switch

switch外伝1

 十一月に入って数日経っていた。
 周りはもう冬本番に入りかけ、町並みも落ち葉やら、寒さを凌ぐ為のコートなどを着た人が増えていた。
 榎木津透耶は、いつもよりかなり早く目が醒めていた。
 時刻は午前七時半。
 普段ならば、透耶はこの時間、深い夢の中のはずである。それなのに何故か目が醒めてしまったのだ。
「七時半か……」
 透耶は時計を何度も確認してから、そう呟いた。
 随分早くに目が醒めてしまったものだと思いながらも、まだベッドの中で朦朧としていた。
 広過ぎるキングサイズのベッドに座ったまま、しばらくボーッとしてしまっていた。これもいつもの事だ。なかなか簡単には起きあがれない程の低血圧。これも仕方ない事だった。
 暫くボーッとしてから、透耶はやっと行動に出る事ができる。身体が起きていても頭がまだはっきりと目が醒めた訳では無かったからだ。
 やっとベッドから這い出て、ゾンビのような動きで洗面所へと向かう。洗面 所で顔を洗って頭をすっきりさせることにしたのである。
 それでやっと目が醒めた状態になる。
 鏡で酷い寝癖をきっちりと直す。
 次は着替えである。のろのろと動きながらクローゼットの服を探し出す。探し出すのは、決まっている写 真付きのモノ。
 同棲中の透耶は服に関してはあまりコーディネートが上手くない。そこで、クローゼットには、この服はこれと組み合わせてというような案内写 真が付け加えられている。
 透耶はそれを見ながら写真に合わせて服を探すという訳だ。
 現在、同棲中の相手、鬼柳恭一は遠い空の下で仕事をしている。その人がわざわざこしらえてくれた力作なのだ。当然無視は出来ない透耶である。
 それに合わせて服を選ぶとそれに着替える。
 パジャマは毎日着替えるので、洗濯行きのカゴの中へ放り込む。そうしてれば、後はメイドが洗濯をしてくれる手筈になっているのだ。
 これくらい自分でも洗濯出来ると思っている透耶ではあるが、それすらも禁じられているのには訳がある。
 その前、洗濯をしようとして、全自動しかしらなかった透耶は、古風なランドリーを使う事が出来なかったからである。
 それで皆からやめるようにと言われてしまい、渋々諦めたという経緯があった。
 着替えを終えた透耶は、いつも着ているカーディガンを羽織り欠伸を一つして部屋を出た。
 部屋を出ると、いつの間にか音を嗅ぎ取ったのか、この家の唯一のペットである猫のクロトが廊下で座って待っていた。
 この猫は透耶に惚れているかのように、従順で甘えたがり。そのくせ独占欲が強いという賢い猫なのだ。
「おはよう、クロト」
 透耶は寝室のドアを閉めてから、座り込んでクロトに挨拶をした。
 クロトは透耶の側まで来ると、にゃーっと一声鳴いて挨拶をしてから、透耶の顔を舐めようと透耶にしがみついてくる。こういうところが可愛いから、透耶も手を伸ばしてクロトを抱き上げた。
 階段を降りて下につくと、クロトを床に下ろした。
 クロトは慣れた様子で、透耶から離れると、居間の方へと歩き始めた。
 透耶もその後を追って、居間へ入る。
 すると、居間で仕事をしていたメイドの、山田司に遭遇した。
 居間に入ってきた透耶に気が付いた司は、仕事を中断させて透耶の元へとやってきた。
「おはようございます。今朝はお早いんですね」
 頭を下げられてそう言われて、透耶は苦笑するしかなかった。
 それもそのはず。透耶がこんなに朝早く起きてくる事は殆どと言っていい程なかった事だったからだ。
 メイドの山田司は、今年の八月の終わりくらいからここで住み込みのメイドをしている。その彼女からしても透耶が早起きだとは認識してなかったのである。
 ここに母親でもいれば、「雪でも降るんじゃないかしら?」と言ってきそうな感じである。
 そっか……やっぱ早いよね……。
 そう思って透耶は一人で納得してしまった。
「うん、なんだか目が醒めちゃって……」
 透耶はそう答えて頭を掻いた。
 何故目が醒めたのかは、今でも解らない。時々こうして早くに目が醒める事があるけれど、その理由は大抵早寝をしたくらいなものだ。でも昨日は十二時を回ってもまだ仕事をしていたのだから、深夜に寝た事になる。
 透耶の場合、睡眠時間はきっちり八時間と決まってるかのように寝ている。それが今日は違っているのである。何かあった訳じゃないのだけれど、起きてしまったのだ。
「朝食、すぐに準備致します」
 司は掃除を止めて、すぐにキッチンに向かった。
 透耶も一緒にキッチンに入る。冷蔵庫を開けて、中から水入りのペットボトルを取り出すと、ごくごくと半分くらいまで飲み干し、残りを冷蔵庫に戻した。
 そして、キッチンの物置きの中からクロトのキャットフードを取り出した。
 それを嗅ぎ付けたクロトは大人しく、自分用の皿の前で座って待っている。その皿にキャットフードを入れてやって、水も変えてやる。
 水を変え終わってクロトの前に差し出すと、クロトは一気に朝食にありつくのである。
 この猫は透耶が家にいる時は透耶の手からしか餌を受け取らない頑固なやつなのだ。でも透耶がどうしても起きて来ない時は、執事の宝田から貰う事を最近覚えたばかりなのだ。それも透耶が言って聞かせて納得させたという経緯はある。
 クロトが餌を食べ始めてから、透耶は手を洗ってダイニングに座る。すると丁度良く食事が出てくるのである。
 その朝のメニューは食パン一枚に多めのサラダ。ヨーグルトにベーコンエッグという組み合わせ。これは同棲人である、鬼柳恭一が残してくれた透耶用のレシピなのである。
 それを堪能して食べる透耶。一つでも残したら、何か病気ではないかとまで疑われてしまうので、一生懸命に全部食べるようになった。それでも食が細いと言われているのだが、朝から何かを食べるようになったのは、小学生以来なので、透耶は必死である。
 それを食べ終えると、司のチェックが入る。
 今日は朝食を全て食べたというチェックが。
 透耶はそれを確認してから、ダイニングを出た。
 朝早く起きたので、まだ仕事という雰囲気ではなかったので、居間のTVを付けて朝のニュースを確認する。それと新聞を広げて内容をチェックする。
 透耶が居間を占領した形になったので、司は寝室に上がり、透耶の衣服を持ち出して洗濯に移った。
 透耶は新聞を広げて、鬼柳がいるはずの中東扮装に目がいった。

