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switch18

 透耶は、1年半通った懐かしい場所に立っていた。
 二度とここには来ないだろうと思っていた。
 いや、一生訪れる事はないと思っていた。
 それなのに、透耶は訪れる事を自分で望んだ。
 透耶は、鬼柳と共に、その場所にやってきた。
 ここは、透耶がピアノを弾く為に通っていた学校。
 氷室秀徳館学園の校内。
 普段は一般の人が入る事が出来ないのだが、今日は違う。
「何か、普通の学校より広くないか?」
 透耶と鬼柳は二人で敷地内を歩いている。その途中で、鬼柳が校内を見上げながら言った。
「うん、広いよ。秀徳館自体が、幼稚園から大学院まで揃ってるし、普通科と芸術科とか、色々科があったりするからね」
 透耶がそう説明をすると、鬼柳が聞き返した。
「迷わないか?」
 まず、誰もがここへ通う時に思ってしまう言葉である。
 透耶は、自分もそう思ったなあと思い、クスリと笑って答えた。
「それはないよ。自分が使うルートしか覚えないし、科によって建物とかもきっちり別 れてるし、校門も違うからねぇ」
 この学校の間取を覚えている人間というのは、教師でもいないだろう。それくらいに広い学校なのだ。
「あれ? でも綾乃は中学だろ? こっちでいいのか?」
 鬼柳がそう聞くのも無理はなかった。
 透耶達が入ってきた門は、高校の門だったからだ。
 
「いいんだよ。綾乃ちゃんは、ここの中等部に通いながら、ピアノの勉強もしているんだ。でも、ピアノの設備とかは、高等部音楽科にしかないから、基本的に使う教室とかは高等部なるんだよ」
 透耶がそう説明すると、鬼柳は納得して、またキョロキョロとしている。
 鬼柳にしては珍しく、まるで記憶しようとしているかのように、校内を眺めている。
 まぁ、理由は解らなくないけど……。
 透耶は苦笑してその姿を見てしまう。
 鬼柳の事だ。
 ここは、透耶が通っていた場所、という貴重な場所になるわけだ。
 
 透耶が迷わず校内を歩いて行く。
 綾乃と待ち合わせしているのは、中庭で、校内の見取り図を理解していないと一般 の人にはたどり着けない場所になる。
「綾乃ちゃん」
 庭に出たところですぐに綾乃の姿を発見して透耶が手を振って呼んだ。
 綾乃はすぐに振り返って、駆け寄ってくる。
「先生! 鬼柳さん!」
 綾乃は笑顔でそう言って、透耶と抱擁する。
 これを見ていた鬼柳は、渋々という顔をして見ている。
「久しぶり、元気そうだね。この間はごめんね。見に行くって言ったのに来られなくて」
 透耶がそう言って、綾乃の顔を見る。
「気にしてないってばー、体調悪いなら仕方ないし。でも元気そうで良かった」
 綾乃は透耶にスリスリとしてから離れる。
 そろそろ、エロ魔人の堪忍袋が切れそうだと悟ったからだ。
「時間まだあるなら、ちょっと中見学していいかな?」
 透耶がそう言ったので、綾乃は頷く。
 だが、見学とはいえ、透耶は一年半前までここにいて、辛い思いをしたのだから、思い出したくないはず。
 綾乃は、さっさと慣れた足取りで歩いて行く透耶を見ながら、この行動が不思議でならなかった。
 校内を移動しながら、透耶が言った。
 
「学内のコンクールだけど、本当に俺達が来ても良かったの?」
 透耶が聞くと、綾乃が頷く。
「家族とか呼んでいいらしいけど、あたし、沖縄に家族いるから、東京の知り合いでもいいかって教師に聞いたら、いいって言ってたから問題ないはずよ。さっきも確認してきたし」
 綾乃は、そう言いながら内心、透耶がここに来るのは嫌がるだろうと思っていた。
 でも、この間のコンクールで、聴いて欲しかったと綾乃が残念がっていたと、鬼柳がヘンリーから聞いていて気にしていたらしい。
 透耶も、次のコンクールまでかなり期間が開くのでしょんぼりしていた。
 あのメイドのせいで、透耶が体調を崩したのを過労のせいにしてしまったのだが、透耶は自分の管理が出来てなかったと思い込んでいるので、余計に申し訳ないと思ってしまっている。
 あまりに残念がっているので、鬼柳はどうにかならないかと思っていると、定期連絡になってしまっている綾乃との電話で、この学内コンクールの話を偶然聞いて、それを聴きにいけないものかと綾乃に相談していた。
 綾乃も自分の出来を透耶に聴いて欲しかったので、家族特典である招待客を透耶達にして教師に相談してみたのである。
 ただ、透耶がここに来る事自体が問題である。
 ここは、透耶にとって辛い場所。
 逃げ出したいと思い、逃げ出した場所。
 鬼柳にもそれは解っていたが、意外とあっさり透耶は承諾してしまった。
 拍子抜けしてしまうくらいに、「うん、行く」と答えたからだ。
 それから別に透耶の様子は変わる事無く、楽しみと嬉しがっていた。
 改まって「大丈夫か?」などとは聞けない鬼柳。
 透耶は黙々と、まるで、なにか目的があるかのように先を歩いて行く。
 もう大丈夫なのだろうか? 
 鬼柳がそう心配していると、ピアノ室が並ぶ廊下の途中で、透耶がいきなり立ち止まった。
 透耶の後ろを歩いていた鬼柳は、どうしたのかと思い、一緒に立ち止まる。
 綾乃もそれに気が付いて、立ち止まって振り返った。
 この時の透耶は、睨み付けるように一点の床を見つめている。
 透耶のこの行動の意味を先に理解したのは、やはり鬼柳だった。
 そして、綾乃も、透耶が見つめている場所を見て、それから透耶の顔を伺った。
 この場所こそ、友人が自殺した場所。
   だが、そこには何も残っていない。
 透耶が覚えているのは、血塗れになった床。そして血飛沫がついた壁。
 透耶の記憶に残っているような、何かあった場所としては、ここは壁を塗り替え、床も張り替えられているから綺麗になっている。
 初めから何もなかったかのような場所。
   透耶は暫くそこを見ていたが、ふっと息を吐いて、それから一つのピアノ室を開けた。入り口で立ち止まり、それから中へ入って行く。
 鬼柳と綾乃はゆっくりとその後を追う。
 中を覗くと、透耶はピアノに触っている。
 綾乃には、この透耶をどうしていいのか解らなかった。
 そこにいる透耶は、さっきまでの透耶、綾乃が知っている透耶の表情ではなかったから、まるで、透耶一人が過去へ戻ってしまったように見えた。
 ここにいるのは、自分一人と思っているかのように、透耶は一人で辛い想い出と戦っている。
 何度もきつく目蓋を閉じては開いて、逃げないと決めたようにまた何かを思い出している。
 綾乃が鬼柳を見ると、鬼柳は無表情で透耶を見ていたが、すぐに堪えられないといわんばかりに、透耶に近付き、後ろから透耶を抱き締めた。
 鬼柳の方が、もっと辛い顔をしていた。
 どうして、自分はここにいた時の透耶の側にいなかったのだろう。
 こんなに辛いと思っているモノを全て取り除いてしまいたい。
 なのに、透耶はいつも一人で辛いものと戦ってしまう。
 こういう時にこそ、頼りにして欲しいのに。
 透耶は、抱き締めてきた鬼柳の腕を撫でた。
 ここにある腕が、自分を現実へと引き戻してくれる。
 大丈夫、この腕がある限り。
 そして透耶は振り返る。
「うん、大丈夫。思ってたより大丈夫」
 透耶は言って、いつもの笑みを浮かべる。
「透耶?」
「もっと怖くて動けないかと思ってたんだ」
 透耶はそう言って、また笑う。
「……そうか」
 鬼柳は笑いかけて、透耶の頭を撫でる。
 本当は、透耶がまだ怖がっている事は鬼柳にも解っている。
 それでも、透耶は逃げ出す訳にはいかないと、自らこの場所へ来る事で、自分の心を強くしようとしている。
 逃げ出したままでは駄目だと、それを越える為に、まだ怖いという場所に立っている。
 鬼柳は、こういう透耶は、本当に強いと思っている。
 なのに自分は逃げ出し、二度と戻らないと言い切って、まだ逃げ回っているというのに。
「恭? どうしたの?」
 透耶の声で鬼柳が我に返ると、首を傾げて見上げられていた。
「いや、何でもない。まだここにいるか?」
 鬼柳がそう言うと、透耶は首を振った。
「もういいよ。ごめんね、なんか付き合わせちゃって」
「それはいいんだ」
 鬼柳は微笑んで透耶の頭を撫でた。
 その微笑みを見ただけで、透耶も自然に笑えるようになってしまう。
 ……やっぱ、恭ってすごいなあ。
 透耶はそんな事を思ってしまっていた。


 透耶達がピアノ室を後にして、食堂へ入ると、かなりの人がいた。
 大体が、生徒の家族で、まだ開いていない講堂が開くのを待っている。
 透耶が懐かしいからと言い、飲み物を買いに行き、鬼柳と綾乃が席を取る。
 座ると同時に綾乃が鬼柳に言った。
「ねぇ、先生って自殺しようとした事ある?」
 いきなりのこの質問だったのだが、鬼柳はさほど驚きはしなかった。
「いや、ない」
 鬼柳がそう答えると、綾乃はふっと息を吐いて言った。
「うん、ならいいや」
 それだけで十分だとばかりに綾乃はそれ以上踏み込んだ事を聞かなかった。
「そんな噂があるのか?」
 綾乃がいきなりこういう事を聞くのは、この学校で透耶がそう噂されているのではないかと、鬼柳は敏感に察知した。
「うん、まあ。一部だけどね。根拠はないのよ。事実を知っている人なんてもう教師くらいしかいないだろうしね。色々と噂したがる人は多いけど、結局噂の域を出ないから」
 相変わらず透耶の事に敏感な鬼柳に、綾乃は関心してしまう。
 これでもっと変な噂が出ていたら、鬼柳はどうするんだろう?と思ってしまう。
「何があったのか、聞かないのか?」
 鬼柳がそう言ったので、綾乃は頭を掻いてしまう。
 鬼柳がいきなりそんな事を言うのは、綾乃が知っている噂と、透耶が鬼柳に語った話にかなりの食い違いがあるのだろう。
「うん、そりゃ、興味がないって言ったら嘘になるけど。今日の先生を見てたら余計に聞いちゃいけないんだって思ったの。なーんとなくだけど、予測はつくっていうか、辻褄が合うというか」
 綾乃は言いにくそうにそう言った。
 噂と、前に教師が洩らした言葉。
 透耶があの場所でああいう顔をしたということ。
 それらを合わせれば、透耶の周りで何があったのかは、綾乃にでも予想が付くし、本当の理由も予測出来る。
「今日、ここに来たのも、多分、その為だと思う。もう何であんなに無理するかなぁ。どうせ、鬼柳さんの為だろうけど」
 綾乃はそう言って、販売機に並んでいる透耶がやっと順番が来て買っている後ろ姿を見ていた。
「まったく、綾乃は何でも解るんだな」
 鬼柳は、呆れてしまう。
 綾乃が透耶の事を気に入っているのは解るが、沖縄以来会ってもない透耶の事をここまで解るのは珍しい。
「解るって。先生が無理する時に、鬼柳さんが絡んでない事ってないんじゃないの?」
 綾乃は当然でしょうと言った。
 鬼柳はこれでもう苦笑するしかなかった。
 綾乃には、透耶が何を考えているのかは解らないし、何が本当なのかも解らない。
 だが、言える事が一つだけある。
 透耶が過去と向き合っているのは、全て鬼柳と居る為の行動。
 逃げたままの自分を許せないからこそ、前向きに生きようとしている証拠であると、それだけは解るのだ。
 透耶が過去から逃げた事と戦う姿を綾乃に見られても構わないと思っている。
 それを見る事を許されている事を綾乃は凄く嬉しく思った。
 それと同時に、辛い事から逃げても、自分の心が強くなった時にしっかりと事実と向き合う事で、自分がさらに強くなれると教えられた気がした。
「お前、本当に14か?」
 鬼柳が苦笑して言うと、綾乃はジロリと鬼柳を睨んで言った。
「失礼な。年齢詐称なんかしてないわよ」
「何が年齢詐称なの?」
 ちょうど透耶が戻って来て、二人の話を聞き首を傾げている。
 差し出された缶ジュースを綾乃は受け取って言う。
「あたしが14に見えないって言うのよー。失礼でしょ」
 綾乃がそう言うと、透耶は少し考えて言った。
「見た目の事じゃないと思うけど?」
 透耶はなんのことだか解らずに、取り合えずそう答えた。
 綾乃は、精神的に強く、考え方も自分とは違うと透耶は思っている。
 大人びた考えで、透耶はいつも励まされている。 
「俺なんかよりずっとしっかりしてるから」
 透耶がそう笑って言うと、何故か鬼柳が笑っている。
 綾乃は、妙な顔をして、鬼柳を見ている。
 俺、なんか外したかな?
 
