switch

switch外伝6 We can go 17

 ボストン。
 アメリカ合衆国北東部にある都市で、マサチューセッツ州の州都、サフォーク郡の郡庁所在地とし、同州最大の都市である。また、アメリカで最も歴史の古い街の一つである。ニューイングランドの中でも最大の都市で、同地域の経済的・文化的中心地と考えられており、「ニューイングランドの首都」と言われることもある。

 鬼柳恭一がニューヨークから逃げ出すのに選んだのは、ここだった。
 急な発想だったので、何故ここなのかと透耶が首を傾げると、鬼柳は申し訳なさそうに言った。

「ここに住んでる知り合いに、どうしても来いと言われてたのを忘れてた」
 鬼柳に知り合いがいることは珍しいことだが、エドワードの結婚式の時に来ていた人間で、結婚式後の披露宴には参加出来ずにいた人なのだという。

 エドワードとの繋がりがある人で、鬼柳がこうまでして会いに来てしまうような人物の話は、今まで聞いたことはない。
 透耶がそう言ってみると、鬼柳は当然だろうと言った。

「俺はあそこで会うまで、そいつのことは一切思い出しもしなかったからな」
 と言うのである。

 相手は鬼柳が通っていた大学、H大学を卒業した後、アメリカ国立衛生研究所の国立癌研究所に勤めている医学関係の人なのだという。
 またなんで医学部なんだと不思議がっていると、エドワードの知り合いだからだと言われた。
 そういえば、ヘンリーも医学関係の人間だ。エドワードにはそうした学部を越えた付き合いが結構あったらしい。

「ヘンリーさんも医学部の人だったんでしょ? なんで恭は会ったことがなかったの?」

「そりゃヘンリーの方が俺に興味がなかったんだろう。エドが俺と付き合いがあるのは知ってたらしいが、見たことはなかったようだし、俺も一々エドの知り合いの顔とか名前は覚えてないしな」
「だったらなんでその人のことは覚えてるの?」

「大学入ってすぐの一年次は大抵大学周辺にある寮に入ることになってるんだが……」
「……寮?」

「ああ、面倒な習慣だけどな。二年次からはハウス制もあるが、親父が無理やって俺は一軒家に隔離されたんで。そんで寮の時の同室のヤツがそいつだったんだ。確か、事故したかなんかで、一年次のほとんど終わりに入ってきたから、その時は適当に挨拶くらいで、ほとんど印象無かったな。俺も寝る以外は寮には戻らなかったし、日中は用意されてた一軒家の方に出入りしてたしな」

「へえ……って、エドワードさんはなんでヘンリーさんと知り合いなの? 経済学と医学は建物も別のようだし、交流って言ってもなさそうだし」

「たぶん、ハウスが一緒だったんだろう。学部違ったらそれくらいしか繋がりはないしな。で、エドとそいつが知り合いなのもハウスに入ってからだったようだし」
「なるほど」
 やっと繋がりが分かった。H大の仕来りは全然知らなかったので、日本でも学部が違えば一生出会わないままが多い。アメリカの大学だったら更に規模が違うので出会うのも余程のことがなければ無理そうだ。その医学と経済学でどうやって知り合うのか謎だったのが、ここにきて寮やハウス制で理解出来た。

「で、その時のほとんど覚えてなかった人が会いたいって何なの?」
「さあ? 前と変わらず妙なこと言ってたからなあ」
 鬼柳はさほど会いたいわけではないようだ。
 でも、向こうは久々なので会いに来いというような人。
 一体、何者なのだろうか。経歴だけでは分からないので透耶は気になってしまった。
 第一印象は、妙どころか変だった。

 ユージン・クリスティは、栗毛の髪を短く刈り込んで、顔はちょっと神経質っぽく見える外見をしている。身長は鬼柳と同じくらいで190近く、立ち姿だけで一見怖い人に見えるのだが、もの凄い早口の英語な上に、長年ボストンに住んでいるからなのか、ボストン・スラングが混ざっていて、席についてからユージンはずっとしゃべり倒していたが透耶にはよく聞き取れなかった。
 聞き取れたところによると。