 戦争。それを伝える役目をしている鬼柳がこんな場所で仕事をしているのだと何度思っても信じられない。
 鬼柳恭一は戦争などの取材をするフォトカメラマンなのだ。
 もう三ヶ月も離れたままだった。
 連絡手段はパソコンメールだけ。
 それは透耶が決めた事だった。
 中東が危険な場所であるのは認識している。だから、毎日電話では電話代もばかにならないし、それより、鬼柳の仕事の負担にはなりたくなかった。
 電話で声を聞いたら、会いたいと言ってしまいそうな自分が怖かったのもある。それだけは言ってはならないと思っていた透耶は、ならメールなら言葉を選べて言ってはいけない言葉を言わなくて済むと思ったからだ。
 メール交換はもう二ヶ月続いてる。
 そこでは鬼柳は透耶に会いたいとは言うけれど、きちんと仕事はしていると解る内容だった。透耶は会いたいとは書いた事は無い。
 それだけは言ってはいけない言葉。そう透耶は思っていた。そんな事をしたら、鬼柳は仕事を放棄してでも戻ってきてしまうかも知れない。
 鬼柳恭一という男はそんな男なのだ。
 会えない寂しさは、段々と慣れてしまう。最初の一ヶ月が辛かった。相手の事が何も解らない状況だから辛いのは当たり前だ。
 でも透耶はメールという手段を選んだ。
 声が聞きたい、抱き合いたい。でもそれも言ってはいけない言葉なのだ。
 戻ってこない訳じゃない。だから心配するのは、中東扮装のことだけ。それは毎朝新聞やTVニュースで仕入れるしかなかった。
 それでも十分過ぎるくらいに危険な地域に鬼柳が赴いているのには変わり無い。心配はしてもしつくことがない。だから、ここではないのだと透耶は言い聞かせるように、その事件などを見ることにしていた。
 その作業が終わると、透耶は書斎に篭って仕事を始めた。
 今月また新刊が出る。そのゲラを貰って、再度チェックを入れる。
 その作業をしながら、新作の作業と連載の分もチェックを入れないといけない。
 多忙である。
 透耶が仕事に一区切り付けた時、ちょうど書斎の時計が一時を指していた。
「もうお昼?」
 透耶はぐっと背伸びをして椅子から立ち上がると、キッチンに行く。
 そこでは、司が待っていて、透耶の昼食の準備をしてくれていた。
「司さん、もう食べたの?」
 司が食事を出してくれるのを見ながらそう尋ねた。
「ええ、お先に頂きました」
 司はそう答えて、透耶の食事を出し終える。
 今日のお昼はオムライスだった。
 これは透耶の大好きなメニューなので、よくお昼ご飯に出てくるのである。
 それを食べながら、透耶は司と雑談をした。
 食べ終えると、司がこう言った。
「仕事も宜しいですけど、少しお休みになった方がよろしいのでは?」
 つまり気分転換をしろという事らしい。
 透耶の仕事は根詰めたやり方なので、司が心配したらしいのだ。
「うん、解りました。庭でも散歩します」
 透耶は素直に従う。司の言葉にも一理あるからだ。
「外は少し寒いので、上に何か羽織って下さい」
「はーい」
 透耶は頷いて、二階へと上がった。
 上でもっと厚手のジャンパーを選んでそれを着込み玄関から外へ出た。
 外は少し肌寒い感じがして、風も吹いていた。
 透耶が玄関から外へ出た時、クロトも一緒に外へと出てきた。
「クロトも散歩する?」
 透耶はクスリと笑って、クロトと共に庭へ降りた。
 庭の木は殆ど枯れていて、夏に青々してたモノは、茶色く彩られていた。
「もうこんな季節なんだね」
 透耶は独り言を呟いて、庭の木に近付いた。
 すると、器用にクロトがその木に登った。
「猫は身軽でいいね」
 あそこまであがったら気持ちいいだろうな……。
 とはいえ、透耶に木登りができるわけがない。
 ただ座って、クロトが木に登っているのを見る事しか出来ない。
 恭なら登れるんだろうな……。
 そんな事を思っていると、後ろから声をかけられた。
 そう……よく聞き覚えのある声。
「透耶!」
 その声に透耶は驚きと共に振り返った。
 まさか、そんな訳ない。
 そう思っていても、その声には聞き覚えがあるのだ。
 透耶は恐る恐る振り返った。
 そして、その場所に立っている人物を凝視した。
「うそ……」
 まさか、夢でも見てるの?
 本当に?夢?
 透耶はその場所を動く事が出来なかった。
 ただ呆然として立っている事しか出来なかった。
 するとその人物は笑顔で透耶の方に歩いてくる。
「透耶」
 優しい声が何度も透耶の事を呼ぶ。透耶は呆然としてただ見ているだけ。
「恭……?」
 信じられないとばかりに声を出したら、その人物、鬼柳恭一は笑顔で頷いた。
 鬼柳はもう透耶の目の前に立っていた。
 そして透耶を抱き締めてきた。
「透耶、ただいま」
 ぐっと力が込められた腕が透耶を締め付ける。それでも透耶はまだ信じられなかった。
「本物?」
 透耶はそう聞き返していた。
「何? 偽者でも出た?」
 鬼柳は一旦抱き締めた腕を離した。
 鬼柳はぼざぼざの頭で、ヒゲすら生えている。何より、三ヶ月前とは信じられない姿をしていた。
 無精髭に砂漠の砂でもついているのか、少し埃っぽい感じの服。それは見事に汚れていた。
 向こうでは殆ど着替えなかった上着からは、変な匂いがするのである。
 そこまできて、やっと透耶は鬼柳が本物だと実感する事が出来た。

「偽者は出ないけど、なんか……信じられなくて」
 透耶は手で恥ずかしそうに鬼柳の服の一部を摘んでいた。
 鬼柳はニコニコとした笑顔でこう言った。
「一刻も早く透耶に会いたくて、朝早くのでこっちに着いたんだ」
 そう言われて、もう一度抱き締められた。
 そして鬼柳はキスを求めてきた。
 透耶はそれに応じた。
 本物だ。偽者じゃ無い本物。本物の恭……。
 嬉しくて、抱き返す腕にも力が篭った。
 キスは濃厚で深く、何処までも求めるようなものだった。三ヶ月ぶりのキス。それはそうなっても仕方が無いようなキスだった。
「……ん……ふっ」
 舌を吸われて絡めて、それでもキスは終わらなかった。
「んっ……」
 息が苦しくなってきたところで鬼柳が唇を離した。まだ満足はしてなかったが、透耶の足が立たなくなってしまったので諦めたのだ。
「ん、もう……」
 透耶の崩れそうな身体を抱きとめて、鬼柳は満足したような顔をして微笑んだ。
「セックスしてえ」
 あまりにストレートな言葉に透耶はハッと我に返った。
 おい……ただいまの次はセックスの事か……。
 呆れてモノが言えないとはこのことか!
 そんな事を思って、透耶は何とか身体を立て直した。
「おかえり、恭」
「ん、ただいま」
 今度は透耶からのキス。簡単な触れるだけのキスをしてやると、今度は鬼柳から透耶の顔中にキスが降ってきた。
「や……やだっ くすぐったいよー」
「そうか?」
「それにちくちくするー」
 透耶がそう抗議すると、鬼柳は自分の顎に手をあててうむっと唸った。
「鬚剃ってくればよかったか」
 無精髭は延び放題。透耶と暮していた時は、毎日ちゃんと剃っていたのに、透耶と離れたとたん、身の回りの事には無頓着になっていたらしい。
「それに埃っぽい」
 透耶がまた抗議をすると、鬼柳は自分の身体を叩いて唸った。
「今度は風呂も入って、着替えてから帰ってくることにする」
 そう言われて、透耶はぎょっとした。
「まさか、お風呂入って無いの?」
 まさか、そんなはずないよね。
「風呂はあったけど、上等じゃねえし。早く帰ろうと思ってそのまま飛行機に乗ったからなあ」
 つまり、入って無い訳ね……。
「風呂直行!」
 透耶は家を指差して鬼柳にそう言った。
「あ、やっぱり?」
 面倒臭いなあとは思いながらも、そうしないと透耶が触らせてくれないんじゃないだろうかと考えたら、風呂に入るのは当然か、と鬼柳は思ったのだった。
 


2

 風呂に入って、鬼柳は身綺麗になった。
 透耶は居間でそれを待っていた。
 頭をごしごしと拭きながら、鬼柳は居間の透耶の元へやってきた。
 黒のカッターシャツに黒のジーンズの姿は、肌が灼けている鬼柳には凄く似合っていた。
 透耶はニコリと笑って、自分の隣に鬼柳が座るように指示を出した。
「ん、何?」
「拭いてあげる」
「そうか? 任せた」
 鬼柳は素直に透耶の側に座った。透耶は鬼柳からタオルを受け取って、頭をごしごしと拭いてやる。
「灼けたね」
 透耶がそう言うと、鬼柳は頷いた。
「これでも紫外線予防はしたんだけどな。やっぱ日射しには叶わない」
 鬼柳はそう答えた。
 あの暑い大地では、防寒装備でも暑い日の下では無理だった。
「灼けたの嫌い?」
 少し気にしていたのだろうか、鬼柳がそう言い出した。
 透耶はクスリと笑って、違うと言った。
「なんか別人みたいで面白い」
 こういう言い方失礼かなあ……。
 そうは思ったけれど、事実面白いなあと思っていたので素直にそう言ってみただけだった。
「面白い? 別人みたいか……」
「うん。あんまり黒いから誰かと思った」
 透耶は始終笑顔だった。
 鬼柳が帰ってきて一番嬉しいのは透耶なのだ。それも無事で帰ってきてくれた事が嬉しかったのだ。
 その思いが溢れ出ているだけなのだ。
「透耶、嬉しそう」
 鬼柳にそう指摘されて透耶は少し笑った。
「だって、恭ってばいきなり帰ってくるんだもん。びっくりしたけど、嬉しいもん」
 透耶は素直に感想を述べた。
 こんなに急に戻ってくるとは予想してなかった事だった。
 今年一杯は会えないかもしれないと思っていた。それがこんなに早く会えるとは思っても見なかったのだ。
 目の前に動いている鬼柳がいる。
 それだけで、透耶は嬉しかった。
「俺も透耶に会えて嬉しい」
 鬼柳はそう呟いた。
 ずっと離ればなれだったから、三ヶ月もの間、写真での透耶にしか会って無かった。
 やはりちょこちょこ動いている透耶の方がいいに決まっている。だから嬉しいのだ。
「うん」
 透耶は頷いて、今度は鬼柳の頭を乾かすのに専念していた。
 そこへ執事の宝田が飲み物を持って現れた。

