応接間に入っていって子機を持ってやってきた。
「ん、これ使えばいい」
「ありがとう。……さて、光琉は避けるとして……まず当麻だな」
 透耶はそう呟いた。
 携帯にメモリーしているナンバーを探し出して、まず当麻に電話をかける。三回呼び出し音がして相手が出た。
『はい、当麻です』
「もしもし、榎木津です。茜さん……」
 いらっしゃいますか?は言えなかった。
『透耶!? 透耶でしょ! あんた何処に居んのよ! こっちがどうなってるのか解ってんのかよ! こら! ふざけんな!』
 思わず電話を遠くに離してしまう透耶。
 隣に居た鬼柳にもそれが聴こえていたので、びっくりしている。
「……怒りMAXって感じ?」
「うん、そりゃ一ヶ月も行方不明になってたらねえ……」
 透耶はまだ怒っている当麻に釈明をしなくてならず、 当麻が怒鳴っている間にあれこれ言い訳を考えていた。
 散々怒鳴って清々したのか当麻の声が落ち着いた。
『で、あんたは今何処にいるわけ?』
「えっと、沖縄です」
 素直に居場所を喋る透耶。
『沖縄!? 何で! ちっ、そりゃ地元探してもいねえはずだ』
 当麻が舌打ちをしている。
 透耶が行方不明の間、随分捜しまわったようで、京都までも捜索対象になっていたらしいが、さすがに沖縄までは手が回らなかったようだ。
「うん、御免ね。ちょっと事情があって……」
『どういう事情があれば、一ヶ月も連絡しないで行方不明になれるわけ?』
「うーん、考えたい事があって」
 まさか拉致られて誘拐されて、沖縄まで来たなんて、口が裂けても言えない。
『つまり、言いたくないって訳ね。あんたが言い淀む時は、自分の問題だからね。いい、それは聞かない。一応、編集者の手塚さんから無事って連絡あったから、どっかで生きてるとは思ったけどさ』
 安堵したような溜息を吐いて当麻が当麻なりに納得している。
「うん、御免ね」
『電話をかけてくれたって事は、それは解決した訳ね。そうでしょ』
「うん」
『まあ、すっきりしちゃって。で、あたしがトップバッターでしょ?』
「あはははは、解る?」
 相変わらず鋭いと透耶は思った。
『どーして、あたしがあんたら双子の仲を取り持たなきゃならないわけえ?』
「ううう、返す言葉がありません」
 相手が見ないのに、透耶は頭を下げてしまう。
『取り合えず、こっちの現状は説明するわね。光琉は仕事はしてる。暴走は、あんたの新刊の時だけね』
「あー、あれは、やっぱ止められなかったんだ……」
 あの情景を思い出して透耶が呟いた。
『見たなら話が早い。あれで捜索願だしたつもりなのよ。どこかで同じ顔見かけたら、連絡くれって冗談みたいに本気でラジオで喋ってたわよ。そうそう、双子だからかしら? いきなり光琉が沖縄行かなきゃとか呟いてたけどさ』
「は? 何だそれ?」
『よく解らないのよ。マネージャーさんの話だとタクシーでラジオ聴いてた時にいきなりそう言ったそうよ。で、沖縄行こうとしてたから皆で止めたけどさ。別 に光琉に似た人を見かけたとか、そういう事じゃなかったそうよ』
「何だろ? 俺も解らないや」
 全然根拠はないのに、場所が当たっている辺りが恐ろしい。さすが光琉という所だろうか。
『まあ、それはいいとして。岩村さんから透耶の居場所を探す様に言われてたけど。あれだ、総会の話』
「あ、そっか、時期だった……」
 透耶は慌ててシステム手帳を開いた。日にちを確認するとギリギリ間に合う。
『まだ少し先らしいけど、後で電話しておきなさい』
「はい」