「なんだ結構元気じゃないか、なんで病気になってくれない。あれほど俺が研究材料として君をどうにかしたかったのに、一向に病気になってくれないどころか、伝染病にさえかからないとは、一体どんな構造をしているんだ。とても気になるじゃないか」
 という内容だ。

 なんだか、懐かしさで一杯ではないようだ。
 鬼柳は興味なさそうに話を受け流していたが、その対象が透耶に向いた。

「ああ、君のように儚そうな、病室が似合う子が、難病にかかって俺の技術を待つ相手だったとしたら、それはそれでとてもいい構図になりそうだ」

 なにそれ……?

 目の前でずっと妙な妄想を繰り返している相手に、透耶は眉を顰めて鬼柳に助けを求めた。

「な、妙だろこいつ。事故った時に頭でも打ってまだ治ってないんだと疑っても誰もおかしいと思わない」
 鬼柳は妄想を全部受け流して、平気な顔でそう言い放った。
 どうやら鬼柳の中でのユージン・クリスティという人間はまったく昔と変わっていないらしい。

「い、いや……おかしいというか、妄想が酷いというか……良く言えば研究熱心というか」

「顔見れば、人に実験体になってくれっていうやつが?」
 鬼柳がそう透耶に言い返した時、ユージンが言っていたのは、鬼柳が中東へよく行くのでそこで何か病気を貰ってきてないかという妄想だ。鬼柳が未知の病魔に侵されて、ユージンに助けを求め、彼がその病の病原菌を見つけに中東へ行き、そこで鬼柳の病気を治す病原菌を見つけ、これで助かると思ったら鬼柳はもう亡くなっていて、なぜだか間に合わず、彼は悔しさいっぱいで鬼柳の葬式でこの病原菌の特効薬を作ることを誓うところまでの話だった。

「……まあ、ちょっと……おかしいかな?」
 透耶は作家で、普段妄想というか、作品を書く上でそういう話を作ったりするが、あくまでフィクションだ。だが、ユージンの話は妄想から現実に返ってきても続いている。

「恭一が病魔に侵されて苦しんで死んだのに、治療薬を作れなかった俺を恨んで、今目の前に現れて居るんだな。ちゃんと成仏させてやるから、天国で待ってろよ!」
 そう言って鬼柳の前で十字を切って祈っている。

「透耶……これを見て、まだちょっとか?」
「……うん、まあ、かなりおかしいかな?」

 透耶はとりあえず、そう返して、ユージンの妄想が収まるまで待ってみた。鬼柳は慣れたもので、平然と話を聞き流し、一切ユージンの妄想を相手にしない。
 ユージンの妄想は一時間くらい続いて、やっと特効薬が作られて、世界人類を救うところまで大きくなってフィナーレを迎えた。
 妄想だけにしては、ハリウッドの超大作のような長さだ。

「はあ……今日のはなかなかの大作だった……ふう。おねーさん、コーヒーおかわり!」
 一時間も機関銃のように喋り続ければ喉も渇くだろう。
 それにしても、彼はいつもこういう妄想をしていて、ちゃんと研究出来ているのだろうか?

「大作っつーか、駄作過ぎてびっくり。俺の幽霊が出てくる辺りで嘘くささ満載になったぞ。せめて墓の前で祈るくらいにしとけ」
 鬼柳がユージンにそう突っ込んでいる。

「あーやっぱり? うーん、そこは言ってみてどうかと思ってたところだ。だけど病原菌が中東にあるってのは斬新っぽくない?」

「まあ、普通はアフリカかアマゾンの設定が多いしな。だが、中東の国の名前を具体的にしないと脚本すら通らないな。だがイラクはやめろよ、そこは病原菌より化学兵器にすり替えられるだろう」