「悪いな」
 鬼柳はそう言って、グラスを受け取る。
 透耶も鬼柳の髪を拭き終えて、そのグラスを受け取った。
「宝田さんは、恭が今日戻ってくる事知ってたの?」
 透耶にそう聞かれて、宝田は頷いた。
「はい、恭一様から電話がありましたので」
 何でも無い事のように言われて透耶は不思議な顔をしてしまった。
「なんで帰ってくる時くらい電話してこないの?」
 透耶はそう鬼柳に聞いた。
 鬼柳はニヤリとして、透耶の頭を撫でた。
「びっくりさせてやろうと思ってな」
 茶目っ気たっぷりに言われてしまい、透耶は文句を言う。
「そりゃびっくりしたよー。メールじゃそんな事言って無かったし」
 そう鬼柳がここにいるはずない、透耶はそう思い込んでしまっていた。帰ってくるなら一言でもメールで帰れると言いそうなものなのに、鬼柳はそれをしなかったのである。
 それが不思議だったのだ。
「いきなり休暇って言われてな。こっちの都合ってのを考えないボスだからなぁ。休暇も突然やってくるものだし。俺の希望の休みを考慮してくれた事には感謝しなきゃいけないけどな」
「メール書く暇もなかったの?」
「それよりも、一刻も早く透耶に会いたかったから」
 鬼柳はそんなの当然だろうという顔をして透耶を見つめた。
 透耶は見つめられて顔を赤らめた。こうして鬼柳を目の前にすると言いたかった言葉が出て来ない。恥ずかしいと思ってしまうのだ。
 会わない間に妙な緊張が生まれていた。
「お、俺も会いたかった……」
 恥ずかしいと顔を赤らめる透耶を見て、鬼柳は新鮮な気持ちになっていた。
 可愛い透耶が目の前にいる。それだけで嬉しいのに透耶のこうした反応も嬉しいのだ。
「透耶、可愛い」
 鬼柳はそう言うと、グラスを置いて透耶を抱き締めた。何度抱き締めても足りないというくらいに、鬼柳は何度も透耶を抱き締めていた。
「恭……くるしい……」
 最初は笑っていた透耶であったが、力加減が分って無い鬼柳に文句を言い出した。
「あ、悪い。筋力ついちまったからな」
 少し力を緩めると、透耶の方から抱きついてきた。鬼柳は透耶の背中を撫でて、あやすように何度も撫でた。
 馬鹿力になってんだ……。
 透耶はそんな感想を持っていた。
 今の鬼柳は三ヶ月前の鬼柳ではない。
 筋力は仕事のお陰であがっていて、抱き締めてくる腕も一回り大きくなっている気がした。
 それだけ体力がいる仕事なんだと思わせる。体つきももっとがっしりとしてきていて力強さを感じる。それだけハードな仕事だったのだと思わせる。
 それでも鬼柳が仕事の愚痴を言ったのは、数度程だったと思う。
 それは疲れるからではなく、ボスに嫌みを言われたとか、そうした些細な事だけだった。仕事の内容についての愚痴は一度もない。
 それは鬼柳が真面目に仕事をしている証拠だった。透耶も仕事の愚痴は言わない。だから、鬼柳もそれに習ったようにしていたのだった。
「ちょ……ちょっと」
 感動していたのに、なんでこうなるの……。
 透耶がそう思うのも仕方なかった。
 鬼柳は透耶を抱き締めながら、お尻を撫で撫でしてきたからである。
 すると鬼柳は透耶の耳元で囁いた。

「セックスしようぜ」
 その言葉に透耶は慌てて鬼柳から離れようとした。だけどそれは上手くいかなかった。筋力を付けた鬼柳の腕からは逃れられないのだ。
「何、昼から盛ってるんだよ……っ!」
 透耶はポカポカと鬼柳の背中を叩いて抗議をする。それでも鬼柳はニヤリとして、透耶の耳を舐めたのである。
「ひゃ……ダメ……」
 透耶が身を屈めてそれを避けようとした。
 必死で逃げる透耶を押さえ付けて、鬼柳は透耶をソファに押し倒した。
「ちょ……ちょっとっ!」
「マジ透耶に飢えてるんだ」
 鬼柳はそう言って、透耶の顔中にキスを降らせた。透耶は嫌だと避けながら逃げようとしていた。
 こんのぉ!エロ魔人が!
 心の中で精一杯叫んだ透耶である。
「帰ってきて言う事はそれだけか!」
 透耶は必死に鬼柳の腕から逃れてしまった。鬼柳が不意に力を緩めたからだ。これ以上透耶をからかったら本気で怒られるとでも思ったのだろう。
 冗談で言っているわけではないが、今のこの時間では透耶が身を委ねてくれるはずもなかった。
 やっぱノーマルにベッドじゃなきゃ駄目なんだよなあー……。
 などと鬼柳は心で呟いてしまった。
「夜でベッドでならいい?」
 いつだったらいいのかを確認してしまう鬼柳。
 本当に透耶に飢えていたのだ。
 やっと逃れた透耶は呼吸を整えてから言った。
「夜!」
「夜ならいいのか?」 
「そう!」
「何処で?」
「ベッドに決まってる!」
「夜でベッドならいいんだ」
「そ、そう!」
 透耶は必死に鬼柳を押しとどめるのだが、段々罠にハマっていることには気が付かなかったのである。
「解った」
 鬼柳は渋々頷いていたが、内心にやりとしていた。
 透耶はホッと息を吐いたが、何かおかしいと首を傾げた。
 あれ?俺とんでもない事言わなかったっけ?
 いくら考えても解らないのだった。




「透耶。仕事で取材旅行だって言ってたけど、それって明後日だったよな」
 いきなり鬼柳がそう言い出したので、透耶は驚いた顔をしていた。
「なんで知ってるの?」
 透耶が首を傾げていると、鬼柳は意図も簡単に答えを出した。
「手塚に聞いた」
 はは、なるほどね……。
 と、透耶は納得してしまった。
 この男は忙しい合間に透耶のスケジュールを把握する為だけに、編集者に連絡を取ったのである。
 それも鬼柳がやりそうな事だ。
「それ、俺も一緒に行くから」
「え?」
「一緒に行くって言ったの」
「何で?」
 何で一緒に来る訳?
 透耶は?マークが浮かんでしまっている。
「だって家で透耶が帰ってくるまで待ってるなんて我慢出来ない」
 何が我慢出来ないのかは言うまでもない。
「一緒にいっても透耶の邪魔しないから、お願い」
 鬼柳は手を合わせて透耶に頼み込む。
「う、うん……でも切符の手配とか……」
 透耶がそう呟くと、鬼柳はニヤリとした。
「もう切符も貰った」
「へ?」
 貰った?
 透耶が不思議顔になったので、鬼柳は笑って答えた。
「手塚に頼んだら手配してくれた。もう受け取ってきたから大丈夫」
 にっこりと笑って言われて、透耶は頭を抱えた。
 そうだった、こういう男だったんだ……。
 何でもやってのける男だったんだ……。
 この行動力だけには脱帽してしまう透耶である。
「それから頼みたい事があるんだけど」
 今度は真面目に鬼柳が切り出した。
「何?」
 少し警戒してしまう透耶。
「ピアノだけど、俺の同僚が聞き惚れちゃってさ、透耶の音を生で聞きたいって日本までついてきたんだよ」
「はあ?」
 ピアノの事を言われて透耶はキョトンとしてしまった。
 確か、鬼柳が仕事に出かけてしまう前、鬼柳は自分の気に入った曲をMDに取る作業をしていた。
 それも二三本程。それを仕事の合間に聞くと言われたので、透耶は喜んで録音に付き合った。
 そのMDを誰かに聞かれたらしいのだ。
「恭……」
 透耶ははあっと頭を抱えた。
「大丈夫だって、ただのカメラマン助手だから。音楽に精通してるやつじゃないし、悪いやつじゃないから」
 鬼柳がそう言うので、透耶はやっと顔を上げた。
 鬼柳が誰かの事を弁護するのは初めてかも知れない。
 人を見る目が一応ある鬼柳の言う事だから、その人に聞かせても大丈夫だろうと透耶は判断した。
「うん、恭がいいって言うならいいけど」
 もし、鬼柳が連れてきたのが音楽に精通している人であっても透耶は鬼柳さえいいと言えばその通 りに弾いて聞かせただろう。
 だが、鬼柳はそんな事をするはずない、という確信もあった。それで前ももめて大変な事になってしまったのだから、二の舞いにはしないだろう。
「で、いつ来るの?」
 明後日からは熱海に取材旅行でいないから、来るなら明日だろう。透耶がそう思っていると、鬼柳は意外な事を言い出した。
「今からでもいいか? 一刻も早く聞かせて追い返したい」
 鬼柳がそういうので、透耶はん?と首を傾げた。
 なんで早く追い返したいのだろう?そんな感じだ。
「早く帰したいって?」
 透耶が聞き返すと、いきなり鬼柳の携帯電話が鳴ったのである。
「ちっ! さっそくかかってきたか」
 鬼柳はそう言って、携帯電話に出た。
 だがそこからは透耶には解らなかった。
 それもそのはず。鬼柳が喋っているのは日本語でも英語でもなかったからだ。
 どう考えてもアラビア語にしか聴こえない。
 一方的に鬼柳が喋っていて、向こうからの反応は短いものだった。
 恭ってアラビア語もしゃべれたんだ。
 透耶はそんな所を感心していた。
「透耶、今からそいつ迎えにいってくる」
 電話を終えた鬼柳がソファから立ち上がった。
「え?」
 いつの間にそんな話になったんだか。
「透耶は練習でもしててくれ。俺はネイを迎えにいってくる」
「その人ネイさんって言うの? さっきのアラビア語?」
 透耶はどうでもいい事を聞き返してしまった。
 とにかく疑問に思った事は聞き返しておかないと、鬼柳はそこら辺を省いて話をしてしまいそうだからだ。
「名前はネイだ。さっきのはアラビア語。ネイの意思疎通はアラビア語だからな」
 鬼柳は何でも無いと簡単に答えた。
 透耶は納得したような顔をしていた。
 そっか、意思疎通出来るのは英語だけじゃないんだ……。
「恭もアラビア語喋れるんだ」
 透耶は出かける準備をしている鬼柳の側に立って、そう聞いた。
 鬼柳から何語ができるという話は聞いた事無かったからだ。
「アラビア語は習ったからな。現地でも使うし、覚えておいて損は無い」
「そっか。で、他には何語ができるの?」
「そうだな。粗雑なドイツ語、上流階級のフランス語。イタリア語も一応出来る。あとはなんだな、現地にいけば大体思い出せる言語もある」
「凄いー! そんなに出来るんだ」
 透耶は自分が出来た時のように喜んでいた。
「殆ど片言の方が多いけど、覚えるのは楽だし、のちのち便利だから習ったりしてたな」
 鬼柳は首を傾げてそれを思い出そうとしていた。
 自分は行く先々で言語が必要と解ると、片言でも覚えてきた。それが身を結んで、今では十分に役に立っている。一度覚えた言語は二度と使わない言語であっても忘れた事は無かった。きっかけさえあれば思い出せるものであった。そんな事に透耶は感心してるらしい。
 鬼柳は透耶を見つめて優しく言った。
「アラビア語も覚える?」
 そうした言葉に透耶はハッとした顔をした。
 英語でも十分苦労したのに、今度はニュースで少ししか聞いた事も無いアラビア語を覚えるのには、いくら透耶が頭が良くても無理な相談だった。
「無理無理。英語じゃ通じないの?」
 透耶はアラビア語から逃れる為に自分が唯一出来る英語の方を押してきた。
「まあ、向こうは片言だから通じるだろうな」
 鬼柳がそういうと透耶は明らかにホッとした顔をした。
 まさか最初の挨拶をアラビア語でと言われても思い出せないからだ。
「そう心配するな。通訳の俺がいるだろ?」
 鬼柳がそう言うと、透耶はハッとした。
 そうだったと今思い出したかのようである。
「そ、そうだね、恭の知り合いだもんね」
 良かったー。とホッとする透耶であった。
 鬼柳がネイという人物を出迎えに行ってから透耶は居間でピアノの準備をした。
 何を弾けばいいのか解らないが、指慣らしに、鬼柳が好きだと言っていた、「ラ・カンパネラ」と「マゼッパ」を弾いておくことにした。
 他にリクエストがあればその時思い出せばいいと思っての行動である。
 透耶がピアノを弾きはじめると、何処かへ引っ込んでいた宝田と司が居間にやってきた。二人とも透耶のピアノのファンなのだ。最近は仕事が忙しく弾く暇もなかったので、いきなりピアノが始まった音を聞いて慌てて駆け付けたらしい。でも透耶はそれに気が付いて無かった。
 他に誰がいても気にならない性格なので、集中して弾いてしまえば、何が起こってもピアノは止めない。そうした集中力を発揮していた。
「本当に綺麗な音色」
 司がうっとりしたように呟いた。
 宝田はそれに頷くだけだった。



