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switch15

「恭、今から出かけるんだけど」
 透耶がご飯を食べながら言った。
 ご飯をかき込んでいた鬼柳はふっと顔を上げた。
「何処へ」
 真剣な瞳で見ている。
 何故、一瞬でマジになるんだ……。
 過剰反応らしい対応をされて、透耶はやっぱり黙って行けば良かったかと思ってしまう。
 しかし、正直に話さないとたぶん部屋から出してくれなくなるだろう。
「出版社。打ち合わせだけど、手塚さんが社を離れられなくて、俺が出向いた方が早いから」
 これは本当の事だ。
「解った、俺も行く」
 鬼柳はそれで解決だとばかりに話を終わらせようとした。
 ほら、だからあまり言いたくなかったんだ……
 透耶は何とか一人で行こうと試みるのだが。
「電車で行くからいいよ」
「駄目だ。一緒に行く。車出す」
「一緒に来たって、面白くもないよ」
「いい」
 全部否定ですかあ……。
 いつでも、何処でも一緒というわけにはいかないだろうに、鬼柳は未だに解ってはくれない。
 というか……。
 俺に選択権はないって事ですかあ?
 などと、透耶は悩んでしまう。
 それから、結局鬼柳が同行する事で出かける事が出来るようになった。
 案の定、鬼柳を置いて行こうとすると、鬼柳は部屋に閉じ込めると言い切ったからだ。
「そういえば……。恭、仕事はどうするの?」
 透耶がいきなりそう切り出した。
 ここへ来てからもう二週間経っている。周りも落ち着いてきたのに、鬼柳は未だに仕事の事などを話そうとはしていなかった。
「あ? ああ……それか……」
 鬼柳は、今の今まですっかり忘れてたと言わんばかりの反応だ。
「まさか、仕事しないつもり?」
 目一杯疑わしいという眼差しで透耶が見ると、鬼柳は少し困った顔をしている。
 ……しないつもりなんだ。
「お金はあるだろうから、仕事しなくてもいいかもしれないけど、そのまま俺にずっとくっついているつもりなの?」
 怒っている言い方ではなかったが声に力が入ってしまう。
 鬼柳は少し言いにくそうに言い訳をする。
「……しかし、家の事もあるし」
「それは宝田さんの仕事だよ。食事とかなら、俺だって自分の分くらい作れるし、通 いのメイドさんでも雇えば、雑用は任せられる」
 透耶がそう言ったとたん、逃げ腰だった鬼柳が居直った。じろりと睨まれ、低い声で言った。
「メイドだと?」
 これが禁句なのは解っていたが、それでもこの広い家を綺麗に維持していくには、業者の掃除だけでは毎日とはいかない。全て鬼柳や宝田にやらせる訳にもいかず、とはいえ透耶も仕事に入ると手伝う事も出来ない。
「何に過剰反応してるのか解らないけど、居た方がいいのは解るでしょ」
 透耶はそう説得するが、鬼柳は素っ気無く言い放った。
「いらない」
 鬼柳は完全に否定する。
 透耶は溜息を吐いて、お箸を置いた。
「頭から否定してどうすんの。じゃあ、メイドが駄目な理由を聞いてもいいの?」
 透耶がそう言うと、鬼柳も箸を置いた。
 しかし、視線だけは透耶から外さない。透耶も睨み返していた。どれだけ睨み合っていたのか解らないが、鬼柳の方が先に折れた。
「とにかく、暫く出かける仕事はしない。そう簡単に見つかるものでもないんだ。今は、写 真の整理をしてるから、それが終わったら探す」
 鬼柳が首を掻きながら、そう言った。
 そう言われて、透耶はそれもそうかと頷いた。
 職として、やはりカメラを続けて欲しいから、報道でなくても鬼柳が納得しなければ、仕事にはならないだろう。
「まあ、そうだけど。ちゃんと考えててよ。じゃなきゃ、俺もう知らないから」
 透耶は言って、お箸を取ってご飯を再度食べ始めた。
 鬼柳は既に食べ終わっていたらしく、お茶を入れ直しにキッチンへ行こうとしたが立ち止まって振り返った。
「知らないって?」
 一体何を言っているという不思議顔だ。透耶は上目遣いに鬼柳を見て言った。
「家出してやる」
 透耶の突拍子もない言葉に鬼柳の開いた口が塞がらない。
 何でそうなるんだ……?
「……透耶。何だその脅しは……」
 仕事をしない事を透耶が気にしているのは解るが、鬼柳が就職しないと透耶が家出するのかが解らない。
 透耶はそんな鬼柳を放っておいて、勝手に話を進める。
「仕事をしない夫を持った妻が、生活に絶えかねて家出しちゃうんだ」
「……透耶?」
 まったくさっぱり訳が解らなくなる鬼柳。
 透耶なりに何かを表して意味がある事を言っていると思うが、それを理解する能力は鬼柳にはない。というか通 常の人にもないかもしれない。
 鬼柳がじっと考え込んでいると、透耶がご飯を食べ終わって「ごちそうさま」と手を合わせた。そして、食べ終わった食器を集めてキッチンへ運ぶ。
 簡単に油を洗い流して、食器洗浄機へ入れてセットする。
 それが終わると、透耶は洗浄機の前に座って呟くように言った。
「家に縛り付けて、監視みたいになってて、行動も家の中以外は自由じゃなくて、俺って何なんだろう? そんなに信用されてないのかあ? そりゃ過労とかしちゃったし、仕方ないとは思うけど、今までだって一人でやってきた訳だし、少しは信用されたいよなあ」
 別に今の環境に嫌気がさしてる訳でもない。鬼柳を批難している訳でもない。
 ただ、透耶は、自分が行動する事を信用して欲しかっただけ。
 行動を制限されている事には慣れている。昔からそうだったから。好き勝手やらせても貰っている環境でもある。
 だけど好きな人にくらい、少しは信用して欲しい。
 ずっと鬼柳が側にいて守ってくれるのは嬉しい。でもそれに慣れてしまったら。少しでも離れる事が怖くなったら。
 それが地獄に落ちる程の喪失感があったとしたら。
 空いた穴を埋めるのは難しい。
 透耶はそれを恐れている。
 だから、今まで通りとはいかなくても、せめて一人で行動する事に慣れなければならないと思っていた。
 座り込んでいる透耶の側に鬼柳が立っていた。
「……信用してない訳じゃない。俺が安心出来ないだけなんだ」
 鬼柳はそう言って座り込んだ。
「?」
 透耶が驚いて振り返ると、そのまま抱きつかれた。
 何?と透耶は驚いたが、鬼柳は透耶の肩に顔を埋めて、身体を包む腕の力が強くなる。
 こういう鬼柳を見るのは二度目だ。
「何故か、透耶が側にいないと、今までが夢だったんじゃないかって考える。朝起きて、透耶が隣にいなかったらって、いつも考える。俺は透耶みたいに割り切れないらしい」
 静かな声で鬼柳は本音を語る。
 だから鬼柳は、朝は先に起きて、夜は後に寝るのだ。
 自分でも、両想いという状況は初めての事だ。いつ透耶が黙っていなくなるかもしれない、そういう不安に襲われる。もちろん、透耶がそうした事をするはずはないと理解しているのだが、やはり不安というのは打ち消せず大きくなってしまう。
「……恭」
 時々、鬼柳は不安がっている。たぶん、何より大切な物を失ってしまうかもしれない不安。今までにそういう大切なモノがなかったので、どう対処していいのかさえ解らない。
 透耶は鬼柳を抱き締め返した。
 何よりこの人が弱音を吐く所は自分の所しかない。言葉はいらない。ただ抱き締めるだけで、透耶が納得した事は伝わる。
「御免。でももう少しだけ、俺が自信つくまで、一番近くにいさせて」
 鬼柳は言って暫く透耶から離れなかった。
 透耶は頷く事しか出来なかった。


 午後になって透耶と鬼柳は出版社に出掛けた。
 周りは出版業界が立ち並ぶ場所で、大型書店も数点ある。
 鬼柳は、こういう場所に来た事がなかったらしく、少し驚いたように言った。
「こんなに本屋ばっかりあって商売になるのか?」
「あははは、ここは問屋みたいなもんだよ。全国各地に書店を持ってるから、出版社に近い方が何かに便利なんだ」
「ふうん」
 意味はたぶん解ってない……。
 透耶はまあいいかと、出版社に入った。
 書籍編集部があるのは、4階。エレベーターへ乗ると、一緒に乗った人達の視線が突き刺さる。
「?」
 何だ?
 透耶が振り返ると、目を反らされた。
 まあ、光琉と間違えられている訳ではなさそうだ。
 さすがに街に出る時は、顔を見られないように帽子を深く被っている。光琉が外へ出る時はサングラスしかしない事は有名で、帽子はあまり被らない。
 気付かれても、シラを切り通すのには慣れている。
 4階に付くまでに何人か降りて、乗ってくる人にジロジロと見られた。
 透耶は鬼柳の迫力ある姿に見とれていると思った。
 じっと鬼柳を見ていると、鬼柳が視線に気が付いた。
 何故かニコリと笑われて、透耶も思わず笑い返してしまった。
 ……何か違うんだけど。
 透耶がそう思っているとちょうど4階に到着して、鬼柳が透耶の背中を押した。
「透耶、降りるぞ」
「あ、うん」
 透耶は慌ててエレベーターを降りる。
 すると一緒に降りて来た45歳くらいの男性が。
「榎木津……透耶、君?」
 と呼び掛けてきた。
「え、はい」
 名前を呼ばれて透耶は返事をして振り返った。
 ラフな服装で、どうもフラリと散歩でもしてきたかのような風貌の中年の男性。
 どう見ても、透耶には覚えがない。
「誰?」
 透耶が聞こうとした時、鬼柳の方が先に男性に聞いた。
「いや、これは失礼。初対面でしたな。私、中蝉寺と申します」
 中蝉寺と名乗った男性。
 透耶はすぐに思い当たる人に該当した。
「中蝉寺一紀(なかせんじ かずのり)先生!」
 透耶は大きな声で叫んでいた。
 中蝉寺はにこりと笑った。
「そうです」
「うわああ!! お会いしたかったです! 推薦文ありがとうございます!」
 透耶は満面の笑みで、中蝉寺の手を取った。
 初対面にしてはやり過ぎ行為ではあるが、当の透耶はまったくそれすら考え付かなかった。
「新刊出たらいつも買ってます! あああ、お会い出来るなら本持ってくるんだったー。サイン欲しいのにー」
 中蝉寺は呆気に取られていた。
 透耶は本気でサインを欲しがっている。しかもその辺の紙とかノートにでなく、マニアらしく本に欲しいと言っている。
 ただの純粋なファンでしかない。
 中蝉寺の中の透耶のイメージがガラリと崩れ落ちた。
 顔はあの榎木津光琉と双子だから似ているとしても、もっと落ち着いたインテリ風な少年だと思っていたのだ。片方が派手なら、もう片方は落ち着いている、そう双子のイメージがあるのだが、これはどうも違うらしい。
 中蝉寺が呆気に取られているのに気が付いた鬼柳が透耶の暴走を止めた。
「透耶、落ち着け。驚いてるぞ」
 鬼柳にそう言われて、透耶ははっと我に返る。
「え? あ、すみません!」
 透耶は握っていた中蝉寺の手をパッと離した。
「ひゃー」
 透耶は急に恥ずかしくなって、鬼柳に縋り付いてしまう。
「恥ずかしいー」
 恥ずかしがって隠れる透耶を鬼柳は笑って見て言った。
「可愛い」
「可愛いとか言うな」
 透耶が睨み付けると、鬼柳はニヤリとする。
『You turn me on.(じゃあ、欲情する)』
 鬼柳はわざと英語で話し掛ける。
『Don’t …Don’t be stupid. Where do you think we are now!(ば、馬鹿な事言わないの! もうここ何処だと思ってんだよ)』
『Who cares. We are talking in English.(何処だっていいじゃないか。わざわざ言語まで変えてるのになあ)』
 透耶も自分で英語を喋っているつもりはなかったのだが、鬼柳につられる癖が出来たのか、日常会話の殆どが英語に変わってしまうようになっていた。
「それはそうと、そっちの奴、放って置いていい訳?」
 いきなり日本語に戻した鬼柳の言葉に透耶も我に返る。
 後ろでは、中蝉寺が一人取り残されていた。
「すみません!」
 透耶は鬼柳から離れて慌てて頭を下げた。
「いやいや、構わないんだが……」
 中蝉寺は苦笑してしまう。
「あ、榎木津君! そこで何やってんだい。遅いから心配したよ」
 通路の向こうから、担当編集者の手塚がやってきた。
「手塚さん」
「あれ、中蝉寺さんじゃないですか?」
 手塚が透耶と話している中蝉寺に気が付いた。中蝉寺も驚かそうと思っていたらしく、にこりと笑って挨拶をした。
「やあ、手塚さん。昨日電話で聞いたんできましたよ」
「もう対面しちゃったんですかあ。こりゃうっかりだ。榎木津君がファンだって言うから、じっくり対談でもやって貰おうかと考えてたんですけど」
 そこまで雑誌の話が出ていたらしい。
「そうみたいだね。熱烈歓迎されてしまったよ」
 中蝉寺が苦笑して透耶を見た。
 透耶はすっかり照れてしまって小さくなっている。
 ここで、中蝉寺と手塚が鬼柳の存在を初めて気にして聞いた。
「榎木津君。このやたらといい男の人は誰なんだい?」

