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switch13

「お決まりになられましたか?」
 そう言ったのは宝田(たからだ)という老年の男性。
「あ、待って下さい」
「待てって」
 透耶と鬼柳が同時にそう言った。
 ここは東京。
 現在、家を見学中である。
 沖縄から東京へ戻った空港へ、出迎えをしてくれたのが、鬼柳家の執事で、現在東京の鬼柳家の家々の管理を任されている宝田だった。
 まあ、その管理自体はあくまで口実で、実は鬼柳の事を気にしている鬼柳の父親から送り込まれた監視役らしい。
 鬼柳の方はそれが解っているのだが、無下にも出来ないでいる。
 さすがに産まれた時から鬼柳を面倒見てきた宝田を邪険には出来ない鬼柳である。
 その宝田は、今回、家探しと手伝う事になっていた。
 鬼柳がそういうのに詳しいのは宝田くらいしか思い付かなかったのもある。
 透耶の方は、財産管理人である西尾が同行してきていた。
 西尾は、まだ若い男性であるが、父親譲りの頑固さで、管理は徹底している。もちろん、家を買えば国に申請をしなければらないので、何を買ったのかをチェックしにきているのだ。


「透耶、やっぱ、こっちでいいと思うぞ。さっきのは防音付けなきゃならないから工事に時間がかかるし」
 鬼柳はそう言ってくるが透耶は納得しない。
「でもさ、こっちじゃ地下が暗くないよ。暗室、どうするのさ」
 そう言って部屋の中を見回っている。
「普通の家に暗室なんてもんはないんだぞ。それに最近の家は地下も明るいんだって言ってただろ? だから、こっちのバスルームはいらないから、十分暗室は作れる」
 鬼柳は透耶が覗いていたバスルームを指さしてそう言い切った。透耶はそれが信じられないという顔をして振り返る。
「そんな安易なものでいいの?」
 どうも透耶は本格的な暗室のイメージがあるらしくそれが頭の中にあって、納得できないらしい。
「あのな。俺の家の暗室は洗面所だったぞ。普通はそういうもんだ。バスルームなら、バスタブはずしゃスペースも出来る」
 鬼柳はピアノを弾く部屋が重要で、透耶は鬼柳のカメラの為の暗室が必要だと思っている。
 そういう訳で、何処へ回っても双方が双方の事で譲らないから話が進まない。
 不動産屋は、億物件を即決で買ってくれる上客を逃してなるものかと必死に説明を繰り返す。
 ピアノなら防音がしっかりしているし、防音の工事などは時間はかかるが、暗室ならそれ様に3日で工事させるなど、サービス満点でアピールしてくる。
 それならいいやと透耶が納得したのは、内装工事やらの見積もりを出して、鬼柳が十分過ぎる設備だと言ってからだった。
 不動産売買の契約をして、その家は透耶達のものになった。


「さて、家具の買い物もしなきゃな」
 鬼柳がそう言ったので、何軒も輸入家具屋を回った。
 こういう事には透耶は疎かったので、ダイニングテーブルやソファなど、キッチン周りは鬼柳任せ。
 確かにいい物を選ぶのだから、透耶が反対する理由もない。
 鬼柳は家中の物を全て新しく買い揃えるつもりらしく、意欲的に動き回って説明を聞きまくる。
 売る側も上客であるから、熱心なものである。
「透耶様は何か御希望はありませんか?」
 そう聞いてきたのは宝田。
 透耶は苦笑して答えた。
「俺は特にないです。こういうのは疎いんですよねえ。よく解らないですし。それに恭があんなに嬉しそうに選んでますから、いいの選んでくれるって解ってます」
 そう答えた透耶を宝田は驚いた顔をして見た。
 鬼柳はいつもの無愛想な顔で品物を選んでいる。それを見て楽しそうな顔をしていると言えるのは、鬼柳を良く知っている人物しかいない。
「あれで解りますか……なるほど」 
 それだけで宝田は納得してしまった。
 透耶は自分の物に対して執着はあまりない。仕事をしている時に必要な物にはこだわりはあるが、生活面 にはまったくない。鬼柳の方は、透耶と一緒だという思いがあるのだろう、いつになく真剣で、こだわって品を選んでいる。
 家の家具をあらかた選んで、日用品までに及ぶ。
 タオル類に、洗剤類、身の回り品は膨大な量になる。全てを配達扱いにした。これだけ揃えるにはデパートの上から下まで案内付きでの買い物だ。
 三日かけて全部を揃えた。足りない物は買い足していくとしても、鬼柳の徹底した買い物リストで、殆ど漏れはないはずだ。


「凄いねえ。一から揃えると、こんなにかかるんだあ」
 買い物リストを見ていた透耶が感想を洩らした。
 場所はコーヒー専門店。
 透耶が呑気に感想を洩らしている前では、宝田と西尾が双方が払う金額を計算して分担を決めている。
 鬼柳が全額出すといっても透耶が聞く訳もなく、結局、透耶が先にクレジットで払って、総額を出して、半分を鬼柳から貰うという話し合いになっていた。
 鬼柳が先に払うと絶対に受け取らなくなるからだ。しかし、透耶も受け取らない可能性があるので、ここは二人が口出しをせずに、双方の管理人に任せる事で落ち着いた。
「ん、まあ、これくらいの出費はあるだろうとは思ったが意外に多いもんだな」
 鬼柳も思わずそう言ってしまった。
 だが、歯ブラシやお箸などは、持っているから要らないと透耶が言っても「お揃いにしたい」という鬼柳に押し切られた。
 まったく、恋愛初心者によくある光景だ。
 荷物引き受けや工事などの管理は、何故か宝田が全部引き受けてしまった。今や、二人の家の執事である。
「透耶さあ。指輪とかする?」
 不意にそんな事を言われて透耶が鬼柳を見ると、鬼柳が透耶の手を取って指を触り始める。とはいえ、これもいつも鬼柳がやる事なので透耶は気にしない。
「しないなあ。何か違和感あるし、ピアノ弾くのには邪魔だしねえ。外したらすぐ無くすし。恭はするの?」
「いや。カメラするのに邪魔だからな。無駄に当たって傷が付く。殴るのにはいいらしいがな」
「それは言うねえ。で、いきなり何な訳?」
 透耶はキョトンとして、鬼柳を見る。
 一体何が言いたいんだろう?という感じだ。
「ん。ここに印を送ろうかと思ったんだけど……」
 鬼柳は言って、左手薬指にキスをする。
「でも、邪魔なら駄目だな」
 一瞬何を言ってるのかと透耶は思ったが、それが何を意味するのか気が付いて顔を赤らめた。
「……え、え?」
 狼狽する透耶の前の席で、宝田と西尾が微笑みながら見つめている。
 西尾は、沖縄から帰ってきた透耶が連れてきた鬼柳に驚き、更にカミングアウトまでされて二日ばかり真剣に悩んだ。
 
 透耶の祖父に「後を頼む」と言われて、透耶が解らない財産管理やらやってきたのだが、まさか、あの透耶が………と、信じられないでいた。
 だが、鬼柳といる時に透耶は、今までの透耶とは幾分も違い、前から感じていた悲愴感がまったくなくなっているの事に気がついた。幸せそうにしている姿を見ると、ここで偏見だけで突き放してしまってはいけないと、思い直し、現在に至る訳だ。
 鬼柳が透耶に向けるストレートなまでの愛情表現に、西尾も今では笑ってしまう程。
 だが、所構わずラブラブモードに突入するのも、どうだろうとは思っている。
 目の前で、真剣にエンゲージリングの話をしている訳だから。
 鬼柳は尚も真剣で、印を送ろうと思った事を話す。
「普通、恋人にはそういう物を送るものだけど、透耶はそういうの欲しがらないし、定番だけど、ペアリングにしようと思ったんだ。でも邪魔なら仕方ないなあ。ネックレスにしても落とすとアレだし、無くすとショックだしなあ。何か外れないので、邪魔にならない何かがいいけど、思い付かない」
 あくまで外れないがポイントである。
 どうやら真剣にその事で悩んでいたらしい口調だったので、透耶は慌ててしまった。
「いい、いいって。そういうのはいいの。別に形にしなくても俺、十分だから」
 あまりに鬼柳らしい考え方であって、正直透耶は嬉しいが、そういうのが欲しいわけではない。形でないものが手に入ったのだから、本当にそれで十分だった。
 しかし、ここで聞き逃さなかったのが西尾だった。
「じゃあ、ラブブレスにすれば宜しいのでは?」
 などと提案してしまったから鬼柳が食い付かない訳がない。
「ラブブレス?」
 真剣な視線に、西尾は慌ててそれを説明した。
「ええ、ブレスレットなんですが、手首に嵌めて螺子で固定するんですよ。螺子を外さないと外れませんし、専用のドライバーでないと取り外しが出来ないんです。だから無くすって事もありませんよ」
 そういう説明をされると、鬼柳がいきなり立ち上がった。
「よし、透耶、買いに行くぞ」
 そう言って透耶は引っ張られて立たされる。
 今からすぐにという行動に透耶は慌てる。
「いいってばー。そういうのはー。ねえ、聞いてる?」
 透耶がこう言っても、鬼柳の足は止まらない。
 何で、こういう時は人の話を聞かないのかなあ……。
 抗議したところで、到底聞き入れては貰えない。
 透耶は引き摺られながら、もうこれは諦めるしかないと覚悟を決めた。
 その後ろを苦笑した宝田と西尾がついてくる。