 それから三十分程して、鬼柳は戻ってきた。
 その音を感じた宝田は慌てて司を連れ立って玄関に赴いた。
「おかえりなさいませ、恭一様」
 宝田がそう言うと、鬼柳は頷いて、ネイという青年を紹介した。
「こっちはネイだ」
 姓は紹介しないらしい。それでも宝田は気にしなかった。鬼柳が自分の同僚を家に連れてくるのは初めてである。それに感激していたのだ。
 司が案内をしようとすると、ネイは玄関で動かなくなってしまった。
 そう透耶のピアノの音色が聴こえていたからだ。
『あれが透耶の音だ』
 鬼柳がアラビア語でそう話し掛けると、ネイは何かに取り憑かれたように居間へと足を速めた。
 ネイが居間へ入ると、ピアノを弾いている透耶が目に入った。
 真剣にピアノに向かっている少年。それが鬼柳が愛しているとやまない透耶という少年。
 その姿は美しく見えた。
 年齢は十九歳と聞いていたが、もっと幼く見えた。まあ、日本人は大抵年齢相応には見えないから、外見は仕方ないだろう。
 だが透耶は美少年という言葉が当てはまる少年だった。
 写真は何度か見た事があった。鬼柳が大切そうにしている写真を奪い取って見たのだ。そこに映っていた少年が今動いている。それが不思議だった。
 ピアノの音は洗礼されたように美しく、ネイは透耶に声をかける事すら出来なかったのである。
 一つの曲目が終わって、透耶が手を止めた時、ネイは自然と拍手をしてしまっていた。
 その拍手に驚いたのは透耶だった。
 弾かれたように顔を上げ、ネイの方を振り返ったのだ。
 その瞳は大きく見開かれていて、ネイの姿に驚いている顔だった。
 実際透耶は驚いていた。さっきまで誰もいなかったはずの部屋に見知らぬ 人が居て拍手までしているのだから驚かずにはいられないだろう。
「誰?」
 透耶は少し怯えたような声を出した。
 そこへ鬼柳が居間へ入ってきた。
「透耶、ネイだ」
 簡単に鬼柳はネイを紹介した。
 透耶はやっとホッとした顔を見せてネイを見上げた。
 ネイの身長は鬼柳よりも少し高かった。肌は真っ黒なので、黒人なのは解る。髪はストレートで長いのを後ろで一括りにしており、前髪も同じように長かった。服装を見ると、帰ってきた時の鬼柳と同じようなジャンパーにジーパンという軽装だった。
 細い目はじっと透耶を捕らえていて、他に背く事はなかった。
 透耶はそんなネイを首を傾げて見上げていた。
 ネイは鬼柳とは違った意味でかなりいい男なのだ。綺麗な顔をしているなあと感心していたのである。
「こんにちは、榎木津透耶です」
 透耶はそう言って、手を差し出した。
 すると、透耶をジッと見ていたネイがハッとした顔をして、透耶の手を取った。それも両手で。
 ネイは透耶の手を軽く握っただけだった。強い握手は求めて来なかった。
 そうネイは思っていたのである。こんな小さな手であんな音を出していたのかと、驚愕していたのだった。
『こんにちは、透耶。ネイです』
 片言の英語が返ってきた。どうやら、透耶が英語は出来るということを鬼柳が先に知らせていたらしい。  
『ピアノ素敵です。もっと聴かせて欲しい』
 ネイはそう透耶にリクエストをした。
 透耶はその言葉を聞いて、鬼柳の方を振り向いた。
「何弾く?」
 鬼柳からのリクエストしか受け付けないと決めているから、いくらネイが頼んでもダメだと透耶は思っていたから聞いたのだった。
 鬼柳はうーんと唸って、最近の練習曲と透耶にリクエストをした。
「わかった」
 透耶は頷いて、またピアノに向かった。
 鬼柳はネイの肩を叩いて、ソファに座るように促した。ネイは少し呆然としたまま、ソファに座った。
 透耶はうーんと暫くピアノの前で考えて、鬼柳がまだ聴いた事無い曲を選んだ。
 お茶を運んできた宝田がネイにお茶を進めても、それはネイの目には入って無かった。ネイはずっと透耶を見つめていた。
 透耶の小さな音楽会は、1時間程続いた。
 やはり1時間で、鬼柳の止めが入ったのである。
「透耶、手ダメになる」
 鬼柳がそう言って止めると、驚いたのは透耶ではなく、ネイの方だった。
『どうしてもっと聴かせてくれない!』
 それはアラビア語だった。
 いきなりアラビア語でネイが怒鳴ったので、透耶はびっくりして身を縮めた。
 何、怒ってる?
 どうしてネイさん怒ってるんだろう?
 俺の演奏が気に入らなかったのかな?
 透耶はそんな不安にかられた。
 怒鳴ったネイに対して、今度は鬼柳がアラビア語で返した。
 それはまったく聞き取れない会話だったので、透耶は頭の上で繰り広げられている喧嘩に仲裁を入れる事が出来なかった。
 暫く喧嘩をしていたと思った二人だったが、鬼柳が何かを怒鳴ったところで打止めになったらしい。
 何だろう?
 急にネイが喋らなくなって透耶は困惑していた。
「ねえ、俺の演奏、気に入らなかったのかな?」
 透耶はそこで鬼柳に質問した。
 鬼柳は透耶をぎゅっと抱き締めて違うと言った。
「もっと聴かせろとか言うから、それは出来ないんだって説明したんだ」
「それだけ?」
 透耶は首を傾げて鬼柳に問う。
「普通のピアニストなら二時間くらい平気だろうとか抜かすから、それは透耶には出来ない事だとも言っておいた」
「そっか……俺の生演奏なら、1時間が限度だもんね」
 透耶は自分の身体の事は良く解っている。普通の練習にしたって本番と思ってやっている。だから体力が持たないのだ。それを初対面 のネイに理解しろと言う方が難しいのかもしれない。
 ネイさん、解ってくれたかな?
 透耶がネイをジッと見ていると、ネイは少し恥ずかしそうに頭を下げたのだった。
「え?」
 アラビア語で何か言ったらしいのだが、聞き取れなかった。
「ごめんだってさ」
「ごめん?」
 更にネイは何か言った。
「今度は?」
「聴かせてくれてありがとう……で、MDが欲しいそうだ」
 鬼柳が忌々しいとばかりに素直に訳してくれた。
「MDって……」
 透耶は嫌な予感がした。
 MDでは過去に事件が起きている。そうあの高城というピアニストの事件。あれの二の舞いにはさせたくないと透耶は思っていた。
「でも……」
 鬼柳にも透耶が言いたい事はよく解っていた。
「誰にも聴かせない、自分だけで楽しむんだそうだ。どうする?」
 透耶はそう言われて悩んでしまった。
 ネイは見知らぬ人である。何かが起こってMDが誰かの手に渡らないとは言い切れない。そうなったとき巻き込まれるのはもう嫌だった。同じ説明を誰かにしなければならない。それももう嫌だった。
「じゃあ、恭がMDを持ってて」
「俺が?」
「うん、で、向こうではそれをネイさんに貸し出すという感じにしてみたらどうかな? ネイさんには悪いけど、恭以外の……綾乃ちゃんは別 だけどさ、他の人にMDは渡したくないから」
 透耶がそう言うと、鬼柳はそれをそのままネイに伝えた。
 ネイはそれを聞いてショックを受けたような顔をしていたが、MDが聞けないわけではないという事を説明すると、それで納得してくれたようだった。
 ちょっとショックを受けたネイだが、すぐに笑顔になって透耶を見つめた。
『本当にありがとう。素晴らしい演奏だった』
 ネイはそれを英語で伝えてきてくれた。
 ピアノを誉めてもらえるのは嬉しいが、透耶は普通に喜んでいた。
 ピアノの事を誉められても、自分ではあれこれ失敗があったと思っていたし、完成されたモノでもないからだ。
 普通の人が聴いてそれでも良かったと言うならそれでいいと思ったのだ。失敗云々は自分の問題だからだ。
「ありがとうございます」
 透耶は頭を下げていた。
 ネイはにっこりして、透耶の手を取ると、なんと指先にキスをしてきたのである。
「うわっ!」
『ネイ!』
 透耶と鬼柳が叫んだのは同時だった。
『これくらいいいだろうが』
 ネイは少し驚いた顔をしていた。
『良く無い! 爪から指からこの全部髪の毛一本まで俺のモノなんだ!』
 鬼柳は透耶を抱き締めてネイを睨んでいた。 
 また状況が解らないのは透耶だけである。
 なんだよーなんでだよー。
 うえーん、指先にキスされたー。
 外国人って皆そうなのー。
 と文句が言いたいのだが、頭の上では鬼柳とネイのどう考えても上品では無い喧嘩が繰り広げられているのだった。