「何だ……。行方不明の間、鬼柳さんのお世話になってたのか」
「はあ、まあ」
 透耶は何だか説明しずらく、鬼柳に偶然、具合が悪くなった所を助けて貰って、意気投合して、取材ついでに旅行をしていたと話した。
 居場所が言えなかったのは、透耶がまったく知らない場所に鬼柳が連れて行ってくれていたからだと言った。
 手塚がその説明をまったく疑ってはいなかった。
 その鬼柳は、編集部にある来客用のソファで洋書を読んでいる。
 透耶の仕事に、鬼柳が口を出した事は、ただの一度もなかった。寧ろ、透耶が好きでやっている事なので、喜んで見守っている感じだ。 
「彼は、仕事はいいのかい?」
 透耶にサインをする為に、手塚の席について来てくれた中蝉寺が気にしてそう聞いた。
「あ、今休暇中なんです。それで車で送ってくれたんです」
 ……まさか付いてくると言い張ってついて来たとは言えない。
 すると中蝉寺が、言った。
「ふーん、なるほど。ちょっと彼と話してきてもいいかな?」
「え?」
「打ち合わせするんでしょ? 私が聞いても仕方ないしね」
 中蝉寺はそう言うと、透耶の返事も聞かずに鬼柳の元へと歩いて行った。
 透耶が呆然としていると、手塚が笑って言った。
「気を利かせてくれてるんだよ。鬼柳さんも話し相手がいた方が退屈しないだろうってね」
「はあ、そうですか……」
 透耶は、ふと思った。
 鬼柳は別に話し相手がいなくても、まったく平気だと思う。
 寧ろ、邪険にしないかが心配だ。
「じゃ、連載のプロット見せて貰ったけど、これ、面白そうだよ。雑誌の編集者もOK出してくれたから、このまま進めてくれるかな?」
 手塚が仕事の話をしだしたので、透耶もそちらに集中した。
「連載開始は来月からで、一冊の本に纏められるくらいにやってくれるといいんだけど」
「はい、それは出来ます。毎回何枚くらいに納めればいいですか? 俺、長篇しかやった事なくて」
「そうだねえ。原稿用紙で100枚くらいで、一年やってもらえると、雑誌の都合上いいらしい」
「解りました。100枚ですね……合計で千二百枚」
 透耶は頷いて、それをメモする。
 頭の中では、既にページ割が出来上がっているだろう。
 すると手塚がクスリと笑った。
「え? 何ですか?」
 透耶が顔を上げて手塚を見ると、手塚が言った。
「いや、榎木津君って、全然怖じ気付かないなあっと思って」
「はあ?」
 そんな事を言われて、透耶には何の事だか解らないという顔をした。
「ほら、新人で、いきなり連載でしょ。普通の人は、少しはどうしようとか迷うんだよ。最近は、長編志向の人が多くて、出来上がるのが遅いもんなんだ。なのに、全然平気そうに打ち合わせするし、連載の他にも新作やるって、凄いなあと」
「……変ですか?」
 自分の感覚がおかしいとは思うが、こういう事まで違うのかと、透耶は思ってしまった。
「いやいや、こっちは大歓迎だよ。こっちの希望通りにやってくれるから、心配しなくてもいいってのはね」
「でも、もう心配かけてしまったから……」
 透耶が行方不明で、生きてはいても居場所さえ明かせず、あれだけ光琉が大騒ぎしていたのだから、相当迷惑をかけているはずだ。
「あれはあれで、編集長が喜んでたしねえ。いい宣伝効果も得られた訳で。知ってる? 榎木津君のデビュー作、学生の間でかなり話題になって売れてるんだよ。注文殺到で、書店に本が回らないから、増版しても追い付かないんだ」
 手塚が誇らし気に語るのだが、透耶には実感が沸かない。
 思わず生返事をしてしまう。
「はあ……そうですか」
 そんな透耶の返事に手塚が笑ってしまう。
「まったく、そういうのに興味ないねえ。勿体無い」
「勿体無い?」
 ……何が勿体無いんだ?
「だって、榎木津君、せっかく有名な弟がいるのに宣伝に使おうとか、顔がいいから写 真入りにして顔を売ろうとか、全然考えてないでしょ?」
 うーわー言われるとは思ったけど。
 あまりにストレートな手塚の言葉に、透耶は苦笑してしまう。
「俺、そういうの苦手なんです。写真は嫌いだし、光琉を使ってなんて、そんなの嫌です。光琉の実力を利用するのは違うし、結局、それにつられて買った人は、本を読んでないって事ですよね? そういうのは本が可哀相です。俺は面 白い本は何回も読み直すし、自分のもそうだと嬉しいです」
「純粋だねえ。そういう読者ばかりだと、作家も嬉しいだろうねえ。本が可哀相かあ、いいねえ、今は読んだらすぐ古本屋に売っちゃう人が多いから。本を大事に置くってのは余程の本好きだけだよね」
「偉そうな事言っちゃった。すみません」
 透耶は言って謝り頭を下げる。
「はははは、いいんだよ。そうか、写真は嫌いだったんだ。やっぱり、弟と同じ顔だから?」
「いえ。そうではないです。ただ、昔、ちょっと嫌な事があって、それで家族以外には撮られるのが苦手になってて。改まって撮られるのは余計に駄 目なんです」
 透耶は頭を掻きながら、詳しく説明出来ないでいた。
 そういえば、どうして鬼柳に写真を撮られても嫌だと感じなかったんだろう?
 そうした疑問が浮かんでしまった。
「そうか、トラウマなんだあ……。じゃあ、写真は駄目だね。嫌がっているのを無理矢理なんて、僕の趣味じゃないし、写 真嫌いな人も多いからね。そういう取材は全部断わっていくね。実は今、榎木津君の取材問い合わせが多くてね。殆ど、弟さんがらみなんだけど、双子だって事、バレてるから」
 そりゃそうだろうねー。なんたってワイドショーネタにはもってこいでしょうし……。
「ああ、そっか。調べればすぐ解りますよね。それはいいんですけど、取材は何も喋る事がないので困ります。作品についてなんて本以外じゃ語れないし、日常なんて恥ずかしくって尚更喋れないです」
「はははは、本当に秘密主義って感じだねえ」
 あはははは、秘密主義ではないんですが、さすがに恭が絡んでいる生活について喋れないでしょう?
「うん、解った。そっちは任せて。じゃ、これは預かっておいていいね」
 手塚は、透耶から預かった新作が保存されているMOを大事そうにしまった。面 白い事に本当に無くすと困るから、部にある金庫にしまっている。
「金庫なんかにしまうんですね」
「僕達は、これを発売する事で給料を貰っているからね。作家様、作品様な訳」
「へえ、そうかあ。じゃあ俺も手塚さんに稼いで貰えるように頑張ります」
「それは期待してます」
 それから少し打ち合わせをした所で、中蝉寺が戻ってきた。
「彼は寡黙な人だねえ。もしかしてあまり日本語が解らないのかなあ? ほら榎木津君とは英語だったし」
 中蝉寺がそう透耶に言った。
「え? いえ、日本語解りますよ。難しい単語は解らない事もありますけど、通 常会話ならまったく問題ないですけど?」
 透耶はキョトンとして言った。
「そうなの? それじゃ無視されたのか……」
 中蝉寺は驚きながら、頭をポリポリと掻いた。
「あ、すみません。その、あまり人と話すのは好きじゃないらしくて……」
 まさか、興味がないから話さなかったとは言えない。
 透耶となら、何処で覚えたのか知らないが、卑猥な言葉まで口にする鬼柳である。
「へえ、榎木津君、英語喋れるんだ」
 手塚が感心したように言った。
「あ、いえ、少しです。まだ習ってる途中で……日常会話を英語にしてもらって練習中です」
 透耶は少ししか出来ないとハッキリ言ったのだが、どうも透耶の感覚と手塚の感覚は違うらしい反応が返ってきた。
「へえ、じゃあ相当出来るって事じゃないか」
 手塚にそう言われて、透耶は少し首を傾げた。
「はあ、そうですか? うーん、発音が難しいんですよね。言いたい事は伝わるんですけど、学生の時に習ったのは英国のでしょ、微妙に違うらしくて」
「あれだけ喋れて、まだ喋れないって?」
 唯一英会話を聞いている中蝉寺が不思議そうに聞いた。
 透耶は頷く。
「ええ。あんまり早口だと聞き取れないですし」
 なんたって、恭のは無茶苦茶早口だし。
 恭と宝田さんの会話なんて、まったく解らないしねえ。
「そんなに昔から喋れた訳?」
「いえ、4月からです。まったく喋れなかったんで、知り合いに特訓してもらって……今は、恭……鬼柳さんに教えて貰ってます……あの?」
 透耶がそう答えると、手塚と中蝉寺が固まっている。
 何か変な事でも言ったかな?
 やっと口を開いたのは、手塚の方だった。
「普通、まったく出来ない状態から日常会話が出来るようになるまで、一年以上かかるもんなんだよ……」
 透耶はキョトンとして言った。
「え? そうなんですか? でも、鬼柳さんが日本語覚えたのって2ヶ月くらいって……」
 透耶は驚きながらも、鬼柳がそう言っていたと言ったのだが。
「それも異常だよ……」
 そう中蝉寺に呆れながら言われた。
「え? ええ?」
 透耶は異常だと言われて、本当に驚いて目を見開いてしまう。
 そうなんだ……。
 透耶は、鬼柳が日本語を覚えたのが、近くに住んでいた日本人カメラマンに教えて貰ってからで、2ヶ月くらいで日常会話が困らないくらいには覚えられたと言っていたので、英語もそれくらいでマスターするものだと思っていたのだ。
 確かに、覚えが早いとヘンリーには誉められたが、それはお世辞だと本気で思っていた。
「なんだ……慌てなくても良かったんだ……」
 透耶はほっとしたように微笑んだ。
「え?」
「だって、2ヶ月以内にマスターしないといけないって思ってたから」
 透耶が大変だよなあと頭を掻いていると、手塚と中蝉寺が声を揃えて言った。
「英語を2ヶ月で完全マスターするつもりだったの!?」
 物凄く驚いた顔で聞き返された。
「はい」
 と頷くと、手塚が説得するように言う。
「どう考えても、それは無謀だよ……? ゆっくりでいいんじゃないのかあ」
「ですよね? よかった!」
 透耶は自分が劣っているから中々覚えられないのだと思い込んでいた。
 しかし、まったくそうではないと解ったので、ホッとして微笑んだ。
 1ヶ月で、日常会話が少しでも可能になるほど、透耶は英語を覚えていた。はっきり言って異常であるが、透耶には喋れるが文字は読めないという、鬼柳と同じ現象が起こっている。
 透耶は元々、集中すると何事も覚えるのは早い方で、しかも今はちゃんとした目的があるだけに脅威の記憶力で覚えていっていた。
「……榎木津君って、凄いんだね」
 中蝉寺がそんな感想を漏らして、手塚がそれに賛同し頷いた。


