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 午後7時に犯人から指示があって、エドワードはSPを連れて行動した。
 宝田は一応別荘に残って、連絡係の主任をかって出た。
 身代金受け渡しの場所は、透耶が目撃された、あのパーキングエリアだった。
 これで、犯人が透耶を現場に連れてくる事はありえないという事は解った。透耶ほど目立つ人間を連れ歩くのは危険である事は、犯人にも解っているのだろう。
『ああ、場所からして、犯人が透耶を連れてくる事はない。そっちは任せた。受け渡しまでに行動してくれても構わない。首尾よく行ったら報告してくれ』
 エドワードの推測は、鬼柳も考えていた事だった。
「こっちは、受け渡し一時間前に行動出来る様にアジトを探し当てる。大丈夫だ、当てはある」
 鬼柳は完全に戦闘体制に入っていた。
 この男は動き出すと正確な思考が働く。
「よし、この周辺のコンビニ、スーパー。とにかく飲み物と弁当が置いてある店は全て調べる」
 鬼柳がいきなりそう言った。
「は?」
 捜査員には、鬼柳の言っている事がまったく解らない。
 何故、飲み物が売っている店を調べなくてはならないのか?
 その根拠は一体、何なのか。
「それは一体、どういう事でしょうか?」
 一人が申し訳ないとばかりに聞き返した。
 鬼柳は地元住宅地図を広げて、そこにあるコンビニなどの場所を調べながら言った。
「んあ? 透耶はまだ意識が戻ってないだろ。そうなると食事はどうする? 寝ている相手に食事はさせられないだろう? となると、病院なら点滴される。だが、病院に運んでない限りは点滴なんて素人にゃ手に入らない。それに代わる物で代用しようとしたら、それは一体なんだと思う?」
「ポカリスエット、ですね」
「そういう飲料水が、点滴に似た成分というのは、結構誰でも知っている。食事をさせないとなると、飲ませる量 は半端じゃないはずだ。しかも今日で四日目。一日二リットル以上の飲料水を毎日買い足している若い男、しかもやつらは男ばかりだ、食事を作るなんて毎回やらんだろう。だから弁当。最近になって、そういう行動をしてる近所に住んでいる奴なら、店員も顔は覚えているはずだ。似顔絵は持っているだろう。総当たりすりゃ、どっかで引っ掛かる。うまくいきゃ鉢合わせだ」
「何故、似顔絵の男だと思われるのですか?」
「ああ、そりゃ、この辺りの地理に詳しいのは、顔写真の男達より、似顔絵の男だろう。治療品を買いに出たのもそいつだしな。他のヤツラは住処は解っているのに、その場所から離れてしまっている。だけど其処は引き払ってない。いずれ戻るつもりでいやがる。ということはだ、似顔絵の男の地元である、と考えた方が納得がいく。ついでに、そいつは一軒家に住んでいる」
「根拠は?」
「誘拐した人間をアパートなんかで監禁出来るかよ。マンションなら尚更だ。気を失った人間を、誰にも見つからずに部屋まで運ぶのは困難だ。行き当たりばったりで怪我した人間を運ぼうと考えるくらいだ。それに4人の人間が一緒にいられる場所で、周囲に咎められない所と考えれば、一軒家が妥当だろう」
 捜査員の質問に答えながらも、鬼柳は地図にチェックを付けていっていた。
「質問はそれくらいか? だったら指示するぞ。2人づつ分ける。一つ確認したら俺の携帯に連絡しろ。それから、行った後に来る可能性もあるから、似顔絵のコピーを渡して、俺の携帯に連絡をくれる様に手配しておいてくれ。相手がその場に現れたら、尾行してまず家を突き止めろ。他、何かあったら、とにかく一回連絡を入れる事。タイムリミットは10時」
 鬼柳が言って、地図を見せると捜査員を分けた。
 捜査員は、全部で11人。鬼柳を入れて、二人ずつに分けて、6組。不眠不休で働かせる訳にはいかないので、三分の一は休みに入っている。残り三分の一はエドワードと行動している。数人が別 荘に残り、余りがここにいる。
 あまり人数を連れたがらなかったのは、鬼柳の考えだ。
 如何にも警察だ、というふうな人相の捜査員が、犯人のテリトリーを動き回るのは、相手に警戒させると思ったからだ。
 それに、鬼柳は当たりを付けていた。
 この人数でも十分だと。
 その指示に、捜査員は驚いていた。
 ただ、怒りに任せて行動するだろうと思っていた鬼柳が、エドワード程の的確な指示を送ってくる。
 考えてない様に見えるが、本能で人を使う方法を心得ている節がある。
「OK、さっそく行動をしてくれ」
 鬼柳の合図で、全員が動き始めた。
 車に乗って行く者、徒歩で周辺を探す者。
 鬼柳は車に乗って、一緒に行動する捜査員とドラッグストアへ向かった。
「鬼柳様。何故、一番最初に目撃されたドラッグストアへ?」
「あ? ああ、簡単な事だ。そこが犯人の行動範囲の一つだからさ。人間ってのは、大体決まった所で買い物をしたがるものさ。特に日常品となれば、そう遠くまではいかない。警戒して少しくらい遠くへ行くかもしれないが、それでも知らない場所へは行かないもんだ」
「テリトリーですね」
「そう。この辺りを重点的に移動しているって事は、ここが奴のテリトリーだからさ。行き当たりばったりな行動をしている限り、似顔絵の男の地理しか頼りに出来なくなる。そうなると行動範囲は狭くなる」
「よくそこまで見抜かれましたね」
「相手がただの素人で、馬鹿なガキだからさ。エドを振り回しているつもりでいて、自分の首を絞めている。大体、身代金受け渡しを計画無しにやろうとしている時点で、相手にならねえ」
 しかし、本当にそれだけなのか?という気持ちもあった。
 鬼柳には何か引っ掛かった。
「確かに、身代金受け渡しの誘拐の成功率は、1%もありませんね」
 そう、身代金の受け渡しは、どの犯罪の中でも難しいものなのだ。受け渡しには、どうしても犯人は姿を現さなければならないという危険が伴う。
 そこで大抵失敗する。
「やつらが金欲しさにこれが成功すると思っている間はいい。誰かが気が付いて、先に透耶を殺してしまわないかが問題だ。びびって、人も殺れねえ素人なら歓迎だ」
 正直、犯人は逃がすつもりはなかった。
 鬼柳は、自分の腕から透耶を奪っていった男を、生かしておくつもりもなかった。
 もし、透耶を殺したりしていたら、地の果てまで追い掛けて殺してやる。いや、殺すなんて生易しいもんじゃない。
 煮えくり返る。
 透耶の為だけに、鬼柳は怒る事ができる。
 ここまで、自分が思える、それは凄い変化だ。
 この持て余す程の感情が、自分の中にある事が、不思議でならなかった。
 拳を握り締めて、歯軋りをした。
「少なくとも、3人は大丈夫ですが、一人厄介なのがいますね。三沢とかいう悪ですよ」
「たぶん、そいつが首謀者だろう。そういう奴は、他人を信用しちゃいねえ。受け渡し現場には来るだろうが、受け渡しには別 の奴を使うだろう。電話をかけてきたのも別の奴だ」
 恨みで行動している奴は、まだいいだろう。
 透耶を殺す程、度胸はないはずだ。
 あくまで目的は、あの別荘の持ち主を陥れる事であって、殺人まで犯すつもりはないはずだ。
 だが、三沢は、何か目的が違う。
「そこまで用意周到な奴ですかね?」
 たかが、田舎の悪と言われている程度の子供が考える事だ。そう大した事ではないと、捜査員は思っていた。
「何故、エドが透耶の怪我の様子を聞いたと思う?」
 唐突に鬼柳がそんな事を言い出した。
「それは心配なされたのでは?」
 素直に捜査員はそう思った。
 これだけの人数を投入しているのだ。
 エドワードにとっても透耶は大切な友人なのだろうと思った。
 すごく、珍しい人種ではあるが。
 しかし、鬼柳はそれを否定した。
「あいつがそんな事考えるかよ。普通、透耶が怪我をしているなんて、誰が解る? 犯人かもしれないと疑うのが普通 だろうが。エドはわざと聞いたんだよ。お前、普通、誘拐された人物がいて身代金が要求された時に、まず聞く事はなんだ?」
「はあ、誘拐された人物が生きているか、ですね」
 捜査員は、答えて、なるほどと思った。
 ここで、こちらが透耶が怪我していると知っている事を、本当なら悟られてはいけないはずだ。
 こっちが探しているのは、バレてはいるだろうが、警察並に捜査をしている事は、犯人達は知らないのだ。しかし、エドワードは敢えて、そういう聞き方をした。
 魂胆があったからだ。それを鬼柳も解っている。
「普通はそうだ。だがエドは、わざとそう聞いた。何故かというと、そいつが三沢なのかどうかを試したのさ。だが犯人が正直に疑いもせず答えた。つまり、早く電話を終わらせたかった、三沢に指示されてやっていた奴が掛けて来た電話だった事は、それによって判明した訳だ」
 三沢なら、人質の様子を聞かれたとしたら、怪我の事は口にはしないだろう。三沢にとって、人質は、生きていても死んでいてもなんら変わりがないはずだ。
 ただ、無事だ。ここにはいない。と言えば済む事だから。
 捜査員は少し考えて聞いてきた。
「重要な取り引きの電話なのに、三沢は仲間にやらせたんでしょうか?」
「三沢は、エドの会社にこういう電話をかけたら自分の肉声が残ると思っていた訳だ。証拠を残したくなかったのさ。だが、身代金受け渡しの電話をかけてきたのは、間違いなく三沢の奴さ。そういう悪知恵は働くだろう…」
 と、そこまで話して鬼柳は、ハタと考え込んだ。
 待てよ、そこまで用心深い奴が、身代金受け渡しが済んだ後、人質を解放する為に仲間の元へ戻ったりするだろうか?