 透耶がキョトンとしていると、綾乃が腕を引っ張って座るように言った。
 綾乃は、年齢詐称の事は、まさに透耶が言った通り、中身の事を言っているのは解っていた。それを話を聞いてなかった透耶がすんなり答えてしまったので、ここまで以心伝心なのかと、呆れていただけなのである。
 それからピアノの事を話していると、いきなり鬼柳が変な声を出した。
「げ、じじい」
 鬼柳がこんな事を言い出したので、透耶と綾乃が鬼柳を見る。
「じじいって?」
 綾乃がそう言ったが、透耶には思い当たるじじいがいる。
「まさか」
 鬼柳の視線が自分達の後ろにあるので、二人が振り返ると、そこにはそのじじいが立っていた。
 思わず透耶は立ち上がってしまう。
『Long time no see. Toya.(やあ、透耶久しぶりだね)』
 そう言ったのは、我が道を突き進む、あのジョージ・ハーグスリーヴだった。


『Why are you here. George? (ジョージさん、何で?)』
 透耶は驚いてそう聞いてしまう。
 こんな所でジョージに会うとは透耶は思ってもみなかったのだ。
『To hear Ayano play the piano.(何をって、綾乃の演奏を聴きにきたんだよ)』
 ジョージはニコリとして答えた。
『Which means…(え? それって)』
 学内のコンクールでどうしてジョージが聴きに来られるのか。それが透耶が驚く理由。
『She invited me.(呼ばれたんだよ、綾乃に)』
 ジョージがそう答えると、透耶と鬼柳が綾乃を凝視する。
「お前ら、いつの間に」
「仲良くなったの?」
 透耶と鬼柳が同時に言うと、綾乃はキョトンとする。
「は?」
 何がどうなって、仲良しなんだ?
 英語が解らない綾乃には、何がどうなってそういう話になったのか流れがさっぱりである。
 鬼柳が通訳してやると、綾乃はああっと笑ってしまう。
「うんとね。ジョージさんにパトロンになって貰った」
 綾乃がそう答えると鬼柳が。
「援助交際とかいうヤツか?」
 と真剣に言うので、透耶と綾乃が二人で殴る。
「そんな訳ないでしょ!」
「どうしてそっちにいくかなぁ」
 透耶と綾乃が呆れていると、ジョージが鬼柳に説明をしている。
 ジョージは、鬼柳が何を言ったのかは解らないが、明らかにパトロンの意味を履き違えているのは理解出来ていたので、英語で説明をしたのだ。
 その説明を聞いて、透耶は首を傾げた。
『But. how come?(でも、どうしてジョージさんが?)』
 透耶がそう聞くと、ジョージは答えた。
『When I heard her play the piano the other day. I got to like her sound.It was quite similar to yours. and beautiful.(この間の綾乃の演奏を聞いて、私の好きな音だったのでね。あれは透耶のに似てい る。いい音だ)』
 ジョージは本気でそう思っていた。
 ただ、透耶に関わりたいから綾乃を構うのではなく、純粋に綾乃の音に感動したからだった。
『I see. You did it well. Ayano.(そっか。綾乃ちゃん、すごいなあ)』
 そう言って綾乃を見ると、綾乃は鬼柳の隣に席を移して、通訳をしてもらっている。
『Today’s performance must be great too.(今日はとても楽しみです)』
 透耶がニコリと微笑むと、ジョージまで微笑んでしまう。
 ニコニコなジョージを見て、透耶はハッと思い出した。
『Oh. George.As for the piano you sent to me. I can’t keep it.(あ、そうだ。ジョージさん、ピアノの事何ですけど。あれはやっぱり貰えません)』
 透耶はそう言った。
 すると、ジョージの顔色が変わる。
 ガシッと両肩を掴まれてしまう。ジョージの表情は真剣で、透耶は目を見開いてしまう。
『Is it something wrong?(もしかして欠陥品だったのか?)』
『Not at all.I am saying….(いえ、そうではなくて)』
『Don’t you like its sound?(音が気に入らないとか?)』
『Yes. I like it. I am just….(そうでもなくて…)』
『I thought you do.That piano really sings. I couldn’t help buying it at the moment I heard its sound. believing it was made just for you. (そうだろ? あれは素晴らしい音を出すぞ。あれを聞いた瞬間に、これは透耶の為 にあるのだと確信して、即座に買ったものなんだ)』
『Well. I am pleased to hear that. but….(えっと、それは嬉しいんですけど)』
『So. you like it.Good. (じゃ、気に入ってはいるんだね?)』
『Sure I do. but…(それは、気に入ってますが)』
『Then. there’s no problem. right?(問題は何もないだろ?)』
『No.But I am not talking about such problems.(いえ、そういう問題ではなくてですね)』
『Don’t bother. then.」Let her sing. (気にする事はない。しっかりあれを弾きこなしてくれ)』
 透耶が話を全部する前に、次々にジョージが畳み掛けるように話すものだから、肝心の理由が言えない。
 えっと、ジョージさん、俺の話最後まで聞いて下さいー。
 透耶の負け。
 困り果てた透耶が鬼柳を見てしまう。
 正直なんて言えば通じるんだろう?という相談でもある。
『Hey. he is talking about the money you spent on it.He thinks it is too expensive for a housewarming.(じじい、透耶は金額の問題を言ってるんだ。あんな高いものは貰えねぇって』
 鬼柳が手助けすると、ジョージは何かを思い付いたように、手を打った。
『OK. then. You have the piano. but you use it with Ayano. How about this?(それでは、こうしよう。あれは透耶にあげるが、あれは綾乃と共同で使って欲し い)』
 ジョージのこの発言に透耶はキョトンとしてしまう。
『Pardon? (は?)』
 ……どういう事?
『She can’t practice on the good piano here.I want to let her use a good piano even from time to time.What do you think? (つまり、ここでは大したピアノで練習は出来ないだろ? 時々でも綾乃にはいい音 がするピアノを触らせてやりたいんだが、それでどうだろうか?)』
 ジョージの提案に透耶は、真剣に考える。
『It is a good idea.These pianos here are for practice. and they use good pianos for the competition.It is useful to know the good one. That’s for sure. (確かにそうですね。ここは練習用ですし、本番ではいいピアノを使ったりしますし ね。音のいいのも知っておくのも練習にはなります)』
 透耶はそう答えてしまう。
 ピアノの事、自分の事はどうでもいいのだが、綾乃が絡んでいるとなると、真剣に考えてしまうのだ。
  『In this way. Ayano can sometimes visit you. ask you for some advice. It is like killing two birds with one stone.(それなら、透耶の家に綾乃が時々訪ねれば、透耶にも練習を聞いて貰えて、一石二 鳥だ)』
 ジョージは名案だろうと頷きながらそう言った。
『Indeed.I agree with you.(そうですね、それならいいですけど)』
 正直、綾乃の成長していく姿を見るのは透耶にはとても頼もしいものである。それが目の前で聴けるとなれば、文句どころか感謝したいくらになってしまう。
 ピアノは、透耶が時々、しかも一日一時間くらいしか触ってやれない。
 だから、あれ程高級品でなくてもいいのだが、綾乃が弾くとなれば、一番いいピアノで練習させてやりたくなる。
 結局の所、気持ち的にはジョージと変わらない。
『So. everything is going OK about piano.(じゃ、ピアノの問題は解決だな)』
 ジョージがそう言ったので、透耶はうん?っと首を傾げてしまう。 
 ん? 何か間違ってない? 俺……。
 それを通訳して貰って聞いていた綾乃が鬼柳に呟く。
「先生、思いっきり策略にはまってる」 
「まあ、透耶はああいうのが無茶苦茶可愛いんだけどな」
 鬼柳は、まだジョージの罠にハマったという事に気が付かないで、首を傾げている透耶を見ながらそう言い放つ。
「惚気をどうも」
 綾乃はすっかり呆れ顔。
 しかし、内心、可愛いけどね。と思ってしまっていた。
「で、あたしが行ってもいいの?」
 綾乃はそう聞いていた。
 今のは、ジョージが提案したモノではあるが、綾乃は、二人の家に遊びに行ける事と、透耶にピアノの音を確認して貰えるという、一つはジョージと同じ考えで、一つはただの我侭だった。
 だから、しっかりした方の家主である鬼柳に確認したのだ。
「来ないつもりか?」
 鬼柳はキョトンとして綾乃を見ている。
 この言い方では、もう綾乃は来る事になっているらしい。
「行く!」
 綾乃は思わず手を上げてしまう。
 このチャンス逃してなるモノか!という所である。
「来る時は電話しろ。迎えに行ってやる」
 鬼柳はこれは当然だとばかりに付け足して言った。
「うん、解った」
 綾乃は返事をしてニコリと微笑む。
「そういや、なんでじじいがパトロンなんだ?」
 いまいち、音がどうとか言われても、鬼柳は綾乃の音を知らない。
 あのジョージが絡むなら、何か他にも理由があるんじゃないかと疑っている。
 打算なしにして、ジョージが動くとは思えないからだ。
 こういう所は、企業家としてのジョージを知っている鬼柳の考えだ。
「よく解らないのよ。コンクールに来てくれるって言ったのは冗談だって思ってたのに、本当に来てたのよ。あの、ウィリアムズさんを通 訳にして、いきなり言い出して」
「押し切られたと」
 鬼柳が綾乃の言葉を引き継いでそう言うと、綾乃はあははと笑ってしまう。
 透耶の事は言えないという状況だ。しっかりあの勢いにやられてしまっているからだ。
「その通り……先生が負けるのは解るけど、あたしも負けた訳。でもねえ、英語がしっかり喋れたら断われたかもと今思ってる」
 通訳であるヘンリーがいたのに、通訳になってなかったのである。
 というのも、ジョージが話す事は、全てジョージがパトロンになっている事を条件に話が進められてしまっていたからだ。
 しかも、ジョージは自分が言いたい事だけさっさと言うと帰ってしまうし、後日、正式な書類を持った秘書が現れ、綾乃が断る訳にはいかない状況になってしまっていたのである。
 だから、英語さえ理解出来ていれば、そうなる前に少しは反論出来たはずなのだ。
「まだ習い初めか?」
 鬼柳がそう聞いた。
「そう、お陰でしっかり勉強する気になっちゃって、今度の期末試験、ばっちりかもね」
 綾乃は俄然やる気になっている。
 いずれは必要だろうから覚えておくのに越した事はないが、今はジョージの暴走に対抗出来るだけの言語が欲しいというところが本音である。
「基礎が入ってりゃ、日常会話くらいできるようになる。透耶の覚え方も、そんなもんだ」
 意図も簡単に鬼柳が言ったので、綾乃はジロリと鬼柳を睨む。
「先生は特殊よ。習った事は引き出しにきっちり入ってるんだもん。普通の人が忘れちゃうような事でも、習った事は忘れちゃいけないとでも思ってるみたいに、ちゃーんと綺麗にしまってあるのよ。そうじゃなきゃ、たった二ヶ月くらいで、あんなに喋れるようになるわけないもん」
 透耶は特殊で、異常であると綾乃はいいたいのだ。
「そうなのか?」
 鬼柳は、やる気さえあれば、透耶くらいには覚えられるものだと思っていたらしい。
「一応、音楽科って、学校の英語の授業以上の日常会話くらい出来る基礎は習うのよ。留学する人もいるしね。先生はそういうのが入ってるけど、使わなかっただけ。まぁ興味なきゃ覚えられないものだけど」
 ジョージのお陰で、今後の綾乃の英語の試験は問題ないと思われる。
「ふーん」
 鬼柳はそれを聞いて、ふむと考えしまった。
 透耶も忙し過ぎるが、綾乃も忙しすぎる。
 二人とも休養が必要だ。
 綾乃は夏休みに入れば、ピアノ三昧だろうし、透耶は更に忙しくなってしまう。
 なんだが、これはどうにかしてやらないといけない気がしてしまう鬼柳である。