 透耶と手塚の話も終わって、中蝉寺が担当編集者に頼み込んで、自分の本の見本ストックを探してもらっている間、透耶は鬼柳のところへ行っていた。
 それを手塚と中蝉寺が見て呟いた。
「まあ、あれだけ可愛けりゃ、人間不信さんも話でもしてみたくなるのかねえ?」
 中蝉寺がそう言った。
「中蝉寺さん、また人間監察してましたね?」
 手塚は仕方がないですねえと苦笑した。
 中蝉寺は人間を監察するのが趣味みたいなものだ。作品を書く上での作業だったのだが、最近では珍しい人を見かけると、どうしてもどういう人物なのかと監察してしまうのだ。
「ははは、まあ、珍しい人種だったんで、どういう人なのか気になったのもあるんだ。でもね、見事に無視さ」
 中蝉寺は笑っている。
「人間不信?」
 手塚が不思議そうに聞き返す。
「そう。何があったのか知りたかったな。あそこまで露骨に無視されるとねえ。さっき会った時なんか、はなっから私なんか見てない訳。こう、榎木津君にしか視野がないっていうのかな? 視線が榎木津君しか追ってないんだよ」
 妙な説明であるが、見方は間違ってなかった。
 手塚が首を傾げて尋ねた。
「はあ、それって、鬼柳さんが榎木津君に惚れてるって感じですか?」
「そういう視線。榎木津君は慣れてるみたいだけど。ほら、あんなに朗らかに笑えるだろう?」
 そう言って見た先では、透耶が鬼柳が読んでいた洋書を取り上げて、難しい顔で真剣に文字を追っているのを、鬼柳が優しい顔をして、見つめている所である。
 さっきまでの無表情からは考えられない顔をしている。
「ははあ、あれは女性もイチコロですねえ」
「でしょ。なのに、榎木津君が側にいないと駄目みたいだねえ。いっぱい話し掛けたんだけど、一言で終わり」
「一言?」
「うるさい」
「ええ?」
 中蝉寺は笑いながら言った。
「うるさいって言われた。視線を上げたのは、私がソファに座った時と、喋った時だけ。見事な無視だよ。あれは寄られなれてるね」
「寄られ?」
 意味が解らず、手塚が聞き返した。
「うん、言い寄る人が多いって事。そういうのをあしらうのにも慣れてる。でも解らないなあ。何で榎木津君なんだろう?」
 中蝉寺がそれだけが解らないと首を捻る。そういう中蝉寺の言葉が解らず手塚はキョトンとする。
「は?」
「解らない? 彼、バイだよ」
「え!? そうなんですか!?」
 手塚がびっくりして小声で叫んだ。
「うん、間違いない。だからいくら榎木津君を助けたからって、ここまで付き合う程、彼は優しくないはず。けれどああやって笑ってさ、大事にしてる」
 そう言って見ている先には、笑っている鬼柳の顔。
透耶は難しい顔をして本と格闘している。時々顔を上げては、本を指差して何を尋ねている。鬼柳は笑顔で教えている。透耶が笑い掛けると、更に優しい笑顔になる。

「榎木津君もそうなのですか?」
 手塚が尋ねたが、中蝉寺は首を横に振った。
「いや、彼はノーマル。だから不思議なんだ。榎木津君も彼を気に入っているらしいけど。どうも私は、榎木津君の方が解らないなあ。あんな難しい子、初めて見たよ」
 中蝉寺は意外な感想を洩らした。手塚がキョトンとする。
「難しい?」
「内部が見えない。皆顔とか素直そうとか、そう見るでしょ? でもそうじゃない。複雑すぎて見えないんだ。難しい。前に会った子にそっくりなんだ。顔とか、内部がねえ。びっくりだよ。世の中にこんな人が二人もいるとはねえ」
 中蝉寺は、透耶に関してはそう見ていた。
 最初顔を見た時は、あまりにあの少女に似ていたので驚いた。だが、別人であるのは確かで、名前で榎木津透耶であると解った。
 それでも、喜んでいる透耶の笑顔が、あの少女とは明らかに違うと感じた。それなのに、見える内部は同じ闇を持っている。顔に内部、ここまでの一致が中蝉寺には不思議でならなかった。
 しかし、その闇に触れる事は出来ない。飲まれたら最期であるという危機感があり、中蝉寺は透耶には触れられない。
「僕の方は、榎木津君の方が解りやすくて、鬼柳さんの方が解らないですけど……」
 手塚が首を捻ってそう言った。
「それが普通だよ。僕の目から見たら、榎木津君の方が難しくて、彼の方が表情で多くを語っているから解りやすいんだ」
 中蝉寺はそう言った。
 そこへ雑誌編集者が現れた。
「手塚さーん、榎木津透耶が来てるんですって? 呼んで下さいよー」
 派手な服を着ている、28歳の女性が手塚を肘で小突きながら、甘えた喋り方でそう言った。
「あ、坂下さん」
「もう、あたしがファンだって忘れてるんじゃあ?」
「ごめん、坂下さん、出掛けてたでしょ?」
「はいー出てましたー。受付で聞いたんですよー。で、何処ですか?」
 坂下は必至で透耶を探す。
「ああ、あそこのソファに」
 手塚が言って、指を差すと、坂下がワクワクした顔でそっちを眺めた。
「え? どっちですか? あ、光琉と双子だから、細い方ですねえー。あれ? でもあんまり似てませんよ?」
 坂下が首を傾げて、そんな感想を言った。手塚は驚いたが、自分が間違ってなかったと確信した。
「やっぱり、坂下さんも思う?」
「って、手塚さんがそっくりだって言ったんじゃないですかー」
 坂下が突っ込んで言った。
 手塚は笑って言い訳をする。
「言ったんだけどさ。最初会った時は似てたのに、今会ったら似てるという印象が抜けてしまって」
「何だい、それは?」
 中蝉寺が不思議そうに尋ねた。
「うーん、何だろう? イメージが変わったって感じ。前は確かに可愛いんだけど、もっと冷たいって言ったら悪いかな? そういう固いのがあったんだけど。今は無いって言える」
 それを聞いて、中蝉寺は意味が解った。
「へえー、それは面白いねえ。たった二ヶ月くらいで? じゃあ行方不明の間に心境の変化でもあったんじゃないかな?」
「それは僕も思いました。でもいい感じですよ」
「へえ、あれがいい感じねえ。ある意味物騒だけどね」
 中蝉寺は、あれがいい感じな訳ないと言い切りたかった。はっきりいって怖い。何が怖いって、透耶の内部のモノが怖いに決まっている。


「ちょっと待って。ゆっくり」
「んー、これ普段使わない専門用語」
「そうなの?」
「うん、検死の時とか。静脈とか動脈とかの場所」
「それは使わないねえ」
 当り前だ。日常会話で、肺静脈とか上椀動脈とか使っているやつがいたらお目にかかりたい。
 二人が読んでいるのは、推理小説。検死官シリーズの最新刊でもちろん原盤のまま。
 そうしていると手塚が透耶を呼んだ。
 呼ばれて行くと、雑誌編集者の坂下を紹介された。
 鬼柳は、また本に視線を落として読み始めたのだが、また中蝉寺がそこへやってきた。
「少し話をしたいんだけど」
「……」
「もし私が榎木津君にサインあげないって言ったらどうする?」
「……」
「残念がるだろうねえ」
「で、何だ」
 鬼柳はやっと答えたが、視線は上げてない。あくまでも話したくないという態度である。
 中蝉寺は、こういう作戦は取りたくなかったが、もし鬼柳が透耶の事をちゃんと思っているなら、これには答えるだろうという自信があった。
 そして鬼柳はちゃんと答えている。
 さっそく中蝉寺は鬼柳に質問した。ストレートに。
「君、バイだろ?」
「ああ」
「その、榎木津君の事が好きなんだよね?」
「ああ」
「それで彼は、側にいる事を望んでるんだ?」
「ああ」
「でも、何で君のような人種が、ノーマルである榎木津君を選んだんだい?」
「俺みたいな? 何だそれ」
 まったく感情がない声が問うてきた。
「君は、来るもの拒まずでしょ。それで何故、ノーマルである人を選んだのかって事。榎木津君はそういうのは疎いでしょ」
 そう説明すると、鬼柳の答えが返ってきた。
「別に選り好みした訳じゃない。俺が抱きたいと思ったのは、透耶一人だからだ」
 100人が同じ質問をしたら100回同じ答えを返すだろう。
 ただ言い方が違う。誰でも抱けるが、自分から求めたのは一人しかいないという事だ。
「ああいう顔が好みなわけ?」
「別に。透耶が透耶であれば、どんな姿でも俺は透耶だけにしか惹かれない」
 こういう風に言い切れるのは、外見だけで惚れた訳ではないという事だ。綺麗なだけで惚れるなら、いくらでも違う奴に惚れたはずだ。透耶より綺麗な人だっている。
 それでも透耶でなければならなかった理由。
 そんなものはない。後でなら幾らでも理由付けられる。
 顔が好き、身体が好き、声が、考え方が、笑っている時、泣いている時、考え込んでいる時、抱き合っている時。
 全部だと言える。あの存在自体が好きなのだ。
 しかし、最初の理由など解らない。直感でこれだと思った。二度とないだろうな感覚。
 それしか思わなかったのだから。
「ベタ惚れだ」
 中蝉寺は少し驚いていた。
「当り前だ。一生賭けてるんだ」
 命を賭けているといってもおかしくない。
 本当にそうだからだ。
 透耶も一生を賭けて、命も賭けてくれている。
「へえ。でも、榎木津君の立場とか考えた事はないわけ?」
「だから黙ってただろ」
 鬼柳は面倒臭そうに答えた。
 それだけで中蝉寺には通じた。
「え? じゃあ、無視ってのはそういう意味だったんだ」
 中蝉寺が意外な言葉で驚いた。無視にはちゃんと意味があった。
 一緒については来るが、必要最低限は喋らないという方法を取っていたのだ。
「お前みたいなのは、人の事を根掘り葉掘り聞きたがる」
「まあねえ。だから避けたのかあ。なるほど」
 人が寄ってくるという事は、それだけ人を見る目があるという事でもある。そいつがどういう人間なのか、見極める事もできる。ただ鬼柳の場合、直感で感じるだけであるが。
「人を監察している。そういう目で眺めたら、勘がいい奴には悟られて嫌われるぞ」
 その言い方では普通に忠告しているようではあるが、中蝉寺には、透耶をそんな目で見るな、と言われた気がした。
 透耶が中蝉寺に憧れているから、そういう人物から透耶の期待を裏切るような態度をして欲しくないという思いが鬼柳にはあった。
「忠告ありがとう。じゃ、私は帰るから、これを榎木津君に渡しておいてくれないか」
 中蝉寺は言って、テーブルに自分の本を置いた。
 それでも鬼柳は視線を上げなかったが、代わり言った。
「……ありがとうございます」
 いやに律儀に鬼柳が言ったので中蝉寺が驚いて足を止めると、鬼柳が視線を上げて言った。
「透耶の代わりだ」
「ははは。じゃあ」
 中蝉寺はそれ以上、この二人には関わるまいと思った。
 何故って、巻き込まれたら最後。
 そういう風にしか見えない。