「ふむ、やはりそっち系になるか……ハリウッドはすぐに中東に化学兵器があることにしたがるからありきたりなんだよね。いっそのこと中国の奥地の村ってのはどうだろう?」

「中国政府がもみ消した、地図から消えた村よりの病原菌か? この間、アメリカのドラマでそんな設定やってたぞ。なあ、透耶?」
 鬼柳とユージンが何の話をしているのか分からず透耶はポカンとしていたが、話を振られてふっと思い出す。

「うん、やってた。病原菌を調べて原因を突き止める研究所の話だよね? 中国の軍が噂通りのいい加減さで研究所員がどんどん病気にかかっていく話だった」

「あ、そんなドラマやってんのか……あちゃー、じゃあ中国も駄目か。エジプトやメキシコは?」

「ファラオの呪いが実は古代の病原菌が原因でしたなんて定番中の定番だろう。メキシコはマヤとかアステカ文明の?」
「あの……それ、逆だし」
 鬼柳とユージンが話を進めていくが、透耶も一応話に参加してしまっていた。

「逆というと?」

「うん、マヤ文明が滅んだのは、渡ってきたスペイン人がもたらした伝染病が原因って説もあるんだ。9割のマヤ人が死んだって言われてるよ」

「へえ……そうだったんだ……じゃあ使えないか。じゃあアステカはなんで滅んだんだっけ? マヤの方が伝染病でやられてるなら、最初に攻撃を受けたアステカも同じようになるんじゃ?」

「マヤが攻撃を受けたのはスペイン軍がアステカを制圧したあとだから。アステカが滅んだのはアステカに虐げられて従うしかなかった人たちをスペイン人が説得して、反アステカ軍勢を作り上げてしまったから、アステカは足下から崩壊したって。スペインも一度はアステカに撃退されてたんだけど、再びやってきてとうとうアステカを陥落させて首都を新しくてスペイン人が植民地化した後、やっぱりマヤと同じく、伝染病に免疫のなかった現地の人たちはおよそ一千万人からたった百万人まで人口が減ってしまったらしいよ」

「ということは、スペインにあった伝染病の類はもともとメキシコにはなかったってことか?」

「うん。なかったみたいだね。スペイン人が現地で病気になったという記録は見てないから、どっちかというと、先進国だったヨーロッパの方が恐ろしい病気が萬永していたかも。その時代だったら、きっとスペインからもたらされた病原菌が主役だったんじゃないかな?」
 透耶が訥々とそう語り終えると、ユージンは目を光らせて鬼柳に言った。

「恭一、これ俺にくれよ」
「断る。誰がお前なんかにやるか」
 ユージンの申し出に鬼柳は速攻で返答して返した。

「なんなら恭一込みでもいい」
「余計にお断りだ。大体お前の妄想に付き合ってたら、一日がお前の妄想話の否定で終わるじゃねーか。冗談じゃねぇ」
 鬼柳が本当に嫌そうに言うとユージンは苦笑して諦めた。

「分かった……でも惜しいな。俺の妄想に付き合ってくれるの、恭一かエドくらいなんだもん。せっかく仲間が増えたと思ったのにな」
「勝手に仲間にするな」
 鬼柳とユージンが言い合いしているのを見て、透耶はクスリと笑った。

 鬼柳がこういう話に付き合うような性格ではないのはもちろんだが、エドワードだってそういう性格ではない。だが、ユージンは今でもエドワードの友人で結婚式に呼ばれるような間柄だ。
 なんでだろうと思っていたが、段々分かってきた。

 この人の話はきっといつもこんな形で荒唐無稽で聞いている人は問答無用で否定したくなってしまうのだ。それは下らないとユージンが変だと周りが思って相手にしなくなるのだが、鬼柳とエドワードにとってはそれほど変だとは思ってないし、彼がそうなるのは仕方ないと思っているだけなのだ。
 個性が強すぎる鬼柳とエドワードからしたら、ユージンはそれほど問題があるような人物には見えてない。それどころか、妄想以外の彼のことを認めている。
 ユージン・クリスティが鬼柳恭一と出会ったのは、鬼柳の言うとおり同じ寮の同室だったことからだ。ユージンは一年遅れて大学へ通うことになってしまい、やっと大学へ行けることになって与えられた寮に荷物を運んだ時、一人部屋だった同室の学生はまだ16歳の少年だった。