『手塚さんから伝言。新人インタビューの話が来ているそうよ。他社は断わったらしいけど、自社はどうしても断われないから、何とか返事が欲しいそうよ。売れ行き好調で、編集長が大喜びして食事に誘いたいと言ってた。これは断わったから。印税の支払いはまだ先だけど、振り込みだから、光琉に口座番号調べさせて振り込み手続きしておいた。雑誌連載の話が上がってるらしいから、それは手塚さんと話してよ』
「うん、解った」
 まるで透耶の秘書のように、全ての事柄を理解して処理している当麻。
 本来なら、もっと言う事はあるだろうが、事前に処理をしてくれているから、伝える事は短くて済んでいる。
『で、いつ帰ってくる訳?』
 一番肝心な事言われて透耶は言葉を失った。
「いつって、それは……」
 俺だって解んないよ……。
 チラリと根源を見ると、その根源は透耶のシステム手帳を真剣に見ている。
『あんた、誰かと一緒でしょ?』
「え!?」
 鋭い指摘に透耶は驚いて動揺してしまう。
 何で解るんだ……。
『ははあー、やっぱそうか。あんたが銀行口座での引き落としも、クレジットも使わないで、沖縄に行ける訳ないじゃないの。一ヶ月どうやっても所持金だけで、食べて寝る所確保出来るはずないしね。てっきり誘拐でもされたんじゃないかって思ったけど、身代金要求もないし、誰かと一緒でその人がお金を払ってるんだろうって思ってた』
 誘拐も身代金も実際にあったんですけどね……。
 しかも貢いで貰ってます、しっかり……。
 そりゃ口座見張られてたら、どういう状況かある程度は解ってしまうものである。
 妙に的を射ている言い方に透耶は更に動揺してしまう。
「え、まあ、その。一緒かな?」
 誰とは言えないが……。
 透耶がそう思っていると、当麻が決定的な言葉を言い放った。
『で、どんな男なわけ?』

 ゴトン。

 当麻の言葉に透耶は子機を落とした。
 な、な、な、何で!?
 何で、男って解るんだ!?
 透耶はそのまま固まってしまった。
 側で見ていた鬼柳が、不思議そうにそれを見てから、何か思い付いたように子機を拾って受話器に話し掛ける。
「Hello?」
 そう言うと、電話の人物は一瞬言葉を失った。
『……え? 外国人? きゃー!京極!外国人が出た!』
 電話の向こうで当麻の叫び声が聴こえる。
 よく聴いていると、向こうでドタバタしているのが聞こえる。
『何叫んでんだ。透耶が英語喋る訳ないだろ? 相手だって日本語喋れるって。落ち着け当麻、挨拶だよ。……Hello。日本語でいいですよね』
 いやに落ち着いた声の男が出た。
 京極って……誰だ?と鬼柳は考えたが、透耶の話の中に出てこなかったよなあと、少し訝しんだ。
「構わんが」
 鬼柳はよく解らないが対応する事にした。
『俺は京極と申します。じゃあ、貴方が透耶の相手なんですね』
 ストレートに聞かれて、鬼柳はストレートに答えた。
「ああ、そうだが。透耶、固まってるぞ。何言った」
『一緒にいる相手が男かって聞いただけです』
 京極の言葉に、鬼柳は納得してしまう。
 喋ってないのに言い当てられたら、透耶じゃなくても固まるだろう。
「なるほど。で、他に何か用事があるか?」
『いつ東京へ戻るつもりなのか、それだけお聞きしたいです』
「そうだな……ゴールデンウィークが終われば、俺の用事も終わるから。その頃に戻る予定だ」
『では、帰ったら一回顔を見せるようにと伝えて下さい』
「解った」
 鬼柳がそう言うと電話は切れた。
 なんか、元クラスメイトで友達のはずなのだが対応の仕方が、どうも保護者な感じだったので、鬼柳は不思議に思った。
 そういや、透耶は自分の友達とか親友の話しってしないよな。
 光琉の友達の……とかいう言い方をする。
 もしくはクラスメイトという名称でしか言わない。
 透耶にとって、そういう人は必要なかったのだろうか?
 これほど人懐っこいのに?