 ははあ、なるほど。
「三沢の魂胆が解ったぞ」
 三沢はまだ自分の正体が、こっちにバレているとは思ってもいないだろう。
 自分は影の存在として君臨していると思っている。
 名前もたぶん偽名を使っている。
 仲間は誰も三沢を疑ってはいない。
 だが、三沢の本性を誰も知らない。目的も最初から違っていたはずだ。
 奴の目的は、エドワードが現れた時点で、すっかり別の事へ変わっていたのだ。
 そうそう、何故、あの日、別荘を襲撃したのか。
 エドワードが休暇を取ってここへ訪れる事を前もって調べていたからだ。
 つまり、ここに鬼柳がいた所で、どうでもよかったのだ。
 強盗するのは3人だ。鬼柳に怪我をさせても、透耶を連れ出せればそれで良かったのだ。一人は門の見張り、門のロックを開けた人物。それで4人だ。
 透耶を誘拐したのも、偶然ではない。
 三沢は始めから、透耶を誘拐して、エドワードに身代金を払わせるつもりだったんだ。
 そして、身代金を受け取った仲間から金を反らす為に、三沢は隠れて金だけを受け取り、仲間にエドワード達を巻く行動をさせて、自分はその間に逃げるつもりなのだ。
「待てよ」
 鬼柳は思わず自分への問いが声に出てしまった。
 三沢の仲間は解っているだけでも、4人だ。
 不審な行動をしているのも、4人だ。
 4人以外に不審な行動をしている人物はいない。
 別荘へ来たのは、4人だ。
 車に乗れるのは、透耶を入れて5人だ。
 誰が、エドワードがここへ来る事を知っていたというのだ?
 誰が、エドワードが休暇を取るからと言って、ここへ来る事が解ったというんだ?
 誰かが、エドワードを尾行していた……。
 だが、尾行したのは、その4人ではない。
 時間的にそれをするのは不可能だ。
 タイミングを合わせた様に、行動出来るのは、誰かがエドワードの行動を見張って、ここへ向かっているのを教えたからだ!
 三沢の仲間は、もう一人いる!
 他の仲間が知らない、もう一人、三沢の右腕がいるのだ!
「ええい、ちくしょー。こんな簡単な事に誰も気が付かなかったのか!」
 鬼柳が難しく思考していたが、いきなり叫んだので、運転していた捜査員は驚いた。
「い、一体、どうしたんですか?」
「三沢は意外に曲者だって事だ」
「は?」
 鬼柳は捜査員には説明せず、エドワードに連絡をした。
「エド、三沢にはもう一人仲間がいる」
 鬼柳のその言葉に、エドは驚いている。
『どういうことだ?』
「お前、誰かに見張られていた記憶はないか? 別荘へ来る時に車が後をつけてきたとか、そういうことだ」
『ああ、……田島、確かここへ来るまでの間に、東京から一台付いてきた車があったな? あった、高速を降りる時に別 れたが。それがそうなのか?』
 当たりだ。
 こんな所まで、エドワードに張り付いていたのは、エドワードが確実にここへ来る事を確認したかったからだ。
 高速を降りた事で、計画は実行された。
「たぶん、お前、三沢の仲間に見張られていた。透耶を誘拐する事も、お前に身代金を払わせる事も、始めから仕組まれてたんだ」
『……そうか、解った。三沢の周辺を再度当たらせる』
 エドワードは鬼柳のその言葉で一瞬にして事態を察した。
 こういう時は、詳しい言葉はいらない。
 電話を切ると、鬼柳は再度地図を眺め始めた。
「仲間がもう一人? でも捜査では出てきませんでしたが?」
 捜査員が言うと、鬼柳は言った。
「んなの、簡単だ。昔の知り合いなんだよ。それも三沢が信頼を置いて、裏切らないと思っている人物。たぶん、愛人だ」

 

 

 透耶は、誰かが自分を抱え上げる感触で目を覚ました。
「?」
 一瞬、夢かと思ったが、身体が揺らいでいるので、間違いはないと確信した。
 誰が?
 感じるが、これは司でもない。
 司が自分を抱え上げる事は出来ないと思う。
「こいつ、本当に男かよ」
 太い響く声がすぐ耳もとで聴こえた。
 ここにいる間に聞いた、司の弟の声ではない。
 知らない誰かの声。
「余計な事をしたら、あたしはあんたを許さないわよ」
 司の声が聴こえた。
 大丈夫、側にいる。
「解ってるよ。意識ない奴、やったって意味はねえ」
 クスクスと笑う男。
 こいつ、男の俺を犯そうとしている。
 ああ、そうか、意識ないふりというのは、こういう事を意味していたのか。
 透耶は、司が最初に言った意味を今理解した。
「油断も隙もない奴が、何言うのよ。どうせ、気に入ったから連れてきたんでしょう」
 明らかに、司の声には怒気が混ざっている。
 男を諌めているのは確かだが、それは男が自分を犯そうと考えている事への、透耶への嫉妬も含まれている。
「違いねえ。金貰って、首尾よく行ったら、こいつと一発やってやろう。俺との記念だ」
 んな、記念なんていらねえ!
 透耶は叫びそうになる言葉を押さえた。
 ここで叫んだら、司のせっかくの指示が無駄になる上に、これじゃあ犯して下さいと言っているようなもんだ。
「馬鹿な事言ってないで、どうするの?」
「ちょっとな、移動させる」
「何言ってるの?」
「どうもきな臭いのが動いてる。玄人の輩がな。そろそろここも危険だろうし。お前も少し身を隠しとけ」
 男がそう言った時、ゆっくりと何処かへ降ろされた。
 固い感触。
 バン!と音がして、ここが車の中だと解った。
 何処へ連れて行こうとしているのだろうか?
「ちょっと、何処へ行くのよ」
 前の席で男と司が言い合っている。
「いつもの所だ。他の奴には教えるな」
「取り引きには行くんでしょ」
「そりゃ、もちろんだ」
「解ったわ。この子は病院に運んだ事にしておくわ。どうせ、取り引きが終了すれば、返すと言ってあるから」
「だから、お前は頼りになる」
 男はそこまで言うと、車を発進させた。

 

 車が狭い住宅地でも通っているかのように、幾度も車は速度を弛めては停め、ゆっくりと走り出している。
 男は口笛を吹き始めた。
 この曲何だろうと考えていると、高速にでも乗ったようで、一気に加速して行く。
 どこまで行くのだろう?
 というか、俺、今、何処にいるんだろう?