 だが背も高かったし、体つきも大きくて、年齢を確認するまで彼が16歳であることは知らなかった。名前と学部だけ。鬼柳はたった一ヶ月同室だったユージンには興味を示さず、やがて話をする間もなく、ハウス制になった鬼柳は寮を出ていってしまった。

 それから一年経って、ユージンもハウス制になったので、新しい寮に移った。そこで学年が一年上だというのに、まだ17歳だったエドワードと出会った。
たまたま妄想して一人で盛上がっていたところに、一言入れたのがエドワードだった。

「その話には欠陥があるようだ。第一にヒロインの設定があやふやだ。お金がなくて苦労して学校にも行けずに学がないので定職にはついておらず、短期間のバイトを転々としていると言っていたが、後半で事件に巻き込まれた時、彼女には主人公を助けられるほどの貯金はあったのだろうか? 大陸横断の飛行機代を立て替え? その日暮らしであったという最初の設定からかなり無理がある」
 そう言われたのだ。
 確かにそういう設定だったので矛盾が出来てしまった。ユージンはこの時エドワードに質問をしていた。

「じゃ、どこかでお金を手に入れる展開を入れないといけないね」
「そういうことなら、逃走資金はその組織の秘密を知った時に、偶然持ち逃げしたバッグに大金が入っていたというのはどうだろうか? それなら主人公やヒロインが追われる理由が現実味を帯びてくる」

「なるほど! それはいい案だね。あ、俺はユージン・クリスティ」
「私はエドワード・ランカスターだ。みんなはエドと呼ぶのでそれでいい」
 エドワードとの話は最初がそれだった。

 その後もたまにエドワードに話しかけてみたが、エドワードは周りが変な顔をしていたりしても、ユージンの妄想に普通に訂正を入れて、普通に会話をしてくれていた。

「エド。あのユージンの話はあまりまともに聞かない方がいいと思うよ。あいつ妄想激しいみたいだから」
そうエドワードに忠告してきたのは、ユージンと同室の相手だった。

 確かに彼には妄想に付き合うような趣味はないようだし、最近は無視されている。邪魔なんだろうなとユージンが思っていると、エドワードは意外なことを言っていた。

「確かに妄想は激しいようだが、別段、困っているわけでもない。あのくらいの妄想なら、お前達がチアガール達のうわさ話をして妄想している程度と似ている」
「おい、それ本気で言ってるのか? うわさ話と妄想を一緒にするなよ」

「私にとってはどっちも同じ程度なんだ。いや、違うな。ユージンの妄想の方がまだ夢があっていいかもしれない」
 エドワードは本気でそう思っていたのだという。彼にとっては興味のない女の噂話は聞くに堪えないもので、聞いていたいわけでもない。ユージンのハリウッド映画並の妄想と比べたら、まだユージンの話を聞いている方が頭を使って話している気になれるだけなのだ。

 同室の人間はそれ以降、ユージンの話を聞いてはくれなかったし、返事もしてくれなかったが、エドワードは変わらずユージンの相手をたまにしてくれていた。

 それにエドワードと一緒にいる人間は、ユージンの妄想に初めは驚いていたようだが、ユージンのツッコミどころ満載の妄想は、結構面白いものだと認識していくようになっていた。
 それぞれが蘊蓄を持っていたし、大体人気のハリウッド映画は観ていたので、ユージンの話が上手に回るようになると、今回はなかなかよかったと言うようにもなっていた。

 それから一年経って、ユージンは街中のカフェでエドワードがいたので挨拶をした時だった。
 エドワードの知り合いには大抵会っては居たが、その時一緒にいた青年は一度として見たことがなかった人物だった。