 

3

 ネイがホテルに戻って、やっと鬼柳、榎木津邸には穏やかな時間が流れた。
 夜になると、鬼柳が食事を作ってくれて、透耶は久しぶりに鬼柳の手料理に舌鼓を打った。本当に美味しかったからだ。
 鬼柳は仕事から持ち帰った自分用のネガを整理する為地下室に降りた。それに続いて透耶も仕事部屋へ一緒に入った。
 なんとなく離れづらかったのだ。 
 鬼柳はそれを喜んでいて、透耶がひょこひょこと付いてくると、振り返ってはぎゅっと抱き締めたりしていた。
 そうやってふざけ合いながら地下の仕事部屋に一緒に入った。
 鬼柳の持っているバッグは所々布が剥がれていて相当使い込んでいるのが解る。
 それを床において、テーブルにネガのフィルムを出していく。
 透耶はそれをソファに座ってじっと見ていた。
「なんか面白い?」
 透耶が真剣な顔をしていたので、鬼柳が聞いた。
「うん、なんか仕事してるって感じがするから面白いよ」
 透耶は笑ってそう答えた。
 鬼柳の感想、それは抱き締めたいくらいに可愛いである。
「仕事って言ってもホントの仕事の分はここにはないんだ」
 鬼柳がそう言ったので透耶は不思議顔になる。
「じゃあ何処に?」
「うーん、どっか、ニューヨークかどっかに運ばれたはず」
「じゃあ、ここにあるのは?」
「これはプライベートで撮ったモノ。透耶が見たいだろうと思う物を撮ってきたよ」
 鬼柳はそう答えて全てのフィルムを出し終えた。それは二〇本程あった。
「そんなに?」
 透耶がそう呟くと、鬼柳はクスリと笑った。
「全部やったら凄いけどな。失敗もあるからこの中から厳選して出してやるよ」
 鬼柳はそう言って、フィルムを振ってみせた。
 どんなのが映ってるんだろう?
 そう考えるだけでも透耶は興味が涌いた。鬼柳の撮る写真はどれも美しくて言葉に出来ないくらいに綺麗なのだ。だから今度見せてもらえるはずのモノも同じように輝いているに違いない。
 それだけで、期待は大きい。その期待の大きさを裏切らないのが鬼柳の写 真だ。
「写真集になったら絶対売れるのにね」
 透耶は冗談混じりでそう言っていた。
「写真集にしたい?」
 唐突に問われて透耶は少し考え込んでしまう。もしかしてそういう話があるのではないかと思ったのだ。
「もしかして?」
「いや、そんな話しはないよ。でも透耶がしたいっていうならしてもいいかなって思ったんだ」
 鬼柳はそう答えるのだった。
 透耶は何だと思って笑ってしまった。
「もう冗談なの?」
「冗談だな。そうなったら大変だ。今の仕事続けられなくなる」
「今の方がいいんでしょ? だったら写真集にしなくてもいいよ」
 透耶はニコリとして言った。
 鬼柳がそんな事を望んで無いことくらい、初めから解っている。もしそっちの方に興味があるなら、仕事をして無い時にそうした話が出ていたはずだからだ。
 そうしなかったのは、あくまでこういう写真を撮るのは趣味だと言った言葉通 りだからだ。
 鬼柳が望まない事は透耶も望まない。
 ただ綺麗な写真を独り占めにしているのは悪いなとは思うのだが、苦労してまで見せようとは思わなかった。
「これは明日にするか」
 鬼柳はそう言って、バッグから出したフィルムを大事そうに棚の中へとしまった。
 それから透耶の方へやってきた。
 ゆっくりと手が伸びる。
 その手は透耶の顎を捕らえていた。透耶も抵抗はしなかった。もうなるべくしてなる状況だったからだ。
 そのまま二人はキスをした。
「ふ……ん」
 そのまま透耶は首筋を捕らえられ、ぐっと引き寄せられる。唇の合わせが強くなり、隙間に舌が滑り込んでくる。
「ん……んん」
 濡れた間隔は柔らかく淫猥な動きを見せる。唇で裏を舐められて、歯茎も舌も余す所なく舐めつくしていく。
 まるで鬼柳はキスを思い出させる為にそうしたキスをすることがある。透耶にセックス前のキスを思い出させているのだ。
 透耶がその気になるように鬼柳はキスを深めて行く。透耶もそれに答えるようにキスを返してくる。
 それが合図だった。