 鬼柳と出会う前の透耶。
 すごくギャップがあるような気がして、鬼柳は気になって仕方なかった。
 そこまで考えてから、 鬼柳は電話を置いて透耶をトリップから引き戻した。
「え? あれ?」
 透耶は手に持っていた子機がなかったので思わず探してしまう。自分で落とした事など既に忘れてる。
「ほら、落としたぞ」
 鬼柳が今拾ったという風に子機を渡すと、透耶はそれを受け取って慌てて電話に出た。
「御免、どこまで話たっけ? って切れてるじゃん!」 
 透耶は一人で受話器にツッコミを入れる。
「へえ、じゃあ、いいんじゃないの?」
 しらばっくれる鬼柳だが、透耶はすぐに気が付いた。
「……電話に出たな」
 唸る様に言うと鬼柳は、またシステム手帳を見ながら答えた。
「ん、透耶が電話を落としたから、電話繋がってるのか試して、そしたら向こうから話し掛けてきたから正直に答えただけだけど?」
 何処が悪いんだという言い方だったが、透耶には鬼柳の目的が何だったのかはすぐに理解出来た。
 鬼柳は自分が透耶の男であることを主張したいのだ。
 その気持ちは透耶にも解る。
 透耶もそれは主張したい。
 この男は自分のモノであると。
「透耶、京極って誰だ?」
「へ? あ、京極さん、一緒に居たんだ。うん、光琉の友達で当麻の憧れである元生徒会長」
 透耶がそう説明すると、鬼柳は透耶の方を見た。
「ふーん。他に何処かかける?」
「あ、うん。……岩村さんに……」
 透耶はブツブツ言いながら電話をかけ始める。
 鬼柳はそんな透耶を見て、またシステム手帳に視線を落とした。
 綺麗にまとめられている中身は、学生が持っているような軽い手帳ではない。
 ビジネスマンのようなもので、中は沢山の文字で埋められている。
 3月までは学校行事が書き込まれていたが、4月以降は毎年の恒例行事らしい事柄が書かれている。
 母親、父親の命日。親戚らしい人の命日。
 それは解るが、何故か会社名の入ったものがある。
 アドレス帳の方を見ると、株式とか、建設会社、そういう会社名の入ったページがまとめられている。住所は東京だったり、京都だったり。
 最初に透耶の財布を見た時も驚いた。
 所持金自体は少なかったが、クレジットがゴールドだったり、いくつもキャッシュカードがあったりで、一瞬資産家の息子かと思ったが、透耶はそうではない言い方をしているし、捜索願も出てはいなかった。
 まだ、透耶が話していない、透耶の身の回りの事がある。
 透耶にとっては、どうでもいい事であってもだ。
「恭、手帳貸して」
 電話をしながら透耶がそう言った。手渡すと素早くページを開いて何かを書き込んでいる。
「はい。ええ、いいですけど。え? 合併ですか? はあ。……それ、3番目駄 目ですよ。皆引っ掛かったでしょうけど、向こうに有利過ぎます。もう少し粘ってみれば、譲歩すると思います。5番目も……」
 こういう電話かと思えば。
「ええ、田口さん、おはようございます。……それじゃ田口さんが不利です。向こうは進出に欲しがってるんですから、もう少し強気で構いませんよ。……手腕でしょ?折角今まで頑張ったんですから、もう少し。そうそう、大丈夫ですって、社長でしょ?」
 そういう如何にも透耶が社長に見える口振り。
 電話の向こうを宥めて、そういう電話を何本かしてやっと電話が終わった。
「透耶、今の何? 会社でもやってんの?」
 鬼柳が不思議そうにそういうと、透耶はうーんと考えてから鬼柳の方を向いた。
「経営はしてないよ。お祖父様時代からの相談役ってのかなあ? お祖父様はさ、悪戯をいっぱいして、俺にそういう会社経営の相談役ってのをやらせてたんだよ。俺は最初知らなかったんだけど、宿題ってのやらされて、それが実際に会社を動かす方法だったりとか。今は本当に相談役……、やりたくないけど、放っておけなくて……見捨てるのは簡単なんだけどねえ」