 結局有名ブランド宝石店で、一番高くて一番いい品を鬼柳が選んだ。
 そういう品はその場で名前などを入れてくれるらしく、お互いの名前を彫り込むように注文をした。
 透耶は一人、店の端の方に逃げていた。
 男同士でこういうのは、やはり恥ずかしい。
 明らかにそうであるのは、誰が接客しても解る事だろう。
 しかも金額が金額だ。あれで水につけたり、泡とかにつけて大丈夫なのかと疑ってしまう。
 透耶がそんな事を考えていると、宝石店の奥から出てきた男性が透耶に目に止めた。
 じっと見つめる視線に気が付いた透耶が顔を上げると、男性は凄く驚いた顔をしていた。
 ……何だ?
 透耶が不思議そうな顔で男性を見ていると、男性の方が近付いてきた。
「……朱琉(あける)? いや斗織(とおる)だろう?」
 男性はそう言って透耶の腕を掴んできた。
 ……え? 何でその名前が……。
 透耶は男性の腕を振払うのを忘れて一瞬呆然としてしまう。
「斗織だろう? 私を覚えているかい?」
 男性は必死になって透耶にそう言った。
 掴まれた腕に力がこもり、その痛みで透耶は我に返った。
「あの……俺、違いますけど」
 透耶は意外な所で意外な名前を聞いて内心驚いていたが、何とか人違いだという事を伝えられた。
 さすがにこの声で俺という単語が出ると、透耶が男と解ったらしく、男性は慌てて透耶の腕を離した。
「あ、御免。男の子だったのか……。申し訳ありません。あまりに知人の女の子に似ていたものですから」
 男は物凄く残念そうな顔をしていた。
「いえ……」
 透耶はそれを聞いて、少し納得してしまった。
 少し顔を見知っている程度の人間なら、その人物と透耶を間違えるのは珍しくない。
 だが、最近、光琉に間違えられるより、その従姉に間違えられる機会が増えているような気がする透耶である。
 ……なんか、ヤバイ展開かもしれない。
 そんな事を思って、鬼柳の元へ戻ろうとした時。
「あれ? 氷室斗織(ひむろ とおる)そっくりな子ですね」
 男性を追い掛けてきたらしい、店員が、男性と透耶が一緒にいるのを見てそう言った。
 氷室斗織という確実な名前が出て、透耶はこの店に入ったのは間違いだったと気が付いた。
 ……非常にヤバイんですけど……。
 焦る透耶を後目に、二人は盛り上がってしまっている。
「だよな、そうだろ? 俺、間違えたよ」
 男性は女子店員にそう言った。
「そりゃ似てるけど、氷室斗織はロングヘアーでしょ。それにこういう所には出入りしないし、まず、あのボディーガードが一緒にいないじゃない。あたし、そっちで覚えてますから」
 女子店員が断言して言ったら、男性も納得した。
 透耶も内心、そうだよ、と思ってしまった。
 ……誰かが俺と斗織の関係に気が付く前に、早くここを出たい。
 そこへ鬼柳が騒ぎに気が付いてやってきた。
「透耶? どうした?」
 透耶の顔に困った表情を読み取って、鬼柳が気にしている。
「ん、人違い」
 透耶はそう言って鬼柳を引っ張って男性の側を離れた。
 これ以上、関わりあうのは不味いので逃げようとしたのだが、そう簡単に逃げられなかった。
「あの、君。何処かでモデルとかやってるんじゃない?」
 離れた透耶にそう言って再度男性が近付いてきて透耶の腕を掴もうとした。
 それを見た鬼柳が、素早く男性の腕を捻り上げる。
「うわあ! いたたたあ!」
 鬼柳は、その手で今すぐ骨まで砕きそうな程の力を込めて男性の腕を掴んでいた。
「恭、駄目!」
 男性が悲鳴を上げるのと同時に透耶がそれを止めた。
 鬼柳は少しだけ力を弛めて、ちらりと透耶を見た。完全な無表情。
 ……無茶苦茶怒ってる。
 とにかく、この場を丸く納めたかった透耶は、鬼柳の瞳を覗き込んで言った。
「恭、駄目だよ。騒ぎにしたくない。お願い、その人を離して」
 透耶が静かな声で言うと、鬼柳は無表情のままで男性を突き離した。
 まるで、物でも投げるような感じだった。 
 男性は派手に床に転がってしまう。
 その乱暴なやり方に、透耶はギョっとしてしまう。
 これが発端で、外で待っていた宝田と西尾が慌てて店に入ってきた。
「どうなされました?」
「一体何が?」
 二人が慌てた様子で鬼柳を見るが、鬼柳は完全に怒っており、その言葉を聞いてなかった。
「あ、大丈夫です。いえ、あの人は大丈夫じゃないですけど……」
 これをどう説明していいのか解らなかった透耶は、しどろもどろとしてしまう。
「あの野郎が、難癖つけて透耶に触ろうとしたからだ」
 鬼柳が低い声でそう言うと、宝田はこの状況に納得してしまう。
「なるほど、それは仕方ありません。あれくらいで済んだのが不思議なくらいです」
 などと宝田が言い切るものだから、西尾が更にギョッとしてしまう。
 透耶は軽く首を傾げていた。
 ……今さらりと、凄い事を言ったような気がするんだけど……。
 慌てたさっき一緒にいた女性店員が駆け寄って男性を支えられて上半身を起こした。
 男性は掴まれていた腕の痛みが治まらないのか、そこを押さえたままで、立ち上がる事が出来なくなっていた。
 西尾はこの状況で、鬼柳がここまで怒りを露にするとはと唖然としてしまう。
 男性が立ち上がれない程の痛みを与えた理由が、ただ透耶に触れようとしたというだけなのだから。それに納得する宝田も相当なものである。


 幸い店には透耶達しかいなかったので必要以上には騒ぎになりそうはなかった。
 すぐに店の店員達が飛び出してきて、騒ぎを起こした男性に謝罪をさせ、透耶達に頭を下げてきた。
 その後、店の奥にある接客室に二人は通された。
「この度は、本当に申し訳ありません」
 店の店長が必死になって頭を下げている。
「この店は、客にちょっかい出すような店員をカウンターで客対応させてるのか」
 無表情なままで店を批難する鬼柳。
 しかし、透耶はそれを遮った。
「違うよ。あの人は店員じゃない。デザイナーだよ」
「は?」
 鬼柳が不思議そうに透耶を見た。
「あの、そう名乗りましたか?」
 店長も透耶がいきなりそう言い出したので驚いている。
「いえ、今思い出しました。工藤正幹、ファッションリングデザイナー。30歳でパリコレクションで最優秀賞獲得、32歳でハリウッド映画で、デザインした指輪が好評で、アメリカでも一流と認められる。
 世界で活躍するが、日本での師匠が死亡後、彼女が所有していたコレクションを相続し、現在世界数十店鋪で年数度のAKERUコレクションを公表してる。ここは、彼のオリジナルとAKERUコレクションを同時に唯一扱う店鋪。元々は、彼が彼女を慕って弟子入りした店。で、あってますか?」
 思い出すように淡々と言った後、少し不安そうに聞く透耶。
 店員は驚いた顔で透耶を見ている。
「ええ、あってます……よく御存じで」
「透耶、よく知ってるな」
 感心したように言われて透耶は喋り過ぎたと遅すぎる後悔をした。
 説明するには、ここまで詳しく話す必要はなかったからだ。
「いえ、ちょっと何かで見ただけです。あの、もう謝罪とかはいいです」
 透耶は慌てて話を打ち切った。
「恭、俺、早く帰りたい」
 隣に座る鬼柳の腕を握り締めて透耶は言った。
 これ以上、ここにいると余計な事を喋りそうだから、とにかく早くここを出たかった。
 妙に焦っている透耶を鬼柳は不思議そうに見ていた。
「申し訳ありません、すぐにお買い上げの品物を御用意させて頂きます」
 店員はそう言って下がって行った。
 間を置かずに、商品を持った店員が現われ、商品をさっそく填めてもらい、説明を受けて店を後にした。
 謝罪を繰り返す男性を透耶は、とくかくもういいからと言って謝罪の半分も聞いてなかった。
 それは透耶には珍しい行動だったので、鬼柳は気になって、店をかなり離れた所で尋ねた。
「あの男に何か嫌な事でも言われたのか?」
 物凄く不機嫌な低い声で言われて、透耶は我に返った。
「え? あ、ううん、そうじゃない。迂闊だった。何で入る前に思い出さなかったんだろう」
 透耶はそう言って真剣に唸っている。
「何を?」
 さっぱり解らないと不満顔をしている鬼柳に、透耶は丁寧に説明をした。
「んー、あの店。俺の伯母さんの持ち物だった所。伯母さんの弟子がさっきの男の人で、伯母さんの信者な訳。あの人がデザインするのは全部伯母さんに似合うものが限定で、まあ、それが受けているのは確かだけど。ただね、俺がそういう所に顔を出すと、斗織に怒られるんだ」
「斗織? 玲泉門院(れいせんもんいん)の親戚? 怒られる?」
 全てにおいて、?マークの鬼柳。解ったのは、あの男の正体だけである。
 ……あー、これじゃ要約しすぎだった。
 透耶は、少し整理して鬼柳に説明した。
「AKERUコレクションの朱琉は、玲泉門院朱琉の事で、その娘が、氷室斗織。でさ、俺の顔って、光琉にも似てるけど、それより斗織の方に似てるんだ。斗織は朱琉さんにそっくり瓜二つ。そうなると」
 こう説明されて鬼柳は理解した。
「はあ、勘違いされて、せっかく治まっていた信者魂に火が付くって事か」
 鬼柳に言いたい事が伝わっていたので、透耶は微笑んで頷いた。
「そういう事。朱琉さんが亡くなった頃に、斗織を見たあの人が、しつこくモデルになってくれって言ってきたんだって。イメージ通 りに作ったからそのイメージモデルね。まあ、斗織の家、氷室家はそういうのに厳しいから断わり切ったらしい。だから、俺みたいなのがヒョッコリ顔出したりしたらマズイ。せっかく沈下した信者魂に火を付けてしまう。だから近寄るなって言われてたのになあ」
 さて次に会ったら苦情が出るのは明らかだ。そう思って透耶が何と言い訳しようかと悩んでいると、鬼柳が思い出したようにツッコんだ。
「ちょっと待て。玲泉門院の血は同形の顔が出る程、そんなに強いのか?」
 光琉=透耶=斗織=朱琉。どう考えてもおかしな構図だ。
 結局、玲泉門院の血を持つ人間は皆同じ顔という結果しか出ない。
「強いねえ。こういう顔ばっかり。男性女性じゃ微妙に違うらしいけど、見る人からすれば同形ってすぐ解る。母さんと朱琉さんは従姉妹なのに双子って程似てたし。お祖母様達も同じ様な顔してた。葵さんと馨さんはそっくりだし。完全に玲泉門院って解る。あ、夏のお盆に皆揃うから一回見てみる?」
 鬼柳がそういうのに興味があるんだろうか?と思いながらも透耶はそう言って笑う。
「盆はいいが。何故そんなに同形の顔になる? ちゃんと他の遺伝子入ってるのか?」
 鬼柳がそういうので、透耶は笑ってしまう。
 ……そうだよな、おかしいよな〜。
 そう思いながらも、透耶が言えるのは一言しかない。
「うーん、葵さん曰く。それが玲泉門院なんだって」
 透耶が意味の解らない結論を出した。
 玲泉門院葵、唯一玲泉門院の名を持つ最後の一人だ。そして、朱琉の弟。
「はあ?」
 当然鬼柳には解らない。
 透耶はうーんと唸って言った。
「何かよく解らないけど、この顔だから玲泉門院なんだって言うんだよ。特徴なのかなあ?」
 他者の遺伝子を無視した一族。産まれる子供は一目で解るように、同じ顔をして産まれ育つ。あり得ない不思議。
 鬼柳は、これも呪いの一つなのかと思った。意味があるんだろう。だから、納得するしかない。
 それの意味を知るのは、葵という伯父のみだろうから。
「興味があるなら、葵さんに直接聞いてみればいいよ。ただねえ、確信つくとはぐらかされるから、本当の事が聞けるとは限らないけど」
 我が叔父ながら、油断ならないと透耶は言う。
「東京にいるのか?」
「ううん、京都。北嵯峨に玲泉門院の屋敷があるから、そこに住んでる。そうそう、葵さんが玲泉門院の研究してたんだ。大学の卒論にしたいとか言って調べてたらしいよ」
「そうだな。機会があったら聞いてみよう」
 鬼柳はそう言って話を切り上げた。
 どうも玲泉門院についてはまだ謎が多い。
 いずれ、全てを聞き出さないといけない。
 本心では、そんな家の事など知らなくてもいいだろうとは思うが、その全てが透耶に関わりがある事であるなら、鬼柳はその全てを知りたくて仕方がなかった。
 知りたいというより、知っておかないと何か大変な事になりそうな気がしてならなかった。