「透耶、セックスしよう」
 鬼柳がそう言い出して透耶は顔を赤らめながらも頷いた。
 もう待ってられない。透耶はそう思って、鬼柳の首に手を回した。
 鬼柳は軽く透耶を抱え上げて二階へと駆け上がった。
 寝室に入ると同時に、二人は服を脱ぎ始めた。お互い早く触れ合いたいと思いながらだったので行動は早かった。
「最後は俺がやる」
 透耶の服を脱がすのが好きな鬼柳は透耶が上着を脱ごうとする手を止めた。
「え?」
 透耶が呆気に取られていると、鬼柳が嬉々として服を全部脱がせた。
 そして鬼柳は透耶を抱き締めて、ベッドへ寝転がした。
「夜だし、ベッドだし、解禁?」
 鬼柳は今更ながらそんな質問をする。透耶は笑って頷いた。
「もういろいろ言わなくていいってば……」
 恥ずかしいなあ、もう……。
 透耶はだんだんと緊張してきた。まるで初めて抱かれるみたいな気分なのだ。でも、初めてでは無い事はこの身体の熱が覚えている。
 鬼柳は唇に軽いキスをしてから、鎖骨にキスマークを残して行く。自分が付けた印はもう全部消えてしまっている。
 鬼柳はそれを全部覚えているのか、そこへキスマークを残して行く。
「あ……ん」
 手は胸の突起を探り出して指でこねはじめる。最初はくすぐったくて痛い感覚だったのが官能に変わる頃には、透耶は甘ったるい喘ぎを発し始めいた。
「ん……ああ……っ!」
「透耶……」
 胸の突起を舐めて転がして、弄ぶようにされてしまうと、透耶の身体が少し浮き上がった。鬼柳は胸の突起を舐めながら、手は透耶の中心に達していた。
「あ……やっ!」
「やじゃないだろ」
 鬼柳はそう言いながら透耶自身を手で掴んでゆっくりと扱き始めた。もう先から先走りが出て滑るのには困らない。
「あっあっ! んあ!」
 透耶の身体が跳ね上がるのを鬼柳は押さえながら、下へと唇を滑らせて行く。
 大きく広げられた震える透耶の足の間にぬかずいた鬼柳は、ねめる音を立てながら透耶自身を舌先で弄んだ。
「いや、いやぁ……ああっ」
 鬼柳は下へと達して、透耶自身をあやしながら、それを躊躇なく口へ含んだ。
「はっ! あああ!」
 一気に下半身に熱が伝わる。滑る舌がスムーズに動き、透耶の呼吸を乱した。
「や、もう……とけちゃう……」
 頭ではもはや何も考えられないくらいに透耶は追い詰められていた。
「イッていいよ」
 鬼柳はそう言って透耶自身を含んで軽く噛んだ。それだけで透耶は一回目達してしまう。出たものは鬼柳が飲み込んでしまった。
「は……あ、はあ……ん」
「気持ち良かった?」
「もう……」
 いちいちそんな感想求めないでよ……。
 そう思ってしまう透耶である。
「まだまだ本番は遠いぜ」
 鬼柳はそう言って、今度は小さな孔に向かって指を伸ばした。
 透耶の腰を高く上げて、舌もそこへ這わしてくる。
「な……なめちゃ……あっ!」
 指がゆっくりと孔を広げて、そこから舌が忍び込んでくる。その感覚に透耶は甘い声を上げた。
 ゆっくりとした動作でされると背中にぞわっとした感覚が一気に走った。
 そこへ指が侵入してくる。
「は……あ……ん」
「やっぱきついか」
 鬼柳は指一本でもまだまだきつい孔を緩める為にゆっくりを指の侵入を繰り返した。
「あ、あ、あ……っ!」
 中で指を曲げられて透耶は感じてしまう。
 指は滑らかに出入りを繰り返し、更に二本三本と増えて行く。滑ったモノが出入りを繰り返すたびに透耶は喘ぎ声を上げてしまう。
「んんっ……もう……や……」
 もっと違う物が欲しい。身体がそう訴えている。透耶は我慢出来なくなって、鬼柳の頭を押さえた。
「ん?」
 指は動かしながらも鬼柳は顔を上げた。
「も……いい、……恭……きて……」
 透耶は涙を浮かべながら必死になってそう訴えた。
「いい子だ」
 透耶から求められて、鬼柳はニコリとした。そうやって仕向けたのかどうかは解らないが、鬼柳は満足していた。
 透耶から欲しいと言われた事が嬉しかった。欲しいのは自分だけじゃない。そう思えるからだ。
 じらすように指の出し入れを続け、そして一気に引き抜く。
「あああ! んん!」
 きゅっと萎んだ孔に、鬼柳は己をピタリと合わせた。
「透耶……力抜いて」
「う、うん……はあ……」
 ぎゅっと萎んだ孔に鬼柳はゆっくりと己を押し込んだ。それは一気には入らなかった。
「透耶……息吐いて」
「んん……できな……」
 入ってくる大きな物に透耶はどう対処していいか解らなかった。それもそのはず。ずっと忘れていた。
「しょうがないな……」
 そう言って、透耶自身をぎゅっと握って扱いてやれば自然と透耶の身体から力が抜けた。
 そこを一気に中へと入り込む鬼柳。
「ああああ……」
 開ききった狭い孔は、そこには持て余すような熱が、もう無理だと思うのにどんどん入ってしまう。
「恭……くるし……」
「透耶、全部入ったぜ」
 はあっと息を吐いて、鬼柳がそう言った。
 透耶はその熱さを受け止めるだけで精一杯だった。
「ん……ん」
 熱い物が固定しているだけならまだ良かったのだが、息を整えた鬼柳がゆっくりと腰を動かした。
「あっ! や、待って……あん」
 動く内部がぎゅっと鬼柳を締め付ける。それでも鬼柳が動いて引いては押してくる感覚に透耶の頭の中は真っ白になってしまう。
 もう何も考えられない……。
「あ……は……んっ! ああっ!」
 口を開けば喘ぎ声しか漏れない。動かさないでと言いたいのに身体がそれを求めていた。
 久しぶりに透耶を味わう鬼柳も余裕がなかった。腰を前後に動かし、透耶を食べつくすように乱暴に透耶の中を犯し続けた。
「も……だめ……あああ!」
「……っ」
 透耶が達したと同時に鬼柳も達した。
 それは早過ぎたようで、鬼柳がはあっと息を吐いて、体勢を変えた。
 今度はうつ伏せにされ、透耶の身体はシーツの波を這う。鬼柳はまだ透耶の中に収まったままである。  
「まだまだ足りない」
 鬼柳がそう呟いて再度動き始めた。透耶はその熱に犯されながら嫌とは言えず、喘ぎ声だけが口からもれる。
 まだ足りない。それは透耶も同じだった。
 透耶は鬼柳をもっともっととねだり、鬼柳はそれに応じ、更にもっと透耶を求めた。 





 翌日は当然のように透耶は昼まで起き出せなくて、目覚めた時には久しぶりに腰に激痛が走った。
「痛い……」
 起きた瞬間にそう呟いた。
 昨日の鬼柳は本当にしつこかった。いくら透耶が了解したとはいえ、飛ばしに飛ばし、最後は透耶は失神してしまった程だったのだ。
 あのエロ魔人、加減というものを知らないのか。
 透耶は忌々し気に呟いて起き出そうとしたが中々上手くいかなかった。
「透耶、起きたか?」
 洗濯物を沢山抱えた鬼柳が部屋に入ってきた。
 透耶はじとーっと鬼柳を睨み付けていた。
「手加減ってものを知らないの」
 透耶がそう言うと。
「何言ってる。透耶はもっとって言った」
「い、言ってないはず……」
 セックスに夢中になっている時の自分の言動までは責任は持てない透耶である。
「意識飛ばしたのは良過ぎたせいだもんな」
「う……」
 これも否定出来ない。
 確かに良かったとは思う。自分も感じて鬼柳も感じて二人が求めあった結果 なのだから仕方ない。
 でもそれでもやはり久しぶりという事もあるのだから加減があってもいいだろうと透耶は思っていた。
「抜かずの四回はまずかった?」
 デリカシーもないのか……この男はっ!
「ちゃんと後始末もしたからな」
 ……っ!
「昨日は透耶も頑張ったよな。俺、無茶苦茶良かったぜ。やっぱ透耶最高」
 鬼柳はそう言って透耶に抱きついた。透耶はそのままのしかかられてしまって無防備になってしまう。そこをつかさず狙う鬼柳。
 顔中にキスの雨を降らせて、抵抗する唇を奪う。優しいキスから深いキスへとそれは変わって行く。
「ん……ふ……」
 そのキスは唇から顎そして鎖骨へと降りて行く。
「や……ん」
「朝一でもっかいやっとく?」
 鬼柳は透耶が着ていたパジャマを脱がしにかかるのだが、そこで透耶がハッとなった。
「もう! しないってば!」
 鎖骨にキスマークを残して更につけようとする鬼柳の頭を叩いた透耶である。
「痛いな……」
 それと同時に鬼柳の手も止まる。
「これ以上やって俺を壊す気?」
 透耶ははあっとベッドに横たわった。これでは鬼柳のチャンスなのだが、鬼柳も悪いと思ったのか、脱がしかけた服を元に戻すのだった。
「悪い」
 鬼柳はそう謝って透耶の上から退いた。
 それでやっと透耶は起きあがれた。
「着替える」
 やっと目が醒めたのでベッドから起き上がったのだが、身体がヨタついていた。するとさっと鬼柳が手を貸し、透耶の着替えも手伝った。
「脱がすのも楽しいけど、着せるのも楽しいな」
「……そう」
 本当に嬉しそうだ……。
 鬼柳はニコニコして透耶の着替えを殆どやってしまった。さすがに首回りを出す服を避けてくれたのが気遣いだろうか?