「先生とジョージさんは、何を言い合ってる訳?」
 綾乃が鬼柳の肩を叩いてそう聞いた。
 鬼柳はハッとして我に返る。
 目の前では透耶が困惑、ジョージは喋り続けている。
「食事に買い物、旅行に本国に招待。そういうのを永遠に喋ってる」
 鬼柳は面白くないという顔で答える。
「何で止めない訳?」
 そんな話になっていたら、まっ先に鬼柳が止めるだろうと綾乃は思っていたからだ。
 鬼柳は、首筋を掻きながら、渋々という風に答えた。
「まあ、一応、ピアノくれたしな。あれを透耶が気に入ってるのも事実」
 鬼柳はそう言って思い出してしまう。
 透耶は、これは貰えないと言い張り、ピアノに触ろうとはしなかったのだが、毎日目の前にそれが入ってしまうと、どうしても触りたくなってしまうらしい。
 それで、鬼柳が、あれを買い取り、一括が無理なら分割ででも払っていけばいいからと提案すると、さすがの透耶も素直に頷いた。
 余程弾きたくて堪らなかったのだろう。買い取ると決めたとたん、透耶は毎日ピアノに触っていた。
 それもいくら弾いても弾き足りないとばかりに。
 そういう姿を見ていると、ジョージが何を考えてピアノを送ってきたとかを考える前に、純粋に透耶には良かった事ではないかと思えてしまう。
「そんなにいい音出すピアノなの?」
 透耶が貰えないと言い張るのは解るが、鬼柳がジョージから送られた、それも単価としては相当な贈り物を納得して受け入れるはずないと綾乃は思ったのだ。
「なんか、ピアノの最高級品らしいし」
 鬼柳がそう答えると、綾乃が驚いて聞き返した。  
「え? そんなの送ってきたの?」
 そう言われて、鬼柳は何とかそのピアノのメーカーを思い出そうとするが、なにせ透耶から聞いたのは一瞬だったので、はっきりと思い出せない。
「スタ…なんとかって言ってたな」
 それだけ聞いて綾乃はまさかとそのメーカーを言ってみる。
「スタインウェイ?」
「そうそれ」
 確かそうだったと、鬼柳が答えると、綾乃は信じられないと聞き返してしまう。
「マジで?」
「ああ」
「うーわー。本気で先生の事気に入ってるんだぁ」
 綾乃はそんな感想を洩らした。
 道理で透耶が貰えないと渋るはずだ。
 普通、プレゼントとして、まったくの他人、しかもたった二度しか会った事がなく、ちゃんとした会話もしてない相手に送る物ではない。
 だが、ジョージ程の金持ちならそれも簡単な事なのかもしれないが、それを送るだけの価値がないと普通 はしないものだ。
 大体、ジョージが透耶のピアノを聞いたのはたった一度だけである。
 それだけで、最高級品を送りつけるのだから、鬼柳でなくても、何か裏があるんじゃないかと疑ってしまう。
「先生ってもしかしてオヤジキラー?」
 綾乃がそう言うと、鬼柳が眉を顰め、舌打ちをした。
「……まったく、あちこちでひっかけて」
 段々苛々してきた鬼柳が立ち上がって、透耶とジョージの間に入って止める。
 しかし、今度は鬼柳とジョージの言い合いになって、透耶は逃げ出してきた。
 綾乃の隣に座ると、透耶はぐったりとしてしまっている。
「御苦労様」
 思わずそう言いたくなる程の困憊ぶりだ。
「……相変わらず、パワフルなジョージさん……」
 透耶はそう呟いて、自分で買ってきた缶ジュースを飲む。
 ……どうしたらあんなに色々と言えるんだろう?
 鬼柳が止めなかったら、透耶は、ジョージと二人で食事して買い物をして、さらに海外旅行をして、極め付けで、ジョージの家に招待されてしまっていただろう。
 ……あれはナンパなんだろうか?
 ん? 男をナンパしてどうすんだ?
 じゃ、なんであんなに俺ばっかり誘うんだろう?
 考えれば考える程、ジョージが何を考えてそんな事を言ってくるのが解らなくなってしまう。
「先生、鬼柳さんに許可貰ったけど、いいのかな?」
 綾乃がそう話し掛けてきたので、透耶の思考もそこで止まる。
 綾乃が言ってきたのが何の話かはすぐに解った。
「ん? ああ、あれね。いいよ。俺、いつも家にいるし」
 透耶は軽く答える。
「良かった〜」
 透耶からも承諾を貰って、綾乃は微笑む。
「綾乃ちゃんならいつでも歓迎するよ。来る時、電話してくれたら迎えに行くし」
 透耶がそう言うと、綾乃が吹き出して笑い出す。
「え? 何?」
 綾乃が笑ってしまっていたので、透耶は自分が何かおかしな事を言ってしまったのかと考えてしまう。
 ……俺が迎えに行ったらおかしいのかな?
 ん? もっと変な所でもあったのかな?
 透耶が首を傾げて考え始めてしまったので、綾乃は慌てて笑った説明をした。
「ごめん〜。鬼柳さんと同じ事言うから、おかしくて」
「あ……そう?」
 ……あらら、恭が先に言ってたんだ。
 そう納得してしまう。
「うん」
 まったく外見からして似てない二人なのに、言う事はまったく同じなのだから、綾乃はおかしくて仕方ない。
 そうしていると、生徒を呼び出すアナウンスがなり、綾乃は先に食堂を出て行った。
 それからすぐに講堂が開かれたというアナウンスが流れて、周りが更に騒がしくなった。
 散々言い合いしていた鬼柳とジョージだが、先にジョージの方が話を打ち切った。
「あのじじい、言いたい事だけいいやがって」
 鬼柳が疲れたような顔で、文句を言う。
 結局、鬼柳もジョージのパワフルには勝てなかったのである。

 学内コンクールは、留学して行く生徒の為に開かれるようなもので、綾乃は前回のコンクールで2位 だったのもあり、かなり後の方の出番になっていた。
 透耶は全ての演奏に聴き入っていたが、鬼柳は興味がないので、綾乃の順番近くまで喫煙出来る場所に避難していた。
正直な所、透耶の音を知っているだけに、他の人の演奏は聞くに堪えないらしい。
『It says that she’s gonna play the one she played before.(今回は、前のモノをやるらしいね)』
 入り口で貰ったパンフレットを見て、ジョージがそう言った。
『Is that the Aria? Good.I have wanted to listen to it. since I didn’t last time.(じゃ、「アリア」ですか? 良かった、俺、ちゃんと聴いてないからどうだったの か気になってて)』
 透耶は、前に聞きそびれた事を気にしていたので、今日は本当に来て良かったと思ってしまった。
『Anyway. what is your favorite number?(そういえば、透耶が得意な曲は何だい?)』
 不意にジョージがそう言ってきたので、透耶はうーんと考えてしまう。
『Me? The one by Liszt.It is not really a favorite though.I just play it often.(俺ですか? 得意というかよく弾くのは、「リスト」ですね)』
 ……恭がクラシック詳しくないから、片っ端から弾いてるんだけど。
 透耶は、鬼柳がリクエストをしやすいように、毎日色んな曲を弾いていた。
 その中で鬼柳が気に入った曲をリストにしてあるくらいだ。
『Why is it so?(何故、「リスト」なんだい?)』
 透耶がジョージの前で弾いた曲は、リストの曲しか弾いていない。
 何故と聞かれて、透耶は笑いながら言った。
『Kyo likes his Campanella and Mazzepa.Except them. he likes polonaises(恭が好きなんですよ。カンパネラとかマゼッパとか、リスト以外ではポロネーズ 系)』
『Difficult ones. aren’t they? (難曲ばかりだね…)』
 また、鬼柳もそんな曲ばかり弾かせているとは。
 ジョージは、苦笑してしまう。
『Exactly.Of all things. he comes to like them.He seems to lead me into a trap.(そうなんですよ、よりにもよって、難曲ばかり好きになるんですよ。一瞬、罠かな あとか思ったりします)』
 透耶がそんな事を言い出したので、ジョージは聞き返した。
『A trap?(罠って?)』
『Say. he. actually understands about classical music. and makes me play only the difficult ones.(本当はクラシックに詳しくて、俺に難曲ばかり弾かせてるんじゃないかと)』
 透耶が真剣にそう言うと、ジョージがグッと笑いを押さえる。
 鬼柳はクラシックを知らないからこそ、簡単に難曲をリクエストしているだけなのだ。

 途中休憩があり、それが終わったと同時に鬼柳が戻ってきた。
 ちょうど、この後は、コンテスト入賞者の演奏だからだ。
 中等部三年の最後に、綾乃が登場し、「アリア」を弾いた。
 透耶はこれを聴いて驚いていた。
 沖縄で弾いた時よりも断然音が違う。
 深く優しい音。
 綾乃は、学校へ戻ってからも練習をし、独自に成長を遂げていたのだ。
 全てが終わって、透耶は思わず盛大に真剣に拍手をしてしまう。
 