「西尾、近くの駅で停めてくれ」
 ホテルへの帰り道で、鬼柳がいきなりそう言った。
「は? あの」
 ホテルへ戻るはずが、鬼柳がそんな事を言い出したので皆驚いた。
「どうしたの?」
 透耶がそう聞くと鬼柳は少し笑って言った。
「透耶、ちょっと付き合ってくれ」
 鬼柳はそう言って黙った。
 宝田には意味は解っていたらしく、西尾に車を停める様に指示を出した。

 駅で車を降りて、西尾と宝田は先にホテルに帰して、鬼柳は電車に乗るらしく駅へ入って行き、切符を買っている。
 透耶は不思議そうな顔で、切符を受け取って改札を抜けた。
 久しぶりの電車だ。
 もうラッシュは過ぎているが、人は多い。
 人混みを避けて、鬼柳は透耶を座席に座らせると、自分はその前に立って吊り革を掴んでいる。
 透耶の隣の座席は空いているのに、鬼柳は座ろうとしない。
 透耶が勧めても、「いい」と言って立ったままだった。
 何だか様子が違う鬼柳に、透耶は首を傾げながらも、黙って従っていた。
 もう一回電車を乗り継いで、鬼柳が降りるというので透耶もそれに続いた。

 駅を出ると、そこは商店街やらがある下町の雰囲気がある場所だった。鬼柳は歩きながら煙草を吸い始めた。
 透耶は鬼柳が何か言おうとしているのだとはっきりと解った。何をという部分は解らない。ただ、何かを言いたいと思っている事は確かだった。
 透耶は隣を歩きながら道を見ていた。
 鬼柳の歩き慣れた歩調に、ここは鬼柳のテリトリーなんだと思った。
 鬼柳はあまり自分の事は話したがらない。苦手なのは解るが、それだけではない事くらい透耶にも解る。
 途中で、行き過ぎ様とした車が停まった。
 鬼柳が振り返って、車の相手に手を振っている。
 車の相手が降りて、手を振り返している。
 出てきたのは、25歳くらいの女性。
 知り合いらしい、と透耶は判断した。
「最近、見なかったじゃない、どうしたの?」
 女性がそう言ったのだが、鬼柳はそれを無視していた。
 その態度は、いつもの事らしいく、女性は苦笑している。
「仕事じゃないんだ。ふーん、で、戻ってきた訳じゃなさそうね」
 女性が笑って言う。
「車、運転してやるから、乗せていってくれ」
 鬼柳がそう言うと、女性は簡単に頷いた。 
「いいわよ」
 女性はすぐに後部座席に乗り込んだ。
 透耶は鬼柳に勧められて、助手席に座るように言われたが、何故か女性に引っ張られて後部座席に乗せられた。
 鬼柳が無理に助手席に乗せようとはしなかったので、透耶はそのまま後部座席に座っていた。
 車が動き出すと、それを待っていたかのように女性が喋り始めた。
「随分可愛い子に手を出してるわねえ」
 女性は透耶をじーっと見つめると、そういう事を言い出した。
「鏡花(きょうか)、悪戯するな」
 鬼柳の口調は、さほど怒ってない口調だったので、透耶は、この二人はどういう関係なんだろうと首を傾げた。
「いけずー。初めてじゃない? こういう風に連れ回すなんて。本気になった?」
「ああ」
 鬼柳が運転しながら即答したので、鏡花は驚いた顔をした。
 冗談で言った言葉に頷かれて、かなり驚いているようだった。
「いやあー。どうすんのお。ミチルちゃんとか、直樹君とか、その他のあんたのファンがキレるわよー」
 鏡花は、わざと大袈裟に言ってみるが、顔が笑っている。
 透耶はそれを見て思った。
 ……なんか、凄く嬉しそうだなあ。
 鬼柳が本気になったという言葉が嬉しいらしい鏡花の様子に、この女性は透耶が出会う前の鬼柳の事をよく知っている人物だと認識した。
「知ったこっちゃない」
 素っ気無い一言で返す鬼柳。
 そういう話を聞きながら、透耶はふといつもの様に思い出して言った。
「あの、榎木津透耶です。初めまして」
 言って頭を下げると、鏡花は一瞬キョトンとしてから、ニコリと微笑んだ。
「あたしは藤生(ふじう)鏡花よ。これでも人妻。鬼柳ー、これ頂戴」
 これ呼ばわりされた透耶は、鏡花に抱きつかれた。
 何だあ?
「触るなと言ってる」
 唸るような低い声が返ってきて、鏡花はやっと鬼柳が本気で透耶の事を好きなのだと認識した。
「ありゃ、マジなんだ。へえ、この子落とすのに何ヶ月もかけたわけだ。天性のタテ男がねえ。最高でも、1時間以内にノンケも落とす男がねえ。あんたのお陰でどれだけのノンケがネコになった事か」
 しみじみと鬼柳が今までしてきた事を話す鏡花に、鬼柳は冷たく言い放つ。
「つまらん事吹き込むな」
「あ、話してないんだー。うわあ、マジなんだあー」
 鏡花はわざとらしく驚いている。
 透耶はキョトンとして鏡花を見る。
「しっかし、綺麗な顔してるねえ、これが好みだったんだ」
 鏡花は透耶の頬を両手で包んで、じっと透耶の顔を眺める。
 何だか、逆らえない状況に透耶は大人しくされるがままであった。
「別に、透耶が透耶だから惚れただけだ」
 やはり素っ気無い言い方ではあるが、透耶には嬉しい言葉でもあった。
 ……そういえば、いつもこう言ってるよねえ。
 まったく最初から変わらない鬼柳の言葉に、透耶は微笑んでしまう。
 それを見ていた鏡花は、本当にあの鬼柳が、この少年を手に入れる為に苦労していたんだと解った。
「遊んでる男が一途になると怖いねえ。テクニックあるだけに。ねえ、どうだった?」
 鏡花はまるで幼い子供をあやすような口調で透耶に聞いてくる。
「へ? あの……」
 透耶が言葉を口にしようとすると、鬼柳がすぐにそれを止めた。
「透耶、答えなくていい。鏡花も余計な事を言うな」
 鬼柳の言葉に透耶は首を振って言った。
「いや、そうじゃなくて。ねえ恭、ネコって何?」
 透耶は真剣に鬼柳に聞いていた。
 ネコが猫の意味でない事は話の内容で解るが、それがどんな意味なのかはさっぱり解らない透耶。
 一瞬、車内が沈黙して、鏡花が笑い出した。
 透耶には、何故鏡花が笑っているのかさっぱり解らない。首を傾げて、バックミラーに映る鬼柳を見つめる。
「……後で説明する」
 鬼柳が辛うじて言葉を吐いた。
 そうしていると車が停まった。
「透耶、降りるぞ」
 透耶は頷いて車を降りた。

 そこは、古い小さめのビルが立ち並ぶ通りで、周りはまだ灯りが点っている場所も多い。人通 りもポツポツで、商店街の一角という感じだ。
 鬼柳と鏡花は少し話して、鏡花は透耶に手を振ると、車に乗って走り去った。
「友達?」
 どういう関係なのか、結局聞けなかったと、透耶が言うと、鬼柳はそれを説明してくれた。
「まあ、そういう風にくくった事はないなあ。クラブで会って、話してたら結構気が合ってからの付き合いだ。日本にきてからだから、もう5年だな」
 鬼柳が思い出しながらそういうと、透耶はこういう話は本当に珍しいと思った。
 そういえば、鬼柳の日本での友達に会うのは、これは初めての事だ。
 そんなことを考えながら透耶は生返事をしていた。
「そうなんだ」
 透耶がそう言ったのを聞いて、鬼柳ははっとして慌てて言った。
「あ、あいつとは寝てないぞ。あれでも旦那一筋だから」
 凄く慌てた言葉に透耶は不思議な顔をする。
「そんな事、聞いてないけど……」
 キョトンとして透耶が見上げたので、鬼柳は拍子抜けした。
 過去鬼柳がどれだけの人間と寝たのか。
 透耶がそういう事をまったく気にしてないのには、鬼柳も驚いていた。割り切っているのか、事実を受け入れているのか。
 来る者拒まずなのは知っているだろうが、鬼柳はそれを詳しく話してはいなかった。
 はぐらかすつもりはないのだが、進んで話す必要もない。
 それに透耶は一度として、深く聞こうとはしない。
 それどころか、その事柄について、透耶から尋ねられた事は一度としてなかったのだ。
 そういう事柄よりも気になる事があるような感じで、透耶はキョロキョロと周りを見渡している。
「透耶、こっちだ」
 鬼柳は言って古いビルに入った。透耶は慌てて後を追った。