 テーブルに置かれていた本を渡されて、透耶はキョトンとしていた。
「え? 中蝉寺先生、帰っちゃったの? ちゃんとお礼言いたかったのになあ」
 中にあったサインを確認して、透耶は残念そうに呟いた。
「礼、言っといた」
「あ、言ってくれたんだ。ありがとう」
 透耶が嬉しそうに微笑む。それを見た鬼柳が思わず呟いた。
「やっぱり喋って正解か……」
「ん? 何?」
 キョトンとしている透耶の頭を鬼柳は撫でた。
 そして鬼柳は笑って言った。
「何でもない」
 
 
 出版社を出て、車に乗ると鬼柳が言った。
「真直ぐ帰るか? それともどっか寄る?」
 そう言われて透耶はふと考えた。
「このまま帰るのも勿体無いね」
 透耶はそう言った。
 今から帰っても仕事をするだけで、やる事はない。折角出てきたのだから何処かへ行きたい気があるが、何処へ行っていいのかは解らない。
「じゃ、デートするかあ」
 鬼柳がニヤリとしてそう言った。透耶は驚いてしまう。
「え? デート?」
 鬼柳からそういう言葉が出て来るとは思わなかった。
「いや?」
「ううん。そういえば、そういう感じではなかったね」
 よくよく考えたら、二人っきりで出掛けたのは、東京へ戻ってきてからの鬼柳の部屋へ行った時だけである。
「だったら千葉のに行こうぜ」
「千葉のって、あれ? 何で?」
 メジャー過ぎるスポットである。
 鬼柳の思考から、出てきそうにない言葉でもある。
「だって、綾乃があそこはデートスポットだからって言ってたから」
 なんじゃそりゃ……。
 一体、綾乃ちゃんと何の相談電話しているんだ。


 千葉の某有名ランドまで行くと、ちょうど夕方5時くらいに入る事が出来た。
 入り口附近では、ネズミ君がパレード前に最終お目見えをして、女の子達に囲まれて写 真を撮られている。
 それを不思議そうに見ていた鬼柳が呟いた。
「ああいうのがいいっていうのが俺には解らん」
 まあ、鬼柳なら言うだろうと思っていた透耶は苦笑してしまう。
「あはは、俺は結構好きだけど」
 透耶がそう言うと、鬼柳が信じられないという顔をして、透耶を見て、ネズミ君を指差した。
「だって、あれの中身にどんな奴が入っているか、解らないんだぜ。それを可愛いとか思うか?」
「まあ、それはそうなんだけど……」
 中身とか言うなよ……。
 鬼柳に子供が出来たら、あれが被りモノだとか言って子供の夢を壊しそうだ……。
「なんで、あのアヒルは走り回っているんだ?」
「ああ、あれはああいうキャラで……」
 アヒル君は、元気よく走り回り、写真を一緒に撮る為に追いかけていた女の子が途中で力つきている。
 そうまでして撮られたくないのか……。
「あれの中身は、長距離ランナーじゃねえのか?」
「さあ、それはどうだろう?」
 そこまで知らないが、採用はきっとそういう基準だとは思う。
「ある意味、面白いな」
「まあねえ。恭くらいだよ、ここでそういう事言うのは」
 透耶は苦笑してしまう。
「何か乗るか?」
「まず、定番でジェットコースター」
 透耶が言って、鬼柳が入り口で貰った案内パスポートで場所を確認して向かった。
 ここにあるジェットコースターには取り合えず乗った。
「あー面白かったー」
 透耶がそう感想を言うと、鬼柳は別の感想を言った。
「砂漠でジープに乗ってる時の感覚だな」
「え? あんなになるの?」
「揺れ方な……」
 意外な感想だった。
 そういえば、鬼柳は基本的に仕事の話をする事はない。ただ同じ様な感覚とかを経験した時に思い出したように呟くだけだ。
 透耶はそれでも構わなかった。
 自然に話してくれる方が嬉しかった。


 パレードが始まって、様々な電飾のものを眺めていた。
 ここでは鬼柳と透耶が寄り添っていても、暗くて男同士だとは気が付かれない。
 珍しく透耶の方から鬼柳の腕に腕を絡ませて寄り掛かってきた。
 外でこういう事をしたがらない方である透耶だが、今は誰も自分達を見ていない。安心していられた。

「うーん……」
 透耶がぬいぐるみの前で唸った。
「透耶、欲しいのか?」
「あ、うん、ちょっと気に入ったんだけど……」
 そう言って透耶は言葉を濁す。
「だけど?」
 鬼柳が聞き返すと。
「この歳でこれもどうかと……」
 透耶がそんな事を言い出したので、鬼柳は苦笑してしまう。
「どれだ?」
「犬……」
 透耶から何か欲しいと言われた事がないから、鬼柳は一番大きなサイズの犬のぬ いぐるみを掴んで持ってレジに向かった。
「タグ切って、そのままで」
 190センチの男がこんなものを持っていると、ハッキリ言って笑える。
 客にジロジロと見られていたが鬼柳は気にしない。
「ほら」
 透耶はまだ犬のぬいぐるみの前で唸っていたが、差し出された大きな犬のぬ いぐるみにキョトンとする。
「え? 何?」
「買った」
「ええ?」
 ポイッと放られて透耶はそれを受け取った。
 そんな事をされて、透耶は驚いていたが、すぐに笑顔になる。
「……ありがとう」
 こういうモノを買ってもらうのは、生まれて初めてだった。
 ぎゅっと抱き締めて微笑む。
 鬼柳はそれを見て慌てて自分の口を手で塞いだ。
 ……可愛すぎる。
 だらしなく顔が崩れそうなのを精一杯我慢しているのだった。
 こんなやりとりを見ていた客が納得したのは言うまでもない。


 他にもクッキーやらを透耶が買いたいと言ったので、そこへも寄る。
「どれも似たり寄ったりだな」
 作り方さえ解れば作れるとでも思っているのだろう口ぶりだ。
「そう? ここのは美味しいんだよ」
「ふーん」
 鬼柳はいくつか選んで、透耶も選んだ。
「纏めて買うぞ」
 透耶が持っているのを受け取ろうとしたが、透耶は首を振る。
「ううん、こっちはいいよ。これは宝田さんとヘンリーさんへだから」
「そうか?」
「うん」
 お世話になっているから、やっぱりお土産は必要だと思ったのだ。


 車までの帰り道は、手を繋いで歩いた。
 そういえば、こういうのも初めてである。
「手を繋いで歩くの、初めてだよね」
 透耶が笑って言うので、鬼柳もはっと気がついた。
「あ? そうか……初めてだな」
 そう言って鬼柳が溜息を吐いた。
「いかんな。こういう事やってなかったんだ……」
「ん?」
 鬼柳が呟くように言ったので、透耶は見上げてしまう。
 いやに真剣な顔をしている。
「普通に付き合うってのが、よく解らないんだ」
 そんな事を言うものだから透耶は笑ってしまう。
「ははー。今まで普通じゃなかったんだ」
 鬼柳が今まで出会った人とどういう付き合いをしていたのかは、あまり解らない。普通 じゃないという言い方で、そりゃ大人な付き合いをしていたという事なのだが。
「まあ、その場限りが後腐れなくて良かったんだ。昼間に出掛けたり、こういう所へ来たり、手繋いだり……した事がない」
 これは意外だった。
 つまり、その場限り、セックスをするだけで、後の付き合いはまったくなかったという事である。
 そういえば、鬼柳は家に誰かを入れた事がないと言っていたから、外でやっていただけで、しかもセックスだけ。精神的に付き合うという事をしてこなかったという事だ。
「した事なかったんだあ」
「うん。透耶は?」
 そう聞かれて透耶はうーんと考えた。
「ないよ。俺もこういうのよく解らない。普通は、付き合ってくれとか告白して、学校帰りとか会社帰りにデートしたりするみたい」
 透耶がそう語ると鬼柳は唸ってしまう。
「んー。順番がまったく逆になったな」
 最初に犯して、それから告白だ。
 それも意思疎通なしに始まった関係である。
 今は透耶も受け入れてくれているが、最初は違った。ただ鬼柳が暴走しただけ。
「いいんじゃないの。俺はそれで納得してるし」
 透耶はクスクス笑っている。
 内心は、あそこまで鬼柳が暴走しなければ、今の関係にはなれなかったはずと思っている。普通 に始まっていたら、透耶は全てを拒否して逃げていただろう。
 透耶の周りにいなかった人種であり、鬼柳の押しが強い所が透耶の常識を覆してしまったのだ。ある意味、すごい事だ。
「そうなのか?」
 少し意外そうな顔で鬼柳に見られて、透耶は苦笑してしまう。笑って見上げて言った。
「あのね……じゃなきゃ一緒にいないってば」
 言ったとたん、鬼柳に抱き締められた。
「透耶……可愛い!」
 抱き締めて顔中にキスをする鬼柳。
「ん、もう……何やって……」
 透耶は文句を言いながらも苦笑してしまう。
 耳元に口を近付けて、鬼柳が囁く。
「したい」
 突拍子もなく言う鬼柳。
「いきなり何言ってるんだよ」
 透耶は慌てて鬼柳の身体から抜け出そうとするが、鬼柳は離してくれない。
 更にほざく鬼柳。
「車で」
「アホか!」
 絶対馬鹿だ……。