「綾乃の音って、透耶に近くないか?」
 鬼柳がそう呟いた。
「そう? でも、全然違うよ。これは綾乃ちゃんの音だよ。すごいなあ、もう「アリア」は弾けなくなっちゃった」
 透耶がいきなりそう言い出したので、鬼柳は驚いてしまう。
「何で?」
「これって完璧。俺にはこれ以上のは無理って思ったから」
 透耶は残念がるどころか、嬉しくて仕方ないという顔をしている。
 純粋にそう思ってしまったのだ。
 綾乃の演奏が終わった所で、3人は外へ出る。
 ちょうど生徒が出てくる辺りで綾乃を待っていると、生徒を引き連れた男が、透耶達の前で立ち止まった。
 男は、透耶を見た瞬間に声をかける。
「……榎木津、透耶か?」
 男がそう言ったので、透耶はそっちを振り返る。
 だが、そこに立っている人物を見た瞬間に透耶は顔色を変えた。
「俺だ。覚えてないか?高城だ」
 高城と名乗った男は、透耶に近付いてくる。
 透耶は、鬼柳の腕を掴んで、少し隠れるようにして下がる。
「……存じません」
 透耶がそう答えたのを聴いて、鬼柳が透耶を見下ろす。
 透耶が高城を覚えてないというのは嘘だからだ。
 普段、嘘を付く事を嫌がる透耶なのに、ボケてうっかり忘れているのでもなく、意図的にしている。
 透耶にしてみれば、出来れば、会いたくなかった相手。
 綾乃がMDをうっかり聞かせてしまった、あのプロピアニストの高城直道だった。
「榎木津、お前、何でピアノ辞めたんだ。あんなに弾けるじゃないか」
 高城がそういうと、一緒にいた生徒が、「榎木津」という名前で学校で流れる噂を思い出したらしく、こそこそと喋っては透耶を見ている。
 鬼柳は、ここで透耶がどのように見られているのかを直に見てしまった。
 あからさまな態度だったので、どんな噂が流れているのか解ってしまう。
 だが、透耶はそれすら耳に入っていないようだった。
「おい、この榎木津が、あの音の持ち主だ」
 高城がそう生徒に言うと、生徒達は驚愕した。
「あれが、この人の音?」
「嘘」
 生徒達はあの音の持ち主は、高城のような男だと思っていたのだ。それが、細身で女みたいな顔をしている。力強く、深い音を出す人物とは思えないのだ。
 しかも、透耶の噂が本当なら、透耶はピアノが弾けない状態のはずだからだ。
 それがあの音の持ち主と知らさされて、噂は嘘だったと伝わったようだった。
 鬼柳は、こいつが透耶が言っていたヤツかと、じっと高城の顔を見ていた。
 透耶がここで一番嫌っていた相手。
 自分がどういう風に見られても、殆ど気にしない透耶が、珍しく苦手だと言ってしまうくらいに、高城の存在は、透耶にとっては嫌な存在らしい。
 鬼柳はこれをどうやって止めようか考えていた。
 相手はピアニストだ。下手に殴りつけては、透耶や綾乃に迷惑がかかる。
「榎木津、一曲でいいんだ」
 高城がそう言って来た時、透耶は目の前が揺らぐのを感じた。
 この人はいつもそうだ。
 ……どうして、いつもそう言うの?
 透耶は、自分と高城がまったく正反対の立場にあるのは理解していた。
 だが、まるで昔を再現したかのような言葉と、この場所のせいで混乱してきていた。
  「こいつらの手本に弾いてくれないか? 昔よしみで頼むよ」
 高城は、馴れ馴れしく透耶にそう言う。
 高城は、綾乃にきちんと聞いていたはずの、透耶が唯一の人、鬼柳の為だけにしか弾かないという言葉を無視していた。
 MDをこっそり録音して生徒に聞かせたのも、一度は聞かせたのだから、二度も三度も同じだろうと思っている。
 生徒達も期待していて、これで透耶が断われないだろうと思っていた。
 しかし、透耶は高城を睨み付けると言った。
「お断りします」
 ハッキリと言い切る。
 高城はまさか断わられるとは思ってなかったらしく、顔色を変えて透耶に詰め寄る。
「何故だ」
 高城がそう言うと同時に透耶は答えた。
「理由は、前と同じ。俺は必要以上に人前で弾かない」
 透耶は同じ言葉を繰り返す。
 これは、透耶が過去に高城に言った言葉。
「お前! まだそんな事を言ってるのか!?」
 高城は透耶に向かって怒鳴った。
 そんな理由で、あの音を封印してしまうのは許せなかった。
 だが透耶は高城を睨み付けたままで言った。
「いつまででも言いますよ。解らないなら解らないで結構です」
 そう言った透耶は、もう鬼柳の腕を掴んではいなかった。
 一歩前に出て、挑むように高城を更に睨み付ける。
 それでも高城は食い下がって言う。
「お前が弾いてやれば、こいつらだって成長出来るんだぞ」
 ほら、また同じ事をこの人は言う。
 透耶は、段々と冷静どころか、冷淡になっていく。
 まるで、昔に戻ったかのように。
「それが俺である必要性はまったくありません。高城さんで十分でしょう」
 透耶は突き放すように高城にそう言った。
 これも昔に言った言葉だという事に透耶は気が付いてなかった。
 もうそれくらいに自分の中が滅茶苦茶になってしまう。
  「唯一の人の前でしか弾かないだと!? ふざけた事を! お前はこっち側の人間だぞ! その才能を溝に捨てるのか!」
「とっくに捨ててます」
 透耶は即答で答える。
 それでも高城は納得しない。
「あれが捨てた音とは言わせない!」
 その言葉で透耶は完全に自分をコントロール出来なくなってしまった。
 自分が何を言っているのかさえ解らなくなっていく。
「なら……音が出せないようにしましょうか?」
 透耶はそう言ってニヤリと笑う。
 そして掌を自分で見て呟く。
 ……そうだ……。
「これさえなければ……」
 そう言ったとたん、後ろから違う手が伸びてきて、透耶の掌を掴んだ。
 透耶がハッとして見上げると、鬼柳がその手を掴んでいる。
「駄目だぞ。これは俺のだ」
 鬼柳は言って、透耶の手を取ると指先にキスをする。
 透耶はそうされている時、今自分が何を言ったのかを考えていた。
 俺、今、何言った?
 透耶が呆然としているので、鬼柳は透耶を引き寄せると、壁に透耶を押し付けた。
「痛っ! な、何?」
 壁に押し付けられた痛みで透耶は我に返る。
 見上げると、鬼柳が怒った顔で透耶を見ている。
「恭?」
 ……俺、どうしたんだ? どうして恭は怒ってる?
 理由を考えても、自分が覚えていない何かの言葉に鬼柳が反応したのは確かなようだ。
 鬼柳は透耶を見下ろし、真剣な顔で言った。
「また、下らない事を考えてるだろ? 無くすとか言うな。透耶は俺のモノだ。透耶でも勝手にするんじゃねぇ。解ったか」
 命令するような口調で鬼柳がそう言う。
「え? あの……」
 
 透耶が困惑していると、鬼柳は舌打ちをした。
 訳が解らないという顔をしているので、透耶が自分で何を口走ったのかを覚えてないと鬼柳はすぐに解った。
 ……まだ昔、それもこの場所が透耶を縛り付けている。
 鬼柳は。透耶の顎を掴むと食らい付くように透耶にキスをした。
「……んっ!」
 まさか、ここで鬼柳がこんな事をしだすとは思いもしなかったので、透耶には防ぐ事が出来なかった。
 しかも、こうなった以上、抵抗しても無駄。
 だんだんと頭が真っ白になってしまい、さっきまで考えてた事さえ忘れてしまう。
 自然と鬼柳に答えてしまう。
 その答えが返ってきた事で、鬼柳は安堵する。
 透耶が混乱している時は、一度頭の回転を止める為に、透耶が思いも寄らない事をしてやるのが一番効果 があると鬼柳はこれまでの事で解っていた。
 だが、その周りにいた人々は呆気に取られている。
 高城は真っ白。
 生徒達も呆然として見ている。
 ジョージは呆れた顔でそれを見て、溜息を吐いている。
「ん……はぁ……」
 唇がやっと離れると、透耶は全身の力が抜けて崩れそうになる。
「おっと、悪い。つい本気でやっちまった」
 鬼柳はちっとも悪いとは思ってない表情で、透耶を支えると額にもキスをする。
 完全に抵抗する気力もない透耶は、うっとりしたままで鬼柳を見上げている。
 それが無意識に誘っているような表情なので、鬼柳もそれに流されそうになってしまう。
 もうちょっとキスくらいいいよなあ、とか思いながらまたキスをしようとした時、後ろから頭を殴られた。
「たっ!」
 いきなり殴られたので鬼柳が振り返ると、そこに綾乃が凄い形相で仁王立ちしていた。
「欲情すんな、エロ魔人が! ここ何処だと思ってんのよ!」
 綾乃が怒鳴る。
 物凄い怒っていることだけは解る。
「……綾乃、殴ることはないだろ?」
 ここが何処だって関係ないとは続けて言えなかった鬼柳。
「殴らなきゃ止まらないでしょ。ほら、先生もそんな顔してないで、正気に戻る!」
 綾乃は持っていたパンフレットで、軽く透耶の頭も叩く。
「え? あれ? 綾乃ちゃん……?」
 正気に戻った透耶はキョトンとして綾乃を見る。
 綾乃は盛大な溜息を洩らした。
「どうなってこうなったのか聴かないけど、この土偶達はどうすんのよ」
「土偶?」
 透耶がそう問い返すと、綾乃が指を差す。
 そこには、口を開けて目を見開いたまま固まっている人達がいた。
 それこそ土偶だ。
「どうしよう……この隙に逃げちゃ駄目かな?」
 透耶が真剣にそう言うので、綾乃はずっこけそうになる。 
「先生が逃げても、あたし逃げられないんだけど?」
 当然とばっちりは綾乃に集中する。
 さすがに逃げる訳にはいかなくなって、透耶はどうしようと考え込んでしまう。
 ……これをどう説明すればいいんだろう?
『Ah- huh. It should be admired. the way to maneuver him into playing.(ふむ。相手を弾かなきゃいけない状況に持っていこうと画策したのは見事と言お う)』
 ジョージがいきなりそう言った。
 その言葉で高城が我に返る。
 高城は英語が出来るから、ジョージの言葉に反応出来たのだ。
『Even if you provoke him to. I hardly believe he can give you his best tune.(しかし、苛立たせたり挑発したりして弾かせたところで、最高の音が出るとは思え ないんだが)』
 ジョージはそれくらいも解ってないのかという風に言っていた。
 しかし、それで怯む高城ではなかった。
『With all his gift. don’t you think that he’s wasting it?(あれだけの音を持っていながら、勿体無いとは思わないのですか?!)』
 高城は、高城でこだわりがあるらしいのだが、ある意味透耶の音に惑わされている一人でもある。
 あの音で狂いはしなかったが、あれ以上の音を超える事だけを目指してきた。
 あれから自分は認められた。
 そして音の持ち主の噂はパタリと消えた。
 だから、自分はあれを超えたのだと思っていた。
 それが、そうではなかった。
 音の持ち主は、あれ以上の音を完成させて目の前に現れた。
 そしてその人物は、ピアノを辞めていた。
 再度弾き始めた理由すら気に入らない。
 昔から、あの音の持ち主は、そうした事に興味を示さない。
 それが気に入らない。
 いっそ、断われないくらいに持っていけば、ここで再度弾かせる事が出来れば、誰もが注目して、本人も我侭を言ってられなくなるだろうと思った。
 そう思って透耶を本気にさせようとしたのだ。
 ジョージは呆れたように高城を見て言った。
『It is not matter of wasting or not. I am saying that it would mean nothing without his intention.You are taking a wrong method. It just makes Toya more hardheaded. (勿体無い、なくないの問題ではない。本人にやる意志がなければ意味がないと言っ ているのだ。君はやり方を間違えている。これでは透耶は余計に頑な態度を貫くだけ だ)』
 ジョージがそう言うと、高城は黙ってしまう。
 透耶はジョージが高城を説得してくれたのだと思って嬉しくなってしまう。
 だが、しかし、ジョージである。
 この後ジョージが言葉を付け足した。
『If you want him to play. first of all. ask this guy.(透耶に弾かせたいなら、まず、これに頼むべきだ)』
 ジョージがこれと言ったのは鬼柳の事。
 透耶も鬼柳も綾乃も、高城までもが。
「は?」
 と、もう一度聞き返してしまった。
『Toya insists on playing only under him.So. you ask him first.That’s a logical sequence. See? You pushed a wrong button. (透耶は、鬼柳のリクエストでしか弾かないと言っているんだ。だったら鬼柳の方に 話を通すのが筋だろ? うん、君はやり方を間違えてるよ)』
 ジョージはにっこりしてそう言い切った。
 あんた……違うよ。
 間違ってる、意味が違うよ。
 てか、さっきまでの台詞、全部台無しじゃん。
 全員の頭の中にこの言葉が浮かんでいた。
 
 全員が呆然としている中、鬼柳一人だけがすぐに復活した。
『Son of a bitch! You just want to listen to it!(じじい! てめぇ! 自分が聴きたいだけだろ!)』
 鬼柳がそう怒鳴ると、ジョージは涼しい顔をしている。
『Of course I do. What do you think I gave him the piano for?(そんなのは当り前だ。なんの為にピアノをプレゼントしたと思ってる)』
 やはり、ジョージの目的は、自分がプレゼントしたピアノで透耶に弾いてもらい、それを聞くのが目的だったのだ。
『After all. that’s what you have been thinking!(やっぱりそれが目的か!)』
 薄々それはあるだろうと鬼柳は思っていたので、叫んでしまう。
『What other purpose do you think I have? Though I won’t deny having expected to hear Toya say “I really like you. George!”. which was a shallow thought.I didn’t take his nature into consideration.Nor had I imagined his declining my present.(それ以外になんの目的があるというのだ。まあ、透耶に「ジョージさん大好きー」 とか言って貰いたかったのもあるが。いかんな、透耶の性格を考慮してなかった よ。まさか、貰えないと言われるとは思わなかったんでね)』
 ジョージは悪びれる事もなく、あっけらかんと言い放つ。
 ジョージの誤算は、透耶が貰いものとして、高価なモノを簡単に受け取らない性格である事を見過ごしていた事にあるだろう。
 まあ、押し切ってしまえば、透耶は混乱して結局受け取る羽目になってしまうのだが。
『Don’t be ridiculous!(ふざけんな!)』
 鬼柳が尚も叫ぶ。
 すると、ジョージはまったく平気な顔で、鬼柳に言った。
『Then. would you mind my enjoying his performance?(それで、聴かせて貰っても構わないだろうか?)』
『At home. if you are craving for it.I will never let him play outside!(そんなに聴きたきゃ、家に帰ってからだ! 外でなんか弾かせるものか!)』
 鬼柳はそう叫んでハッとした。
 ジョージはニヤリとして笑い、透耶に向かってニコリとして言う。
『Deal.Let’s hurry to his house. Ayano. you come with us. too.(というわけだ。じゃ、さっそく透耶の家に行こう。綾乃も一緒に来るといい)』
 それからジョージは高城の方を向いて言った。
『If you want to as well. do so.(君も来たければ、一緒に来たまえ)』
 ジョージにそう言われて、高城は慌てて行くと答えてしまった。
 勝手に話を纏めて行ってしまったジョージ。
 高城も、何がなんだか解らないまま、ジョージに連れて行かれてしまう。
 残された人々は、目の前で繰り広げられた英語の会話が解らず、呆然としたまま。
 周りにいた人も、何がなんだか解らないまま、取り残された3人を見ていた。
   その中でこの会話の内容を知っているのは透耶だけである。
 鬼柳は透耶の方を向いて、しょんぼりとしてしまっている。
「ごめん、透耶」
 ジョージに乗せられて勝手に言ってしまったから、透耶が怒るかもしれないと思っているのだ。
 そんな鬼柳を見て、透耶は笑ってしまう。
「いいよ。ジョージさんが言い出したらどうにも出来ないし」
 透耶がニコリとして言うと、鬼柳は縋りついてくる。
 透耶はニコニコして鬼柳の頭を撫でる。
 なんか、叱られると思って落ち込んでる犬みたい……。
 