 まるで、昔のカーナビみたいに、「貴方を見失いました」と言われて途方に暮れてしまうみたいだ。
 んな事考えてる場合じゃない。
 ゆっくりと目を開けると暗かった。
 自分の目がまだ見えてないのかと思ったが、じぃっと目を凝らしていると、車の助手席のシートが見えた。
 暗かったのは、車が闇を走っていたからで、街灯が通り過ぎるとちゃんと透耶の目には光が飛び込んできた。
 男は相変わらず口笛を吹き、音楽に合わせてリズムを取っている。
 呑気な男だ。
 しかし、寝かされている透耶には、男の顔を見る事は出来なかった。
 暫くすると、車が高速を降りた。
 窓から見える景色を見ていると、どうもラブホテル街に入ったらしい。ピンクやオレンジに彩 られたネオンが目に入る。
 すぐにカチカチと音がして、男がホテルに入る為に方向指示器を出したのが解った。
 ビニールの不透明なシートを潜って駐車場に入った。
 車が停まり、エンジン音が切れ、音楽も止まった。
 男が動いたので、透耶はすぐに目を瞑った。
 こういう場所で逃げ出そうにも、周りは助けてくれない。ただの痴話喧嘩と思われるのが関の山。
 男が取り引きに行くと言っているのを思い出して、透耶はそれまで大人しくしていようと決めた。逃げるチャンスはある。
 男が運転席から出て、後部座席を開けた。
 ズッと男が乗り出して、透耶の首に手を回し、引き寄せるようにして抱き起こす。両足を纏めて腕を回し、一気に抱え上げて外へ出た。
 今気が付いたが、透耶には毛布が掛けられていて、怪我をしている頭まで包まれている。これでは誰だか解らないだろう。
 男は透耶の重さなど、何とも感じないらしく、どんどん歩いて行く。
 中へ入ると、受付らしき所で男が言った。
「いつもの部屋、空いてるか?」
「よう、おいおい、犯罪は勘弁だぜ」
 中から顔を出したらしい男が、透耶を見てそう言った。
「大丈夫だ。寝てるだけだよ」
「そうかぁ? まあ、お前が捕まった所で俺は関係ないからな」
「いいから。部屋空いてるか?」
「おお、空いてるぜ。ほらよ」
 透耶を抱きかかえている腕が弛み、チャリと音がして何かを受け取った。
 鍵か。
「サンキュ」
 男は鍵を受け取って、廊下を歩いて行く。
 床は音が響かない様に絨毯が敷き詰められているのだろう、音がまったくしない。
 やがて目的の部屋に到着したのだろう。男が鍵を開けて部屋の中へと進んだ。
 ベッドに近付いて男は透耶を降ろした。
 頭を気遣っているのか、ゆっくりと寝かせると、頭の向きを横へとした。ちょうど左側に傷があるので、そこを上にして頭から被せてあった毛布を取り除いて寝かせた。
 不意に男の手が透耶の頬を触った。
 撫でるようにして、そのまま首筋へ。そしてボタンが外れて見える鎖骨へと手が這って行く。
 透耶は我慢していたが、鳥肌が立ってしまったかもしれない。それくらいに気持ちが悪かった。
 あれだけ鬼柳に言い様にされてきたというのに、他の男に触られるのがこれほど気持ち悪くなるものなのか、と思う程、透耶は嫌で堪らなかった。
 早くその手を退けて欲しかった。
 もう我慢の限界。
 そう思った時に、ふと男の手が離れた。
「ちっ、いいところだってーのによ」
 ブツクサいいながら、ポケットから携帯を取り出した。
「はいはい、野村。何だお前か。俺か? 移動中。……了解、すぐそっちに着くって。心配すんな、金はちゃんと取れると言っただろ。俺の言う通 りにすりゃいいんだよ。じゃあな」
 男は仲間と打ち合わせをすると、何やらがさがさしていたが、またベッドの方へ戻ってきた。
「途中で意識取り戻されても困るしな」
 そう独り言を言って、透耶の腕を持ち上げると、袖を捲り上げ、手元で何かカチャカチャと音をさせている。
 何を?
 透耶が不安に思った時、腕にチクリと痛みがあった。
 何をしてる?!
 ススッと何かが腕の中に入ってくる感覚。
 何か打ったのか!
 全てが終わったのか、針が抜ける感覚があり、男が腕を離した。
「ふ、可愛い顔して寝やがって。俺が帰ってくるまで、そのまま眠っときなよ」
 男はそう言い残すと、部屋を出て行った。
 透耶は暫く目を閉じて、そのままの状態でいたが、まったく物音がしなくなった所で、ゆっくりと目を開けた。
 瞳だけを動かして、部屋の中を見渡して、誰もいない事を確認すると、逃げる為に起き上がろうとした。
「え?」
 声はすんなり出た。
 なのに身体が重く、動きが鈍い。
 ふわり、と身体が浮いている感じがする。
 あいつ、何の薬を打ったんだ!
 半分起き上がった透耶だが、前後左右が解らなくなって、そのままベッドへ倒れこんだ。
「ちくしょー……視点が、定まらな……い」
 身体に力を入れるが、目が回って寝ているのさえも解らなくなっている。
 早く逃げなきゃならないのに。
 透耶は歯軋りして、何とかこの薬の作用から逃れようとしたが、薬は完全に身体中を回って、とても立って逃げるなどという芸当は出来なくなっていた。
 
 鬼柳は、捜査員の情報から、犯人が透耶を監禁しているであろう家を突き止めた。
 鬼柳の予想した捜査方法は功を制した。
 犯人で唯一名前の解らなかった人物が、頻繁に出入りしているコンビニを発見した。
 毎日弁当を五つに、飲料水を大量に買い、ポカリスエットも買っている不審な客。それが似顔絵の男だった。
 それを見せて、ポカリスエットを毎日買っている男に加えて、弁当を4つくらい毎日買う奴と付け足したら、店員はあっさり答えた。
「ああ、そいつ、俺の高校時代の同級生。山田康だよ。よくうちで買い物してくれるけど、弁当なんて珍しくてね。なんでって? あいつ姉ちゃんと暮らしてんだよ。姉ちゃんがご飯作ってのに、友達が来ただけで弁当なんておかしいって思ってたんっすよ。あいつの家に変なヤツラが出入りしているのも見かけたし。ヤバそうとか思ったけど。あいつ、なんかやったんですか?」
 その言葉に、捜査員は色めきたった。
 山田の住所を教えてもらい、ここへ捜査員が訪れた事を秘密にしてもらって、鬼柳を呼び出し、全員を集めた。
 山田の住所の場所へ向かうと、そこは集合住宅地で、山田の家は一軒家だった。
 調べてみると、そこは借家だった。
 車庫には、あの黒の国産車が停まっている。
 ビンゴだ。
 透耶がいるのは、あの家に間違いはない。
 そこへエドワードから連絡があった。
『恭、三沢の女が一人いるのが解った。名前は山田司、28才。父親が叔父さんの会社の役員だったらしいが、不祥事で解雇され、自殺している。どうやら、三沢の右腕はこの女らしいな』
「ビンゴだ。こっちも似顔絵の男が解った。山田康。間違いなく、山田司と姉弟だ。黒の国産車も見付けた」
『ほう、なるほど。そういう繋がりか』
「さて、この姉がどうするつもりなのか解らないが……ちょっと待て」
 鬼柳がそう言って会話を止めた。
 ちょうど山田の家から、男が一人出てきたからだ。
 車の方へ移動している。
「一人か?」
「そうです。尾行に4人付けました」
「どういうことだ? 身代金受け渡しには、最低二人は出るだろう」
「電話指示は、三沢ですよね?」
「そうだろう」
 では、山田康以外に誰が残っている?