 結局、車に乗ったとたん、キス攻めに合う透耶。
「ん……駄目だってば!」
 シートを倒されて、上から押さえ付けられれば絶対に動く事が出来ない。
 首筋に唇が這い、服のボタンはとっくに外されている。身体を鬼柳の手が這い回り、透耶の身体も熱くなっていく。
 しかし、透耶がぬいぐるみをいつまでも離さないので、鬼柳がそれを取り上げた。
「ほら、こんなもん、いつまでも抱いてないで、俺にしろ」
 ぬいぐるみを後部座席に投げる。
 透耶の手が名残惜しそうに宙を舞う。
「んん……恭が買ってくれた、んじゃんか」
「透耶が欲しいって言ったの、初めてだっただろ?」
 鬼柳は透耶の手を取って、指を舐めていく。
「そ、だっけ?」
「そう……。本当に透耶は何にも欲しがらないからなあ」
 鬼柳は特に不満がある訳ではないが、透耶が欲しがるモノなら何でもあげるつもりはあった。なのに、透耶は些細なモノすら欲しがらない。執着がない。
 透耶は薄らと目を開けて、鬼柳を見上げて笑う。
「別に……恭だけでいいよ」
「んー、そっか。最初に欲しがったの、俺の事だったっけ?」
 透耶が面と向かって、アレが欲しいと言ったのは、鬼柳だけだった。
「解ってるんじゃん……」
 透耶は照れて目を伏せる。
 それを見た鬼柳は、ニコリと微笑んでしまう。
「……可愛いな、透耶」
 だが、手が下半身に伸びている。さっさとベルトを外して、ズボンも脱がしている。
「もう、車じゃ嫌だって!」
 さすがに車で最後までやるつもりはない透耶は、一生懸命鬼柳の手を止めようとしているが、既に脱がされている。
「結構、燃えるぞ」
 両足を抱え上げられて、透耶は暴れて止めさせようとする。
「アホか! ちょ! ちょっと待って! 嘘、マジ!?」
「うん、マジ」
 耳元で囁いて、手が透耶自信を掴んでくる。
「嫌だって! うわ! 何処触って!? 放せって!」
 ……ってしっかり阻まれてるし!
「もう入れたい」
 鬼柳が耳を舐めて、そう言って透耶自信を軽く扱く。
「駄目! や! あ……!」 
 透耶が顎を反らせた所へ鬼柳の唇が這ってくる。
「んん……!」
 透耶は声を殺して堪える。
 この、エロ魔人が!
 普通、車でやるか!?
「……恭……やめ……ろって……」
「何で?」
 透耶が否定の声を上げたので、鬼柳の動作が止まった。
 透耶はやっと目を開いて鬼柳を睨み付けた。
「……絶対嫌だ!」
 透耶は言って、鬼柳を押し退ける。鬼柳はじっと透耶を見つめて聞く。
「嫌?」
「嫌だ」
「俺が? 場所が?」
「敢えて言うなら、場所だ」
「あえて?」
「嫌だって言ってるのに、やろうとする恭も嫌だ」
 透耶がハッキリと言い切ると、鬼柳は少し考えて、溜息を洩らした。
「……解った」
 物凄く物わかりがいい鬼柳は、透耶の上から退いて、運転席に戻った。
 透耶は脱がされた服を戻して、シートも戻す。
 しかし助手席に乗っているのが嫌だったので、後部座席に移った。鬼柳はじっと、そんな透耶を見ていたが、何も言わなかった。
「……帰りに、ヘンリーさんの所に寄って欲しい。お土産渡したいんだ」
 透耶は言って、ぬいぐるみを抱き締めて寝転がった。
 鬼柳は無言で車を発進させた。
 透耶は、俺が悪い訳じゃない、そう思ったが、何故鬼柳が無口なのかが解らなかった。


 ヘンリーの家らしいマンションに到着して、透耶は無言で車を降りた。珍しく鬼柳は付いてくる気はないらしく、車から出て来なかった。
「……たくっ、何で怒ってんだ?」
 透耶は呟きながら、ヘンリーのマンションに入った。
 名前で部屋番号を確認して、オートロックだったのでインターホンで呼び出した。
『あれ? 透耶、どうした?』
 ヘンリーは驚いていた。透耶が訪ねるのは初めての事だからだ。
「えっと、ちょっと出掛けてたので、この間のお礼に、クッキー持ってきたんですけど」
『あ、悪いねえ、入って』
 そう言うと、入り口が開いたので透耶はヘンリーの部屋へ向かった。
 部屋の前まで来ると、ヘンリーがドアを開けていて外へ出て出迎えてくれた。
「あれ? 透耶、鬼柳さんは一緒じゃないのか?」
 意外そうに言われて透耶は答えた。
「一緒ですけど、車で待ってます。あ、これお土産です」
 透耶は言ってお菓子を差し出した。
「ありがとう、じゃ入って。那波さーん」
 ヘンリーがそう言ったので、透耶は他に誰かいるのだと解った。
「もしかして、来客中でしたか? 俺、帰りますから」
「ん、いいよ。那波さんは、俺の友人で暇人だからいるだけだし」
 ヘンリーはまったく気にしない様子で透耶に中に入れと、進めてくるので、透耶は少しはだけと中へお邪魔した。
 居間へ通されると、そこは綺麗に片付けられた、まるでモデルルームのような部屋だった。
「そこ座って」
 ヘンリーに勧められて透耶はソファに座った。
 そこへ、隣の部屋から誰かが出てきた。
「あ? ヘンリー呼んだか?」
 透耶がびっくりして振り返ると、そこにはえらく綺麗な男性が立っていた。
 鬼柳とは違う、ヘンリーともエドワードとも違う。日本人臭さがある、整った顔と細さの長髪の男だ。年は30くらいだろうか、しかし三白眼は怖い感じの印象がある。
 その那波は、透耶を見付けて驚いた顔をした。
「お? なんだあ? こりゃ」
 そう言って、透耶の顎を掴んでジロジロと眺める。
「那波さん、触らないで。後が怖いから」
 お茶を持ってきたヘンリーがそう言った。
 透耶は驚いた顔で那波を見ていたが、いつもの様に言った。
「こんばんは。お邪魔してます、榎木津透耶です」
「那波。那波竜二だ」
 那波はニヤリとして自己紹介をした。
「後が怖いって何だ?」
「ん、彼氏が下にいるからだよ。バレたら殺されるねえ」
「へえ、触っても駄目なんだ」
「そりゃ、医者だって立場じゃなきゃ、俺だって触らせてくれないさ」
「なんだそりゃ。俺のものだって? えらい独占欲の固まりだなあ。ちょっと見てこようっと」
 那波はそう言うと、やっと透耶から手を離した。
「ついでだから、コーヒーでも持って行って」
「ラジャー」
 那波はそう答えると、冷蔵庫の中にある缶コーヒーを二本持って出て行った。
「那波さんって何者ですか?」
 透耶はキョトンとしてヘンリーを見る。
 ヘンリーは苦笑して説明をした。
「医者仲間なんだ。なのに俺の上客なわけ」
「へ?」
「那波さん、ホモだよ。攻めも受けもやる人だから、俺の所にも出入りしてて、それで知り合ったんだ。まあ、面 白い奴だからいいけどね」
「ふーん」
 大して興味のない透耶。
 そういう顔をしているのでヘンリーは笑ってしまう。
「それどころじゃないって顔してる。何かあった?」
 ヘンリーがそう聞くと透耶は驚いた顔をした。
「え!?」
 透耶の驚き方にヘンリーは再度笑ってしまう。
「だって、そんな色気あるフェロモン全開でまき散らしてたら、鬼柳さんと何かあったんじゃないかって思うよ」
 そう言われて透耶は少し沈み込んでしまう。
 何だそれは……。
「いえ、あの……それは……」
 何と説明していいのか解らず、それでも透耶は正直に話してしまう。他に誰に相談していいのか解らなかったからだ。
 話しを聞いたヘンリーは。
「カーセックスしようとしてた? それで嫌がったら鬼柳さんが無口になった?」
 呆れてしまう訳である。
「まったく、君達はどうして下らない事で、喧嘩するかなあ……。はあ、鬼柳さんが無口なのは、たぶんだけど、カーセックスを嫌がられたより、自分を嫌だって言われた事だろうねえ」
 ヘンリーは呆れながらも説明してくれる。
「でも、嫌だったんだ」
 透耶がむくれて怒っているから、ヘンリーもこれはちゃんと説明しなきゃいけないだろうと思った。
「うーん、透耶はそういうのは、まだ早いよね。鬼柳さんも急ぎ過ぎ。下手にテクニックあるだろうから、色々試したいんだろうけど、困った人だなあ。素人にそれ求めてもねえ」
 ヘンリーは色々と知っているらしく、透耶が素人である事で話を進めてくれている。
「俺、そういう風にやるのは好きじゃないです。何で普通じゃ駄目なんですか?」
 透耶が純粋にそう聞くと、ヘンリーは考え込んでしまう。
「それは、マンネリじゃ飽きるかもってのがあるんじゃない?」
「恭が飽きるって事ですか?」
 透耶は驚いた顔をした。
「ないわけじゃない。鬼柳さんみたいなタイプだと、やった事ないのってSMくらいじゃないの? それにさ、透耶だって鬼柳さんには興奮して貰いたいだろ?」
「それは、所構わず誘えって事ですか? でも俺、鬼柳さんほどやりたいとは思わないんですけど……」
 そこまで性欲がある訳ではないし、ただ寄り添っているだけでも透耶は良かったのだが、鬼柳はそういう訳でもないから求めにも応じる。
「まあ、誘えって言っても、鬼柳さんには何処でも誘われている気がしてるかもしれないけどね。透耶に負担がかかるのは解るよ。どう考えても受ける方が負担が大きいしねえ」
「負担は解ってます。恭もそれは解ってると思うし。そっか、マンネリじゃ飽きるんだ……」
 透耶はそう呟いて、真剣に考えていた。
「透耶?」
「……」
 透耶はすっかり考え込んでしまった。
 ヘンリーは変な事教えたかなあと思ってしまった。これでは、透耶と話をするより、鬼柳に話をつける方が解りやすい。
 特殊な考え方をする透耶であるから、何がどうなってという話は鬼柳に聞く方が理解しやすいのは確かである。
「えっと、とりあえず鬼柳さんに話してみるけど?」
 ヘンリーがそう言うと、透耶が立ち上がった。
「いえ、いいです。帰ります。失礼しました」
 透耶は言って、さっさと帰ろうと玄関へ向かってしまう。
「え?」
 ヘンリーは呆然としてしまう。
 玄関を出て行く透耶を追い掛けて、ヘンリーは部屋を出た。
「透耶、待って!」
 エレベーターに乗った透耶に追い付いて、一緒にエレベーターに乗った。
「どう納得した訳?」
 荒い息をしながらヘンリーが尋ねた。
「うん、ちょっと考えたいですし」
「えっと、どう考えるのかな?」
 ヘンリーがそう尋ねると、透耶は真剣に言った。
「……マンネリがいけないんですよね。でも俺、そこまで付き合えないし、そうなると他でやって貰うしかないですよねえ」
 透耶の意外な言葉で、ヘンリーは固まってしまう。
「はい? それってソープとか行けって事?」
 透耶はキョトンとして、ヘンリーを見る。
「俺だけじゃ飽きるって事でしょ? やっぱり俺だけじゃ駄目なんだ……」
 本気でそう考えているような口調にヘンリーは脱力してしまう。
 何でそういう考え方になるんだ?という所である。
「あのー、それは違うんだけどー」
 ヘンリーがそう言った時、エレベーターが一階に着いた。
 透耶はヘンリーの話を殆ど違った方向へと解釈してしまっている。
 エレベーターを降りると、マンションの前に出た。
 しかし、そこに止めてあった鬼柳の車がない。
「あれ? どこ行っちゃったんだろう?」
 透耶はもしかして怒って帰ったのだろうと一瞬思ってしまった。
「透耶、鬼柳さんは?」
 ヘンリーにそう聞かれて、透耶は今にも泣きそうな気分を押えながら、なんとか答えた。
「解らないです。電話してみます」
 透耶がそう言って電話をかけると、すぐに出た。
「恭、何処?」
 透耶の問いに答えたのは、鬼柳だったがどうも様子がおかしい。
『おい!返せ!』
「?」
 なんかドタバタしている。鬼柳の声も少し遠かった。
『あ、もう話終わった? ごめんねえ、もう10分待ってくれる? ってー、いいとこ……』
 この声は……。
「あれ? 那波さん?」
 意外な人が電話に出てきたので、透耶は驚いて言った。
「え? 那波さんが出たの?」
 それを聞いたヘンリーが慌てた。
「まさか、あいつ、手を出したんじゃあ? いや、鬼柳さんなら誘いに乗らないはずなのに……どうなってるんだ?」
 ヘンリーは顔色が悪くなる。
 この言葉を聞いて、透耶は全身の血が抜けるような感覚を味わった。
『透耶?』
 電話の声が鬼柳に変わった。
 ……いいとこってそれってやっぱり。
「えっと、邪魔してごめんね。俺、タクシーで帰るから」
 震える声を押さえて、透耶はなんとかそう言った。
『ちょっと待て。え?何でタクシーなんだ』
 鬼柳が慌てて聞き返すが、もう透耶の耳には入ってなかった。
「一人で帰れるから」
『は? どういう意味だ』
「じゃ、おやすみ」
 透耶は言って、電話を切った。ついでに電源も切る。
 手が震えた。声も震えた。
「透耶?」
 透耶の様子が明らかにおかしいので、ヘンリーが顔を覗き込もうとする。
「ヘンリーさん、俺帰ります」
 透耶は言って、ヘンリーを振り切ってさっさと歩き出す。
 ヘンリーは慌てて追い掛ける。
「ちょっと待って透耶」
 それでも透耶は止まらない。
 ヘンリーは透耶の腕を取って、強引に止めた。
「離して下さい!」
 透耶は抵抗して暴れる。
 もうここには居たくなかった。
 泣きそうになって、何処かへ一人で行ってしまいたかった。
「あの、誤解だからさ。鬼柳さんはそんな事しないって!」
「じゃあ! 何でいいところなんて言うんですか!?」
 透耶がありったけの声で叫んだ。
「鬼柳さんが言ったのか?」
 ヘンリーはまさかと思いながら透耶に聞き返した。
「……違う、那波さんが……そう言った。何で恭の電話に出る……んだ……」
 透耶は言いながら、その場に座り込んだ。
 まさか、自分とやれなかったからって、他の人を直ぐさま車に連れ込んでやる人とは思わなかった。
「……うっ……うっ」
 嗚咽が出る。
 涙が流れて、悔しくて仕方がなかった。
「透耶……。那波さんはからかっただけだよ」
 ヘンリーがそう言っても、透耶は聞いてない。