 当然、綾乃も同じ事を思っていた。
 犬よ、犬……。
 ただし、エロ入ってる犬だけどね……。
 透耶に慰められている鬼柳が、透耶のお尻を手で撫でてしまった為に、透耶が怒って鬼柳を叩いている。
 怒った透耶が先に歩き出して、鬼柳がその後を追い掛けて歩いている。
 綾乃も慌てて荷物を取りに行くと言って駆け出して行く。


「馬鹿! 信じらんない!」
「ごめんー。手が勝手にー」
「動くか!」
「いい形だからさ」
「だから言うなって!」
「痴漢の気持ちが今解った」
「解るな!」
「触られた事ないよな?」
「あるわけないだろ!」 
「そうか? こんないい尻なのに?」
 鬼柳はそう言うと後ろから透耶のお尻を掴んで撫でる。
「ひゃ! …やっ!」
 鬼柳の指が割れ目をスッと撫でる。
 人気がない廊下をいい事に、鬼柳はわざとにやってくる。
「ちょっと……恭……」
 もう、一体何を考えているんだ!
「学校でってのもいいんじゃねぇの?」
 耳に息を吹き掛けて言うと、力が抜けそうになった透耶が倒れかかってくる。
 こういう攻撃に弱い透耶。
「なぁ、ちょっとだけ」
 透耶の感じる所を指で撫で、更に首筋にキスをすると、透耶はハッとして鬼柳の手を拒む。
 ……こんな事して場合じゃないってば、俺!
「駄目!」
 真剣な表情で鬼柳を止めると、鬼柳はニコリと笑って言う。
「んじゃ、透耶からキスして」
 もちろん唇にと指を差して言った。
 ここでキスしなかったら、そこら辺の教室とかに連れ込みそうな勢いだ。
 この男なら、本当にやる。
 誰が見てたって全然平気だから!
 透耶は戸惑いながらも、鬼柳を見上げて、溜息を洩らした。
 少し屈んでいる鬼柳の顔に手を当てて、自分の方に引き寄せるとキスをした。
 軽く触れるだけのモノだったが、鬼柳はそれだけでも満足した顔をする。
「残念だなぁ」
 鬼柳がいきなりそう言ったので、透耶はキョトンとしてしまう。
「何が?」
「透耶と一緒の学校だったら、誰もいない教室でキスしたり、屋上でやったり、保健室とか、人気のない特別 室とか、いろんなシチュエーションで楽しめたのになぁ」
 そんな感想を言う鬼柳を透耶は睨み付けた。
「……一回、天国逝ってこい」
 バカだ。やっぱりバカだ。
 やる事しか考えてないよ……。
「ま、キスしたしいいか」
 変に満足している鬼柳が手を伸ばしてきたので、透耶は微笑んでその手を握った。
 まったく、こんな所でやろうなんて、何考えてんだか……。
 そう思って、透耶は笑ってしまう。
 あまりに鬼柳らしい考えだからだ。
 もう、学校と聞いただけで、自分までHな事を考えしまいそうだ。
 ……俺も恭に感化されてるんだろうか?
 変な事ばっかり言うけど、それに慣れてしまっている自分がいる。
 だが、その瞬間、透耶はハッと気が付いた。
 鬼柳がわざと触ってきたり、キスしてくれなどと、卑猥な事を言うのは、ここには透耶の嫌な思い出しかないからだ。
 言わなくても、透耶が無理をしているのは解っている。
 
 もしかして、わざとそうしてた?
 透耶は鬼柳を見上げて目を見開いてしまう。
 口で、言葉に出すのは簡単だ。
 だが、それだけで透耶が納得するはずない。
 言わない代わりに、鬼柳らしい態度で、その考えを止める事しか出来ない。
 俺がいるから大丈夫。
 そう言われている気がした。
「何?」
 鬼柳が透耶にジッと見られている事に気が付いて、不思議そうな顔をしている。
「ううん」
 透耶は首を振った後、ニコリと微笑んで言った。
「恭、好きだよ」
 透耶がいきなりそう言ったので、鬼柳は驚いて透耶を見た。
 こんな事を言い出す透耶は珍しい。
「あ、ほら、綾乃ちゃんの方が早く来ちゃってるよ」
 透耶は言って、鬼柳の手を離して綾乃の元に駆け寄った。
 鬼柳は離れた手を見つめて、少しだけ笑った。



 自宅に戻ると、透耶は綾乃とジョージ、そして成り行きでついて来てしまった高城を宝田に紹介する。
 居間に通して、ピアノの準備を透耶と綾乃がやり、鬼柳はキッチンに入って夕食の準備をしていた。
 宝田がジョージと高城の相手をして何かを話している。
「執事までいるの?」
 綾乃が驚いて聞いてしまう。
 まさか、こんな大きな家に住んでいるとは思わなかったし、玄関開いたら品のイイ年寄りが出てきて、「お帰りなさいませ」と言われるような状態とは想像もしてなかった綾乃である。
「あ、うん。恭の実家の執事さんなんだけど、今はここの執事さん。なんか、恭が生まれた時から執事やってるんだって」
「え? 鬼柳さん家ってお金持ちなの?」
 これこそ本当に驚いてしまう事だった。
 鬼柳の実家の話などは聞いた事ないし、興味がなかった綾乃には、鬼柳が執事がいるような家で育ったとは思えないからだ。
 そうした品の良さは見た事がない。
「みたい。でも関係ないとか言ってる」
 透耶は簡単に答えている。
 鬼柳の家がどういう家なのか詳しくは知らないが、鬼柳が家を出てきたと言って関係ないと言い張っているので、自分が口を挟む事ではないと思っている。
「ねぇ、先生の周りってお金持ちしかいないんじゃない?」
 綾乃がそんな事を言い出す。
 そう言われて透耶はうーんと考えてしまう。
「俺の知り合いじゃないしねぇ。恭繋がりじゃないのかな? エドワードさんは恭の友達だし、ヘンリーさんはエドワードさんの知り合いでしょ? ジョージさんはエドワードさんの仕事仲間だから、直接俺が知ってるのって、綾乃ちゃんくらいしかいないんだけど?」
 エドワードとジョージに自分は透耶とも知り合いだと思われているとは思ってない透耶である。
 鬼柳の友達や、その友達の仕事仲間が、透耶宛にプレゼントを送る訳がないのも解ってない。
「うーん……うちもお金持ちかもしれないけど、執事はいないわよ」
「普通いないよね?」
「うん、いないよ。でも、これだけ大きな家ならいた方が便利かな? 鬼柳さんはマメだけど、外の事には疎そうだし、先生は問題外だし」
 綾乃はそう言って、さっさとグランドピアノの蓋を開けてセットしてしまう。
「……」
 やっぱり、俺は問題外ですか?
 思わず落ち込んでしまう透耶。
 ……落ち込んでいる場合じゃないな。
 
「さて、何を弾いたらいいのかな?」
 透耶はピアノの椅子に座って、綾乃を見上げる。
「鬼柳さんの好きなのでいいんじゃないの?」
 綾乃は、透耶が弾いて聴かせてくれるなら、何でもいいと思っている。
 綾乃の言葉を受けた透耶は、眉を顰める。
「うー。あれかなあ?」
 そう呟いてしまう。
 ……最近弾いてないから指が動くかどうか解らないんだけど。
「あれって?」
「超絶技巧練習曲第4番」
 透耶がそう答える。
「マゼッパ? うーわー、また壮絶な難曲を……」
 ピアノ曲を知らないとは恐ろしいと綾乃は思ってしまう。
「後は英雄ポロネーズ……」
「げー……。もしかして、罠?」
「そう思うよね……」
 やっぱり罠なんだろうか?
 本気でそう思ってしまう透耶である。
  『Ah. he is going to start.(お、始めるみたいだね)』
 ジョージがそう言ったので、高城もそっちを見た。
 透耶は練習をせずに、楽譜もなしにいきなり始めようとしている。一旦目を瞑って、まるで楽譜を思い出しているかのように見える。
 綾乃は椅子に座らず、ピアノの横に立ち、弾いているのを近くで見ようとしている。
『Excuse me but. is this what he always does?(あの、榎木津はいつもああですか?)』
 高城が宝田に尋ねる。
 主旨は言わなくても、宝田には高城が何が言いたいのかはすぐに理解出来た。
『Yes.He starts suddenly.He doesn’ t have many scores.He doesn’t have many scores. He exercises sometimes. I believe. but honestly. it doesn’t look like practice.(ええ。透耶様は、いつも突然ピアノをお弾きになられます。元々楽譜類はお持ちで らっしゃいません。なので練習をなさっているとおっしゃいますが、いやはや、あれ が練習とはとても思えません)』
 宝田は、ここで初めて透耶のピアノの音を聴いた。
 信じられないくらいの腕前に感嘆してしまい、今や透耶のピアノのファンになってしまっている。
『Are you saying that he always plays by heart?(全部、楽譜は暗記していると?)』
 高城が信じられないという顔をした。
 プロのピアニストだって、事前に楽譜を見なければ弾けない曲や、忘れている曲だってある。
 透耶にはそれがないというのだ。
『I guess so.I myself dabble in classical music. yet I have never heard him make a mistake.(暗記なさっているようです。私もクラシックを齧っていますが、ミスをなされたの を聴いた事は一度もありません)』
 透耶は自分でミスったとは言うが、聴く者には何処がミスったのかさっぱりなくらいだ。
『Is he a prodigy? (化け物か…)』
 高城は思わずそう呟いてしまう。
『These is no wonder you say so. He said he knew as many as 1000 tunes by heart. if they are popular. (そうおっしゃられるのは無理はないと思います。基本的に知られている曲であれ ば、透耶様は千曲は完璧に頭に入っているそうです)』
 これこそ化け物という所だろう。
『What is his favorite?(得意なのは何だろう?)』
 ジョージが尋ねる。
 すると宝田は少し考えてしまう。
『I have no idea. He doesn’t stick to particular tunes.What he often plays are. all that Mr. Kiryu asks him to.(さあ。それは解りかねます。曲自体に執着されておりませんので。よく弾かれる曲 は、恭一様がリクエストなされたものばかりです)』
 別にこれが弾きたいからと言って弾いているわけではない。
 思い出した曲を順番に弾き試しているという感覚なのだ。
『It means. that he has no favorite. but he can play any tunes.(つまり、得意というのはなく、満遍なく弾けるという事ですね)』