「この株ってのは?」
 システム手帳に書き込まれたメモを見て鬼柳が聞いた。
「お祖父様の持ち株だったやつ。俺はいらないけど、昔からお祖父様について株操作してる人を首にするわけにいかないし、もうお爺ちゃんだから、年金だけじゃ暮らして行けないでしょ。俺が株持ってるだけで、お爺ちゃんは操作するだけで丸く収まるから」
 結局株に詳しい訳でなく、ただお爺さんを首にしたら可哀相だから、持っているだけという。
「印税って?」
「お祖父様の作曲した本のもの。そういう遺作は全部俺の相続だったし、管理はお祖母様に任せてる。バイエルみたいなのだからさ、マメに売れてるらしいよ」
 透耶が何でもないという言い方をした時、鬼柳が驚いた顔をして聞いた。
 お祖母様って……。
「ちょっと待て。爺さんの嫁は生きてるのか?」
 鬼柳が慌ててそう聞いてきたので、透耶はキョトンとして答えた。
「うん、お祖母様生きてるよ。あれ言わなかったっけ?」
 自分の事と母親の実家の話はしたが、父親の実家の話しは殆ど出てこなくて、お祖父様は言ったが、お祖母様の話は一言も出ていなかった。
 そうなると、根本的な所が疑問となる。
「じゃあ、遺産の大半は祖母さんの物じゃないのか?」
 もっともな質問だ。
 透耶はそれを聞いて大きく頷いた。
「普通そうだよねえ。んもう、お祖母様って頑固なわけよ。お祖父様も何考えてるんだか、よく解らなかったけど、お祖母様は一層輪をかけて解んない。遺産は放棄してるんだ。でさあ、もう70なんだけど、アパート暮らしするから、年金と自分の財産で十分だとか言って家出て行こうとするんだよ!信じらんない!」
 透耶は今でも信じられない出来事だと叫ぶ。
 普通、資産家の嫁となれば贅沢三昧で、遺産入れば少ないだの言ってもめそうな話だが、まったくその逆で全てを捨てて出て行こうというのだから、若い人でも出来ないのにそれを老人がやるところが、普通 じゃない。
「……パワフルな祖母さんだな」
「お祖父様が亡くなるまで、最初に就職した、お祖父様の建設会社のさ事務やって働いてたんだよ。専業主婦したっていいのにさあ。余生を楽しもうとか、遺産入ったからのんびり生き様とかないわけよ!さすがに皆で止めたけど、家にいてもお祖父様がいないから、する事がないって言うから……」
「言うから?」
「俺が相続したもので、お祖父様の家や持ち出さなくていいものを全部管理させる仕事に就いてもらった……」
 透耶が負けたとばかりにそう言うと、鬼柳が爆笑した。
「ただでは管理させないのか?」
「仕事なら引き受けるって言ったんだ。でもさ、家にいるって事は、家賃を払わないといけないとか、光熱費だとか、そういう事を言い出すんだよ!自分の方がお金払わないといけないって!信じられない!どうして実孫が祖母からお金取れるっていうんだっての!絶対究極の嫌がらせだって!」
 透耶はもう信じられないと真剣に叫んでいる。
 更に鬼柳が爆笑した。
 透耶は今思い出しても悔しくって仕方ないと言う。
 鬼柳は笑いを収めてから言った。
「透耶、その祖母さんにハメられたな」
 こんな事を言われて、透耶はキョトンとする。
「え?」
「どうせ、透耶の事だ。財産放棄しようとしただろう?」
「当り前だ。お祖母様がいるのに、どうして俺が財産を全部相続しなきゃなんないんだって今でも思ってる。贈与出来るなら今すぐにも手続きするよ」
 大真面目に言う透耶。こういう真直ぐだから、騙されやすいのだと鬼柳は思っている。
「だからさ、祖母さんが遺産放棄を最初にすれば、透耶しか相続人がいないわけだ。それで透耶にまで放棄をされたら、それは国の物になるだろう? そうさせない為には透耶を混乱させて、相続させる、という手段だった訳だ。とにかく祖父さんの個人財産の方はそういう方法で相続させた。な、透耶は祖母さんの目の前でサインしたんだろ?」