 そこへ鬼柳の車がやってきた。
 すぐに停まり、鬼柳が降りてくる。
「透耶」
 その鬼柳の声に透耶が反応して顔を上げた。
 透耶の顔が向くと、瞳から涙が溢れて頬を伝っている。
 鬼柳は焦った顔をした。まさか、泣いてるとは思っていなかったのだ。
「……透耶」
 鬼柳が透耶に近付いて行くと、透耶は逃げるように身体をずらした。
 これで、透耶が完全に思い違いをしているのを鬼柳は悟った。
 座って透耶の顔を覗き込むと、顔を背けた。
「何か勘違いしてないか?」
 そう言っても透耶は顔を背けている。
「透耶、ちゃんと俺の話を聞け」
 鬼柳が言って、透耶の顔を向けようとすると伸ばした手を振り払われた。
「……たくない」
「え?」
「言い訳なんか聞きたくない!」
 透耶は鬼柳を睨み付けて叫んだ。
「だから、違うって」
 鬼柳がその先を続ける前に、透耶がまた言った。
「俺以外、抱きたければ勝手にやればいい! どうせ俺じゃ満足しやしないんだし、マンネリして飽きてるんだろ!」
 吐き出すように言った言葉に、鬼柳がすっと表情を変えた。

「今、なんて言った」

 物凄く低い、突き刺さるような声で鬼柳が言った。
 透耶は驚いて顔を上げた。
 鬼柳の瞳は、突き刺さるように透耶を見つめている。明らかに怒りがある色だ。表情がない。
 これは前に見た事がある。
 沖縄で怒らせた時と同じ顔だ。
 透耶はそこで余計な事を言ったと悟った。
 見る見る怯えて行く透耶を見て、鬼柳は更に厳しく問い詰める。
「今、なんて言ったって聞いてる」
 今にもキスしそうな距離で、鬼柳が言う。透耶は顔を反らす事が出来ないで、目だけ伏せた。震える口から、謝罪の言葉が出る。
「……あ……ごめんなさい……」
 小さな声でそう言うが、鬼柳は許さない。
「もう一回言えないんだ?」
「だから、ごめんなさい……」
「謝って済むとでも思ってんのか?」
「……」
「黙ってて、やり過ごせるとでも?」
 何を言っても無駄な状況だ。
 見兼ねたヘンリーが、どうしてこうなったか、説明してくれるように、鬼柳に質問した。
「鬼柳さん、那波さん……一緒にいた奴は?」
 ヘンリーが申し訳ないと聞いた。
 鬼柳はヘンリーを見ずに答えた。
 まるで透耶に聞かせるように。
「マンションの前に捨ててきた。何だあいつは。いきなり襲い掛かってきやがった。気持ち悪いから追い出してたら、透耶からの電話に出て余計な事言いまくるしよ。ムカついたから、殴ってやった。あれ位 で済んで良かったな、本当なら殺してやりてぇんだが、今はこっちが先だ」
 とにかく、透耶の一言に激怒している鬼柳。
 ジロリと透耶を睨んで言った。
「覚悟出来てるだろうなあ、透耶」
「……恭、俺……」
 もう、怖くて声もマトモに出ない。
 鬼柳は透耶を覗き込んで微笑む。
「ん? 何だ、言い訳なら聞いてやるぞ」
 優しく言ってくるが、それが優しさではないのは透耶には解る。
「……勘違い、してた。そうだって、思わなくて……」
 だんだんと声が小さくなる透耶。
「へえ、そりゃ言い訳聞かなきゃ、解らねぇだろうがな。だがな、勘違いにしちゃ、えらく俺を馬鹿にした発言だったじゃねぇか?」
「……それは」
 疑ったのは本当だった。
 だからそれ以上透耶には何も言えない。
「後でたっぷり聞かせて貰おう。帰るぞ」
 鬼柳はそう言うと、座り込んでいる透耶を抱え起こした。
 透耶が震えてちゃんと立てないでいると、鬼柳は支えたままで耳にキスをして囁いた。
「別にカーセックスしやしねぇって」
 言って、透耶を助手席に座らせた。
 鬼柳はヘンリーに何か言って、車に乗ってきた。
 透耶は俯いて目を伏せている。
 鬼柳の身体が動くと、透耶がビクッと震える。だが、鬼柳は後部座席に置いてある、透耶に買ってやったぬ いぐるみを取って、それを透耶に渡す。
 透耶が驚いて顔を上げると、目の前にぬいぐるみがある。恐る恐る受け取った。
 怖い……絶対、ただじゃ許してくれない。
 車の中で、透耶は家に辿り着かなければいいのにと思った。

 家に辿り着くまで、鬼柳は口を聞かなかった。
 ただ、途中で一箇所寄り道をしたが、透耶は逃げる事が出来なかった。
 鬼柳が一言。
「逃げたりしたらどうなるか、解るな?」
 そう言ったからである。
 しかし、家に着いて、先に家に入った透耶は、逃げてはいけないと思いながら、出迎えた宝田を見ると、そのまま書斎に駆け込んでしまった。
 中から鍵をかけて、ソファの後ろに隠れてしまう。
 1分もしない内に鬼柳が家に入ってきて、透耶が隠れた事に気が付いた。
「宝田、透耶は?」
 怖いくらいの真剣な声に、宝田は「書斎でございます」と答えた。
 鬼柳は書斎のドアの前にすると、開けようとはせずに一回ドアを足で蹴った。
 ダン!と音がして透耶は身体を震わせた。
 そして声がした。
「10数える間に自分で出てこい」
 命令する声に感情はない。
 透耶はぎゅっと瞳を閉じて、カウントダウンを聴いた。
 しかし、カウントダウンが終わっても透耶は出て来なかった。
「次はないぞ。宝田がどうなってもいいんだな」
 まったく関係ない宝田の事が話になって透耶は目を開いた。
「……宝田さん?」
 何故?
 どうするつもり?
 さっぱり解らず透耶は困惑する。
「出て来なかったら、宝田を殺すぞ。それでいいんだな?」
 殺すと言われて、透耶は立ち上がった。
 またカウントダウンが始まって、透耶は持っていたぬいぐるみを床に落として、ドアへ向かった。
 鍵を開けて、ドアを開くと、ドアの前に鬼柳が立っていた。
 感情のない表情で透耶を見下ろす。
「逃げたらどうなるか、解っていて逃げたんだな?」
 鬼柳の言葉に透耶は首を横に振った。
 震える透耶の耳元で鬼柳は命令を下す。
「……先に二階へ上がって、風呂に入ってろ。部屋から出るな、いいな」
 透耶は力なく頷いた。
 それを見ていた宝田は、いつもと違う二人に不審な顔をしている。
 一体、何があったら鬼柳があれほど静かに怒るのか、そして透耶があれほど黙って怯えているのか。
 鬼柳は透耶に触れないし、透耶も顔を下に向けて鬼柳を見ない。
 鬼柳が透耶の前から居間へ入って行くと、透耶は暫く立ち尽くしていたが、トボトボと二階へと上がって行く。
 それを見送って居間へ入ると、鬼柳は台所にいるようだった。
 覗くと、何かを作っているらしく、冷蔵庫を開けて何かを取り出している。見ている限りでは普段と変わらないのだが、微妙に違うのが解るのは、宝田だからだろう。
 ふっと鬼柳が宝田を振り返った。
「何だ」
「いえ。ただどうなされたのかと……」
 宝田がそう言ったとたん、鬼柳が持っていた果物をシンクへ投げ付けた。
 物凄い音がして、それが鳴りやむまで双方動けなかった。
「ちくしょう……」
 鬼柳が唸るように呟いたが、それ以上は何も言わず黙々と果物を剥いていた。宝田は口を挟む事はしてはいけないと悟り、何も言わずに下がって行った。