『That’s quite correct.(そうです)』
 それが一番正しい解釈だろうと宝田は思った。
『How often does he exercise? (どれくらい練習してますか?)』
 高城は次の質問をした。
 あれだけの音を完成させるには、再度弾き始めてからかなりの練習をしたはずだと思っている。
 だが、その高城の考えとは正反対の回答を宝田は出した。
『Well.Though he plays every day. he seems to be busy these days. so the last time he played was a week ago. Normally. Mr. Kiryu stops him after an hour of exercise. (そうですね。弾かれる時は毎日ですが、ここ最近はお忙しいようで、最後に弾かれ たのは、一週間前です。時間は、大体は一時間くらいで恭一様がお止めになります)』
 この宝田の言葉をきいて、高城は頭の中が真っ白になってしまう。
 有り得ない事だったからだ。
 固まってしまった高城とは別に、ジョージは鬼柳が演奏を止めるのが気になってしまった。
『What do you mean?(止めるとは?)』
『Once he was left to play the piano. he was drown into it for about 4 hours ….(はい。一度、お好きなように弾かせておりましたら、4時間程熱中されまして…)』
 透耶が弾きたいなら好きなだけ弾かせてみようと最初に鬼柳が言った。
 だが、それが間違いだったと鬼柳は後で後悔してしまったのである。
 そう透耶の癖を知っていれば、予想出来た展開でもあったからだ。
『But how come that long ?(またなんでそんなに)』
『This living room is soundproof.If he plays with its door closed. no one in other rooms can hear anything.So we didn’t notice it for 4 hours. After that. Mr. Enokizu claimed that his fingers felt unusual when he was about to start writing. He seems to have less strength. he gets tired out after playing for a long time. So Mr. Kiryu made it a rule to let him play the piano for an hour. (この居間には防音が取り付けてあります。ドアを閉め切った状態でお使いになられ ますと、他の部屋にいる者には聴こえません。それで、4時間気がつかなかったので す。その後に、お仕事なされる透耶様が、指がおかしいと言い出しまして。それに体 力がないようで、何時間も弾かせたりすると、ぐったりしてしまうので、恭一様が時 間を一時間とお決めになられました)』
 そのお陰で、透耶がピアノを弾く時は、必ず居間のドアを全部開けて、家中に聞こえるようにしなければ駄 目だと鬼柳が透耶に約束させたのだ。
『I see.That’s understandable.(なるほど、それが妥当か)』
 プロでない以上、1時間以上、それも本番のように弾かないものだ。
 それで高城は思い出した。
 透耶があまり練習をしなかった訳。
 別に家で練習している訳ではないと言っていたし、学校でもほんの数時間しか練習に打ち込まなかったのは、自分で体力がない事を理解していたからに過ぎない。
 学校なら、チャイムがあるし、始める時間を決めていれば同じ時間に終われる。
 上手いから練習しなかった訳ではない。
 自分の欠点が解っているからこそ、練習を短くするしかなく、その練習の範囲内で完璧にしあげなければなからなかったのだ。
 つまり、透耶にとって練習は、本番となんら変わりないものだったのだ。それが榎木津透耶をより完璧にしていた。
『Oh. Beautiful Mazeppa.(お、マゼッパか。これはまた)』
 透耶が弾き始めた曲を聴いてジョージが呟いた。
 練習なしの一発勝負。
 高城には呆然としてしまう。
 はっきり言って言葉は出ない。
 沖縄で聴いた時より、より完璧で、完全な音を出す。
 音は更に深くなり、それでいて心地好い。
 動きも呼吸も止まってしまう様な錯覚になる。
 一曲が終わると、続けざまに「英雄ポロネーズ」。
 難曲と言われる曲を透耶はどんどん弾いて行く。
 その全てにミスは一つもなかったのである。


 そのまま誰もが身動き出来ないまま一時間。
 ちょうど、約束の時間になった時に、鬼柳が部屋に入って来て、透耶の演奏にストップをかけた。
 曲はまだ途中だったが、鬼柳が後ろから透耶の腕を掴んで持ち上げてしまう。
「あれ? 時間?」
 自分の指がピアノを触ってないのに気が付いて、透耶は鬼柳を見上げた。
「ああ。これ以上は駄目だ。また指が変になるぞ」
 鬼柳が真剣にそう言ったので、透耶はそれを思い出した。
「……うん」
 頷いて大人しくピアノから離れる。
 すぐに鬼柳がピアノを封印してしまうように、片付けをしてしまうと、ピアノに鍵をかけた。
 こうでもしないと、透耶がこっそり練習をしてしまうからだ。
 鍵は、鬼柳と宝田が保管している。
「変になるって?」
 綾乃が不思議そうに鬼柳に尋ねる。
「ほっといたら一日中でも弾き続けるんだよ。しかも休みなしにな。だから指が痙攣して、箸すら持てなくなるんだ。身体もおかしくなるし動けなくなる」
 鬼柳はそう答えた。
 透耶がピアノに没頭した日。
 鬼柳が透耶の異変に気が付いて慌ててピアノを止めた時、透耶はそこで気が抜けたのか椅子から崩れ落ちてしまったのだ。
 しかも腕が上がらないやら、指が痙攣しているなどという症状が出てしまった。
 なので、透耶の状態を見て、一時間と時間が決められたのである。
「先生、無茶だ」
 綾乃が信じられないと透耶を見て言った。
 そこまでになる程、ピアノを引き続けるのは、はっきり言って異常だ。
「だろ? 一時間が妥当だ。休み入れて弾くのが無理みたいだし」
 中休みを入れて弾くなら、もう少し練習時間は伸びていただろうが、透耶にはそれが出来ない。
 没頭してしまうと我を忘れてしまうからだ。
「……うん、まあ。集中しちゃうと時間忘れちゃうから」
 ちなみに体調がおかしくなっている事も気が付かない。
『Toya. you are good. as always.(透耶、相変わらずいい音を出すね)』
 ジョージがすっかり感動して、ピアノに座っている透耶に寄って来て話し出す。
 こうなるとジョージは止まらない。
 すっかりジョージのペースに巻き込まれてしまった透耶を置いて、鬼柳はキッチンに戻る。
 それを追って高城もキッチンに入った。
「あんた、あの音を自分だけのモノにして満足か? 世界でも認められるモノを縛っているんだからな」
 敵意むき出しの高城が鬼柳にそう言った。
 煙草に火を付けようとしていた鬼柳が、高城の方を振り返る。
 何の感情もない顔。
「脅したって無駄だ。あれは世界にあるべきモノだ。それをあんたは自分だけの側に置いている。それでいいわけがない!」
 高城がそう言い切ると、鬼柳はジロリと高城を睨んで言った。
「くだらねぇ、話になんねぇな」
 そう言い切った。
 こう言われた高城は、鬼柳につかみ掛かろうとした。
 だが、その後ろから綾乃がキッチンに入って来た。
「まったくそうね」
 綾乃は高城を見てそう言った。
 高城が振り返ると、綾乃が高城を睨んでいる。
「綾乃」
 何か言いそうな綾乃を鬼柳が止めるが、こうなると綾乃は止まらない。
 高城を真直ぐに睨んだままで言い出した。
「全然解ってない。才能があっても嬉しくないって言ったでしょ。先生は、ピアノを弾く理由を鬼柳さんに押し付けなきゃ弾けないくらいに、まだピアノが怖いのよ」
「綾乃」
 再度鬼柳が止める。
 それでも綾乃は言葉を止める事はない。
「高城さんがいろんな人に聴いてもらいたいように、先生は、鬼柳さんだけに聴いて欲しいって思って、ピアノを弾く事を再開したんだから! どうしてそれが駄 目なの!」
 綾乃は必至になって叫んだ。
 高城は綾乃の言葉に反論しようとしたが、綾乃が続けて言い出した。
「高城さんがいくら弾いても誰も認めてくれなかったら苦しいでしょ。それと同じくらいに、先生は人に聴かれる事が苦しいの。認められれば認められるほど苦しくて息も出来なくなるの! それでも優しいから、こうやってあたしにも聴かせてくれる。あたしはそれだけも嬉しい」
 綾乃は、そこで言葉を切って、今にも泣きそうになりながらも言葉を続けた。
「世界を目指さなきゃ、ピアノを弾いちゃいけませんか? 唯一の人の為にピアノを弾いちゃいけませんか? 嫌がってる人に無理矢理ピアノを弾かせて満足ですか?」
 さすがにこの言葉に高城は反論出来ない。
「高城さんと先生は違うんです。それに鬼柳さんを責める権利なんて無い! これは二人の問題です!」
 綾乃はそこまで言って、涙が頬を伝うのを感じた。
 だが、これだけは言わなければと、言葉を続ける。
「だから……もう、先生の事は忘れて下さい。……そっとしておいて上げて下さい。……お願いします……先生が苦しむの見たくない……」
 綾乃はそう言って、顔を覆って泣き始めた。
 鬼柳は吸っていた煙草を消して、綾乃の側に寄り、抱き寄せて頭を撫でた。
「馬鹿が。お前が泣く事はない」
 言葉はきつかったが、頭を撫でる手は優しかった。
「あたしのせいだもん」
 綾乃がそう言って泣いている。
 鬼柳には綾乃が自分のせいだと思い込んでいるのは、やはりMDの事なのだろうと思った。
「いや、俺のせいだ。お前にMDなんて渡したから、お前が苦しんでる。だから俺のせいだ。俺は誰に何を言われたって平気だ」
 鬼柳がそう言っても綾乃は首を振る。
「あたしが言わなきゃ、鬼柳さんも先生も言わないんだもん。どっちも悪くないし、普通 にしてるだけなのに、責められるの見てられないもん」
 綾乃はそう言って一層泣いてしまう。
 その後ろから、騒ぎを聴いた透耶が覗きに来ていた。
 鬼柳がそれに気がついて透耶を見ると、透耶は少し困った顔をして鬼柳を見ていた。
 鬼柳が手招きをして透耶を呼び、綾乃を預ける。
「綾乃ちゃん……」
 透耶がそう呼ぶと、綾乃は透耶に縋り付き、押さえ切れない嗚咽を零す。
 綾乃は泣きながら透耶に謝る。
「ごめんなさい……あたしが……あたしが悪いの……」
 綾乃が謝っているのは、あのMDを高城に聴かせてしまった事への謝罪。
 綾乃はそれをずっと気にしていた。
 透耶が笑っていいと許しても、透耶が許しているから大丈夫だと鬼柳が言っても、綾乃は自分が許せなかった。
 あれさえ聴かせなければ、二人が不愉快な思いをしなくて済んだのだと、解っているからだ。
「綾乃ちゃんは悪くないよ。俺がちゃんと言わなかったからいけないんだ。ごめんね、辛い事言わせちゃった」
 透耶はそう言って、綾乃を抱き締める。
 それから、高城の方を向いて透耶は言った。
「俺は、高城さんとは違う。一度逃げて辞めた人間です。今更戻るつもりもありませんし、ピアノをもう一度弾くきっかけをくれた恭が弾くなと言ったら、それだけでピアノを辞められるくらいにしか思ってないんです。だから、もう俺の事は忘れて下さい」
 透耶は本気でそう思っていた。
 鬼柳が弾くなと言ったら、それだけで辞めてしまえるほど、自分には価値は薄いと思っている。
「もし、……世界でと言ったら」
 諦め切れない高城がそう呟く。
 それに、透耶は笑って答える。それも自信満々に。
「恭は言わない。絶対に言わない。だから俺は恭の為にしかピアノを弾かないんです」
 透耶はそう断言すると、綾乃を連れてキッチンを出た。
 二人が出て行くと、代わりにジョージが入ってきた。
 高城はそれでも呆然としていた。
 まさか、ここまできっぱりと言われるとは思わなかったのだ。
「言わないのか?」
 高城が振り返って鬼柳に聞いた。
「言わねぇな」
 鬼柳は即答する。
「何故」
「透耶はそんな事に興味がない。それに楽しく弾ける場所は俺の側だけだと言った。それだけの理由でしか弾けないってね」
 鬼柳はそう言って笑う。
 確かに透耶は本気でそう思っている。
 もし、この家にピアノがなかったとしたら、透耶はピアノを弾かなくても何とも思わない。
 外でピアノを見かけても何の反応もしないし、ピアノを練習するのは、鬼柳に聞かせる為だけにより完璧にやりたいと思っているだけなのだ。
「それだけの理由……」
 高城は、呆然としてしまう。
 そうピアノを弾くには理由がある。
 ただ弾いているだけではない。高城も自分の演奏を聴いて欲しいと思って弾いている。認められたいと思って一生懸命やってきた。
 透耶はそうした栄光を欲しいとは思わない。それどころか、弾く理由はただ一つしかないのだ。
 それがなくなれば、透耶はピアノをまた捨ててしまえる程にしか思っていないのだ。
「ま、透耶はピアノを本気で嫌いな訳じゃないし、辞めることもない。だから自由にやらせてる。もし、世界でやりたくなったらそう言うだろうしな」
 鬼柳はそう付け足した。
 まあ、透耶は頑固だから、俺を理由にしない限り、弾かないだろうけどよ。
 鬼柳は内心そう思っていた。
 頑固だから、一度決めた事は守り通すだろう。
「本人の意志か。それでお前は納得するのか?」
「透耶がそう決めたなら、俺がとやかく言う必要はねぇだろ」
 鬼柳はニヤリとして言う。
 自分は、世界で弾けとは言わない。いや、言えない。
 言えば透耶は本当にそうしてしまう。自分の意志とは関係なしにやってしまう。それでは意味がない。
 透耶がやりたいと願うなら、鬼柳は初めから反対する気などなかった。
 なにより、自分が好きな事をしている時の透耶が一番輝いているから。
『You think more than you seem.(意外に考えているんだな)』
 今の今まで聴き入っていたジョージがそう言った。
『None of your business.Hey. you understand Japanese. don’ t you?(じじいに言われたくねぇ。というか、じじい、日本語のヒアリング出来るじゃねぇ か)』
 鬼柳がハッとしてツッコむ。
 今までの会話は全部日本語だったのだから。
 するとジョージはニヤリとして答えた。
『I have always been able to do so.(元々出来るんだ)』
『Then. don’t let Toya speak in Englsih!(だったら、透耶に英語喋らせてんじゃねぇ!)』
 鬼柳がそう叫ぶと、ジョージはこれまた簡単に答える。
『Don’t be fussy.It’s cute this way.Besides. I can’t speak Japanese.(いいじゃないか。可愛いんだから。それに日本語は解るが喋れないんだ)』
 そう答えたジョージをジロリと睨んだが、一つ納得出来る所があった。
 英語を一生懸命喋っている透耶は可愛いのだ。
 それだけには賛同してしまう。
『Whatever.(ああ、そうかよ)』
 ああもうどうでもいいとばかりに鬼柳は追求をやめた。
『But if he tells you that he would like to play the piano worldwide. what would you do?(だが、本当に世界に行くと言ったらどうするんだ?)』
 ジョージがそう聞き返した。
 たぶん聞かれるだろうと思っていたかのように、ニヤリとして言い放つ。
『Well. I could throw myself on his knees.(ま、そうなったら、泣いてすがってみるか)』
 そんな事を言う鬼柳だが、さすがジョージだろう。
『What. like “ Don’t leave me!” “Shut up. I’ve already decided it. Let me go!”. you mean? In your case. you are likely to confine him in a basement. with a pair of handcuffs on him. (まるで…「あんた行かないで!」「うるせぇ、俺は決めたんだ!止めるな!」と か? 鬼柳の場合は、地下で鎖に繋いで監禁とかしそうなんだが)』
 などと言ってしまう。
 すると、鬼柳はそれを想像したらしい。
『Wow. sounds perverted…(うわ、やってみてぇ)』
 本気でそれを言っているから、ジョージも呆れてしまう。
 たぶん、本当にそうしてしまうかもしれない。
「一つ聞いていいか?」
 復活したらしい高城が不安げな顔で鬼柳に言った。
「あ?」
「その、榎木津とは、恋人同士なのか?」
 高城はまさかと思いながらそう聞いていた。
 すると、鬼柳だけでなく、ジョージまでもが呆れた顔をしてしまっている。
「は? お前、今まで何だと思ってたんだ?」
 鬼柳はそう聞き返した。
 大体、赤の他人同士が同じ家に住み、人がいる所でキスしたり抱き合ったりしている時点で気が付けよと言いたくなる。
「いや……ただふざけてやってるのかと……そうか……なるほど……だから、唯一の人の為なのか」
 高城は納得したのか、頷きながらキッチンを出て行ってしまった。
「ん? 何だあいつ」
 鬼柳は唖然として高城が出て行ったドアを見て言った。
『He understood what you had been saying. If you are a couple. what Toya and Ayano said is quite understandable.(納得したんだろう。恋人同士なら、透耶が言ってる意味も、綾乃が言った意味も十 分理解出来るからな)』
 ジョージがそう答えると、鬼柳はあれと考えてしまう。
『hen. if he had known it. he wouldn’t have said that kind of things to him?(だったら、最初からそう思ってりゃ、あんな事言わなかったって事か?)』
『I suppose so.(そういう事だろう)』
 ジョージにそう言われて、鬼柳は頭を抱えてしまう。
 今までのは何だったんだ?と言いたくなる所だ。
『What an ass.Did he trouble Toya and made Ayano cry with such a simple matter? God. I’m gonna kick him out now. (あほらしい…。そんな単純な事で、透耶を困らせて、しかも綾乃を泣かせたのか?  ふざけんな! あいつ、今すぐ追い出してやる!)』
 鬼柳は叫んでキッチンを出て行こうとする。
『Do you care aboutAyano that much?(そんなに綾乃が大事か?)』
 ジョージがそう聞くと、鬼柳は振り返って答えた。
『Sure!(当り前だ!)』
 鬼柳はジョージにそう怒鳴った後、居間に戻っていた高城に、用は済んだだろ、さっさと帰れ!と怒鳴って、宥める宝田に駅まで送って来い!と叫んでいた。
『Ah huh. I see.(ふーん。なるほど)』
 ジョージは一人で納得して、苦笑していた。
 内心、こう考えしまう。
 透耶にとって大事な人は、鬼柳でも大事にしなきゃならないと思っている。
 なら、自分も透耶にとって大事な存在になれば、鬼柳も邪険に出来なくなるという事になる。
 これはこれで面白い発見だった。