 車に乗った山田が、ゆっくりと出掛けて行った。
 尾行の車が後ろからやってきて通り過ぎた。
『鬼柳様……』
 電話の相手が変わっていた。
「エドは?」
『今、身代金の受け渡し方法の電話があり、そこへ向かいました。同じパーキングエリアで、その方向にはレンタカーが停まってまして、一人が外へ出て、もう一人が運転席に乗ってます。田代と戸田です』
「三沢は見当たらないんだな?」
『時間ぎりぎりまで探しました。三沢は現れていません』
「解った。三沢は別の所にいるな」
 つまり、三沢はこの家にはいないということになる。
 田代、戸田が身代金受け渡しに現れたということは、山田が出掛けてしまうと、家に残っているのは司一人ということになる。
「鬼柳様、山田司らしき女が出てきました」
「よし、取り囲め」
「はい!」
 捜査員の男、7人が一斉に飛び出し、軽乗用車に乗ろうとしていた司を4人が、家の中へ3人が入って行った。
 司は少し驚いた顔をしていたが、誰がこういう事をするのか解っているのか、溜息をついて大人しく押さえ付けられていた。
「鬼柳様、中には誰もいません。透耶様もいらっしゃいません!」
 捜査員が外へ出てきて、そう報告した。
 そのとたん、鬼柳の表情が変わった。
 怒気だ。
 捜査員も思わず一歩後ずさってしまう程の圧倒的な気配で、鬼柳は司の胸ぐらを掴んだ。
「きさま、透耶を何処へやった」
「……とおや? あの子、とおやって言うんだ」
「喋りたくなければ、それでもいい。足を折って二度とマトモに歩けない様にして、指も一本ずつ折って、腕も二度と動かない様にしてやる。最後に顎を砕いて……」
 鬼柳は司の顎を右手で掴むと、力を込めた。
「その目も潰してやろう」
 司は覗き込む鬼柳の、何の感情もない瞳を見て、恐怖した。
 この男は、喜びも、怒りも、そんな感情という物など何もないままに、無関心、無感情で、それをやってのけるだろう。
 これは脅しではない。脅しなら、そんな事を言えば、二度と透耶を見つける事は出来なくなる事くらい解るはずだ。
 鬼柳は、透耶にこうした事をした人間を許しはしない。
 それだけ、透耶が大事なのだ。
「……あの子は」
「何だ」
「あの子は、連れて行かれたわ」
「誰が、何処へ」
「何処へなら、解るわ。あたしは今、そこへ行こうとしてたのよ」
「何をしに」
「もちろん、助ける為よ」
「? 何故?」
 そこで初めて、鬼柳の力が弛んだ。瞳には疑問の色が浮かんでいる。
「あの子、あいつに言い様にされるわ」
「三沢か」
「な、何で? 三沢を知ってるの!」
「知られてないとでも思っていたか?」
「……じゃあ、ここへ来たということは、皆知っているってことよね。解ったわ。三沢が戻ってくる前に、あの子を取り戻すわ」
 司は何もかも諦めた顔をしていたが、最後は決意を決めていたから、すぐに言葉が出た。
 始めから、透耶を三沢から取り戻すつもりだった。
 監視されていた時は無理だったが、今なら、三沢は取り引きに出ている。チャンスはいましかない。
 それが解ったのか、鬼柳は振り返って言った。
「おい、富永。車を回せ。この女も連れて行く。三人、ここへ残して、別荘の宝田に応援要請してくれ。10人いりゃあ、嫌でも全員捕まえられる」
「は!」
 捜査員が指示に従って、動き始める。
 鬼柳は司の腕を掴むと、引き摺る様にして歩き出した。
 やってきた車に司を放り込む様にして、鬼柳も乗り込んだ。
「場所は」
「東京方面の高速へ、途中、霜下で降りて。そこにラブホテル街があるから、ヴィーナスというホテルへ」
 司が指示をすると、車は動き始めた。
 この周辺の地理は頭に入っているらしい。
「ラブホテル?」
「三沢の知り合いがホテルの受付をしているの。あたしを連れてきて正解よ。三沢の知り合いじゃなきゃ、あの男は部屋番号を教えてはくれないわ。三沢はいつも同じ部屋を希望するの。でも、その部屋が空いてない時はどうしても聞かないといけないから、貴方達みたいな人が行っても、関係ない部屋へ通 されるか、来たけどもう帰ったとか言われて追い払われるだけよ」
 的確な判断で、鬼柳は驚いた。
 こんな人物が、どうして三沢に協力しているのだろうかと思った。
「なるほど、だが、どうしてだ? 三沢を裏切る?」
 鬼柳がそう聞くと、司は少し視線を下げた。
「……あたしは、始めから三沢がしようとしている事を知っていたわけじゃない。いきなり現れたのよ。それも弟の知り合いとしてね」
「弟は、人質か? 脅されたのか?」
「あたしの過去を、知らせると言って脅したのよ。それは聞かないで。調べれば解る事かもしれないけど、あたしは言いたくない」
 ああ、そうか。この女は過去に捕われているのだ。
 それを三沢は未だに振り回している。言い様に扱っている。
 だが、それで三沢をいい気にさせているのは、この女も少しは三沢を思っているか、忘れていないのだろう。
「解った、聞かない。そんなものには興味はない」
「ありがとう。貴方、あの子の事、好きなのね」
「ああ」
「そう。あの子は幸せね」
 司は初めて穏やかに微笑んだ。

 


 ホテルに着くと、司が先導して中へ入った。
 受付には司だけが顔を出し、男から部屋番号を聞き出して部屋へ向かった。

 中には、入ってきた若いカップルが驚いた顔で、この集団を見ていた。
 女一人に、ごつい男が6人もいれば異様だ。
 ズカズカと進んで、三沢が取った部屋の前に来た。
 ドアをノックする。
 だが、中から反応はなかった。
 ノブを回すが、三沢が鍵をかけて行ったのだろう、ドアは開かなかった。
「ちっ! どけ!」
 鬼柳が言って、司や捜査員が下がった。
「せい!」
 鬼柳が足で思いっきりドアを蹴った。
 普通なら開くわけないドアが、物凄い勢いで開いた。
 見事鍵まで壊れている。
 なんて馬鹿力。
「柔い、ドアだ」
 鬼柳は呟いて中へ入って行った。
 慌てて捜査員も後を追う。
 鬼柳が中へ飛び込むと、ベッドの上に透耶がぐったりとして寝かされていた。うつ伏せで、苦しそうに息をしている。だが、鬼柳は少し安堵した。透耶は生きている。
「透耶!」
 側まで行って透耶の顔を覗き込む。
「透耶?」
 優しく呼び掛けると、透耶はゆっくりと目を開けた。
 何処を見ているのか解らない瞳が、不安そうにキョロキョロとしている。
「透耶……」
「き……りゅう……さん?」
 溜息を吐く様な口調で名前を呼んだが、信じられないという響きもあった。
 本当に鬼柳がきたのだろうか?
 どうしてここが解ったんだろうか?
 これは現実なのか?
 夢?俺は夢を見ているのかな?
 潤んだ瞳に力がこもってきて、鬼柳をしっかりと捕らえた。
「鬼柳……さん……」
 ホッとしたように、微笑んで息を吐いて透耶は呼んだ。
 こんなに安心して、名前を呼ぶ事が出来るとは思わなかった。いるだけで、この人の存在は大きかった。
 助けに来てくれた事が素直に嬉しかった。
「透耶……もう大丈夫だ」
 鬼柳は安堵して、透耶に触れようとしたが、頭を触る寸前で、慌てて手を止めた。
 透耶の頭には包帯が巻かれていたが、血が滲んでいる。
 当然、血はもう止まっていたが、処置したのは数回なのだろう。包帯の替えがなかったのか、どす黒い血が付着している。
 怪我をしてない後頭部をゆっくりと触って、壊れ物を扱うように透耶の額にキスをする。
 その手は透耶の背中に回って、優しく撫でてくる。
 それが心地よくて、透耶はうっとりと目を瞑った。
 何でだろう。
 鬼柳が触ると、そこから癒されている感じがある。
 どうしよう。泣きたくなってきた。
 触れていた鬼柳の手が何かを見付けたのか、強ばったように止まった。
 何だろう?
 目を開けると、鬼柳の視線が違う所を見ている。
「鬼柳……さん?」
 そういうと、鬼柳は透耶の腕を取って引き寄せた。
「透耶、これは何だ? 覚えてないか?」
 鬼柳の切羽詰まった声で、そういえば腕に注射みたいなのされたなあ、呑気に思ってしまう。
 たぶん、さっきあの男がした注射の痕だろうと、透耶は答えた。
「見てない、けど、何か、注射、された」
「注射?」
「うん、気分が、悪く、なって……」
 透耶がそういうと、鬼柳はまだ腕を触っている。
 鬼柳が繁々と腕を見ていたのは、透耶が覚えているだけの注射の痕だけではなかったからだ。
 腕には、数本の注射をした痕があり、その周辺は青くなっているからだった。
 鬼柳が振り返って、司を見た。
「おい、三沢は、ヤクは持ってたか?」
「……解らない。でも鎮痛剤と言って何度か打ってたわ。その後、良く寝てたから、そうなんだと思った」
 司にもそれは解らなかった。ヤクという物を見た事はないし、三沢はそれを匂わす事は何も言っていなかった。
 司の声がしたので、透耶はびっくりした。
「司さん? 何で?」
 どうして司がここにいるんだろう?
 というか、どうやって鬼柳と知り合ったんだ?
 何で一緒に行動してんだ?
 透耶にはさっぱり解らない。
「彼女は、お前を助ける為に協力してくれたんだ」
「そう……なんだ。ありがとう」
「あたしこそ、ごめんね」
「ううん、司さんが……意識ないふり……してって……言ったから、俺……助かったん……だよ」
 透耶はやっと視野に入った司に向かって微笑んだ。
 司がそう言わなければ、確実に自分はあの男に犯されていた。暴れたりしたら、もっと酷い事になっていたはずだ。
 助言がなければ、命だってあったかどうか解らない。
 死ぬのは怖くない。けれど、人に迷惑をかけて心配させたままでは死ぬに死ねない。
「富永、宝田に電話して病院を手配してもらってくれ」
「はい」
 おや?まだ誰かいる。
 視野に入らないが、何人か人がいるのは解る。
 一体どういうことだ?
「手配致しました。病院で宝田様が待機しているとの事です」
「解った」
 そういうと、鬼柳は透耶の身体を楽々と抱き上げた。
 うわ、やっぱり何か違う。
 鬼柳の匂いがする。
 胸に顔を寄せると、その匂いに酔っていきそうだ。
 自分がこの二週間、ずっとこの匂いの中で暮らしていたというのが、何だか凄く嬉しい気がした。どうして、俺はこの腕を、胸を 匂いを離そうとしたのだろう?