 そういわれて、透耶はむーと考えて思い出す。
「……あ、そうだった。すぐにでも出て行こうとして、引越し屋とかまで呼んでたからさ、慌てて書類にサインしたから、結局何をどう相続したのか解らないんだ。会社関係は、問答無用で親戚 に相続させたけどさ」
「つまり、透耶に相続させたかったのは、祖父さんの個人財産だった訳だ」

 鬼柳にそう言われて透耶はふと考えた。
 そう言えば、個人財産の方の書類は先にサインさせられたが、会社など事業関係については、親戚 に分担させてしまう事には何も言われなかった。
「なんだ、お祖母様もそんな手の込んだ事しないで、素直に言えばいいのに。個人財産なんてたかが知れてる」
 何だかあれほど別の意味で大騒ぎ遺産相続なんか、他にないだろう。何しろ、血族が全員放棄しようとしているのだから。
 たかが知れていると思っている財産の事は、透耶は内容を殆ど知らない。入ってくる印税と、親戚 がどうしてもと納めている会社の利益くらいなら、透耶の口座に入ってくるので、それが凄い金額なのは知っている程度である。
 透耶が凄い財産の額と言っていたのは、自分の目に入るお金の動きの事だけだったのだ。
 呑気にそう言った透耶に鬼柳は笑いながら言った。
「透耶。資産家で作曲家の個人財産がどれくらいになるか考えた事ないんだな」
 そう言うと透耶はうんと頷いた。
「知らない。税理士とか弁護士に頼んでるし、俺が普段使ってるのは、両親の方の保険金だから。何、俺の財産に興味ある?って言うか、恭もいつもどっからお金出してんの!?」
 透耶の財産の話から鬼柳の財産の話になっている。
 今の今まで全部エドワードが出していたはずはない。そういうのは鬼柳が一番嫌う所だからだ。
「俺? んまあ、俺のは昔エドのところでバイトした金があるからなあ。阿呆みたいな金額振り込まれてたし。今はそれで暮らしてるって感じ」
「エドワードさんの所でバイトって?」
 意外な言葉に透耶は驚いてしまう。
「あ? なんか透耶がやってたみたいのかなあ。書類見て駄目だしとか、ああしたらいいこうしたらいいとか、ちょっと企画出したりとか、そういうの」
 鬼柳がこういう自分の事を話すのは珍しい。
「へえー。でもさ、そういうのって幾らくらい貰えるもんなの?」
「さあ、基本は知らないが、成功報酬だったしなあ。口座には3千万くらい入ってた」
 さらりと凄い事を言う鬼柳。
「さ、三千万!? お金持ちじゃん!」
 物凄い金額が出てきたので、透耶は叫び声を上げた。
 軽く言うから、透耶はパニックになってしまう。
「んー。そうか? 透耶の総資産からしたら大した事ないと思うぞ」
「俺の総資産? えー? 俺って一体幾ら持ってるんだろう?」
 本当にその総資産を知らない透耶。
 横領されてもたぶん気がつかないだろう。
 
「俺も自分で幾ら持ってるのか知らないなあー。アメリカの銀行は止められてるし。日本のは、仕事のとエドのやったのとしかないしなあー」
 などと、自分の財産をまったく把握してない二人。
 二人で真剣に考え込んでいたが、解る訳はない。
「じゃあさあ、調べてみる?」
 透耶が鬼柳にそう言った。
「何で?」
 鬼柳が不思議な顔をした。
 すると透耶が少し恥ずかしそうな顔をした。
「……あのさ」
「ん?」
「……東京帰ったら、どうする?」
 何とも頓珍漢な質問だ。
「どうするって?」
 鬼柳がキョトンとする。
「……その、バラバラで住むの?」
 上目遣いで首を傾げて見つめられると、鬼柳はクラリときてしまう。しかも言っている事が可愛すぎる。
 一緒に住まないのか?という事を言いたいのだ。
「透耶ー!」
 鬼柳はそう言って透耶に抱きついて押し倒した。
「な、な、何?」
 何でいきなりこうなる訳?