 居間では、透耶が綾乃を慰めて、顔を覗き込んで話している。宝田が持って来たタオルで泣いた顔を拭きながら、綾乃はジッと透耶を見ている。
 綾乃はまるで、すりこみされてた雛みたいに、透耶だけを見ている。透耶が優しく笑うと、綾乃も笑う。
 やっと落ち着いてきたらしく、綾乃は言い過ぎたと謝っている。
 だが、透耶はやはり笑っている。
 自分が言いたい事は全部綾乃が言ってしまったからだ。それを怒るどころか、嬉しくて仕方がなかった。
「綾乃、もう泣くんじゃねぇ。あれで納得したから」
 鬼柳が通りがかりに綾乃にそう言って、見上げた綾乃の額にキスをした。
 いきなりだったので綾乃が驚いていると、透耶がそれを見て笑っている。
 鬼柳がキッチンに消えると、綾乃は透耶に言った。
「先生は、あたしに嫉妬しないの?」
 普通、こういう事は日本人はしないから、してもらうには嬉しいが、透耶が嫉妬しないかが心配である。
 だが、透耶はキョトンとしてしまう。
「何故? 恭は気に入った人にしかしないから。綾乃ちゃんを気に入ってて、でもどうやって慰めたらいいのか解らないからああするんだし」
 そう言って、クスクス笑ってしまう。
 鬼柳は、気に入った相手が泣いていると、どう対処していいのか解らなくなるらしい。
 もちろん、気に入ってなければ、放っておくので気にもならないのだが。
「あれで慰めてるの……?」
 綾乃が眉を顰めて言う。
「うん、十分やってるんだけど……変?」
 透耶は首を傾げてしまう。
 鬼柳は透耶に対してもああいう慰め方をしてきたから、透耶からすれば慰めているつもりなのだ。
「変というか、なんか解った。あれじゃ、女とか男とか、惚れるよね。プレイボーイの典型というか……」
 ああいうスキンシップは外国では多いのかも知れないが、鬼柳のは極端すぎるような気がすると綾乃は思ってしまう。
 綾乃にそう言われて、透耶は納得してしまう。
「……あ、そうかも……」
 あんなキスされたら、やっぱそうなるよな。
 さすが、慣れてる。
「他でやったら大変だね。あ、あたしは、二人の邪魔しないから!」
 綾乃は慌ててそう付け足した。
「うん。解ってるよ。でも、後で言ってきかせておく」
 透耶はニコリと笑ってそう言ったが、笑顔が物騒である。
 あ、怒ってるかも……。
 綾乃は瞬時にそれを悟る。
「綾乃もじじいも飯食ってけよ」
 ダイニングから鬼柳が顔を覗かせてそう言った。
 しかし、透耶の表情を見たとたん、少し戸惑ったような顔になって綾乃を見た。
 透耶は、何も言わずに鬼柳の側を通ってダイニングに入り、綾乃がその後に続く。
 鬼柳が綾乃を呼び止めて聞いた。
「何で、透耶は怒ってんだ?」
 鬼柳はそう言ったので、綾乃は笑って言った。
「後で先生が言うと思うよ。まったく鬼柳さんがプレイボーイだからいけないんだし」
 綾乃はそう言って通り過ぎ、ジョージは苦笑していた。
「は?」
 鬼柳にはさっぱりな事である。