 5階建ての古いビルには、エレベーターなんてものはなく、階段を上がって行くだけの古いビル。
 鬼柳はそこを慣れたように階段を登って行く。
 透耶は一階上がるごとに周りを見ていたが、ここは事務所が入ったビルらしく、小さな事務所がいくつも入っている。明かりが消えているから当然誰にも会わなかった。
 4階まで登った時、鬼柳が一つの事務所をノックした。
 返事を待たずに鬼柳は中へ入って、透耶にも入れと促す。
 入った事務所の中は本の山に段ボールの山。
 何の事務所なのかは、入り口には書いてなかったので解らない。
 入ってすぐの部屋はそういう感じで、透耶が呆然としていると、鬼柳は別 の部屋を覗き込んで言った。
「おやっさん、鍵」
「んああ? 鬼柳じゃねえか。お前んとこ、毎晩小僧が来てるぞ」
 鬼柳より低い声が答えて、のそっと部屋から出てきた。
 ジーパンに上は何も着ていない、40くらいの男。頭をボリボリと掻きながら、部屋にいる透耶に目を向けると驚いた顔をして鬼柳を振り返る。
「おいおい、こいつぁー俺の幻かあ?」
 本当に驚いた声だった。
 おやっさんは言った後、透耶をじっと見つめている。
「幻見る程飲んだのか?」
「いや、今日は飲んでねえから言ってんだ」
 妙に真剣な言い方に、透耶は首を傾げる。
 ……何が幻なんだろう? 何か見えるのかなあ?
 思わず自分の後ろを振り返ってしまう透耶。
「ああ、いいからそいつに構うな。鍵返してくれ」
 鬼柳が催促すると、おやっさんはやっとそれに答えた。
「鍵なら、そこらへんに転がってる」
 おやっさんが指差したのは、本が崩れた場所。
 それも、10冊なんてものじゃない。
 50冊くらいの本の山なのだ。
「ああ? てめー、預かったもん適当に置くなよ」
 鬼柳はブツブツ言いながら、崩れた本を取っては投げる。
「本の上が一番安全だから置いてたら、さっき崩れたんだ。あんまり乱暴に放るな」
 おやっさんがそう言うが鬼柳は無視している。透耶もこれは手伝った方がいいと思い、しゃがんで鬼柳が投げた本を並べて行く。
「透耶、汚れるから触らない方がいい」
「恭こそ、本は投げるもんじゃないよ」
「いいんだよ、どうせろくな本じゃない」
「駄目だよ。これは恭の本じゃない。それに適当に置いてある本に見えるけど、ちゃんと分類分けされてるし、見分けられるように積んであるんだから」
 透耶がそう言うと、鬼柳の手が止まっておやっさんを見上げた。
「そう、なのか?」
 物凄く不思議そうに聞いてきたので、おやっさんは笑ってしまう。
「そりゃお前には解らんだろう。大抵の奴には解らんもんだが、こりゃ、こいつの方が特殊なんだな。お前、本好きだろう?」
 透耶が本を好きなのは、扱い方を見ればおやっさんにも解る。だから嬉しくなって微笑んでしまったのだ。
「ええ、好きです。あ、どうも榎木津透耶です。こんばんは」
 透耶は座ったままで頭を下げて挨拶をした。
 どんな状況でも自己紹介を忘れない透耶である。
 おやっさんはポカンと透耶を見ていたが、すぐに笑顔になった。
「俺は、各務平治(かがみ へいじ)だ。このボロビルの管理人だ。皆、おやっさんと呼ぶ」
 おやっさんも自己紹介をした。
「平治さん、オールマイティーなんですねえ」
 皆がおやっさんと呼ぶと言って、おやっさんと呼べという意味を込めていたのだが、透耶には通 用しなかった。
「んああ?」
 おやっさんは眉を顰めて透耶を見た。
 透耶は少し部屋を見回してから話し出した。
「雑学程度にしては、専門書がかなりあります。ジャンルも多方面において。この部屋にあるのは、もう読み終わった本なんでしょう?まだなのは、手元に置くタイプに見えました。終わったのは段ボールに入れて入らないのはビニールに入ってるから、本は大切にしてる。崩れたのは、最近読み終わったので、今段ボールもビニールもないから積み上げられてるだけで、分類分けされてるから、かなりの本好きなんだと思いました」
 透耶はそう言いながら、取り上げた本を見て。
「あ、これ絶版になったやつだ。古本屋にもないんですよねえ」などと呟いている。
 鬼柳も驚いていたが、おやっさんも驚いていた。
 未だかつて、この部屋をそういう分析で見た人間はいない。無駄に本を集めているだけだと皆思っている。しかも分類分けだったり、本を大事にしているとは誰も言わないのだ。
 驚いている二人を余所に、透耶はニコニコしながら時々本に手を止めて、「あ、これ好きなんだよなあ」などと呟いている。
「おい、鬼柳。先にあの小僧をどうにかしてこい。鍵はそれからだ」
 おやっさんがそう言ったので、鬼柳は立ち上がった。
 その小僧が邪魔で仕方がないという感じの言い方だ。
「ああ、解った」
 鬼柳が立ち上がった所で、おやっさんは付け足した。
「透耶は置いて行け。あいつに顔覚えさせるとろくな事にならん」
 おやっさんが透耶を名前で呼んだ事で、鬼柳は少し驚いてしまう。
 おやっさんは、自分が気に入った相手の名前しか覚えないからだ。
「……おやっさん?」
「いいからとっとと行ってこい」
 おやっさんに追い出されて、鬼柳は溜息を吐いた。
 しかし、おやっさんには珍しい気の使い方には感謝していた。
 普段なら、いやそういう状況は一度としてなかったが、あのおやっさんなら、鬼柳がもめていようが何しようが、面 白がって口出しはしても、こういう風な気遣いはしないからだ。


 一方、残された透耶は、本の片付けに没頭している。時々止まるのは、見かけない本を見た時で、マニアなおやっさんしか解らない貴重な本に透耶が興味を示すのだから、おやっさんは楽しくて仕方がなかった。
 共通の趣味を持つ仲間を見つけた時の嬉しさがある。
「あ、鍵だ。これですかねえ?」
 透耶がそう言って鍵を取り上げた。
 鍵は一つのリング纏められている。
 それには部屋の鍵と車の鍵しかついてない。キーホルダーもないシンプルなもの。
「ああ、それだ」
「じゃ、この本、片付けちゃいますね」
 透耶はそう言って、テキパキと本を分類して積み上げていく。手際が良かったのでおやっさんは手出しが出来なかった。いやその方が早く終わりそうだった。
「おい、その本とこの本、別にしてくれ」
 おやっさんがそういう指示を出したので透耶がそれに従う。
 すぐに崩れた本が元通りになると、おやっさんが缶コーヒーを透耶に差し出した。
「ありがとうございます」
 透耶はニコリとして受け取った。
 口を付ける部分を透耶がハンカチで拭いていたので、おやっさんは不思議な顔をして尋ねた。
「綺麗好きなのか?」
「あ、いえ、そういう訳でもないんですが。教えられて。ここって口をつけるでしょ、すると今まで、作られてからの埃とか人が触った汚れが付いてるって。中身は安全なのに、ここに付いた汚れを自分で飲んでるんだ、汚くないか?て言われたら、そうなんだよねえって思って、それで拭くのか癖になってしまったんです」
 透耶がそう説明すると、おやっさんはなるほどと頷いた。
「そりゃ、面白い雑学だな、しかも事実だ。誰が言った?」
「母親です」
 透耶はそう言って思い出した。
 母親はこんなオブラートに包んだ説明はしてくれなかった。
 明らかに、汚い!絶対拭け!とか言っていたから、癖というか習慣というか、榎木津家の家訓の一つみたいなモノになってしまっている。
「ふーん。……で、透耶は鬼柳が何しに行ったのか気にならないのか?」
 いきなり話が変わったので、透耶はキョトンとしておやっさんを見上げる。
「は?」
「今、何してるかって事だ」
 鬼柳が出て行って何をしているのか、そういう風に聞かれて透耶は意味が解った。
「はあ、それですか。気にならない訳ではないですが、俺がいても何も出来ないのは解ります。寧ろこじれるんじゃないですか? だから恭は連れて行ってくれないし、平治さんは俺を行かせなかった。そういう事じゃないんですか?」
 ニコリとして答えた透耶に、おやっさんは満足して頷いた。
「へえ、頭はいいんだ。あいつが選んだにしちゃあ、マトモ過ぎるのを選んだなあ。どうやってアイツを本気にさせた?」
 どうも鬼柳の知り合いは、その辺に興味があるらしい。
「どうやってって……。最初から恭は本気でしたから。俺の方が逃げ回ってたし」
 透耶がそう答えて、簡潔に今までの事を話すと、おやっさんは爆笑した。
 この話すると、鬼柳を知っている相手は大抵爆笑する。
 エドワードなんか、憤死しそうだったくらいだ。
 今までの鬼柳からして、想像も出来ない出来事らしい。
「……そりゃ、災難な事だ」
 おやっさんがそう言った時、ふっと透耶が玄関の方を振り返った。
 暫く真剣な顔でじっと見ていていたが、おやっさんの方を振り返った時には、さっきまでの穏やかな顔をしていた。
「どうして本気だって解るんですか? 鏡花さんもそう言ってた」
 さっきの行動の意味はまったく説明せずに、透耶は何ごともなかったかのように話を進めてきた。
 おやっさんは不思議な感じに思ったが、まあいいかと話に乗った。
「鏡花に会ったか。そりゃ今日中にあいつの事は広まるなあ」
 おやっさんはニヤリとして手で顎を撫でる。
 今頃、鏡花が最新情報、緊急だとか言いながら、仲間に電話をかけまくっている事だろう。
「鏡花さんと知り合いですか?」
「知り合いも何も、あいつは俺の女房だ」
 おやっさんの言葉に透耶は目を見開いた。
「ええええええ!!!」
 叫び声を上げて透耶が本当に心の底から驚いているので、おやっさんの方が驚いてしまう。
 え?え? 鏡花さんと平治さんが夫婦なの!?
 で、でも、鏡花さんって恭と同じくらいの歳だよね?
 じゃ、じゃあ、何で一緒に住んでないの?
 どう考えても鏡花がここで暮らしているとは言いがたい。
 なんだか、全然違う所に驚きの焦点がズレていっている透耶。
 しかも誰もそんな事は一言も聞いていない。
 おやっさんは仕方がないと頭をガシガシと掻いた。
「ったく。鏡花も鬼柳も説明はしょりやがったな。鏡花と鬼柳は遊び友達で、両方とも気が合うらしい。その紹介で、俺がこのビルの部屋を貸した。3年前からここに住んでる」
「ここに? 恭はここに住んでるんですか?」
 驚いている透耶の表情に、おやっさんも鬼柳がどうするつもりで連れてきたのか理解した。
「あ、それも知らなかったのか。あいつ、マジだな。透耶は大事にされてるし信用されてるなあ」
 そこまで話をして、おやっさんは納得してしまう。鬼柳が本気であることに。
「え?」
 何も知らない事が、何故信用されている事になるのか、透耶には理解出来ない。
 そんな透耶を見て、おやっさんは説明した。
「あいつなら、こんな面倒な事は適当に話して終わらせる。自分のテリトリーには誰も入れない。自分から自宅に誰かを連れてくる事ないし、俺でさえ、奴の部屋には入った事がない。
 透耶、あいつが寝てる所見た事があるだろう? 俺達の中でそういう奴は一人もいない。あいつは、何かに警戒してるらしい。付き合いは悪くないが、心は誰にも見せない。ここ最近、それが異常に強くてな。危ないとは思ってたんだが、さっきのを見ると不思議なくらい安定してた」
 ……あれで、安定ですか……?
 ……誰も寝顔を見た事がない? 
 何だか、まったく知らない人の話をされているような気がする透耶である。
「あいつ、自分から話すのは苦手だから、相手から質問されると大抵の事は答える。ただ知られたくない事は、全部はぐらかす。なあ、あいつ透耶にはなんて言った?」
「え? まあ、最初から、何でも質問してくれたら何でも答えるって……。話すのが苦手だから、聞きたい順に質問してくれたら話しやすいとは言ってますけど?」
 透耶が戸惑って答えると、おやっさんは笑って頷いた。
「やっぱりな。本気中の本気。透耶がここを知らないって事は、それを聞かなかったからだろ?」
「ここだって事は聞いてなかったです」
 透耶がキョトンとして答えたから、おやっさんは納得してしまった。
「きっと透耶には何もかも知られても構わないと思ってるんだろうな」
 おやっさんがしみじみとその言葉を言った時に、透耶はやっと鬼柳の意図を理解した。
「……だから、ここへ連れてきてくれたんだ」
 透耶は、何故急に鬼柳がここへ連れてきてくれたのかは解らなかった。だが、ここは鬼柳にとって大切な場所で、それを透耶に見せてもいいと思っているから連れてきてくれたのだと解った。
 それは嬉しい事だった。
 鬼柳の過去を殆ど知らない透耶にとっては、それだけでも嬉しい事だった。
「ああ、やっぱりあんたはそういう事を要求しないんだ。ふーん、なるほどねえ。そりゃ居心地よくて当り前だ」
 おやっさんは、昔から鬼柳が言っていた、自分が選ぶなら、きっとこんな人物だろう、という話を思い出して笑ってしまう。
 この少年は、本当に鬼柳が想像していた通りの相手だったのだ。
 必要な事以外は質問しないし答えを要求しない。何もかもを知りたがる訳ではない。きっと何かを欲しいと強請った事もないのだろう。
 まさに、鬼柳の理想の相手なのだ。
 よくもまあ、希望通りの恋人を探し出したものだと。
「?」
 透耶は意味が解らなくてキョトンとしてしまう。おやっさんはこういう透耶の感じが鬼柳を癒しているのだろうと思った。
 鬼柳はやっと自分の居る場所を見つけたのだ。
「まあ、あいつと仲良くやってくれ。たまにはここへ遊びに来いって言ってやってくれ。そうしないと奴は二度とここへ来なくなる」
「え? 引っ越すって解ってるんですか?」
 まだ引っ越しの話など出てなかったので、透耶は驚いておやっさんを見る。
「ここで暮らすには、透耶みたいなのには危ない場所でな。俺は勧めないし、あいつもいやがる。それくらいは解るよ」
 おやっさんがそう言った時、鬼柳が部屋に入ってきた。
「お、どうだった」
 おやっさんがそういうと、鬼柳は黙ったままでおやっさんに近付いた。
 鬼柳はおやっさんに耳打ちをして透耶には話を聞かせないようにした。
「おやっさん、後であいつの事調べてくれないか?」
 いきなりそういう事を言い出したので、おやっさんには何の事か理解出来た。鬼柳が小僧を追い払うのにしくじったという事だ。
「何を言った」
 ストレートな鬼柳の事だ。何か余計な事を言ったのだろうと思ったのだ。
「俺は何も喋ってない。向こうが一人で喋ってたんだ。でも勘付かれたかもしれない。ヤバそうな感じがしたから、とにかく帰れと言ったら刃物持ってて襲い掛かってきた。取り合えず押さえ込んだが。今、外にいる」
 ……やっぱり、何かやりそうだとは思ったが、やっちまったか……。
 おやっさんは予想通りな展開に頭を抱えたくなった。
「ヤバいな。思いつめているとは思ったが……。人の話を聞かねえ程ヤバイとは思わなかった。たくっ、最近のガキはこうだから手を出すなって言っただろうが」
 おやっさんはそう言いながら、透耶に「ちょっと見てくる」と言って外へ出た。
 廊下には小僧が転がされている。気を失っているようで、身動きはしない。
 ちょうど透耶くらいの歳の少年で、綺麗といえば綺麗な顔をしている。
「手を出したとかいうが、俺はこいつには手を出してないぞ」
 鬼柳は何度見ても、この小僧に見覚えがなかった。
「んあ? ああ、見てくれか。確か未成年にゃ手を出させん主義だったな。で、どうすんだ、これ」
 と、おやっさん。
「どうしようかと」
 と、鬼柳。
「どうしようかねえ」
 ……。
 悩んでいる鬼柳とおやっさんの間に透耶が顔を出して言っていた。
「透耶!」
 鬼柳が驚いて透耶を見る。
 部屋の中にいるはずの透耶が、こっそりと出てきていたのだ。
「へえ、この人、恭の事刺そうとしたんだ。へえ」
 ニコリと笑って透耶は小僧を見ている。
 これを見て、鬼柳は頭を抱えたくなった。
 これは怒っている。明らかに怒っている表情だ。
「ねえ、どうするの? 警察に突き出すの? それともこのまま見逃す訳?」
 さあ、どうしてやろうかという言い方。
「おい、どうなってんだ?」
 いきなり変わった透耶の雰囲気におやっさんは戸惑って鬼柳を見る。
「怒ってるんだ……それも無茶苦茶……」
 思わずここに拳銃とかがなくて良かったと思ってしまう鬼柳である。