 そう思いながら顔中にキスされているのもどうだろう?と透耶は思ってしまう。
「んー、もう、何やってんだよー」
「あんまり可愛い事言うから」
 そう言いながらキスをして来るから、思わず受け入れてしまう。普通のキス。
「……ん」
 唇を舌でペロリと舐められる。
 なんで、一緒に住む話が可愛いんだが……。
 そう透耶が悩んでいると。
「そうだな。金合わせたら、どっか一軒家でも買えるかもしれないな。家、買おうぜ」
 鬼柳がそう言い出したので、透耶は鬼柳の住まいがどんな所なのか興味が湧いた。よくよく考えれば、鬼柳の日常生活の事は何も知らないのである。
「……恭は、今どんな所に住んでるの?」
「ボロビルの一角。機材を置くのにどうしても場所が必要でな。暗い方が機材も痛まないし。でも一緒に住むには適してない。周辺も治安が良くないし危ないしな」
「じゃあ、地下があるといいねえ。暗室とかに使えるし」
 と、透耶。
「透耶のピアノも買わないといけないし、置く場所と、書斎もいるなあ」
 と、鬼柳。
「キッチンも対面だといいなあ」
 などと言い合っているが、どう考えても規模が大きくなりそうだ。
「どう考えても、家探ししなきゃいけないじゃん」
 そういう結論しか出ない。
 そこで、双方がどれだけの金額を動かす事が出来るのかを調べなきゃならない訳だ。
 まず鬼柳が何処かへ電話をかけた。
 暫く怒鳴っていたが、何か妥協したらしく頭をガシガシと掻いている。
「透耶、ゲーム会社がハードを出して自社ソフトを出すとしたら?」
「はあ?」
「経営サポートだけどさ」
「ああ」
 透耶は頷いて質問に答える。それを鬼柳が英語に直して電話に向かって喋っている。それから、幾つか質問したら同じ事の繰り返し。
 10の質問に答えると電話は個人的な話になって終わった。
「で、何だった訳?」
 さっぱり解らない事を聞かれたものだから、透耶は心配になってきた。しかし、鬼柳は微笑んでいる。
「アメリカの銀行の凍結を解除するのに、くそじじいの質問に答えさせられた。それで、透耶は合格したって訳だ」
「はああ?」
 まったくもってさっぱりな解答である。
「俺の本来の口座はな、何でかじじいに使えないようにされてたんだよ。まあ、家を出たのが許せなかった仕返しなんだろうけど」
 仕返しは仕方ないだろうなあなどと鬼柳は呟いている。
「家って、アメリカの? じじいって恭のお祖父さん?」
「ああ、じじいは銀行の頭取。親父は出版社の社長」
「凄いお金持ちじゃん」
 鬼柳の実家がそういうお金持ちだとは透耶もまったく知らなかった。
 本当にちゃんと聞かないと、解らない事である。
「親はな。俺のもんじゃないし。大学からエドの親父の所でバイトして、小遣い溜めてたのがあるんだが、それを使えなくされてたから、カメラだけで食ってた。時々エドの電話で質問に答えてたら、必要無い金振り込まれてたけど、あれも役に立ってるしな」
「必要にかられて、カメラやってたの?」
「大学入った頃からカメラはやってたんだ。近所に報道カメラマンが住んでて、色々教えてもらってた。20で大学出て、銀行員なんてガラじゃねえし、さっさと家を出たんだ。ちょうどカメラの仕事もあったしな」
「20って。飛び級でハイスクールまで出たって事? ええ?じゃ秀才なんじゃないか!」
 透耶は更に驚いてしまう。
 そんな凄い経歴があったとは……。
 透耶が物凄く驚いている顔を見て、鬼柳は苦笑した。
「そんなんじゃない。面倒臭かったんだ、さっさと学校出たかったし、家も出たかった。あいつらの世話になるのもムカツクしよ。大学出て、日本に帰ったカメラマンに付いていったんだ。それが報道カメラマンの始まり」
 それだけの理由で飛び級して大学行くか?
 することないから、報道カメラマン?
 真剣にやっている人からすれば、そんな馬鹿なと言いたいところだ。
 そこまで考えて、透耶はふとある事を思い出した。
「あ!俺肝心な事聞いてなかった!」
 何で今まで聞かなかったんだ?
 普通、名前の次くらいに聞かないか!?