 綾乃とジョージは鬼柳の作った食事を食べた後、帰って行った。
 透耶が何も言わないので、鬼柳は気になってしかたない。
 なので強行突破。
「透耶、一緒に風呂入ろうぜ。ジャグジー」
 鬼柳はそう言って透耶の手を引く。
「ジャグジーって、地下の?」
 透耶が嬉しそうな顔をする。
「そうそう入った事ないだろ?」
 本当は入った事はあるが、透耶は覚えて無い。
 透耶がうんうんと頷いたので、鬼柳はそのまま抱えて地下へ降りる。
「あれ? 準備してるの?」
 あれはいつも使って無いので、簡単に準備出来るものではない。
「ああ、さっき宝田に頼んでおいた」
「なんだ。最初から入る気だったんだ」
「もちろん」
 鬼柳はニコリとして答える。
 さっさと透耶の服を脱がせると、透耶も鬼柳の服を脱がせる。
 簡単に身体を洗って、中に入ると、透耶がくすぐったそうに身体をくねらせる。
「ん? どうした?」
「くすぐったい。脇に当たるから」
 そう言って笑っている透耶を鬼柳は引き寄せて、膝の上に乗せる。
 自分に凭れさせて、髪を梳くと透耶はそれだけでうっとりとしてしまう。
「なぁ、透耶」
「ん?」
「さっき何で怒ってたんだ?」
「ん、あ、あれね」
 透耶はそう言うと身体を離して、鬼柳と向き合った。
「恭さ、気に入った人に綾乃ちゃんにしたような事やってた?」
 透耶がそう説明すると、鬼柳は首を傾げる。
「あ? 何を?」
 あ、自覚無いし……。
「……キスしたりとか」
 透耶が具体的に言うと、鬼柳はあれの事かと思い出したらしい。
「ん? ああ、あれか。まあ、小さい子にはするが、大人にはやらないよ」
 鬼柳の言葉を聞いて、透耶は拍子抜けしてしまう。
 そっか、恭の中では綾乃ちゃんはしっかり子供なんだ。
 そう納得してしまったと同時に、下らない嫉妬をしていた自分が恥ずかしくなってくる。
「なら、いいんだけど」
 透耶はそれだけ言って、話を終わらそうとしたのだが、それを見逃す鬼柳ではない。
「え? もしかして、それで怒ってたのか? 綾乃にやったから嫉妬してた?」
 鬼柳は、まさかあれくらいで透耶が嫉妬するとは思ってもみなかった事だ。
「そうじゃなくて……」
 さすがに綾乃に嫉妬したとは言えない透耶。
「そうじゃない?」
「……えっと、他の人なら嫌だなと思っただけで。それで……恭のプレイボーイぶりが解った……」
 透耶がそう言うと鬼柳はキョトンとしている。
「え? 俺が?」
 あ、無自覚……タチ悪いよ……。
「綾乃ちゃんにするみたいにやると、誰でも恭の事好きになるよ」
 透耶がそう言うと、鬼柳は不満げな顔になってしまう。
 ……何で?
 透耶がそう思っていると、鬼柳はその理由を言った。
「透耶はすぐに好きになってくれなかったぞ」
 これが不満だとばかりに鬼柳は言った。
 ……そう返ってきたか。
「……そりゃ、俺は色々あったし。それがなかったら……たぶん」
 透耶は言って、鬼柳を見る。
 それが、上目遣いでしかも恥ずかしそうにしているから、鬼柳はドキリとしてしまう。
 鬼柳が固まってしまったので、透耶はどうしたんだろうと首を傾げ、身を乗り出して鬼柳の顔を覗き込む。
 すると、鬼柳が透耶の腰を掴んで自分の膝の上に乗せた。
 一体何がしたいのか解らなかった透耶だが、膝に乗せられた瞬間、鬼柳の熱いモノが内股に当たっていて、それが熱を持って大きくなっているのに気が付いた。
 ……なんで?
 驚いていると、鬼柳の手が透耶のお尻を掴んできて、指が孔を撫で始めた。
「……恭……突然何? あっ!」
「突然って、こういうの?」
 縋り付いてきた透耶の耳元でそう言い、耳を舐めると、下の指がゆっくりと透耶の孔に入ってくる。
「んん……」
 ゾクゾクとする感覚に、透耶は鬼柳にしがみつく。
 その指が出入りを繰り返すと、透耶が甘い声を上げ始める。
「……あ……はぁ……ん」
 この声を聞いているだけで、鬼柳は我慢出来なくなってしまう。
「ごめん、透耶、もう入れたい」
 鬼柳がそう言ったので、透耶は顔を上げて鬼柳の顔を見る。
 完全に制御出来なくなっている鬼柳の顔は、興奮していている。
 鬼柳が興奮しているのは、透耶が感じている姿を見ていた為だと解るから、透耶も嬉しくなってしまう。
「ん……いいよ」
 透耶が笑って答えると、鬼柳は指を引き抜いて、透耶の腰を掴んで持ち上げると、自分自身にあてがった。
 ゆっくりと侵入してくる鬼柳自身に、透耶は少し痛みを感じて声を上げてしまう。
「……っ」
 堪える為に鬼柳にしがみついて、圧迫感に堪える。
「ん……はぁ、あ……ん」
 全てが収まってしまうと、透耶は深く息を吐いて深呼吸をする。
 鬼柳は自分の肩に顔を埋めている透耶の顔を見たくて、透耶の身体を起こして覗き込む。
 水で濡れた透耶は、それは官能的で、息をする為に少し開いている唇はキスを誘っているように見える。
 瞳は半分閉じられているが、潤んだ瞳が鬼柳を捕らえている。
 キスをしようとした鬼柳だが、透耶の方が先にキスをしてきた。
 軽く触れた唇が離れようとしたが、その後頭部を押さえて、鬼柳は深いキスをする。
 舌を忍ばせると、透耶はそれに答えてくれる。
 それが離れると、透耶は鬼柳の頬にキスをする。
 そしてそれが離れたとたん、透耶の方が腰を浮かせて動き始めたのだ。
「……あ……あぁ……はぁ」
 慣れない動きだったが、透耶が積極的だったので、鬼柳も透耶に任せる。
 どんどん淫らになる動きに、鬼柳は翻弄される。
 自分で主導権を握ってやるならまだしも、透耶からされてしまうと、さすがの鬼柳もたまったものではない。
 悪戯を先に仕掛けたのに、鬼柳の方が先に達してしまった。
 それに驚いたのは、双方だった。
「……はぁ……ごめん」
 謝ったのは鬼柳。
 少し恥ずかしそうな鬼柳に、透耶は驚いたままで聞いた。
「……よかった?」
 透耶がそう聞くと、鬼柳は満足した顔で透耶にキスをする。
「良すぎ……。先に達かされたのなんか初めてだ……」
「あ、そうなんだ……」
 透耶は意外な言葉に少し驚いていた。
 そういえば、自分が奉仕した時は、鬼柳が達くのが早い気がすると思ってしまう透耶。
 だが、自分はまだ達ってない。
 鬼柳が満足している隙に、透耶はさっさと逃げようとする。
 しかし、それを見逃す鬼柳ではない。
 浮かしかけた腰をしっかり掴んで言った。
「今度は俺がやってやるよ。最高に気持ち良くしてやる」
 そう言ったとたんに、鬼柳は透耶の腰を上下に動かし、自分も腰を突き上げた。
「やっ! あぁ!」
 いきなりやってきた快楽に透耶は身体を反らした。
 自分が主導権を握っている時は、相手にどうやってやれば気持ちがいいんだろうと考えてばかりなので、自分の快感よりそっちを優先してしまう所がある。
 だが、その主導権を鬼柳に渡してしまうと、透耶は与えられる快感に溺れるだけになってしまう。
 鬼柳が胸の突起を指で摘み弄ると、ギュッと透耶の内部が締め付けてくる。
 舐めて吸い、軽く噛んだりして、刺激を与える。
「あん……やっ……あぁっ……!」
 懸命に掴まって快楽を味わっている透耶は、もう何も考えられなくなり、官能的な声を上げ続ける。
 湯が激しく波打ち、透耶の甘い声と鬼柳の吐く息の音が響いている。
 鬼柳は夢中になって、腰を突き上げて透耶を達かせた。
「……あぁぁっ!」
 透耶が達した瞬間に締め付けられたが、鬼柳はそれを我慢した。
 ぐったりしていると透耶が力無く縋り付いているが、鬼柳は透耶の身体を少し離して、顔を覗き込んでキスをした。
「…後ろだけでいけるようになったな」
 そう鬼柳が言うと、透耶はハッとして鬼柳を睨み付けた。
 んな事言うな……。
「……そんな顔して……誘ってるな」
 鬼柳はニヤリとして、まだ繋がっているから、腰を二三度揺する。
「……やっ! あっ!」
 内部を擦り突けられるだけで、透耶自身も復活してしまう。
「ほら、やっぱりそうだ」
 鬼柳は透耶の耳元で言って、ペロリと耳を舐めると、頬にキスをし、反り返っている顎から首筋へとキスをし、キスマークを付ける。
「はぁ……あ……ん……あぁ……」
 透耶が気持ちいいと感じているのは解っている。
 そして、自分も我慢出来ないくらいに感じている。
「透耶、ちょっと」
 鬼柳は言って、透耶から自分自身を抜くと立ち上がって、透耶を風呂の縁にうつ伏せに凭れ掛からせて、腰を掴んでまた挿入した。
「あぁんっ!」
「ごめん、制御出来ないから」
 鬼柳は謝っておいてから、動きを速める。
「ん……あぁ……あっ!」
 急激に早くなった出入りに、透耶は自分の腕では支え切れなくなり、そのまま崩れた。
 ジャグジーはちょうど、下に浴槽がある形なので、洗い場と縁の高さは同じである。
 透耶は洗い場の方の身体が崩れてしまった。
 その上に覆い被さるようにして、鬼柳が背中にキスをする。
 そして透耶自身を掴んで扱き始める。
「あ……っ……ん……」
 ゾクッと背中に違う感覚が走り、達きそうな感覚になる。
「……キョウ……っ……ん……」
 達くなら一緒に達いきたいと、透耶が鬼柳の名前を呼ぶと、鬼柳は透耶の項にキスをして言った。
「一緒に……いこ……とおや……」
「…う…ん…」
 透耶が答えたので、鬼柳は一層激しく透耶を突く。
「あぁっ! んっ……あっっ!!」
「くっ……!」
 同時に達すると、鬼柳は自分自身を抜く。
 透耶は荒い息をして、ぐったりしているので、後の始末、つまり鬼柳が注ぎ込んだものをかき出す事をしなければならない。
 指を入れてかき出していると、それだけで透耶は敏感に感じてしまう。
「……う……ん」
 感じまいと我慢しているが、それでも感じてしまう。
 恥ずかしくて、顔を伏せていると、それが終わった鬼柳が透耶の身体を仰向けにして、足を大きく広げた。
「……な……に?」
 ぼんやりとした透耶が鬼柳を見ると、鬼柳が透耶自身を掴んで、それを口に含んだ。
「……恭っ! やっ!」
 舌がそれを器用に舐め回ると、透耶は抗議も出来なくなる。
 鬼柳の髪に手を入れ、再び与えられる感覚に堪えている。
 あまりしつこくやりすぎると、透耶が後で怒るので、鬼柳はすぐに達かせる。
 透耶が放ってしまうと、鬼柳はそれを呑み込む。
 透耶を見ると、腕を重たそうにしながらも上げて鬼柳を見ている。
「……恭……」
 潤んだ瞳で鬼柳を見て呼ぶ時は、抱き締めて欲しい時の合図。
 鬼柳は透耶を抱き起こして、湯槽に浸かると開いた膝の間に透耶を座らせる。
 透耶は鬼柳に凭れてうっとりしている。
 こういう時は、透耶から甘えてくる。普段甘えないので、鬼柳は普段もそうしてくれればいいのにと思っている。
 しかし、意志や思考がはっきりしている時の透耶は、そうした甘えを禁じているように見える。甘える事で、自分が弱くなってしまうのを恐れているからだろう。
「そういや、明日透耶の誕生日だな。何か欲しいものあるか?」
 鬼柳が思い出してそういうと、透耶はぼんやりしながら答えた。
「もういいよ……欲しいのは貰ったから」
 そう答えたので、鬼柳が不思議がっていると。
「恭を貰ったから……他に何もいらない」 
 透耶がそう言ったので、鬼柳は笑ってしまう。
 自分も同じように答えたからだ。
「もう透耶、可愛すぎ」
「ん?」
 透耶はあまり言葉が耳に入りずらくなっている。
「ん、今日は朝までやろうぜって言ったんだよ」
 そういって首筋を撫でる。
「やだ……仕事あるから」
 段々頭の中がはっきりしてきた透耶がそう言った。
 鬼柳はそれを聞いて少し不満そうな顔をする。
 前にもお仕置きだといいながら、朝までやるという目的は果たせてなかったからだ。
「……仕事終わったらね」
 仕方ないなあとばかりに透耶が答えると、鬼柳がギュッと透耶を抱き締めた。
「約束だからな」
「……うん……でも、六月中旬まで仕事続きだよ」
 こういう答えが返っているとは思わなかったので、鬼柳は透耶の顔を覗き込む。
「え?何で!」
「7月から連載で、更に新刊出るから。それから単発の短編があるし……新しいソフト入れてそれでやると校正作業がしやすいって聞いたから、それにデータ移したいし。紙に書いた小説もデータ化しなきゃいけないし……」
 透耶が指を折りながらしなければいけない事を言うと、鬼柳がギョッとして言った。
「そんなに仕事あるのか?!」
「……うん……データ移すのは、仕事じゃないけど、準備かな?」
 透耶がそう答えると、鬼柳が不満たっぷりに言った。
「透耶〜仕事し過ぎ〜」
 鬼柳がそう言うと、透耶は少し笑って言った。
「うーん、まあ、これも、夏に恭と京都に行きたいから」
 仕事を詰めている理由を透耶は話した。
「京都に?」
 鬼柳がキョトンとする。
「うん。お祖母様にも会わせて置きたいし。両親のお墓もあっちにあるから、紹介しときたいし、お墓参りも一度も行ってなかったから……一緒に行きたいなって思って……」
 つまり、亡くなった両親や、生きている身内に鬼柳を紹介したいと言っているのだ。
「透耶…」
 鬼柳はそれだけで嬉しくなってしまう。
「うん、でも、仕事があるから時間とれなくて、それで……今やっておいたら、ちょうど八月いっぱい休み取れそうだって手塚さんが言ったから、頑張ってみようかなって」
 透耶がそう言って振り返ると、鬼柳が満面の笑みで見ていた。
「うん、解った。でも無理するなよ。倒れたりしたら元も子も無いぞ」
「解ってる。配分は解ってるから」
 透耶がそういうと、鬼柳は透耶を抱き締めた。
 抱き合っていると、透耶は眠くなってしまったのか、鬼柳の問いかけにも段々と言葉が怪しくなってしまった。
 透耶は逃げて来たモノに立ち向かおうとしている。
 綾乃も親の期待から逃れずに、一人東京で闘っている。
 なのに、俺は?
 俺は何もかもから逃げてないか?
 俺は透耶を逃げ場所にしてないか?
 透耶は俺といる為に過去と向き合い、そして真直ぐに前に向かって歩いている。
 俺は、透耶と一緒に居たからという理由をつけて、家からも逃げ、更に仕事からも逃げたままだ。
 このままでいい訳ないのは解っている。
 透耶は無意識でそれを解っているから、普段甘えて来ない。必要以上に頼ったりしない。
 俺の仕事の事を言ったりする。
 全部透耶は解っている。
 ずっと一緒のままの、このままの状態ではいられない事を。
 俺は、透耶がはっきりと言い出さないのを言い事に見ない聞かない事にしている。
 うとうとし始めている透耶の頭を撫でて鬼柳は思った。
 なあ、甘えていていいか?
 もう暫く、気付かないふりしてていいか?
 大丈夫だって、言われるまで見ないふりしていいか?
「……恭、どうしたの?」
 殆ど眠りに入りかけている透耶がそう言った。
 別に顔を見ている訳でもなく、ただ呟いただけ。
「いや」
 鬼柳はそう答えたが、透耶はこう言った。
「大丈夫……俺が何とかするからね……」
 一瞬、自分の考えを読まれたような言葉が出て来た。
「透耶?」
 不思議に思った鬼柳が透耶を呼んだが、その呼び掛けには返事は返って来なかった。
 鬼柳はホッと息を吐くと共に、一筋の涙が流れてしまった。
 ほら、透耶は俺が一番欲しい言葉をくれる。
 だから、尚更愛おしい。
 だから。
 だから、もう少しだけ、少しだけ側にいさせて。
 鬼柳は、初めて神に祈ってしまった。
 少しだけ前に進む為に、自分と向き合う為に、透耶と同等の勇気が欲しいと。
 強くある為に、透耶の笑顔が、言葉が欲しいと。
 らしくもなく、必死で祈っていた。