 小僧が気が付いて、散々お前はなんだとか叫びまくっているのを透耶は静かに聞いていた。
 その前に透耶は誰も口出しするなと言ってあったので、鬼柳もおやっさんも言い返せないでいた。罵倒しまくった後、小僧も何か事態が違う気がして言葉が出なくなってきた。
 静かになってきたところで、透耶が「じゃあ、そろそろ質問していいかな」と言って話を進めた。
「ねえ、これはどうするつもりだったの?」
 透耶は、鬼柳が小僧から取り上げたナイフを持って尋ねる。
「……お前に何の関係が」
「あるに決まっている。この人は俺のものなんだ」
 透耶は小僧の言葉を遮って、自信満々に言い放った。
「俺のだ!」
 小僧は、透耶を睨んで大声を出すが、透耶は少し耳を塞ぐと眉を顰める。
「うるさなあ。いちいち叫ばないでくれる? さあ、これで何するつもりだったんだ?」
 有無を言わせずに同じ質問を繰り返してくる透耶に、小僧は圧倒されてしまった。
 はっきりいって、怖い、というのが、今の透耶から感じる雰囲気なのだ。
「……こ、殺そうと思ったんだ。俺の事、知らないとか言いやがった。俺がこんなに思ってるのに!」
 小僧は必至になって叫んでいる。
 おやっさんが鬼柳を見ると、鬼柳は知らないと首を振る。
 鬼柳は一度寝た相手なら、顔を覚えている。なので、小僧が言っている事は、小僧が自分で惚れて勝手に思いを募らせ、知り合いになっている気になっていたという事になる。
「へえ、殺そうとしたんだ。残念だねえ、君には殺せない。それは良く解ってるよね。どんなに思ったって、もうこの人には伝わらないよ。いきなり殺そうとする人なんか好きになるわけない。君は折角のチャンスを自分で駄 目にしちゃったんだ」
 勿体無いねえ、と続けた透耶の言葉に、小僧は何の事だとキョトンとする。
「え?」

「この人は君を覚えてない。だから、君とは今初めてマトモに話をしたわけだ。この際、君の思い込みは省くとして、初めて話したんだ。ねえ、君は初めて言葉を交わした人に、死んでくれってナイフとか向けられて殺されそうになったら、どう思う?」
「……あ」
「好きとか嫌いだとか思う前にそんな事されちゃったら、もう好きになんてならないよね? ほら君は自分でチャンスを壊しちゃった」
「……俺が?」
「大体、殺したからって自分のものにはならないよ。君が欲しいのは、この人の外側なの? 中身がないのは、寂しいよ。ねえ、見た目が欲しかったの?」
「……中身」
「でしょ? だったら殺したところで何にもならないよ。君はやり方を間違えた。好きならちゃんと伝えないと。話しもしなきゃ、伝えられないし相手の事も理解出来ないよ。だから、次は間違えないで」
「……次?」
「そう、次。だってこの人は駄目なんだ」
「駄目なんだ。俺がそうしたんだ。そうなんだ」
 まるで、洗脳でもされているかのように、小僧は透耶の言葉に素直に従っている。
「だから、次誰かを好きになったら、やり方を間違えないで。俺の言ってる事解る?」
「……解る。次はあるのかな?」
 不安そうに透耶を見上げる小僧に、透耶はとびっきりの笑顔を向けて微笑む。
「それは君次第。誰かを好きになるのも、誰かに愛されるのも、君がきちんとやっていればいいだけだよ。一人の殻に閉じこもらないで、周りを見よう。素敵な出会いが待ってるよ。さあ、この人に謝ろう。自分の行動には責任を持たないと駄 目だよ」
 透耶はそう言って小僧を立たせた。
 透耶の後ろには、いつでも行動できるように鬼柳とおやっさんが立っていた。
 透耶は小僧と同じ目の高さで話をしていたので、一緒に立ち上がった。
 小僧は、今までの態度から一変して、不安そうに鬼柳を見上げてから頭を深々と下げた。
「申し訳ありません。御迷惑をお掛けしました」
 深々と頭を下げて素直に謝られて、鬼柳も驚いてしまう。
「い、いや、もういいんだが。他でやるなよ」
「もうしません。御免なさい」
 小僧はそう言って再度頭を下げた。
 透耶は、小僧の背中を軽く叩いて、おやっさんにタクシーを呼んでもらって小僧を下まで送りタクシーを見送った。
 その一部始終を見ていたおやっさんが呟いた。
「お前、恐ろしいものに手を出したな」
「はあ?」
 鬼柳には意味が解らない。
「俺には悪魔の囁きに聴こえた」
 俺のだから殺すなんて言うな、触るな、見るな、さっさと他へ行け、しかもしっかり脅してやがる。説得っていやあ説得だが、ありゃ悪魔でなくて何だ。
 おやっさんはそんな感じを受けてしまった。
「恭、このナイフ、こっちで処分していいって」
 透耶がニコリとして鬼柳にナイフを渡した。
「ああ。おやっさん、捨てておいてくれ」
 ナイフは呆然としているおやっさんに回ってくる。
 それを受け取っておやっさんは、透耶を見過っていた事に気が付いた。
 透耶は言葉で人を従わせる力がある。そうして備わっている力を使う事は望んでないが、使えば簡単にやれる。下手したら、言葉だけで、人を殺せるかも知れない。
 だが、鬼柳の手で守られている間は使われない。今日は、鬼柳を殺そうとしたから、自然と出ただけで、普段は無害なのだろう。
 おやっさんがそんな事を考えている横では、下らない会話をしている二人。
「……あ、そうだ。恭、病気持ってないよね」
 透耶が少し不安そうに鬼柳を見上げている。
「はあ?」
 いきなりそんな事を言われても、さっぱり解らない鬼柳。
「それだけ入り乱れてたらさ、どっかで病気貰って来そうじゃないか。俺とやってる訳だし、移ったら嫌だなと……」
 透耶が恥ずかしそうに、もごもごと言葉を口にすると、鬼柳は、ああそういう意味か、と納得する。
「大丈夫だ。ちゃんとゴム使ってたから。それに、生で突っ込んだのは透耶が初めてだ」
 ニコリと微笑まれてそんな言葉を言われた透耶は顔を真っ赤にする。
「な、生々しい事言うな!」
 どうしてそういう言葉を平気で言うかなあ!
「聞いたのは透耶じゃないか。……ま、いいか」
 んーっと抱きついてくる鬼柳に透耶は仕方ないとばかりに身を預けている。
 まったく違う素質がある二人に見えるが、同じ気質を持っている。それが危険であるが、押さえる事が出来るのはお互いの存在でしかない。
「てめえら、そういうのは部屋にいってからにしろ」
 おやっさんは頭を抱えてそう言った。
 