 透耶は寝室に入って、溜息を吐いたが、鬼柳に言われた通りに風呂へ入る準備をした。
 タンスの中から、パジャマや下着を出している手が震えている。
 鬼柳が怖い。
 でも、怒らせたのは自分。
 鬼柳を信じてなかった発言。
 何であんな事言ったんだろう……信じられない。
 俺、馬鹿だ。
 透耶は深い溜息を吐いて、風呂へ向かった。
 湯は既に宝田が張ってくれたらしく、追い焚きすればいい暖かさだった。
 身体を洗って、髪も洗って、お湯に浸かっていると、鬼柳が入ってきた。
 何故か手には果物の盛り合わせがある。
 鬼柳は濡れるというのに、バスタブの縁に腰をかけて、果物の中から梨を取り出して一口食べると残りを透耶の口へと持ってくる。
 よく解らず、透耶が見上げると、鬼柳は無表情のままで透耶を見ている。
 梨を見て、鬼柳を見上げる。それを繰り返す。
「口、開けろ」
 鬼柳が命令をしてくる。
 透耶は従って口を開けると、梨を入れられる。
 梨を食べていると、鬼柳が透耶の唇を指で何度も触ってくる。梨を食べ終わっても、それが続けられている。鬼柳は指を透耶の口が開いた所へ押し込む。
「……ん……」
 口の中で妖しく動く指に、透耶の喉から声が漏れる。
 鬼柳の指が口から無くなると、透耶はふっと目を開けて鬼柳を見上げる。鬼柳は透耶のだ液で濡れた自分の指をペロリと舐めている。
 そうやって、鬼柳は透耶を風呂に入れたままで果物を食べさせていく。透耶も少しお腹が空いているから、与えられるままに食べていた。
 ある程度食べた所で透耶がもう入らないと首を振った。
 すると、鬼柳は一気に果物から興味がなくなったらしく、洗面所へ皿ごと投げ入れる。皿が割れ、破片が床にも飛び散る。
 その音で透耶の身体がビクッと震える。
「……何だ、怖いのか?」
 少し笑いが含まれている声で鬼柳が言った。
 とてもじゃないが、今の鬼柳の顔は見れない。
 透耶は黙って下を向いていた。
「初めての時より、怯えてるなぁ」
 鬼柳の手が透耶の顎を掴む。
「出てこい」
 しっかりと透耶の瞳を覗き込んで鬼柳は言うと、そのままバスルームから出て行った。
 透耶は暫く呆然としていたが、意を決して風呂から上がった。
 着替えを取ろうとして服を掴んだ時、さっきの割れた皿の破片を踏んでしまった。
「……つっ!」
 慌てて足を上げて、一歩下がる。
 そうか、鬼柳は土足だったから踏んでも何ともなかったんだ。
 そう思うと、透耶は何故か泣きたくなった。
 透耶が裸足で歩く癖。鬼柳はそれすら忘れている。
 透耶はそのまま壁に背中を付いて、ズルズルと座り込んだ。
 思ったより血が出て、床に血が落ちる。
 それを呆然として見ながら、透耶は壁にかけてあったバスローブが側に落ちているの気が付いて、それを羽織った。血が付くかもしれないが、それでも気にならず足を引き寄せた。
 足の裏を見ると、思ったより切れているかもしれない。血が止まらない。
 一瞬で冷静になって、足を洗わないと、と思い、シャワーで血を洗い流して、破片が入っていないかを確かめていると、あまりに出てくるのが遅いと感じたのか、鬼柳が戻ってきた。
「何やって……」
 怒りを露にしていた鬼柳の顔が一瞬で固まる。破片の側に血の雫がいくつか落ちている。
「破片、踏んだのか?」
 そう言う鬼柳に透耶は顔を上げて頷いた。
「見せてみろ」
 バスタブの縁に座って足を洗っている透耶の前に膝をついて座ると、真剣に傷を見る。
「……深くはないから」
 透耶がそう言うが、血がなかなか止まらない。
「……っ!」
 いきなり鬼柳が傷を舐めてきたので、透耶はピリッとした痛みと奇妙な感覚に身体が強ばる。
 鬼柳は血が止まるまで舐め取るつもりなのか、暫く舐めていた。
 それが終わると、鬼柳は透耶を抱え上げた。
 歩かせるとまた破片を踏んでしまうからだ。
 寝室に戻るとベッドへとゆっくり降ろされる。
「痛いか?」
 鬼柳は言いながらも、膝をついて、また透耶の足を持ち上げて足の裏を見ている。
「……少し疼く感じがするだけ」
「そうか。これなら一日くらいで傷は閉じる」
「そう……」
 それ以上は言葉が出ない。
 繁々と傷を見ていた鬼柳が、ふいに透耶の足の指を舐めた。
「き、恭……!」
 透耶が声を上げて足を引いたが、しっかりと足首を掴まれていて動かす事は出来なかった。
  鬼柳は執拗に指を舐め、まるで忠誠を誓う兵士のごとくキスを落とし、踝から順番に唇と舌を使って、透耶の身体を昇ってくる。
「……ん……はぁ……」
 身体を走る衝撃に透耶の身体が弓反りになり、ベッドへ倒れ込んでしまう。 
 太股まで攻めてきて、バスローブの裾をはだけている所から鬼柳の唇が這い回る。
 だが、反応し始めている透耶の中心には触れず、太股へキスマークを付けている。強く吸われ、さらに痛みがあるくらいに噛み付き歯形を残す。
「いっ……!……あぁ……はぁ……んんっ……」
 透耶の甘い声が漏れるのを聞きながら、鬼柳はふっと透耶の身体から離れた。
 いきなり攻撃が止んで、透耶は薄らと目を開いた。
 鬼柳が立ち上がって、ベッドに足を架けると透耶の腰に手を回して持ち上げて、ベッドの中心へと運んだ。
 透耶の上にのしかかる様にして、鬼柳が透耶の顔を覗き込んでいる。
「……き」
 鬼柳の名前を呼ぼうとしたのだが、それを遮られるように鬼柳が言葉を発した。
「マンネリになって、俺が透耶に飽きただと?」
 その言葉で透耶はヒュッと息を呑んだ。
 射るように睨み付けられ、透耶は身体を小さくした。
「それは……」
「それは、何だ」
「俺の……勘違いで……」
「勘違いで、その言葉が出るって事はないだろう。何を考えてた」
「何をって……」
「他を抱けだと? 一体どういう思考回路でそこへ行き着くんだ。ヘンリーに何か言われたのか?」
「い、言われてない!」
 透耶は慌てて言った。 
「じゃあ、一人で考えたって事か? いつ俺が、マンネリで飽きてるなどと考えたんだ」
 答えを言わないと許さないというのが、鬼柳の瞳から伝わってくる。
「……車で……しようとした……から」
「カーセックスか? ああ、あれがどうした」
「……普通に、するのが、飽きたんじゃないかって。それで、でも、俺は、嫌で」
「したかったからしようとしただけだ。それに解ったって言わなかったか?」
「でも、怒ってたから、やれれば、誰でもいいんじゃないかって……」
「つまり、透耶を抱けない時は他で済ませろって事か。だったら何で泣いたんだ。他に抱いてもいいんだろ? それじゃ矛盾してる」
「……考えたけど! 嫌だったんだ……。那波さんの声が、電話から聴こえた時に。凄く、嫌だったんだ。頭で考えるより、感情で、それが認められなかった」
 透耶は言って、泣こうとする自分を懸命に押さえていた。
「……天然もここまでくると、腹ただしいな」
 透耶の言葉を聞いて、鬼柳はそう呟いた。
「え?」
「今まで俺に対しての独占欲はなかったのか。俺がこれだけ思ってるのも解ってないのか。最初に言った事も忘れてるわけだ。絶対一生離さない、そう言ったんだけどな」
 鬼柳は言って、透耶のバスローブを剥いで身体を露にさせ、スッと掌で身体を撫でていく。
 透耶の身体がピクッと反応するのを楽しむように、撫で回して、鎖骨にキスをした。
 強く吸って印を残し、首筋に吸い付く。
「……ん」
 顎が跳ね上がった所で舌で舐めながら顎まで舐め上げて言った。
「これに飽きろって? 無茶苦茶だ。全然解ってねぇな。どれだけ俺が透耶に溺れているか、思い知らせてやる。今日は、朝までやるぞ、覚悟しろ」
 鬼柳はそう言うと、透耶の反論しようとする声を遮ってキスをした。開いた口へ舌を侵入させ、透耶の舌を刺激する。苦しくなって離れようと顔を背けようとする透耶を逃さないように、透耶の後頭部へ手を入れて更に深く口づけをする。
 向きを変えて何度も繰り返していると、どちらのともいえないだ液が透耶の口から溢れて流れ出る。
「……はぁ……んん」
 向きを変える間に透耶の甘い声が漏れる。
 優しいキスではない、食いつくすようにキスを繰り返す鬼柳に、透耶はどんどん追い詰められる。
「……ん……あ……はぁ」
 キスが止むと、透耶はもう朦朧としてしまっている。
 涙が流れて、瞳で鬼柳の姿が見えない。
「はぁ、はぁ……」
 苦しそうに荒い息を繰り返す透耶を見ながら、鬼柳は透耶の頬を撫で、額にかかる髪を梳いて上げると額からキスを落としていく。
 涙を吸い取って、耳を舐めて甘く噛む。
「んっ……」
「これくらいで音を上げてどうするんだ?」
 耳に囁くと、透耶の手が鬼柳を押し返そうとする。
 明らかに怯えている反応だった。
 抵抗する手をベッドへ押し付けて抵抗を封じる。
 やり方がいつもより違う。
 透耶はそう感じて、鬼柳がしてくるのを嫌がった。
「……い、や……」
「いやじゃないだろ」
 そう言った鬼柳の唇が胸の突起に吸い付く。
「やぁ……あ……」
 執拗に攻めると、肌に汗がほんのりと浮かんでくる。拘束した手を離して、空いた方の突起を指で捏ね解す。
「んん……!」
 漏れる声を呑み込んで、透耶は与えられる快感に耐える。いつも以上に怖さを感じ、身体が震える。
 鬼柳がいつも優しいのは、自分がちゃんと答えているからなのだろう。
 透耶を見下ろす瞳には、まったく興奮のない色しか見えない。
 自分が招いた事とはいえ、それを甘んじて受けられない。
 違うのに。そう思うと涙が出る。
 でも、鬼柳が自分に優しくするほど、自分は鬼柳に優しくしているのかと考えると、言葉が出ない。
 甘やかされて、天狗になってないか?
 この人が絶対自分を裏切らないからと、自惚れてないか?
 だから、あんな人を馬鹿にした言葉が出たのではないか?
 自分はどうだ? 鬼柳に飽きたからと言って、他の人に抱かれたり、抱いたりするのか?
 鬼柳が、自分を他の誰かに抱かれてこいと言ったら、その通りにするのか? 
 そう、考えた瞬間、透耶は息が止まりそうだった。
 深く息を吸って、口を両手で塞いで、透耶の身体が強ばった。
「……透耶。そんなに嫌なのか?」
 声を殺すように口を押さえ、身体を強ばらせて静かに泣いている透耶を見て、鬼柳が手を止めた。
「なあ、俺に触れられるのはそんなに嫌な事なのか?」
 溜息のような感じで言われ、透耶は鬼柳が勘違いをしてしまうと慌てて答えた。
「……違っ!」
 透耶は目を見開いた。
 そういう事じゃない!
「じゃあ、何で震えるんだ? 言わなきゃ解らない」
 鬼柳は本当に言われなければ解らないと繰り返した。
「怖い、んだ……」
「俺が怖いのか?」
「違う……怖いけど、違う」
 支離滅裂な言い方に、鬼柳は透耶の顔を覗き込んだ。
 その顔は、いつもの鬼柳の顔で、鋭い視線だが、人の話を聞こうとする時の真剣さがあるものだった。
「何が怖い?」
 鬼柳に優しく聞かれて、透耶はしゃくり上げながら答えた。
「恭が、俺に、飽きて……他に、抱かれろとか、そう、言うの、言われたら……」
 透耶の言いたい事は、透耶が鬼柳に言った事をそのまま返されたらという意味だ。
 鬼柳はそれを聞いて、苦笑してしまう。
 透耶は、自分に捨てられる事を何より恐れている。
 それだけで泣く程に。
 本当に透耶は解ってない。
「んじゃ、そう言ったらどうするつもりだったんだ」
 鬼柳が意地悪をしてそう聞くと、透耶が一層泣いてしまう。
 あーこりゃ駄目だ。冗談でも言えない。
「ごめん、冗談だから。もう泣くなって」
 透耶を抱き起こしてやると、すぐに鬼柳の胸にしがみついてくる。
 透耶はこれで、自分がどれ程酷い言葉を鬼柳に言ったのかを十分に理解した。
 自分がこれほど嫌な事だから、鬼柳も同じくらいに嫌な思いをしたはずだ。
 そう思うと、激しく後悔してしまう。
 鬼柳が透耶を抱き締めて背中を摩ると、透耶は十分位で落ち着いてきた。
 こうなると、泣いた事や言った事を反芻してしまうのか、透耶は恥ずかしそうにして顔を上げてくれなくなる。
「……何も照れなくてもいいんじゃないか?」
 鬼柳が言って顔を上げようとするが、透耶はしがみついて抵抗する。
「そうか、抵抗するか。よし」
 鬼柳はいきなり思い付いて、しがみついている透耶をくっつけたままで、透耶を下敷きにしてベッドへ押し付けた。
「わあ? わああ!」
 下敷きになった透耶は、鬼柳の全体重でのしかかられて、当然身動きは出来ない。
「退け〜! 重い! 苦し〜!!」
「やだね」
「ちくしょー! 馬鹿!阿呆!変態!」
 ありったけに透耶が叫ぶと鬼柳はパタリとそれを止めてニヤリとした。
「変態ときたか。そうか、解った。御期待にお答えして、変態な事する」
 鬼柳は言って、透耶の上から退いた。
「……はい?」
 何だろうと透耶が見ていると、何か紙袋を持って戻ってきた。
「何?」
「さっき貰ってきたんだが、使わないだろうとは思ったけどな」
 鬼柳が言って袋をひっくり返して中の物を出した。
 ボトボトとベッドへ物が落ちてきた。
 瞬間、透耶の顔がヒク付く。
「…………待て、これは……」
「ん? こっちが欲しくて寄ったんだけど、新作だとかで試作品で貰った。いらねぇって言ったけど、使えそうだな。な、透耶」