 たった4日離れて居ただけなのに、こんなにも懐かしいなんて。
 何で俺は逃げようとしたんだろう?
 ああ、そうか、この人が、俺以外の誰かを同じように抱いているのが許せなかったんだ。俺以外を優しくするのなら、優しくはされたくなった。特別 でいたかったんだ。
 この人の全部が欲しい。
 離したくない。
 意識が朦朧としている透耶は、その時ははっきりとそう思えた。後で冷静に考えれば、それは決して思ってはいけない事だと認識してしまうのだが、こういう時は素直になれた。
 鬼柳の首に手を回して、ぎゅっと抱き締めた。
「ん? どうした?」
 透耶の行動を不思議に思ったのか、鬼柳がそう聞いた。
「ありがとう」
 透耶は助けに来てくれたお礼を言った。
「そんな可愛いこと言うな。今すぐ押し倒すぞ」
 低い声が耳に飛び込んできた。
「……馬鹿」
 もう、この人は、どうしてこういう事を平気でいうかなあ?
 これが本気だから、油断出来ない。
 軽々と抱えられた透耶は、鬼柳の腕の中で恐ろしい光景を見てしまった。
 部屋を出ると、他の部屋から出てきたカップル達が、ドアを開けて、ある者は廊下に出て、透耶達を見ているのだ。
 あれだけ派手な音がすれば、面白い痴話喧嘩が見れると思ったのだろう。だが、出て来たのは、黒服の男達にエスコートされた男である。腕の中には明らかに傷付いた人間。
 おいおいおいおい。
 こりゃいくらなんでも、笑えない状況じゃないか?
 とてもじゃないが恥ずかしくて顔なんか上げてられない透耶。それに比べ、鬼柳は堂々としたもので、エスコートの黒服の男達もまったく表情を崩さずに、二人を取り囲んでいる。
 すぐに、ホテルの従業員まで出てきたが、鬼柳は冷たくあらゆる者を射殺す視線を向けている。
 怖い。こんなに静かに怒っている鬼柳は見た事がない。
「あの、何かあったんでしょうか?」
 この声!あの男の知り合いらしい受付の奴だ。
「三沢が戻ってきたら、伝えとけ。返してもらったとな」
 鬼柳は言って、先を歩き出した。
 エスコートの人達も冷たい視線を向けていた。
「あれ? あの男、三沢って、言うの? 何で、知ってるの?」
 車へ降ろされた時、透耶は鬼柳に聞いていた。
 隣に鬼柳が乗り込んできて、車は発進した。
 だが、鬼柳はちょっと待てと手で制して、何処かへ電話をかけ始めた。
「ああ、俺だ。透耶は無事だ。やつら捕まえてもいいぞ。三沢は絶対に逃すなよ」
 低い声で言う鬼柳。
 三沢、に対してかなり怒りがあるらしい。
 誰と話しているんだろう?
 それにこの人達は何者なわけ?
 警察じゃなさそうだし。
「えっと、透耶、どこまで解ってる?」
 考え込んでいると、鬼柳が聞いてきた。電話は終わったらしい。
「俺が……連れて、いかれた……のは、解ってるけど、うんと、エドワードさん、が身代金を、払うって……」
 透耶は覚えている事を話した。
 どうもまだ口が回らないので、はっきりと言葉が伝えられないでいる。聞き取りにくいが、鬼柳が透耶の言葉を一言一句聞き違える事はない。
「ああ、身代金はエドの所にきたんだが、どうもやつらは最初から透耶を誘拐してエドに身代金を払わせようとしていた」
「は? 何で、そう、なるわけ?」
「たまたま、エドがあそこに訪れたからだろうな。透耶は、あの別荘の持ち主の身内だと思われていたらしい。エドがわざわざ別 荘までくるのは、透耶に会う為であり、透耶はエドとは親しい仲だと思ったんだろう。だから、エドが身代金を出すとみたんだな」
「なんだ、それ?」
 さっぱり意味が解らない。
 なんで、そんな結論になるんだ?
 キョトンと透耶がしていると、鬼柳も頷いた。
「俺も解らん。だが、そう思っているから行動したんだろう。エドは透耶が誘拐されたのは、身代金が欲しいのだろうとは当たりをつけてた。ビンゴって訳だ。取り引きの電話がくるまでに、エドが自分の所の専属捜査員、こいつらな、を呼んで、徹底的に捜査した。ま、詳しい事は省くが、誰が誘拐したのかが解ったわけだ。名前も経歴も何もかもな。俺がそいつらのアジトへ行った時には、あの女しか残ってなかったから、捕まえて透耶の場所へ案内してもらったわけだ」
「なるほど……」
 警察顔負けの捜査だ。
 普通、あの状況で、そこまで解るものなのか?
 おいおい、そのエドワードの組織って凄いんじゃあ?
 これじゃ、警察を相手にするよりタチが悪い。
「とにかく、透耶が無事でよかった……」
 やっとにこりと笑って、鬼柳は透耶の肩を撫でた。
 うん、と言おうとしたが、言葉は出なかった。
 驚きで意識を保っていた透耶は、そこで緊張の糸が切れた。そのままゆっくりと身体の力が抜けて、鬼柳の胸に倒れた。



 透耶が次に目を覚ました時、そこは白い天井が見えた。
 暫く、瞬きをし、じっと考えた。
 ここは何処だ?
 俺、どうなったっけ?
 鬼柳さんは、どこだ?
 あれ、そもそも鬼柳さんは来たんだっけ?
 腕を動かそうとしたら、腕に少し痛みがあった。
 斜め下を見ると、自分の腕が見え、その腕に点滴らしいチューブと針を刺して固定しているテープが見えた。
 ああ、そっか、病院かあ。
 こんな装備なのは、病院しかない。
 あーもー、また身体が動かないし。
 起き上がろうにも身体が言う事を利かない。
 透耶は、点滴をしていない腕を動かそうとして、腕が何かで縛られている事に気が付いた。
 おおお、これは拘束具だ。
 暴れる人を固定する為に、ベッドに付けられている物だ。手首にがっしりと巻き付いている。当然、身体にも巻き付いている感覚がはっきりとしてきた。もちろん、足も動かない。
 完全に身体の動きを固定されているのだ。
 はあ、俺、何かやったのかなあ?
「……透耶? 目が覚めたか?」
 凄く心配した声が横から聴こえた。
 顔を横にすると、そこに鬼柳がいた。
 すぐ側のソファに座っていたらしく、立ち上がって側までやってきた。
「鬼柳さん、俺、何かやったの?」
 少し掠れた声で透耶が尋ねると、鬼柳の顔が近付いてきた。
 はあ?何だ?と思っている間に、まんまとかすめ取る様に鬼柳の唇が透耶の唇を奪った。
 もちろん、透耶にはそれを止める術はない。なんたって、今は身体を拘束されている、まさにまな板の上の鯉状態。
 チャンスっていえば、チャンスだよなあ。
 動けない以上、甘んじてそれを受けるしかない訳で。
 軽く触れる程度のキスが、額、鼻梁、頬、くすぐったくて伏せた目蓋と、これでもか!という風に降ってくる。
 本当にくすぐったくて、透耶は身を捩って笑う。
「やだよ、鬼柳さん、くすぐったい」
 抗議した口の端を最後にして、鬼柳のキスが止まった。
「My God Almighty ! Thank you very much..」(ありとあらゆる神々に感謝します)
 鬼柳がいきなり英語でそう言った。
「え?」
 透耶は、早口でまったく聞き取れなかった。
「おはよう、透耶」
 見上げると、鬼柳が満面の笑みで見つめている。
 透耶はそれを見ると、思わず笑みが零れる。
「おはよう、鬼柳さん」
「どうだ? 気分は?」
 鬼柳はそう言って、今度は手で透耶の頬を摩っている。
「うーん、前よりいいかも。少しだるいけど。ねえ、俺、何かやったの?」
「何で?」
 あーちくしょー。また何で?だよ。
 こういう時の鬼柳は甘えている証拠だ。こうなると、屁理屈とか馬鹿な答えしか返って来ないんだよな。
「だって、これ、拘束具じゃん。こういうのって確か暴れる人とかにやるんでしょ? え? 俺暴れたの?」
 ちょっと待てよ。拘束されているということは俺が暴れたって事だよな。何で俺暴れたんだ?
 不安になって鬼柳を見つめると、鬼柳の少し考えるような顔。
 そんな深刻なことなのか?
「んー、言わなきゃ駄目?」
「何で言いたくないのさ。俺の事だろ」
 そんなに言いたくないような事で、俺は暴れたのか?