 鬼柳の部屋。
 透耶は少し緊張して中に入った。
 鬼柳はズカズカと奥の部屋に消えたが、透耶は入り口の部屋で立ち止まっていた。
 部屋は事務所を基礎にしているから、基本はおやっさんの部屋と変わらない。だが、入ってすぐにカメラの機材が無造作に置かれていた。
 そこに写真のパネルが幾つか束ねられて置かれている。
 鬼柳の写真、そういえば、まだ一枚も見た事がなかった、と透耶はそんな事を思っていた。
 物凄く見たいんだけど……。
 見ていいのか、触っていいのか、そう悩んでいると、鬼柳がコーヒーを持って現れた。
「透耶、まだそこにいたのか」
 透耶が立ち止まっている辺りには、パネルの他に様々な写真が収められている棚がある。
 振り返った透耶の顔に、「見たいんだけど、駄目なのかなあ?」と書いてるから、鬼柳は苦笑してしまう。
「見たければ見ていいぞ。パネルのはあんま勧めないけどな」
 鬼柳はそう言って、透耶がいる近くのテーブルにコーヒーを置いてから、寝室らしい部屋に入って行った。
 見ていいと言われた透耶は、さっそく見てしまう。
 ひっくり返されているパネルを見ると、それは戦場の写真だった。 
 ジャングルらしい場所で、敵に向かって銃を向けている兵士。
 倒れて息絶える兵士を兵士が担いでいる。
 死に絶えた村の惨劇。
 上空にはヘリがあり、弾薬を投下する場面。
 そして、最後には、カメラを大事そうに抱えて死んでいる少年の図。
 もう一枚、無造作に置かれている割には綺麗にされているパネル写真があった。
 数人の兵士が至近距離で銃を向けている写真。
 こんな至近距離では、カメラマンが無事で居られるはずはない。
「これは、俺が撮った写真じゃないんだ」
 静かな鬼柳の声に透耶が顔を上げ振り返った。
 いつの間にか、透耶の後ろに鬼柳が立っていた。
「これはな、イアソンが死に際に撮った遺作だ」
 鬼柳は言って、透耶が持っているパネルを眺めている。
「亡くなったの?」
 透耶がそう聞くと、鬼柳は頷いた。
「これを撮った後に殺された。これはイアソンが最後に撮った写真で、アメリカで幾つか賞を取った。皮肉な事に、賞のお陰でイアソンの家族はアメリカに亡命する事が出来た。お金も十分過ぎるほど入った。最後の親孝行、10人の家族がそれで生き延びた」
「………」
 透耶は言葉を失ってしまった。
 鬼柳はずっとパネルを見つめている。
 これが、鬼柳が整理出来ないでいた話の内容だった。
 ここを見せるという事は、この話をしなければならなくなる。
 鬼柳は、やっとその決意をして、透耶をここへ連れてきたのだ。
「俺がカメラを預けて、少しイアソンの側を離れた隙の出来事だ。あいつは俺のカメラを守る為に殺された。カメラなんて渡せばよかったのに、あいつは死んでもカメラを離さなかった。カメラはレンズが壊れてただけで無事だったよ」
「……それで、どうでもいいって」
 鬼柳がカメラを大事にしない訳。それはそのせいで亡くなった人がいたからだった。
「そう。命の方が大事だ。でもカメラマンの性かな。死んだあいつの写真を一枚撮ってしまった。遺体をちゃんと埋めたかったんだが、敵の襲撃で村をすぐに離れなくてはならなくなって、イアソンはそのままになった。
 
  カメラも捨ててきたんだが、こういう所では、カメラの所有物が誰なのか解るようになってて、村の生き残りがこういう物を大使館に届けると僅かだが、向こうでは家族が何年か生きられる大金が貰えたりする事があって届けてくれた。捨てたものだけど、遺品になるから受け取った。でもフィルムは現像しなかった」
 いや、しなかったのではなく、出来なかったのだ。
「じゃあ、これはどうして?」
 現像しなければパネルが残るはずはない。しかもそんな思いがあるなら、鬼柳は絶対にこんな写 真はパネルなんかにしない。それは透耶にも解る事だ。
「捨てるつもりで置いてあったんだが、お節介なカメラマンが勝手に中身を抜き出して現像したんだ。そしたらフィルムの最後にその写 真があって、そのままそいつの写真展に飾られた。他にも俺が捨ててあったものも使われてた。そっちの少年の写 真。あれがイアソンだ」
 カメラを大事に抱えて亡くなっている少年の写真。
 それがイアソン。鬼柳の心に残る辛い思い出の一枚。
「これが……イアソン。地元の子供だったの?」
 服装からしてカメラマンではない。地元の子供と解る。
「ああ。何故か俺に懐いてて、カメラにも興味があって、それで予備のカメラを貸して少し教えてた。純粋で、村の様子を撮った物が沢山あって、その中で皆苦しいのに笑ってる。イアソンが撮ったから村そのものが撮れていて、綺麗だったんだ。
 好きな物を撮るって事がこれほどなんだと思い知らされた。これが終わったら、イアソンをアメリカに呼んで写 真を教えようと思った。そう約束したんだ。なのに、たった数分で、命が絶たれた」
「……どうして」
 透耶は先を進めるように聞いた。
 鬼柳は辛くてあまり話したくない様子だが、それでもこれは話さなければと思っている。
 沖縄で透耶が話をした時と、逆の展開だ。
 先を進める言葉があると、踏み止まろうとする言葉を吐き出す事が出来る。
 透耶はそうだった。だから、鬼柳も同じかもしれないと、鬼柳が言葉に詰まる度に聞き返す。
 鬼柳は、写真の前に座ってそれを眺めている。
 透耶も隣に座った。
「敵じゃなかった。味方の軍がカメラを向けているイアソンを報道カメラマンと勘違いしたんだ。だから、この写 真は証拠になる。元々は村にいた俺達カメラマンが標的だったとも言われてる。事実は解らないが、親しかった兵士が俺に逃げろと言った。狙われているから、早く国へ帰れって。俺がマトモに取り合っていたらイアソンは今でも生きていたと思う。内戦だったから、終わったのは一ヶ月後だった」
「どうなったの?」
「イアソンを殺した兵士はとっくに死んでた。これは何の証拠にもならなかったよ」
 そう言った鬼柳が見ているのは、イアソンを撃ったであろう、男が写っているパネル。
 イアソンが最後に残した写真。
「それじゃあ……これは……」
 鬼柳が死んだイアソンを写した写真パネル。
 この写真がパネルになっているのはおかしい。
 イアソンの写真の方は、鬼柳がどうこうする権利がないのかもしれない。
  鬼柳が写したものではないから、鬼柳はそれをどうにかする事が出来ないでいた。だから、取られた時にも何も出来なかった。
 しかし、これを見せ物にするなんて事を鬼柳がするはずはないと透耶は思っている。
 透耶がそういう事を聞きたがっているのは鬼柳にも解っていた。
「イアソンの家族が写真集を作る事を望んだ。それがカメラマンになりたがっていた息子に出来る最後の事だからって。俺が最後にイアソンを撮った事は、何故か両親が知ってたんだ。
  両親は、息子の無念を知らせる為にそれを出してほしいと言った。俺はそれに協力するしかない。この写 真は出したくなかったけど、今更って感じだな。有名カメラマンが挙って手伝って、写 真集は出た。最後の写真がこの二つ。殺される寸前と殺された後」
 鬼柳は兵士が写っている写真を指差し、イアソンの最後の姿の写真を指差した。
「見せ物じゃないのに……」
 まさに、写真集を売るには絶好の宣伝にはなる。
 写真展をやるにも、これほどの話題を攫う内容はないだろう。
 透耶はその無情さに、悲しさを覚えた。
「そうだよな、俺はそんなつもりでシャッターを切ったんじゃない。でも、内心はそうだったのかもしれない。こんなものを撮りたかったと少しでも思ったのかもしれない。最悪な事に、この写 真で俺は賞とか取りそうになった。話題が話題だけにな。んなもんいらねぇ、だからネガも全部処分した。でもこれは何故か処分出来なかった。ネガは出来たのにな。これは俺の手元に残る唯一の写 真だ」
 鬼柳は、何故それを処分出来なかったのか、自分でも不思議でならないらしい。
「これは、イアソンが最後まで好きだったカメラを守り通した証拠なんだ。それが解るから捨てられないんだ」
 鬼柳の意志やカメラの扱いが粗雑だった理由からすれば、これは説得などになりはしないと透耶は思う。
 カメラなんかより命が大事だと鬼柳は言っている。
 命を粗末にしてまで、何かを撮る必要はないとも思っている。
 だから、イアソンがカメラを守ったというのは、鬼柳からすれば、信じられない事なのだろう。
 何故命を大事にしないんだと、何度も思っただろう。
 それでも、透耶には、何故イアソンがカメラを守ったのか、それが痛い程解る。
 イアソンはカメラを好きだっただろうが、それよりも鬼柳の事が好きだったに違いない。
 もし、透耶が同じ立場だったとしたら、きっとイアソンと同じ事をしただろう。
 透耶がそう呟くと、鬼柳は少し驚いたような顔をしたが、その謎が解けたような気がした。
「それはあるかもな。でももう戦場へ行く報道は出来ない」
 きっぱりとした鬼柳の言葉に透耶は真剣な顔をした。
「何故?」
 執着をしない鬼柳が、唯一続けてきた仕事だ。
「そこに感情を残しては、やっていけない。色々と考える。また同じ事が起ったら、俺はシャッターを切れない。カメラを捨てて助けてしまう。それではもう報道のカメラマンじゃない。ただのボランティアだ。そういうのを撮りたがってる奴は沢山いる、何も俺が進んでやる必要もないしな」
 鬼柳は本当にそう思っていた。
「だから、今は仕事してないの?」
 鬼柳の仕事の休暇理由がこれだとは、透耶は思いもしなかった。
「ああ、元々契約とかしてた訳じゃないし。カメラは辞められないが、撮る物が変わってもいいんじゃないかとは思う。戦場にいかなくても撮る物は沢山ある」
 だから、鬼柳は笑っている透耶を沢山撮る。
 生きて、笑っている写真を撮る事で、死んだイアソンを撮った事を忘れようとしている。
 透耶は、いつも鬼柳が笑えという意味が理解出来た。
 こういう写真を戦場で撮っても誰も責めない。だから己を責める。
 カメラを捨てられたらどれだけ楽か。でもそれを捨てられない自分をも責めている。
 そして、この人はイアソンの死を悲しんでいるのに泣いてない。同じだ。泣けなかった自分と同じだ。
「恭、おいで」
 透耶は床に座ったままで、鬼柳の方に両手を差し出した。
 鬼柳はそのまま倒れかかるように透耶に抱きついた。肩に顔を埋め、暫く黙ったままだった。
「いいよ、俺しか聞いてないから」
「……」
 透耶の言葉を切っ掛けに鬼柳は静かに泣き始めた。嗚咽は聴こえない。でも肩が濡れるのが解った。
 きっと鬼柳を慰める言葉は必要無い。
 透耶はそう思って、ただ泣いている鬼柳をしっかりと抱き締める事だけをしてやった。
 それしか透耶には出来なかったから。