 着替えが終わると、透耶も何とか痛みに慣れてきた。自分で歩いて下へ降りて行く。
「あ、明日の準備しとかなくちゃ」
 透耶がそう言うと、鬼柳がつかさず言った。
「服の方なら俺がやっとくから、透耶は仕事の方ちゃんとしといた方がいいんじゃないか?」
 鬼柳にそう言われて、透耶は昨日やる予定だった仕事の事を思い出した。
「ああー! しまった!」
 まさか昨日鬼柳が帰ってくるとは思わなかったから仕事を一時中断していた事を忘れていたのだ。
 やることは山程ある。でもその前に取材旅行の分をやらないといけない。
「透耶、ゆっくりな」
 書斎の前で透耶が慌てて書斎へ飛び込もうとするのを鬼柳が止めた。
「まず食事だ!」
 ピシリと言われて透耶は頷くしか無かった。
 食べなければ一日中付きまとわられるのは必至。渋々透耶は鬼柳に引っ張られてダイニングに入った。
 マメな男である鬼柳は、もう朝食を用意していた。
 そういえば、久しぶりに恭の料理を食べるんだ。
 透耶はそう思うとわくわくした。
 昼食にはきっちりとした日本食が出てきた。鬼柳もお昼はまだだったらしく一緒に食べる事になった。
「美味しいね」
 お味噌汁を一口飲んでそう感想を漏らした。
「ん? 司が作ってるだろ?」
「作ってるけど、味違うよ」
「そうか?」
「うん、違う。分量は同じでもやっぱ違うよ」
 透耶はそう言った。
 最近、自分はグルメじゃないかと疑ってしまう程、鬼柳の食事に慣らされていた。だから少しでも味が違うと解ってしまうのだ。
 司が作るものは、それとして美味しいが、やはり懐かしの味となれば鬼柳の食事になってしまうのであった。
「そうか、違うのか」
「美味しく無いわけじゃないからいいんだけどね」
 透耶はそう言って、昼食を完食していた。

 それから、書斎に篭った透耶は急いで取材の準備を始めた。
 持って行くのはパソコンとメモ用紙にデジカメ…は鬼柳に任せるとして、他に何を持っていいのか悩んでしまう。
「えっと、観光地図が必要だね」
 取材用にと貰った地図があった。それをリュックに入れる。
 他は日用品だけでいいだろうと思って荷造りを終わらせる。
「明日熱海かあ」
 取材とはいえ、鬼柳と旅行を一緒に出来る事は嬉しかった。

 

4

 熱海。
 伊豆は温泉半島。
 熱海温泉は伊豆半島、東の玄関口。熱海・古くて新しい街、温泉観光地から癒しの街。熱海では今、時代のニーズにマッチした街づくりが進んでいる。
 かつては、東京の奥座敷と言われた熱海。
 文壇、画壇の有名作家や、政財界の名士に愛された熱海。熱海を創作活動の場として、多くの名作がうまれました。
 今も昔も、熱海に魅せられ、別荘や居宅を構えた著名人は数知れません。 谷崎潤一郎、志賀直哉、川端康成、三島由紀夫、坪内逍遙などの足跡が残っている。
 熱海は由緒ある正統派のリゾート。
 新しい観光スポットも次々と誕生。南欧をイメージしたおしゃれな海岸は新しい熱海の象徴。
 交通の便が良く、風光明媚、温暖な気候、山の幸、海の幸、良質の温泉。そして、洗練されたサービス。格安から高級、ニューフェイスと老舗、個性と伝統
 熱海にはイベントの無い月はないと言われている。
 イベント開催日にあわせていくと、熱海を三倍楽しめる。熱海は、「親切と文化」を標榜し、おもてなしの心あふれる、「花と光の街」を目指している。

「わあ……湯の町熱海だ」
 駅を出ると透耶はそう感想を漏らした。
 取材だとはいえ、透耶は殆ど取材する必要が無かった。ホントは家で観光名所を読んで、解らない所は尋ねればよかっただけなのだが、日頃の頑張りから、取材と名乗った休暇旅行のようなものなのである。
 それでも透耶は本当に取材だけをしようとしている。
 鬼柳はこれは先生へのプレゼントみたいなものなので、という手塚の言葉をきいていたので、知っていた。でもそれでは透耶が受け取ってくれないから、取材旅行となったのである。

「取りあえずどうする?」
 カメラを取り出した鬼柳に透耶は嫌な予感が過る。
 まさか、ここでもやる気なのか!
 そう鬼柳は、透耶の取材旅行と称した記念写真を撮るつもりなのだ。
 もう何も突っ込めない……。
 呆れ果ててしまう透耶である。
 で、何処へ行くかと言われてまず開いたのは、湯〜遊〜バスだった。
 1930年代の英国車を模した、レトロなボンネットバスが2台、故池田満寿夫さんデザインのバス、計3台が1日十二便運行している。
地元のボランティアのガイドさんが添乗して、見所や歴史、由来、熱海在住の著名人情報などを説明してくれるのである。
 そうした観光をしている人が事件に会うというストーリーが出来ているのか、透耶は真っ先にそれに乗る事にした。
 鬼柳は透耶のカメラマンに変身して、透耶が撮って欲しいというところを確実に狙って撮っていた。
 鬼柳の写真があって、透耶のメモがあればこれだけで一本小説が書けてしまうという不思議な関係だ。
 透耶は真剣に観光案内を聞いてはメモをし、鬼柳に頼んで写真を撮ってもらう。それを繰り返して、なんとか、場面 が浮かんだようだった。
「透耶、仕事もいいけど観光もしようぜ」
 鬼柳にそう言われて、透耶はとんでもないと断った。
「駄目、仕事で来てるんだから、ちゃんと仕事してから」
「そうか?」
 少し不満なのか、鬼柳はそう呟いた。
 いっその事、これは休暇旅行なんだとぶちまけてしまいそうになる。
 それでも真剣な透耶を見ていると、それを口にしたら透耶ががっかりするのが目に見えて解るので言えないのである。
 透耶は真剣に取材をした。
 丸一日かけて、回れる所は回って、旅館へと戻ったのだった。
 

 部屋に入るなに、鬼柳は透耶にキスしようとしたのだが。
「ちょっと待って……」
 と口に手を当てられて止められてしまったのである。
「何で?」
 不満そうにしている鬼柳。
 えっと……。
 言うと怒られるかも知れない……。
 透耶はそう思いながらも、正直に話した。
「あのね……ちょっと仕事したい」
 透耶が正直に話すと、鬼柳ははあっと脱力してしまった。
 ここへは透耶は仕事にきている。
 だから、仕事を中断、もしくは放り出しては遊べない。鬼柳に接すると、流されてしまうから困るのである。
「……解った……」
 しょぼんとしてしまった鬼柳に、透耶は軽いキスだけしてやった。
 それではもちろん物足りないのだから、鬼柳の機嫌は少ししか浮上しなかった。
 食事がくるまでは仕事をするという透耶を泣く泣く手放して座ぶとんと半分に折って枕がわりにするとそのままふて寝してしまったのであった。
 確かにこの期間のことを考えると、直ぐさまセックスといきたいところなのだろうが、一応旅館であるし、食事が済むまではそうしたことはしない方が無難である。
 扉を開けたらセックスしてましたではどうにも説明が出来ないからだ
 ふて寝してしまった鬼柳を置いて、透耶は早く仕事を済ませるように努力した。
 これさえ出来てしまえば、後は遊んでも気にならない程の情報は手に入れてある。
 それをまとめて、後は書く為の準備をしてしまえばいいだけの事。それはなんとか出来そうだった。
 必死に透耶が仕事をしていると、旅館の方からそろそろ夕食ですが、お部屋にお運びしましょうか?と声がかかってきた。
 でも仕事に熱中していた透耶には聴こえない声だった。
 寝ていた鬼柳の方がすぐに起き出して対応してくれたくらいだった。
「透耶……もう飯だって」
 必死に何かを書いている透耶に声をかけると、透耶はキョトンとした顔をして鬼柳を見上げた。
「え? もう?」
 二時間程熱中していたらしい。
 そこで透耶は仕事を中断させた。
 目の前には懐石料理が運ばれてくる。
 家ではみた事もないモノや、全部食べきれるのかという程の量の夕食である。
「全部食べれないよ、これ」
 透耶はそう呟いてしまった。
「透耶ちょっと待て」
 さっそく食べようと準備していた透耶を鬼柳が止めた。
「どうしたの?」
「写真撮る」
 鬼柳はそういうと、側に置いておいたカメラを取り出して、懐石料理の写 真を撮り始めたのである。
 それも真剣だから透耶は笑ってしまう。
 そっか、こういうの初めてなんだ……。
 国内旅行した時は京都しかないが、そこではホテルのルームサービスとかで、別 に珍しいものではなかったようだ。