 鬼柳がにっこり笑って言う。透耶は固まる。
 こっち→ローション。
 試作品→ディルド。
 …………。
「嫌だー! 絶対嫌だー!」
 透耶は真剣に逃げようとするが、もう既に鬼柳に押さえ付けられている。
「入るって。俺のとそう変わらないから」
「そういう問題じゃない!」
 透耶が叫んでいるが、腰を押さえ付けられると、逃げ出す事が出来ない。
 鬼柳は器用に片手で透耶を押さえ付けて、片手でローションの蓋を開けている。
「やだっつってんだろ!」
「んー?」
 聞いてないし……。
「冷っ! 何やって……ん」
 鬼柳はローションを手に取るでなく、そのまま透耶の尻に垂れ流していた。
 ピシャと音がして、鬼柳の手が忍び込んでくる。
「ん……やぁ……」
 一本の指が孔に侵入してきて、踏ん張っていた透耶の腕の力が崩れて、腰だけが上がっている状態になる。
 左手で透耶の中を犯しながら、右手で透耶自信を掴み扱く。
「……あ!……ん……」
 滑らかに動く鬼柳の指に翻弄されていく透耶。
 指が二本、三本と増やされていくと、透耶は完全に鬼柳の思い通りに妖しく揺らめく。
「ん、あ! や、だぁ……んん」
「ああ、ここだったよな」
 透耶の身体が反り返るのを見て、鬼柳がそこを攻める。
「あっ! ん、あ!」
 透耶は懸命にシーツを握り締め、快感に堪える。
 これだけ攻めても中々達しない透耶を不審に思う鬼柳。
「んんっ……」
 孔に挿れた手の動きを止める。
 何で達かないんだ?
「はぁ、はぁ、はぁ……はぁ」
 透耶自身を扱いていた手を外して、背中を撫でる。
「達っていいのに……何で?」
 意地でも堪えるという態度の透耶を不思議そうに見る。
 透耶は全身の力が抜けたように横に倒れる。
 ゆっくりと目蓋が動いて、瞳が鬼柳を捕らえる。
「……服」
「え?」
「……着たまま、ズルイ」
 そう言われて、鬼柳は思わず笑ってしまう。
 何だ、俺が服を着たままでやろうとしているから、気に入らなくて堪えてた訳か?
 ……無茶苦茶可愛過ぎなんだけど。
 孔に入れていた指を抜いて、希望通りに服を脱ぐ。
 それをジッと見ている透耶。
 何で、服脱ぐのにそんなに嬉しそうな訳?
 さっぱり意味の解らない透耶。
「透耶も、それ脱ごう」
 自分の分が終わったので、透耶が殆ど肩で引っ掛けているだけになっているバスローブを脱がす。
 脱がし終わると、背中にキスを落とす。
 白い背中に自分の所有印を刻み込んでいく。
 前に残したのは殆ど消えている。身体の色が白いから、残せば一発で何だか解る程で、それが余計に興奮させる。
 肩や首筋に噛み付いて、歯形も残す。
 これは全部自分の物だと示す為だ。
「……ん、はぁ……んん」
 シーツで泳ぐ透耶の身体が艶かしく誘っているように見える。
 これに飽きろって、その後一体、何を抱けばいいんだ?
 今まで色んな人を抱いたが、これほどのは抱いた覚えはない。どんなに美貌や身体に自信がある女だって、こんな吸い付くような肌なのはいなかった。
 一度抱いたら終わりだ。
 これ以外はいらなくなる。
 他なんかに魅力など感じなくなる。
 いくら抱いても抱き足りない。限界まで抱いてもまだだと思う。もっと欲しい。もっと。
「はぁ……んっ!」
 透耶自身をしつこく攻めていると、やっと透耶が達した。
 鬼柳は指についた液を舐めながら、ふむと考え込んだ。
「あ、そっか、舐めなかったからだ」
 鬼柳の呟きに、透耶が不思議な顔をして見上げる。
「ん、何?」
「いや、何でもない」
 いつもと違うやり方だった為、透耶が慣れてなかった上に、透耶自身を舐めてやらなかったので、達しなかったのだと解った。
 さてと、希望通りに変態な事。
 力が抜けている透耶の腰を抱え上げて腰だけ立たせると、ディルドを持つ。
「♪」
 何をされるのか解ってない透耶に、ローションで慣した孔へとディルドを忍び込ませる。
「えっ、何!?」
 冷たい感触に、透耶が驚いて顔を上げる。
「ん、大丈夫」
「や! それ、いやっ!」
 違う感触に、透耶が嫌がって暴れるが、鬼柳は中へと沈めていく。
「あ! あぁっ!」
 全て入ってしまうと、透耶の身体が弓反りになる。
「すごい、透耶、全部入ったぞ」
「いやっ! 動かさないで!」
 異物の挿入に、透耶は不快感を覚えた。
 気持ち悪い!
 身体に鳥肌が立つ。
 透耶の言葉など聞いてない鬼柳が、ディルドを動かす。
「あっ! んんっ!」
 ローションのお陰でスムーズに動くのだが、透耶はやはり快感は感じなかった。あるのは圧迫感だけ。
「いや……! 恭っ! 嫌だっ!」
 中を圧迫する感じに透耶は声を上げるが、本気で嫌がっている様子に鬼柳は動かす手を止めた。
 透耶の身体中に鳥肌が立っているのは、鬼柳にも解っていた。
「嫌?」
 気持ちいいはずだという確信はあるのに、透耶は本気で嫌がっている。
 自分とする時はそんな事になったのは一度もなかったので、鬼柳は驚いていた。
「……気持ち悪い」
 意外な言葉に鬼柳は驚く。
「感じない?」
「……全然」
 透耶が睨み付けるので、鬼柳はすぐにそれを抜いた。
 透耶はそれが抜けるとホッとしたように力を抜いたが、すぐに身体を起こして鬼柳が握っているディルドを取り上げた。
「こんなもん、最悪」
 ポイッとベッドの下へ投げた。
 それから鬼柳を見て言った。
「あんなの使いたかったの?」
 そう言って怒っている透耶に、鬼柳は微笑んでしまう。
 透耶の手首を掴んでそのまま押し倒す。
 驚いている透耶の顔中にキスをして、最後に唇にする。
「な、に?」
「そんな事言われたら、喜ばない奴はいないって」
 鬼柳は嬉しくて仕方がないという笑顔だ。
 何だか、物凄い笑顔なんだけど?
「は?」
「俺のじゃなきゃ、駄目だなんて、最高だ」
 そう言われて、透耶は顔を真っ赤にして背ける。
 あれはそういう意味ではなかったが、要約すれば、そういう事になるからだ。
 恥ずかしそうに顔を背ける透耶の耳にキスをして、鬼柳は身体を動かす。
 透耶の足を持ち上げて、腰を高くすると、もう高ぶっている自分自身を挿入する。
「あ……んっ!」
 中へと入ってくる感覚に、背中がゾクリとする。
 さっきの気持ち悪さなど、まったく感じない。それどころかすぐに身体が熱くなる。
「……くっ! はぁ……やっぱ、いいや」
 全てを収めると、鬼柳は息を吐いて、透耶の首筋にキスをする。
「……動くよ」
 鬼柳は言ってから、腰を動かし始める。
 中を出入りする熱いモノに透耶は翻弄される。
「ん……はぁ、あ……あっ……あっ!」
 突き上げられると、感じる場所に当たるので、声が漏れる。
「……ん、キョウ……キョウ……」
 透耶が一生懸命呼ぶので視線を上げると、腕を伸ばしてしがみつこうとしている。腕を取って首に回してやると、透耶が強く抱きついてくる。
 耳元で甘い息を吐いて、声を上げる。
 透耶の限界は意外に早かった。
 それにつられて、透耶が放った瞬間に締まる内部に鬼柳は射精を速められた。
「くっ……はあ、つられた……」
 鬼柳は言って、ぐったりとする透耶にキスをする。
 奇妙な緊張感やら恐怖感に、最後に快楽を与えられた透耶は、久しぶりに意識を手放していた。
 これでは、朝までやるという目的は果たせない。
 仕方がない。溜息を吐いて少し余韻を楽しんでから、透耶の中から自身を引き抜いて、鬼柳は身体を起こす。
「あ、そうだ。今、風呂使えねえんだった……」
 皿の破片に透耶の血の痕。
 頭を掻いて、仕方がないと、内線で宝田に鬼柳の仕事部屋にあるジャグジーを支度するように頼む。
 透耶にバスローブを着せて、自分も持ってくる。パジャマやら着替えを用意した。
 宝田が呼びに来るまでに、バスルームの破片の後片付けをする。しかし、大きな破片は拾えるが小さいのは拾い切れない。
 さて、このまま流してしまっていいものか? そう考えていると、宝田が呼びにやってきた。
 バスルームに居た鬼柳が気が付かずにいると、そこまで宝田がやってきて言った。
「ジャグジーの方、御用意出来ましたが。如何なされました?」
 しゃがみ込んで考えている鬼柳に聞くと。
「いや、皿を割ったんだが、大きいのは拾ったが、小さいのは流しても構わないかと思って」
 そんな事を真剣な顔で言われて、宝田は、鬼柳の機嫌が治っているのが解った。苦笑して、「後はお任せ下さい」と言うと鬼柳はそうかと言ってバスルームを出た。
「着替えをそこへ置いてあるから、持ってきてくれ」
「はい」
 透耶を抱えて部屋を出ようとしている主人にドアを開けて通し、着替えを持って後を追う。
 地下まで降りて、ジャグジーまで入ると、宝田は着替え一式とバスタオルを並べる。
 一旦ジャグジーに入った鬼柳から声がかかる。
「悪いが、救急箱も頼む」
 そう鬼柳が言った瞬間、ほんの一瞬だけ宝田の顔色が変わる。しかし、すぐにいつもの柔らかい表情に戻る。
「何処かお怪我でもなされましたか?」
「ああ、透耶が皿の破片で足の裏切ってな」
 しくじったなあと呟く鬼柳。
「私が手当て致しましょうか?」
 ホッとしたように宝田が申し出ると、鬼柳は迷わず頷いた。
「頼む」
「畏まりました。御用意致します」
 宝田が下がっていくと、鬼柳は透耶を風呂に入れた。