 じっと二人で見つめ合って、数分。先に折れたのは鬼柳の方だった。溜息を吐き、頭を掻いて、どうしても言いたくないけど仕方がないというふうに口を開いた。
「透耶」
「ん?」
「ほら、三沢に注射されたと言ってただろう」
「ああ、あれ?」
「うん、あれの中身がさ、鎮痛剤だって言ってたけど、実はそうじゃなかったんだ」
 何とも端切れの悪い言い方だ。
 鬼柳は、こんな言い方をする事はない。
「え? 何だったの?」
「ヘロイン」
 全然、思いもしなかった答えだ。
 あの注射の中身はヘロインだったって?
 透耶は呆けた顔になって、聞いた。
「……マジ?」
「マジ。……三沢は、純度が良すぎる程のヘロインを所持してた。あれは、遣い用に寄っては、鎮痛剤のように痛みも消してしまう。だから、三沢は使ったようだ。しかしな、量 が問題だった。ああいうのは適量ってのがあるんだが、奴は何を考えてたのか、通 常の二倍を毎回使いやがった。だから透耶は急性になってな、禁断症状が出て暴れてたんだよ」
「うわああ、俺、ヤク中!」
「いや、もう薬は抜けてるよ。よく頑張った」
「頑張ったって、何を?」
「禁断症状とだよ。酷かったんだ。可哀相で、変わってやりたかった。でも透耶は闘ってるから、俺はちゃんと見てなきゃと思った」
 鬼柳は透耶の胸に顔を埋めて瞳を閉じた。
「ごめん……」
 何故か鬼柳の方が謝った。
「どうして、鬼柳さんが謝ってるの?」
「俺が透耶の側を離れたから」
「馬鹿だなあ。こんな事なんて滅多にない事だよ。たまたま起った事。鬼柳さんが気にすることないよ」
「ん……でも、ごめん」
 それでも鬼柳は謝ってくる。
 うーん、これは物凄く心配をかけてしまったんだな。 
 何だか、鬼柳を安心させる為には、頭でも何でも、触ってあげるべきなんだろう。しかし、拘束されたままの透耶では、それが出来る訳でもなく。
 こう、無性に撫でて上げたい時に限って、自分の身体が自由にならないなんて、もどかしくて腹が立ってくる。
 頭を上げると、鬼柳はまだ同じ体制のままだ。
 まるで透耶の鼓動を確認しているかのようで、それで安心しているかのようだ。
 どうして、鬼柳はこんなに自分の事をこんなに思ってくれるのだろう?
 こういう時、なんて言葉をかければいいんだろう?
 鬼柳の為に何か出来る事があるんだろうか?
 俺が側にいてもいいんだろうか?
 この人は一体何を願ってる?
 そう思っていると、幸せの中にいる自分が不安になった。
 俺には想って貰う資格はない。俺は駄目なんだ。
「どうしてそんなに優しいの? 俺何も出来ないのに……。鬼柳さんにはもっと相応しい人がいるのに……」
「え?」
 変な事を言い出した透耶を、不思議な顔をして鬼柳が顔を上げて見た。
 いきなりこんな事を言うつもりはなかったが、透耶は止まらなかった。
「どうしたいの? 俺をどうしたいの? 何が望みなの? 何が願いなの?」
「透耶?」
「俺じゃなくても、他の誰かでも、代わりは沢山いるんでしょ? だったら何で優しくするんだよ。何で抱くんだよ。何で好きだなんて言うんだよ……。俺は駄 目なんだよ……」
 透耶は言って、顔を覆ってしまいたかった。
 とてもじゃないが、鬼柳の顔を見てられなかった。
 自分でも何を言っているのか解らなかった。
 俺はどうしたいんだ?
 俺はどういって貰いたいんだ?
 俺こそ、何を望んでるんだ?
 馬鹿だ、俺は自分が答えられない事を聞いている。
 俺はズルイ、卑怯だ。
 俺には答えられる言葉は一つしかないのに……。
「透耶……泣いてるのか?」
 明らかに動揺した声で鬼柳は言って、そっと透耶の頬へ手を当てた。
 透耶ははっとした。
 何で俺は泣いてるんだ?
「どうして泣くんだ?」 
「……ご、めん」
「もしかして、ずっとそれ考えてた? エドにそういう事言われた? 言わなかったっけ? 俺、透耶が質問したら何でも答えるって」
 鬼柳は少し上機嫌なのか、優しい声で言って、透耶の顔を自分の方へ向けると、涙をキスで吸い取っていく。
 それが終わると、頬を合わせて擦り寄ってくる。
 なんだか、嬉しそうだ。
「優しくするのは、透耶が笑ってくれるから。透耶は何もしなくていい、いてくれるだけでいい。俺は透耶が欲しい、全部欲しい。誰にも渡したくない。透耶がずっと一緒にいてくれる事。他に代わりなんて居ない。他なんていらない。抱くのは抱きたいから、抱いて温もりを感じたい。好きだから好きだっていう、他の奴に言った事はない、透耶にだけだ、透耶への言葉だよ」
 全部に一気に答える鬼柳。
 もはや、どの質問に答えているのか解らない。
 ただ、全てが透耶の為。
 他の誰でもない、ただ一人の為の言葉。
「一つ解らない。俺に相応しいって何それ?」
 全部の質問に答えるつもりの鬼柳は、それだけは訳が解らないと声を落として聞いた。
「……何って」
「俺はただ透耶が好きなだけだよ。俺がいいと思ったら、それでいいんじゃないのか? 誰かに認めて貰わないと好きになっちゃいけないのか? 俺が俺の思うままでいて何が悪い。誰が何を言ったって知ったこっちゃない」
 鬼柳ははっきりと言った。
 ここまで真剣に自分の事を話す鬼柳は珍しい。
 確かに欲望のままに言葉を吐く人ではあるけど、自分の考えを言うのは珍しい。
 だが、鬼柳は聞かれなきゃ答えないだろう。
 けれど返ってきた言葉は本物で、透耶には嬉しいものだった。ストレートに解る言葉で、素直に真剣に本気で答えてくれる、そんな鬼柳がとても大事に思えた。
 だけど透耶は、鬼柳みたいに好きだとか、欲しいとか、そういう事は思わなかった。
 言えない。
 自分にそんな資格があるとは思えなかった。
 鬼柳みたいに自信を持って、はっきりと言葉にする事はまだ出来なかった。
 いや、それはしてはいけない事だった。
「透耶は心配性だなあ」
 クスクス笑いながら、鬼柳が頬を撫でている。
 見上げると満面の笑顔でそう言った。
「は?」
「それってやっぱ、嫉妬だろ?」
 ニヤリと口の端を上げて、いたずらっぽく笑う。
 透耶は眉を顰める。
「はあ?」
「俺が浮気してないかって心配な訳だろ?」
「なーんでそうなるの?!」
 怒って起き上がろうとした透耶だが、もちろん動けない。
 あー、ちくしょー、誰か拘束解いてくれ。
 こいつ、一発殴りたい。
 馬鹿で余計な事を言い出す前に、口を塞がないと!
「泣く程、俺のこと考えてる訳だよな」
「う……」
 自業自得とはいえ、言ってしまったのだからもう遅い。
 確かに、透耶は泣く程考えていた事だ。
 だが、口が裂けても、離したくないと思った事や、今の答えを嬉しく思って、また泣きそうになったとか、絶対に言わないと透耶は心に誓う。
 鬼柳を見ると、目がイッている。
 やばい、これは。
「ちくしょー、今すぐやりてえ」
 あーもー出た!
 しかも今透耶は拘束されていて、絶体絶命だ。
 冗談じゃない!