「ああ、ユージン。こっちは経済学で同じ学年の鬼柳恭一だ」
 ふと気になってユージンが鬼柳に見とれていると、エドワードが紹介してくれた。
「えっと、日本人?」

「いや、日系なだけだ。父親が二世で、母親が三世だか色々混じってて、俺が三世だというにはあまりに複雑過ぎるな」
 鬼柳がそう言ったので、ユージンは思わずその場で日本人が出てくる話を思いついてしまった。

「やっぱり侍がアメリカに来て仰天する話がいいな。渡航した侍がお供の忍者と共に、ニューヨークにくるんだ。そこで未知の世界と遭遇して、仰天しているんだけど、その彼を追ってジャパニーズヤクザが彼を殺しにくるんだ。その逃げる途中で巻き込まれたヒロインが、侍を助けてアメリカ中を逃げ回りながらジャパニーズヤクザをどんどんやっつけていくんだ。途中で立ち寄る先は何故か先回りされていて襲撃されたり、何故侍が狙われているのか段々分かってくる。侍の上司の殿が侍には生きていては困るような彼の家の秘密を握りつぶそうとしているんだ。最後の方で侍の必需品の勾玉がボスに盗まれて、飛行機で逃げられるところを、バズーカーで撃って打ち落とし、一緒に乗っていた殿もやっつけてしまうんだ! 最後は日本には帰らないと言ってヒロインとアメリカで幸せに暮らすんだ。いいなあー」
 そこまで適当に妄想して話してしまった後で、ユージンはしまったと焦った。
 鬼柳がユージンをじっと睨んでいたからだ。

「す、すみません……」
 しゅんとなったユージンにエドワードがフォローを入れた。

「ユージンはこういう妄想が好きなんだ。だからまあ気にするな」
 そう言ったのと同時に鬼柳が話しかけてきた。

「一つ聞く。お前は日本に侍がいると本気で信じているのか?」
「えっと、よく日本のドラマに出てくるのでいるんじゃ?」
 ユージンがそう返すと、鬼柳はふうっと息を吐いて言った。

「日本に侍がいたのは、1868年までで、侍こと武士が活躍した時代が終わった時に、侍と呼べる身分のものは存在しない。つまり武士道というものは存在しているが、侍という身分を持つものは、約150前に滅んでいることになる。もちろん、この時大政奉還と言って、徳川家から天皇に位が移って、王政復古をしているので、殿と呼ばれる身分も武士なので当然時代が終わってしまっていて、存在しないことになっている。その侍と殿はタイムスリップしてきたのか?」

「え!? それじゃ侍はどこへ行っちゃったんですか?」

「いわゆる、廃業だ。リストラされて民間人になったり、商売人になったり、色々あったらしい」
「へえ……じゃあ、タイムスリップしてきたとして」

「そうすると、ジャパニーズヤクザと殿の繋がりに矛盾が出てくる。そいつらはどうやって繋がったんだ? 侍にとってアメリカが未知の地だとしても、殿にとっても日本はそれこそ日本じゃないだろう? そもそも日本の設定はどうなってる?」
「えっと、江戸の街並みがあって……」

「そこから間違いだ。日本はアメリカのように発展途上して、街はビルの山だったりするぞ。お前、日本に行ったら仰天するだろうな。整備整頓されて、バスや電車は時間通りに到着して、1分の狂いもなく動いていていることすらも」

「え! バスや電車が1分も遅れないんですか!?」
「遅れないそうだ」

「ふええ……日本ってそんなきっちりした国なんですか……それにその状態じゃタイムスリップは無理ですね」

「タイムスリップどころか、侍が飛行機に乗って渡航する設定が破綻する。侍の時代には車だってないんだぞ。侍が飛行機でアメリカに渡れることすら知らないのにどうやって乗ろうと思う。そもそもアメリカの存在すら知らない可能性がある」