 でも今回は違う。
 見事な日本料理である。そうなるとカメラマンの血が騒ぐのだろうかと透耶は思ってしまった。
 写真が終わったらすぐに食事になった。
 食事はどれも美味しくて、食べられないと思った量は簡単に片付いていってしまう。
「うーん、美味しい」
「これはどういうのだろう」
 美味しい料理に舌鼓を打つ透耶の前で、鬼柳はこれを家で作れないだろうかと研究中なのである。
 それを全て食べ終わったところで、透耶があっと声を出し、また作成ノートに向かって何かを書き始めた。
 どうやら食事の席で何かを思い付いたらしい。
 それに鬼柳ははあっと溜息を吐いた。
 まだ透耶に触れないのである。
 でもそろそろ我慢の限界である。
 ここの部屋には露天風呂が各部屋についている場所であって、わざわざ部屋を出なくてもいいようになっていた。
「透耶、そろそろ露天風呂」
「あ、うーん」
 生返事の透耶にとうとう痺れを切らせた鬼柳は作成ノートを取り上げて、透耶を抱き上げた。
「な、何?」
「露天風呂」
「え?」
「ここ各部屋についてるんだってさ。温泉街まできて、露天入らないでもいいやと思ってるのは透耶だけだと思う」
 そんな指摘をされてしまって、透耶は頭を掻いてしまった。
 今はそれどころではないというのが心情だが、もうこれ以上鬼柳を待たせるのもダメだと思ったのである。
 剥ぎ取るように服を脱がされて露天風呂に入れられてしまう透耶。
 鬼柳もさっさと服を脱いで露天に入ってくる。
 まあ、落ち着け……と思いながら、透耶はスポンジを手に取って身体を洗い出した。
 洗っている間は悪戯もなく済んだのだが、いざ露天に入るとなると、鬼柳は透耶を抱き寄せてくるのである。
 そして悪戯が始まる。
「だ、ダメ……」
 咄嗟に声を出して透耶をその行為をやめさせようとした。
「なんで?」
「こ、声が……」
 響いて聴こえてしまうからと言いたかったのにそれ以上言わせて貰えなかった。
「ちょっとだけ」
 そう言われて、透耶の中心を握ってくる。
「だめ……あっ!」
「だってもう起ってる……」
「絶対ダメだから……後で……」
 扱いてくる手を必死で止めながら透耶はなんとかその場を切り抜けた。
 でも後での言葉は、その夜透耶を眠らせてくれないセックスが行われたのは言うまでもない。
「透耶、ゆかた色っぽいな」
 鬼柳はそう言いながら、ゆかたの紐をほどいた。そして、透耶の身体をゆっくりと撫でる。
「ん……あ」
 昨日はさすがにしなかったから、鬼柳が求めてくるのは仕方ないと透耶は思った。そうした自分も鬼柳を求めているのだから。
 深いキスをして、舌を擦りあわせて、無意識に逃げようとする透耶の舌を絡め取ってその先を強く吸い上げる。
「ふ……あ」
「十分待ったからな」
 鬼柳はそう呟いて、透耶の顔中にキスを振らせた。
 透耶が身をよじって逃れようとすると、その腰を押さえ付けて、透耶自身に触れた。
 片方は胸の突起。執拗に責められて透耶は甘い声を上げた。
 先走りがもう出てしまっていた。それで滑りがよくなったのか、卑猥な音が室内に響く。
 舐めなくて十分になっているから、鬼柳はそのまま先に透耶をイカせた。
「んああ!」
 ドクンと下腹部が脈を打ち身体が硬直する。
 鬼柳はそれを舐め取って、孔の方に指を進めた。何度も何度も指を出し入れされて、透耶は頭の中が真っ白になった。
「あ……んんっ」
「我慢出来ないから、透耶つらかったら言ってくれ」
 鬼柳はそういうと、指を引き抜いた。
 そして己をあてがう。
 指の代わりに入ってきた熱い物を透耶は必至で受け取った。
 孔は一昨日からすれば、かなり柔らかい方で、すんなりと鬼柳を受け入れたのである。
「あ……んあ」
「動くぞ」
 鬼柳が合図して、腰を動かした。
「ああっ! んん!」
「いいか?」
「そ、そんなこと……あ!」
 もうそんな事考えられない。
 身体が鬼柳を求める。透耶は己の求めるままに鬼柳を欲しがった。
 鬼柳も透耶に煽られて、腰の動きを速めた。 部屋の中には透耶の喘ぎ声と、卑猥なぴしゃぴしゃとした音しか聴こえない。
 でも透耶にはそれさえ解らなかった。
 ただ求めるがままに鬼柳を求めた。
「恭……キョウ……」
 透耶が腕を伸ばして鬼柳を呼ぶ。鬼柳は少し体勢を変えて、透耶の唇にキスをした。
 透耶も鬼柳を抱き寄せてキスに応じた。
「ん……ふ……ああ……も……」
「もう? 何?」
 余裕があるのか鬼柳はそんな事を言い出した。
 透耶は恥ずかしそうに顔を真っ赤にすると口にした。
「いかせて……」
 掠れた声がそう呟いた。
「じゃ、いかせてあげよう」
 そう言われて、性急に鬼柳が腰の動きを速めた。透耶はそれに付いて行くだけの気力が残っていなかった。
 達したと同時に透耶は意識を失ったのであった。



「ん……」
 透耶は薄らと明るさに目を覚ました。
 ゆっくりと起き上がると、鬼柳は隣にはいなかった。 どこへいったのだろうとおもっていたら、鬼柳は隣の部屋で窓を開けてタバコを吹かせていた。
 透耶が自分の服を見ると、綺麗に浴衣が着せられていた。
 恭が?まさか?
 そう思いながら隣の部屋に入る。
 すぐに鬼柳が気が付いてにこりと笑って言った。
「もう少し寝てたら起こそうと思った」
 そう言われて近付くと、外は霧がかかったような靄の中。
 それが神秘的で綺麗だったのである。
「うわー綺麗……」
「うん。透耶に見せようと思ったんだ。起きなかったら写真にしようと思って」
 そう言った鬼柳の片手にはカメラがあった。でもそれを使う必要はなかった。
 カメラを床に起き、鬼柳は透耶を抱き締めた。
「こういう落ち着きもいいな」
 さんざんセックスしておいた人間が吐くセリフではない。
「うん」
 透耶は鬼柳にもたれ掛かって、朝が明けるのを見つめていた。
 二泊する予定だったが、昨日の段階でもう仕事は終わったも同然だった。
 これからは鬼柳との旅行を楽しむ事にした。





 初島・・・熱海港から約二五分の船旅。初島は静岡県唯一の有人離島です。熱海港、伊東港から連絡船が出ている。
世帯数41戸は江戸時代から変わらず、島民の方は約150人、初島クラブの従業員がほぼ同数、寮にお住まいだそうだ。
周囲約4キロ、1周約2時間。東京からも日帰り圏内。初島クラブや民宿があり、宿泊もOK。新鮮な魚介類と美しい海が自慢。
四季折々、いろいろ楽しめる。初島はもう一つの熱海。 
 温泉に使った後、透耶と鬼柳は初島まで渡って散歩をした。
 寒くなってはいたが、興味深い事も多かった。そこでは鬼柳は気侭に写真を撮り続けていた。もちろん被写 体は透耶。
 透耶が見るものも全て写真に納めておきたいのである。

「楽しい?」
 いつも聞く事だが今回も聞かずにはいられない。
「うん、昨日よりもっと楽しい。今日は透耶独占だしな」
 などと阿呆な事を言う……。

 それから二人は熱海に戻って、温泉を満喫した。
 鬼柳は温泉が始めてで、透耶もそうだった。だが、念願の露天風呂は、旅館の備え付けのものしか使えなかった。
 それもそのはず。
 鬼柳がアレ程印を付けた身体である。
 一般の観光人に紛れて入るには、少々刺激が強過ぎたのである。
「俺、他のお風呂入れない……」
 その盲点に気が付いた透耶は心底がっかりしてしまった。
 でももし鬼柳が印をつけてなくても、鬼柳が共同の露天風呂に透耶をやる訳はない。
 結局、熱海まできた目的は温泉ではなかったので透耶はそれでよしとした。
 元々は仕事なのだと言い聞かせたのだ。

 それから、東京への土産に温泉饅頭などを買い揃えて、2泊3日の熱海旅行は終わった。
 東京に戻った二人はいつも通りの生活を送って、それから一週間。
 鬼柳が仕事に戻る日。
 透耶は笑って鬼柳を見送った。
 いってらっしゃいのキスと共に。
 この時期に鬼柳が戻ってくるのは難しいはずだったのだが、こんな時だからこそ、透耶はいい思い出が出来たと思えた。
 次の休みはクリスマス直前だろうということ、透耶はそれを愉しみに鬼柳の帰りを大人しく家で待ってるのだった。