「お、落ち着こう、鬼柳さん。ここは病院で、俺は病人!」
「いつもと違うシチュエーションってのも」
 鬼柳はそう言いながら、身体を縛っている拘束を外そうとしている。ただ腕と足の方のは外そうという気はないらしい。
「うわああ、駄目! あー俺、もう駄目かもー」
 透耶はわざとらしく、ぐったりしてみるが、効果はなさそうだ。
「大丈夫、俺が看病してやる」
「大丈夫じゃない!」
「俺、一週間も透耶の中に入ってない。もう我慢出来ない」
 胸の拘束は外し終わっている。
 病院着である、着物みたいな服の隙間から手を忍ばせてきて肌を撫でていく。透耶を優しく撫で、胸をはだけさせると鬼柳の顔が胸に落ちてくる。口付けると強く吸ってくる。
 わざとキスマークをつけて、それを舌で舐める。
「……あ」
 一週間も離れていたこの感覚。身体を走る熱い快感。
 透耶の素早い反応に、鬼柳は満足している。
 大丈夫、誰も触ってない。
 首筋につけた印は、既に消えてしまっていた。透耶は気付いてないが、あれは所有者である自分の印だった。
 まるで食らい付くすように、鬼柳は首筋を噛んだ。
 透耶はそこが感じるらしく、身体を反らして耐える。
 いい反応だ。
「いいな、この拘束された姿。いやらしい……。そそる」
 病院着が胸の部分だけはだけ、両手両足は拘束具で固定され身動きが出来ない。与える熱に反応して身体を熱くして悶える姿は、官能的だ。
 見てるだけで、声が少し聞けるだけで、指が動くだけで、目蓋が瞬きするだけで、こんなにも欲しくなるのは初めてだった。
 すっかり痩せてしまった透耶の身体を撫でていると、透耶が抗議の声を上げた。
「ぜ、絶対駄目! こんな所じゃ、今は駄目だってば!」
 混乱している透耶は、時々結局自分を追い詰める事言う。鬼柳はチャンスと、ニヤリとしたい顔を押さえて、真面 目な顔で更に追い詰める。
「じゃあ、いつならいい? 今やりたいのに」
「た、退院したら!」
「退院?」
「そ、そう!」
「そしたらやってもいい?」
「う、うん、好きにしていいから! 今は落ち着いて!」
「好きにしていい……? 解った」
 鬼柳はその言葉を聞いて、やっと納得した様に透耶から身体を離した。
 ほっと息を吐いた透耶だが、自分の発言に不安を感じた。
 おい、俺、今、とんでもない事言わなかったか?
 そっと鬼柳を見ると、上機嫌で透耶の乱れた服を元に戻している。
 あああ、今のは言葉のあやです……なんてきっとあの特別仕様の耳には届かないんだろうな……。
 とりあえず、退院までの身の安全は保証されたが、その後の保障はないに等しい。
 そうしていると、部屋のドアがノックされて、部屋に誰か入ってきた。
 そこに現れたのは、エドワードだった。
 初めて会った時の様に、完璧な美貌に立ち姿、隣で一緒に入ってきた看護婦が、頬を赤らめて目を潤ませてエドワードを見ていた。
 うわ、一難去ってまた一難ってこんな状況?
「やあ、透耶。気分はどうだい?」
 エドワードはそう言って近付いてきて、鬼柳とは反対側から透耶を見下ろしている。
「え、はあ、まあ、いい方です。心配かけてすみませんでした。あの、お金とか、いろいろすみません」
 なんて謝っていいのか解らない透耶がしどろもどろになっていると、エドワードはふわりと笑って言った。
「いや、君が無事ならそれでいい」
「ありがとうございます」
 そう礼を言うと、エドワードはとたんに意地悪な顔になった。
「君がいなくなった後の恭ときたら、とても尋常ではなかったよ。暴れるわ、物は壊すわ」
 それを聞くと、鬼柳が怒鳴った。
「Oh. shut up. Going back to the beginning. YOU are to blame for everything!」(やかましい、元を辿れば、全部お前が悪い)
 エドワードに怒鳴る時は、どうしても英語になるらしい。
「Hey. I am not the only one.Well. I felt a bit of guilty. so I helped you out. didn’t I?  」(私だけが悪い訳ではないだろう。まあ、少しは悪いと思ったから、こうやって協力したじゃないか)
 頭の上で英会話を続けられると、すごく置いていかれた気がする透耶。これは英会話勉強した方がいいんだろうか?などと真剣に考えてしまった。
「Anyway. I gave the ransom back to Takarada. Was it OK?」(そうそう、身代金は宝田に返しておいたぞ。それで良かったんだな?)
「……」
 初めて鬼柳が大人しく頷いた。
「Kyo. I’ll let you use another villa instead. since the police investigate this one. I’m going back to the States. so there will be no interference for a while. If you need. I can leave some of my men. What do you say?(恭、あの別 荘は警察が入ることになったから、代わりに私の別荘を貸してやろう。私もアメリカへ帰るから、邪魔は暫く入らないだろう。もし入り用なら、エスコートを数人置いて行くが、どうする?)」
「I will use your villa to compensate for this. I don’t want your men.(弁償として別 荘は借りるが、エスコートはいらない)」
「If something happens in the future. can you defend him from any danger? And when you stay in any villa. you must watch out its surroundings.The rich need to be precautious all the time. Take at least 2 of them. You can use them as chauffeur.To be honest with you. it is not you that I care about. I care about him.Don’t worry. their room is just next to the entrance. so they won’t disturb you at all.Give way to me this time.(次、何かあった時、お前は彼を守りきれるのか? それに別荘を使うなら、回りを注意しなくてはならない。金持ちはいつだって危ないんだ。せめて、二人は連れて行け。運転手にでも使ってくれて構わない。お前が心配なんじゃない。彼が心配なんだよ。大丈夫、エスコート用の部屋は屋敷の入り口にあるから、お邪魔はしない。今回は折れてくれ)」
 ここの部分の英語はもちろん解らなかったが、エドワードの必死な頼みである事は、表情から伺えた。
 透耶が両方を見比べていると、ふと鬼柳が透耶を見た。
「ん? 何?」
 透耶は自分に話が振られたのかと思ったが、鬼柳は特に何を言うでもなく、じっと見つめてくる。小首を傾げて、何を考えているのだろうと見つめ返すと、鬼柳ははあっと溜息を吐いた。 
「OK. OK. You are right. But only when we stay there. Thanks a lot.」(分かったよ。別 荘にいる間だけだ。悪かった、感謝している。)
 まさか鬼柳の口から感謝の言葉が出てくるとは思っていなかったエドワードは驚いてしまった。そっぽを向いてしまった鬼柳は明らかに照れている。
 面白い顔を見れたものだ。
 鬼柳がこういう風になったのは、透耶のお陰なのだろう。
「透耶、君と少し話をしてもいいかい?」
 いきなりエドワードがそう言い出した。
「え? 俺とですか?」
 一体何の話だろう?
 キョトンとしている透耶。しかし鬼柳が邪魔をする。
「Leave immediately. Ed.(さっさとアメリカへ帰れ)」
「I’m not talking to you. I’m asking Toya.(お前と話しているのではない。透耶に聞いているんだ)」
「He doesn’t have his say.(透耶には話しはない)」
「Kyo. I’m saying I’m not talking to you.(お前に聞いてないと言っている)」
 このままでは収拾はつきそうもない。
 頭の上でまた英会話の喧嘩が始まって、どうも鬼柳のいけない単語が飛び出した所で透耶は溜息をついて止める事にした。
 エドワードも透耶と話をするまで帰るつもりはないらしい気配があったからだ。
 透耶は、やっと看護婦に拘束具と点滴を外して貰って、身体が自由になると、起き上がって言った。
「鬼柳さん」
 透耶が呼ぶと鬼柳が下を向いた。
「うるさいよ、ここは病院」
「透耶」
 言い訳しようとしている鬼柳に、透耶はにっこりとして言い放った。
「エドワードさんと話するから、ちょっと出ていってて」
 さすがの鬼柳もこれには逆らえない。
 渋々、未練たらたらで、最後には苦笑する看護婦に連れ去られた。
「When Toya is in his sight. he is amenable. which is good. 」(透耶がいる時は素直で宜しい。)
 なんてエドワードが言うものだから、鬼柳の視線が恐ろしいくらいに突き刺さる。
「はははは、すっかり骨抜きなんだな」