 透耶は自分の失態に呆れてしまう。
「ん?」
「恭って幾つなの? えっと歳」
 物凄く普通に、たぶん一番最初に聞くはずの事を聞き忘れていた透耶。
 鬼柳も少し驚いている。
「あれ? 言ってなかったっけ?」
 本当に真剣に聞き返された。
 透耶は頷く。
「聞いてない」
「3月17日に25になった」
「へえ、25かあ……え? 17日?」
 そこまで言って透耶はその日付けに首を傾げる。そしてチラリと鬼柳を見た。
 それって……一番最初に恭に会った日じゃないか……。
 透耶がそう思っているのが解ったのか、鬼柳はニコリと微笑んで、透耶の頬にキスをした。
「一番いいプレゼントを貰ったな」
 鬼柳は言って、透耶の頬を撫でる。
 ……俺は、プレゼントですか?
 そう思いながらも、透耶は笑いながら、頬に当てられた鬼柳の手を撫でる。
 透耶はいつも、鬼柳の存在を確かめる為に、自分の手で撫でて一緒にいるんだという感覚に安堵する。
 鬼柳もそれが解るから、より一層愛おしくなる。
 さっきまで透耶を抱いていたのに、また抱きたい気持ちになってきた鬼柳は、慌ててそれを押しとどめてから、さっきまでの話題に戻った。
「俺の向こうの銀行に入れてたので、すぐに動かせるのは5億らしいが」
 ……5?
 ……億?
「……今なんて言った。5? 億!?」
 透耶は呆然として問い返した。
 鬼柳は首を掻きながら、やっぱり多いんだろうなあと思った。
 ただし、家を買うには、という意味で。
「ああ、日本の家は狭くて高いから、それくらいかけた方がいいのが買えると言われた」
「待て、どんな家を買うつもりだ。一軒家でも億なんて滅多にないってば。大体バイトで億稼ぐか!?」
「んー? どうだろう? 向こうはハイスクールの学生でも会社の社長とかなったりするしなあ。年収で億くらい稼ぎ出す奴もいるぞ」
 平然と言われて、透耶は頭を抱えた。
 世界が全然違う。
「日本で億稼ぐ高校生なんてアーティストくらいだ」
 すぐ動かせるのが5億だったら、総資産は一体何億なんだ? そりゃ放っておけば利子もついてくるだろうが。
 透耶の方も今幾ら動かせるのか、それを聞く為に電話を入れた。
 弁護士に相談すると、こういう答えが返ってきた。
『家を購入ですか? いいのを建てた方がよろしいですよ。透耶さんの場合は、やはりセキュリティーが万全な所がよろしいですよ。そうですねえ。今なら3億は動かせますよ。もし入り用でしたら、5億も用意させますよ。いい家だったらやはりそれくらいかかりますよ?』
 はっきりいって、言葉を失う。
「はあ、そんなにいらないと思いますけど。決めましたらまた連絡します」
 透耶はそう言って電話を切った。
「すぐなら3億。必要なら5億だってさ。なんかもうお金の感覚解んないや」
 透耶はそう言って溜息を吐いた。それは鬼柳も同じだった。
「まあな、そんなに使うもんでもないし。十分利子で一生遊んで暮らせる」
「そうだよねえ。俺、保険金でやってけるんだけど」
 それでも多いと思うくらいの金額があるんだけど……。
 総資産なんて、恐ろしくて聞けない……。
 こんな事は知らない方がいいに決まっている。
「一生もんの買い物しようぜ。家具も買わないといけないしなあ。買ってもすぐに住める訳でもないし。さっき言ってた希望の部屋とか入れて、何軒かチョイスして貰って置こうか?」
「うん。そうしないと、たぶん何軒も不動産屋回らないといけなくなるし。じゃあ、それまでどうしようかあ? まあ、東京に帰らないと買い物も出来ないしさ」
 透耶がそう言うと、鬼柳が自分が決めた日程を話して聞かせた。
「今からだとゴールデンウィークになってるから、飛行機も取りにくいし混んでるから、明けに帰ろうとか思ってる」
「うん、そうだねえ」

 こんなところで億万長者の奇妙な会話が続いている。
 コーヒーを用意して持ってきた知念は少し頭を抱えたくなった。