 暫く静かに泣いていた鬼柳が顔を上げた。
 透耶は鬼柳の頬に手を当てて撫でた。
 涙が綺麗だったから、キスをして吸い取った。
 顔中にキスをして、最後に唇にキスをした。
 鬼柳はされるがままで、泣いてしまって呆然としている感じだ。
「結構、泣くと恥ずかしいな……」
 鬼柳がボソリと呟いた。
 透耶はその言葉に、優しく微笑む。
「何故? 可愛いのに」
「……そういう事を言うか?」
「だって、恭も言ったじゃないか」
「……襲うぞ」
「照れたって駄目だよ」
「襲ってやる」
 鬼柳はそう言って透耶を押し倒す。
 が、襲うのは冗談ではなかった。
 ズボンのチャックを外して手がスルリと忍び込んできた。
「ちょっと、こんな所で、嫌だよ!」
 
 うわ!……マジでやる気!?
 透耶は慌てて鬼柳を止めようとする。
「警告したぞ。止めなかったのは透耶だ」
 鬼柳には止める気はなく、行為はどんどんエスカレートしていく。
「待って……ん」
 止めようとするが、深く口付けられて透耶の抗議の声は塞がれる。ズボンに忍び込んだ手が、透耶自身を掴み出して扱き始める。
「んん……やあ!」
 ゾクリと快感が走って、甘い声がすぐに出てしまう。
「イイ声」
 鬼柳は満足したように、透耶の耳元でそう言った。
「……この!」
 怒って睨み付けると鬼柳はニヤリとしている。
 ……こいつ、マジでここでやる気だ!
 押さえ付ける手とズボンを脱がす手が別々に動いて、器用に下半身を剥かれてしまう。
 さっさと下半身にターゲットを絞って、透耶自身を口に含んで扱き始める。
「ぁん……あ、はぁ、ん……」
 指や舌、唇で同時にやられると、ここが何処かなどという問題はなくなってしまう。
 指が孔をつっと撫でて忍び込んでくると身体は跳ね上がる。
「あ……や……んっ!」
 後ろの抜き差しと前を刺激されて、頭の中は真っ白になる。
「ん、やぁ…あんっ…」
 透耶は恥ずかしくて仕方がないが、鬼柳には止める気配はない。
 鬼柳のやり方は、いつもより強攻で、透耶はただ快楽に身を落とすしか出来ない。
「はあ……んんっ……あっ!」
 段々と追い詰められて、透耶は自分を放ってしまう。
「んっ……」
 鬼柳は透耶の放ってしまったものを口で受け止め、それを吐き出して孔へと塗り込む。
  抜き差しがしやすくなり、指が増やされると、萎えたものが素早く反応してしまう。
「や……んっ……!」
「透耶、ちょっと……」
 返事をする前に、身体をグルリとひっくり返された。
 鬼柳に腰を突き出す形にされて、驚く間もなく鬼柳の熱いものが腰に押し付けられた。
 透耶は瞬時に、ここが何処なのかを思い出してしまう。
「い……や……」
 ここでは嫌だ、そう抗議をしたつもりだったが言葉が出なかった。
 服従している透耶が本気で抗議をしているのを鬼柳はすぐに感じて手を止める。
「ん? ああ、ここじゃ嫌か……」
 意味が通じたらしく、鬼柳が透耶を抱えてベッドがある部屋へ移った。
 ベッドへゆっくりと降ろされて、鬼柳が素早く服を脱ぎ去った。透耶の上半身の服も脱がすと、覆い被さってキスをしてくる。
「んん……」
 それを素直に受け入れると、鬼柳が己を孔へと押し込んだ。
「んっ……!」
「……クッ」  
 キツイと思いながらも欲望は押さえられない。無理にでも透耶の中に収まってしまいたかった鬼柳は一気に透耶の中へ入り込んだ。
「……あ! い……たっ!」
 無理に押し入る鬼柳自身の大きさと圧迫感に、暫くしていなかったから、透耶の内部にはきつく痛みが走る。
 全部収まってしまうと鬼柳は透耶の瞳から流れる涙を唇で吸い取る。
「ごめん、余裕ない」
  鬼柳は切羽詰まった声を出して言うと、ゆっくりと動き始める。
「はぁ……んっ、あ……」
「透耶……愛してる……」
 鬼柳はうわ言のように何度も繰り返す。透耶はその言葉に完全に酔ってしまう。
 甘い言葉。
 愛してる。
 透耶は何度も頷きながら、鬼柳の腰の動きに合わせて自分も腰を動かす。
 こういう快感を与えられるのは、鬼柳しかいない。
 それしか考えられなくさせる鬼柳が愛おしい。
 絶対にこの手は離さない。
 透耶は強く鬼柳を抱き締める。
「ん、キョウ……、もう……」
 透耶の声で鬼柳の動きが速くなる。
「一緒に……」
「んん……」
 鬼柳の動きに高められて、二人は同時に放った。


「もう……ここへ何しに来たんだよ……」
 透耶は鬼柳を正座させて怒っている。
「御免、つい」
 反省しているらしく、鬼柳はしょぼんとしている。
「ついでやるな!」
「だって、透耶だって良かっただろ?」
 反省してやがらない!
「そういう問題じゃないでしょ!」
 泣いてた奴がいきなり欲望MAXか?!
 しっかり3回もされてしまった透耶である。
 ああもう……何やってんだよ……。
 思わず頭を抱えてしまう透耶。
「どうした? きつかったか? うーん、最近あんまりやってないしなあ。ちょっと張り切り過ぎたか?」
 などと言うものだから、透耶の鉄拳が鬼柳の頭に飛ぶ。
「アホか!」
 透耶はそう言い残して部屋を出た。
 玄関前の部屋に脱ぎっぱなしの服を拾うと、思わずイアソンに手を合わせて謝ってしまう。
 御免ね、あんな色情魔で。
 そんな事をやっている透耶を見て、鬼柳は微笑んでしまう。
 風呂の場所を透耶に教えて先に風呂に入らせた。透耶の着替えがないから、鬼柳のワイシャツを出し、上着はさすがに汚れたので洗濯をした。
 そりゃ、土足の床で押し倒したりすれば汚れる。


 鬼柳が風呂に入って出てくると、透耶は棚に無造作に突っ込まれていた写 真を広げて見ていた。
 床は土足なので汚れるから、何処からか出してきたビニールの敷物を敷いて、その上に写 真を並べている。
 戦場の写真はパネル以外は置いていない。ネガはあるが、写真自体は何処かの事務所にあるはずである。
「ん? 何だこれ?」
 ジーパンだけで上半身裸状態の鬼柳が頭からバスタオルを被って、雫を零しながらしゃがみ込んで写 真を見た。
 写真に、雫がポタポタと落ちている。
「恭、写真が濡れるよ」
 透耶が注意するが。
「別に構わねえ」
 本当にそんな事気にしてないようで、一部写真を踏み付けている。
 自分が撮ったものに執着がない。
 そういえば、フィルムを持って行かれたと言っていたが、それを取りかえそうとかそういうのは思わなかったようだ。もし、本当に取りかえしたかったら、発表された時点でも、抗議して取り下げる事も出来ただろうが、それもやってない。
 唯一したのは、イアソンの最後の写真のネガだけ取り戻して処分した事だけだろう。
 透耶は鬼柳を引き寄せて、頭にかかっているタオルを取ると、きちんと鬼柳の濡れた頭を拭いてやる。
 そうすると鬼柳は気持ち良さそうに目を瞑ってされるがままになる。
「自分で撮ったものを大事にしないの?」
 透耶が不思議そうに聞くと、鬼柳はうっとりしながも簡単に答える。
「あ? んー、報道ものは適当に誰かがやってたしな。管理もしてねえ。ネガは持ってるが、何処に何があるのか知らねえ。面 倒臭いしな」
 どこまで無関心なんだ……。
 透耶はあまりに鬼柳が、自分の写真に執着がないから呆れてしまう。
 あらかた髪を拭き終わった所で、透耶の関心はまた写真に戻ってしまう。
「じゃあ、これは?」
 戦場写真以外の、風景を撮ったりしている写真。
 透耶が見ているのは、そればかりである。
「んー、こりゃただの暇つぶしで撮った奴だ。現像も練習しねえとやり方忘れそうだし、カメラも休ませると錆びるしな。適当に撮ったから、大したもんじゃねえよ」
「ええ? だってこんなに綺麗なのに」
 透耶は嘘だ!とばかりに言ったのだが、鬼柳はまた簡単に言い返す。
「こんなもん、誰でも撮れる」
 誰でも撮れたら、プロカメラマンなんて職業はないよ!
 殆どが風景の写真。自然をそのまま切り抜いたような美しい写真だ。
 本人が適当とは言っているが、これが鬼柳がファインダーで覗いた世界。あまりに綺麗で、透耶はこれを見付けた時、心臓が止まりそうだった。
「これ何処?」
「こりゃ、スイス側のアルプス」
「こっちは、ジャングル?」
「ああ、アマゾンだな。かなり深部に入ってのだ」
 沖縄で話していた、あの飲み込まれそうな壮大な自然。大木が立ち並ぶ中で、鬼柳の写 真は木を下から眺めたり、見えない空を仰いだり、見た事もない動物が木々の間に映っている。
 風景の中に自然にあるもの、それが美しく切り取られている。
「これは何処の街?」
「トルコ。イタリア、ロシア。これはスウェーデンかな?」
 束ねた写真を一つ一つ差して、説明してくれる。
 街の写真なのに、殆ど人が映ってない。顔の判別が出来ない位置からしか撮ってない。
「これ、オーロラだよね」
 綺麗な七色のカーテンが空からかかっているように見えるオーロラ。
 何処までも続いているような感じで、透耶は感動してしまう。
「偶然撮れた。色とか形とかが撮る度に変わるから、面白かったから撮ってたが、寒いのは堪られなかった」
 そりゃ、オーロラが出る所だから、寒いに決まってる。
 どう考えても風景写真家ではない物の言い様。こんなに綺麗なのにまったく執着がない。
 まだ写真踏んでるし……。散らかすし……。
 出てきた時は、雪崩てくるし……。
「人物はないんだね」
 散々出てきた写真には、人を写したものはない。
 意外な事に、人物が写っているモノが一枚もなかったのである。
 まるで写るのを避けているかのようだった。
 それに鬼柳は簡単に答えた。
「仕事以外じゃ人は撮らない。勝手に撮ると嫌がられるし、断わって撮ると、いいのは出来ないし面 倒臭い。俺も撮られるのは好きじゃないからな。どうしても避けてしまう」
 