 鬼柳が出て行くと、エドワードがそう言った。
「そうなんですよね……何で俺なのか解らないけど。俺は駄目だって言ったんですけどねえ、意味は伝わってないと思います」
 苦笑して透耶が言うと、エドワードは側にあった椅子に腰をかけた。
「恭は優しいだろう」
「ええ。俺はたぶん甘やかされてると思います」
「そう思うか。そうだな。恭は、誰にも優しくはない。たぶん君だから優しくするんだろう。何故なのか、なんてのは私には解らないが、解るのは、君が逃げたとして、世界の果 てまでも追って行く事は間違いないといえる。そしてそれに手を貸したりしたら、確実に殺されるって事だ」
 笑えない言葉だ。
 透耶は少し考えて、正直に自分の気持ちをエドワードに話そうと思った。何故だか、エドワードにそういう事を相談するべきではないだろうが、鬼柳の事を知っている人に、そしてそれを心配して気にしてくれている人に話さなければいけない様な気がした。
 鬼柳には言えないから。
「……俺は、鬼柳さんにそんなに思ってもらうほど、鬼柳さんを思ってないんです。もし鬼柳さんが去ってしまったとしたら、俺は鬼柳さんのようには追わない、そこで諦めてしまえるくらいにしか思ってないんです。こう、俺って人に対して興味があんまりないというか、関わらないようにしてきたんですけど、鬼柳さんは何か気になるんですよ。その意味は知りたいです。でも、鬼柳さんのように好きなる事はしない、出来ない。凄く怖いんです」
 なんだか、支離滅裂な言い分だ。
 透耶の言葉は、鬼柳を好きだと言っているようなもので、これを鬼柳が聞けば、飛び上がって喜ぶだろう内容だ。だが、エドワードは解っていた。これが日本人としての複雑な、そして深刻な悩みなのだろう。
 たぶん、誰も好きになった事のない人間。
 好きだと口には出せるのに、その好きが違う。鬼柳への言葉にするには、軽々しくて使えないと考えているという事にもなる。強く思われている自覚があるだけに、それに見合った思いでいなければならない、答えを出さなければならないと考えなのだろう。
 ただ、好きにならない。その言葉がどれだけ深い意味を持つのかはエドワードにも解らなかった。
「つまり、今はまだ答えが出せない、という事だね」
「……答えは決まってます」
「ほう。では何と言う?」
「思いには答えられない。答えてはいけない……」
 透耶は頑なにそう言い切った。
「何がそんなに君を縛っているんだ?」
「俺は、いえ、俺達は呪われている、だから駄目なんです。鬼柳さんを死なせたくはない。なのに俺、側に居たい」
 結論は出ている、なのに側に居たい。矛盾した答え。
 エドワードは呪いが気になったが透耶は話してはくれないだろう。こうして悩んでいるということは、透耶はまだ鬼柳にもそれを話してはいない。
「では、その呪われているという話を恭にするといい。それで恭が納得すればそれで側を離れられる。それまでは恭の側にいてやってくれ。今すぐ呪われるという話ではなさそうだしな」
 エドワードはそう透耶に頼んだ。
「エドワードさん?」
「そういうのはよく解らないが、恭が自由でいる間だけでも一緒にいてやってくれると嬉しい。あいつにも闇はある。誰にも触れない所がある。もし、少しでも恭を思ってくれるなら、癒しになってやって欲しい。ただ逃げるのではなく、透耶も自分を見つめた方がいいのではないか?」
「……そう、でしょうか?」
「それでも駄目だと言うなら、前に約束したように、私が何とかしよう」
「本当ですか?」
「ただし、もう少し恭といてやってくれ。それと恭を納得させる事。これが条件だ」
「……解りました。すみません。変な事言って」
 真剣にすまないと思って謝っている透耶に、思わず笑みが零れてしまうエドワード。
「いやいや、君が思ったよりも真剣に考えてくれていて良かったよ。前みたいにただ逃げたいと思っているだけだったら、私は容赦なく、君と恭の間を完全に切り裂く手筈を整えていたからね」
 さらっと手筈の話しをされて、透耶は思わず聞いてしまった。もともと、自分が頼んでいた事だ。
「ちなみに、その手段って……」
「暗殺、もちろん恭の知らない場所で、でも納得させる為に遺体は見せるようにして……って冗談だよ」
 にっこり笑ってそんな台詞を言われれば、冗談には聴こえない。透耶は驚いた顔をしてエドワードを見つめていた。
 すると、クスクスとエドワードが笑い出した。
 そんな冗談を言われて、透耶は溜息を吐いた。
「……それでも良かったかもしれませんね」
 そんな言葉が返ってきたので、エドワードの方が驚いてしまった。そんなに呪いは重要な事なのだろうか?そう思ってしまった。
「悪い、悪い。透耶が可愛いから、つい意地悪したくなったんだ。謝るから、親愛のキスをさせてくれ」
「え?」
 と、透耶が思った時は、もう既にエドワードのキスが頬へ落ちていた。
 こういう時って、やっぱ、タイミングがいいというか、勘がいいというか、鼻が効くというか……。
「きーさーまー!!」
 地の底から響いてくる様な唸り声を出して、鬼柳が仁王立ちをしていた。
 さっきまでのシリアスは何処へ?
 透耶はこういう鬼柳の状況を見るだけで、違うピンチになっている事を悟った。
 エドワードさーん、俺をピンチにしないでくださいよおー!
 透耶はとてもじゃないが見ていられないし、エドワードがどうなっても知ったこっちゃないと思った。自業自得だ!
「Go away!」(出て行け)
 鬼柳は腕を振り上げて、出口を指差している。
「透耶、ゆっくり治して、元気に退院してくれ。ここの事や、入院費の事は心配しなくてもいい。僅かばかりの謝礼だ。約束は守ってくれよ」
 エドワードは鬼柳を完全に無視して透耶に話し掛ける。
 だーかーら、そういう意地悪はやめてくれない?
 そこまで思ってはっとした。
 クルリと部屋を見回すと、ここは普通の病室ではなかった。それも一人部屋でもない。いわゆる、VIP室というやつだ。 道理で、鬼柳がソファに座ってたわけだ。
 調度品は豪華、部屋は病室には見えない雰囲気。病院だと認識するには、透耶の周りに設置された点滴やら心電図、そうしたものだ。
 VIP室って、一泊いくらだ?
 なんて透耶が思っていると、エドワードがちょうど立ち上がった所だった。
「じゃあ、また会おう」
 そう言われたので、透耶は笑って頷いた。
「ありがとうございました」
 たぶん、ここの代金とかを世話して貰う訳にはいかないと言っても聞いてくれないだろうし、それに今は払えないから、透耶は素直にお礼だけでも言っておいた。
 だが、鬼柳は怒っている。
「二度と会うな、会わせない、来るな、帰れ」
 これでもかっていう拒否。
 エドワードは苦笑しながら帰って行った。
 エドワードは、絶対わざと鬼柳を怒らせて楽しんでるんだ。
 などと、透耶が思っていると痛い視線が突き刺さっている。
「な、何?」
 透耶が見上げると鬼柳が無表情で見ている。
「何でキスさせるんだ」
「い、いや、あれは、親愛のであって」
「親愛だあ? んなもんなくていい」
「仕方ないだろ、いきなりだったんだから」
「避けろ」
「無理」
「無理じゃない」
「ああもう、どうすればいいんだよ」
 こういう事を言ってはいけないと、今更ながらに思ったのだが、もう遅い。待ってましたとばかりに、鬼柳は要求してきた。
「透耶からのキス。もちろん唇」
「……げ」
「じゃなきゃ、犯す」
「約束が違う……」
「浮気をするからだ」
「浮気じゃない」
「浮気だ」
「違う」
「じゃあ、証明すればいいだろ」
 ちくしょー、何で俺からキスしなきゃなんないんだよ。
 だけど、このまま押問答しても勝てそうにもないし。大体、浮気ってなんだ?何で浮気なんだ? ああ、だけど、こいつ平気で約束破りそうだし。やる気満々だ。大体、エドワードさんが悪い。あの人、絶対意地悪したんだ。あのタイミングであれは絶対狙ったんだ。まあ、俺への嫌がらせではなく、鬼柳さんへの嫌がらせだろうけど。そこに何で俺を挟むかなあ。
 はあ、俺が折れるしかないのか?
 透耶、ここで犯されるよりはマシだと思え。
「解った。キスすればいいんだろ。さあ、こっち来いよ」
 覚悟を決めて透耶がそう言うと、鬼柳は真剣な顔をして寄ってきた。
 椅子に座って、身体を乗り出している。
 透耶も身体の向きを変えて、鬼柳と向き合う。
 視線が合うと、ドギマギしてきた。
「……目を、瞑って」
 透耶が言うと鬼柳は何も言わず、そのまま目を閉じた。
 丁度、鬼柳の方が椅子に座っているから、ベッドに座っている透耶からだと下になる。
 上から鬼柳を見る事など殆どないから、すごく面白いと透耶は思った。
 鬼柳の頬に手を当てて、上から唇を合わせる。
 どういうキスが望みなのかは知らないが、触れるだけでもいいだろうと、すぐに離れようとした。
 なーんて思ってた俺は甘いんだろうね。これで済む訳ないよね。
 ガシッと透耶の項に鬼柳の手が、いつの間にか忍んでいて、唇が離れそうになった時、押さえ付けて唇が離れないように固定したのだ。
「……な!」
 約束が違う!と抗議したかったのだが、透耶が口を開いた隙を狙って、鬼柳が唇に深く食らい付き、貪るようにして舌を入れてきた。
「んー……」
 舌で陵辱されて、透耶の頭の中は真っ白になる。
 侵入した舌を受け入れ、更に求めて動き回る。
 息が出来ない程の深いキス。
 やっと鬼柳が離れた時には、透耶は上体を起こしている事が出来なくなっていた。
 それもそのはず。
「やば……病人にはきつすぎた……」
 抱き取った透耶は気を失っていたからだ。
 もちろん、この事で透耶が後で盛大に怒ったのは言うまでもない。