 つまり、自分が撮られるのが嫌なので、撮りたくないというだけな事らしい。
 そんな簡単な理由なのだが、透耶はふと思い出した。
「あれ? でも俺撮ってたじゃん」
 散々被写体にされてきた透耶が言うと、鬼柳は笑って答える。
「それは趣味だからいいんだよ。撮りたかったし」
「これは趣味にならないわけだ?」
 風景写真を指差して問うと頷かれた。
「ただ撮ってるだけだ。何か思って撮った訳でもない」
 何も思ってなくてシャッターを切る。
 それだけでこんな写真が撮れるのか?
「沖縄の写真は、まだ現像してないよねえ?」
 じゃあ、何か思って撮りたかったという自分を撮った写真はどうなのだろうか?
 その写真に透耶は興味を持ってしまう。
「ん、まだだな。見たいのか?」
「うん」
「時間かかるけどいいか?」
 鬼柳はうーんと考えながらそう言った。
「現像ってそんなにかかるの?」
 透耶がキョトンとして言う。
 普通に現像に出せば一日で出来上がってくるものだが、自分でやると何か違うのだろうかという疑問を込めていたのだが。
「いや、撮った本数が多いから」
 そんな言葉が返ってきて、透耶は唖然としてしまう。
 一体、何本撮ったんだ……。
 恐ろしくって聞けない。
 でも、カメラマンとしての仕事はどうするんだろう?
 このまま無職って訳にもいかないだろうし。
「ねえ、仕事はどうするの?」
 透耶がそう尋ねると、鬼柳はキョトンとする。
「? 何の?」
 本当に何の事だといわんばかりの顔だ。
「恭の仕事」
 透耶がはっきりと言い切ると、鬼柳は不思議な顔をして透耶に聞く。
「俺の? うーん、しなくても食っていけるからなあ。就職した方がいいか?」
 いいか?ってそりゃあんた、そういう事を人に聞くか?
「まあ、家でゴロゴロしててもねえ」
「そうか……まあ、考えてみる」
 鬼柳はそう言ったっきり黙った。
 すっと立ち上がって、透耶が見ていた棚ではなく、別の棚を何か探しているらしく、ゴソゴソやっているとアルバムらしいものを取り出した。
 何だろうと見ていると、鬼柳はそれを持って透耶の隣に座った。透耶が覗き込むと、そこにはまだ若い鬼柳が写 っている写真があった。
「うわああ、恭、若いー、幾つ?」
「これは、16くらいだな。知り合いのカメラマンが撮ったやつで、隣に写 ってるのが、その息子」
 カメラマンの息子と笑って肩を組んでいる写真。
 嫌がったのに、こっそり撮られてたと鬼柳は苦笑している。
「この頃だな、カメラを貰ったのは。一眼レフなんだが、それを貸してくれて、何か撮ってみろって言われて、適当に撮ってフィルム入れたままで返したら、カメラをくれた」
「はあ? 何で?」
 なんだそりゃ?
「さあ? その時撮ったのは見せて貰ってないが、何かどっかに出したとか言ってた。変な受賞式の案内があったけど、面 倒臭いからいかなかった」
 何だかんだで面倒くさがりなのは昔かららしい。
 面倒臭いというよりは、興味がないものには感心さえ示さない性格である。だが賞を取る程の腕前があるのは確かで、それをそのカメラマンが見抜いていた。だからカメラを上げたのであろう。
「結局、何を撮ったのか覚えてないの?」
 透耶が呆れて言うと、鬼柳は首を振った。
「撮ったのは覚えてる。ハーレムの知り合いを撮ってた。喧嘩しているのとか、銃を練習している所とか。普通 なら入れない所も、色々撮らせてくれた。下手すりゃ殺される可能性もあったが、俺の知り合いがかなりの権力があって、それでフィルムが無くなるまでならって付き合ってくれた」
「へえ、それ見てみたかったなあ」
 鬼柳が最初に撮ったちゃんとした作品。透耶もそれには興味があった。
「どっかにあるだろう」
 本当に自分の撮った物に興味のない人だ。
 賞を取った程の作品さえ管理しない。
「この時からカメラの事は時々やってたかな? 旅行先とか、そういうので撮ってた。現像とかカメラの手入れとかもその時に習った。まあ、その時に撮ったのは大半エドに持ち逃げされたけどな」
 持ち逃げって、エドワードさん、りっぱな犯罪です……。
 とはいえ、それでも鬼柳は取り返そうとはしていない。じゃあその写真はどうなったのか。エドワードに聞かなければ解らない。
「そういえば、エドワードさんといつからの知り合いなの?」
 これは全然聞いてない事だった。
 いつから知り合いだったんだろう?
「んあ? エドとか? あいつとはいつだったかなあ? ああ大学入ってからだ。あいつも飛び級で入ってて、どういう訳か、付きまとわれてな。訳解んねえ事言いやがるから頭がおかしいんだと思ってた。フィルムは持ち逃げするし、勝手に家に入ってくるし、迷惑被ってた。まあ、あいつといると女とかが寄って来ないから便利だったけどな」
 ……エドワードさんは、虫よけですか?
「モテたんだ」
「さあ? どうか解らねえが、ただ素人の女は面倒臭い」
 淡々と言う割には、凄い台詞である。
 しかも、自分がモテている自覚もゼロだ。
「何で?」
「付き合うだ、愛し合うだ、一回寝ただけで結婚だ、そんな事言うからさっぱりだ。ガキ捕まえて何言ってんだって所だな。まあ、俺はやれりゃあよかったしな」
「獣……」
 やっぱりやりたい放題で荒れてたんだ。
 来る物拒まず……解る気がする。
「そういうなよ。やりたい年頃だったんだよ。自分が気持ちよけりゃそれでいいみたいな、自分勝手なやり方。透耶に会うまで、セックスってそういうもんだと思ってた。俺がよけりゃ相手もいいだろうみたいな。でも違うな、透耶が気持ちよくなってるのを見るとこっちも興奮する。もっと気持ち良くさせたくなる」
 ニコリとしてそんな事言われても、頷けない。
 確かに気持ち良くはあるが、素面で言えないものだ。
「……それはいいってば……」
 透耶は顔を真っ赤にさせて、とにかくこの口から出る言葉を封じなければと思った。
「何で顔が赤いんだ?」
 鬼柳はニヤリとして、透耶の顔を覗き込む。
「いいってば……」
 透耶は真っ赤になっている顔を見られたくなくて抵抗する。
 鬼柳はわざと透耶の耳元で囁いてみた。
「何、気持ち良くなってない? おかしいなあ、透耶いい顔するのに、ちゃんと勃ってるし、イッてるし」
「ああもう! 言わなくていいってば!」
 どうしてこうストレートにきくかなあ!!
 ちらりと鬼柳を見ると、ニヤニヤと笑っている。
 んおお? 
 いつの間にか、腰に鬼柳の手が回っている。もう片方が腹を撫でている。
「大丈夫、何もしないから」
 そう言われて引き寄せられ、透耶は鬼柳の開いた足の間に身体を収められて後ろから抱きつかれた。
 まだ濡れている髪を梳かれて、透耶は気持ち良くてうっとりしてしまう。人に触られるのはあまり好きではない透耶ではあるが、初めから鬼柳の手は心地いいものだった。
「大学の休みの間に、中東へ何度か行った。親父は許さなかったけど、エドの会社でバイトして自分で金作って行った。見た事ない世界で圧倒された。見渡す限り砂で、でも人が生きている。そういうのに惹かれた。
 それで、大学出てから日本へ帰ったカメラマンを頼った。それから報道やってた。そのカメラマンが報道の専門で、助手みたいについてやってたけど、2年で独立して色々回った。撮った写 真には興味はなかったけど、その場所にいるのは好きだった。俺のいる場所はそこなのかもとか思った」
 静かな言い方が、透耶は何故か凄く遠い気がした。
 鬼柳が思った、遠くへ行ってしまう気がした、消えてしまう、そんな気持ちが今は凄く解った。
「透耶?」
 いきなりしがみついてきた透耶の様子が少しおかしい事に気が付いた鬼柳が声をかけると、透耶ははっとしたように腕を離した。
「……あ、うん、御免。続けて」
「大丈夫か?」
「うん。だから続けて」
 透耶は言って鬼柳に身体を預けた。
「その場所以外も、沢山あちこち回ったけど、結局砂漠へ、ジャングルへ戻ってた。でもイアソンが殺されて、どうでもよくなった。別 に俺がカメラをやっていたから、イアソンが死んだなんて言わない。でもカメラを預けて、「壊すなよ」と言った言葉は後悔している。だからもう戦場は御免だ。写 真も仕事も、全部捨ててやろうと思った。それで逃げ回ってた」
「逃げる?」
 鬼柳の意外な言葉に、透耶は驚いて聞き返した。
「俺に仕事を勧める奴とか、知り合いのカメラマンとか、エドとか。二ヶ月くらい逃げてた。それで日本も最後にしようと思って、あの海に行った。本当はカメラを捨てようとしてたんだ」
 決別しようとした日、その日に鬼柳は透耶に出会った。
「あの海。初めて会った所だね。あそこで最後にしようとしてたの?」
 あそこで最後にして、カメラを捨てようとしていた?
 でも、あの後も、鬼柳はカメラをちゃんと手入れしていたし、沖縄では、もういいってくらいに写 真を撮りまくってたのに、あの時に辞めようとしてた?
 その言葉は、今は矛盾だらけである。
「うん、そう。そしたら透耶がいた。暫く見とれてた。凄く楽しそうにしてたから、綺麗だと思った。そしたらシャッター切ってた。海を撮って終わりにしようと思ったのに、夢中でシャッター切ってた。人は撮らないと決めてたのに、どうしても止まらなかった」
 それほど夢中になれるなら、答えは決まっている。
「結局カメラが好きだったんだよ」
 透耶がそう言うと、鬼柳は笑って答えた。
「かもな」
「そうだよ、だからカメラ捨てなくてよかった」
 透耶がそう言って笑うと、鬼柳は微笑む。
「これから、死ぬまで透耶をいっぱい撮る。こんなに幸せだったって、後悔なんてなかったって、ずっと残る物にするよ」
 物凄い事を言い出したので、透耶は驚いてしまう。
「凄い計画だねえ。面白そう」
 透耶がそう言って笑うと、クルリと鬼柳と向き合うように身体の向きを変えられた。
「だろ? だから笑ってろ」
「あっははは、笑わせてくれるのは、恭なんだろ?」
「そうだな。透耶、ずっと笑ってろ」
 愛おしくて仕方がないという風に、微笑まれて、瞳の奥から優しく見つめられると、この男に靡かない人は絶対にいないはずだ。
「うん」
 これ以上ない幸せを与えてくれる。
 この人を選んだ事を一生後悔しない。