「ええー侍はアメリカ知らないんですか?」
  地図ではアメリカ大陸はしっていただろうが、交流はなかったからどんな国なのかは知らなかったかもしれない。殿に仕えているだけの侍なら知らない方が普通かもしれない。

「大政奉還する前の日本は鎖国と言って、決まったところで決まった国としか交流してなかった。異国の存在は主にヨーロッパだったそうだ。その鎖国を解くように船で訪ねて行ったのが、アメリカの船だ。そのタイムスリップしてきた侍がその時期の侍ならまだしもだがな」

「じゃあ、その時期にアメリカの存在を知った侍が、タイムスリップして、船ではなく空を飛ぶものでアメリカに簡単に渡れると知ってアメリカに……」

「その飛行機のチケットはどうするんだ? ダイハードのジョン・マクレーン並の侍なのか? まあそうして飛び乗ったとしても飛行機の車輪にくっついてとかいうなよ。その侍、アメリカに到着した時は凍死してるぞ」
「ええー凍死するんですか、その方法じゃあ!」  よくハリウッド映画である車輪から内部に潜入していくかっこいい方法なのだろうが、いかんせん素人がそれをせいこうさせたとしても、それはハリウッド映画のご都合主義であることは誰だってわかるだろう。と鬼柳は言いたかったのだが、ユージンには通用しなかった。

「……お前、一度飛行機が何処飛んでるのか調べて置けよ」
 さすがに呆れたらしい鬼柳がそう言ったところで、エドワードが我慢仕切れずに吹き出していた。

 凍死する前に空気が薄いやら気圧がどうとか引っかかるところがない時点で鬼柳が呆れているのにユージンが気付かないのでおかしくなってしまったのだ。

「気温は、高度 10,000メートルを超えると約-50度以下になり、気圧は 0.26気圧となり海面上の約四分の一の気圧しかない。飛行機内部は外気圧との差を少なくして客室内の圧力を約 0.75気圧(2,400メートル)くらいにしてあるんだ」
 エドワードが助け船を出してみたが、ユージンはピンとこないようだった。

「えーと」

「プロのエベレスト登山以上に困難だと思え」
 鬼柳がそう言い切るとやっと、あの登山の様子は浮かんだようで納得してくれた。

「あーなるほど。分かりました。さすがに侍が酸素ボンベ背負ったり、防寒具着込んだりしたら、怪しい限りですね」

「そんなもの準備するくらいなら、空港で搭乗する人間をチェックして、人相が似ている人間を襲ってチケット奪ってパスポートも奪った作戦の方が楽だな」
「それじゃ、侍が悪者になっちゃうじゃないですか」

「何言ってるんだ。お前の言うヒーローモノの勝手に車を借りるよと言って奪ったり、最終的に破壊するような展開と一緒だろうが」
 そう言われてユージンは納得した。

「そもそもだ、侍がアメリカに渡ろうとする理由がないのが最大の問題だな」
 鬼柳がそう結論付けたことでこの妄想は最初から破綻していたのだと言われてユージンは更に納得する羽目になった。

 この時、鬼柳はただ単に否定して回っただけだが、それがユージンにとっては妄想をはなっから笑うのではなく、矛盾を指摘してくれる方が話している気になってきて嬉しくなってしまった。

 ユージンはエドワードにはエドワードが卒業するまで、そうした話に付き合って貰っていたし、そのエドワードが鬼柳と一緒に居る時は、鬼柳にも話に付き合って貰った。
 鬼柳はユージンが妄想している間は口を挟まず、それが終わったところで矛盾をついてくるから、更に話をするのが面白かったし、鬼柳の知識にも脱帽していた。
 けれど鬼柳がユージンのことを気に入っていないことはユージンにも分かっていた。
 だが、それでもそれほど嫌な顔をしないで付き合ってくれたことはユージンにはただ単純に嬉しかったことだった。

 大学を鬼柳やエドワードが先に卒業してしまうと、鬼柳との付き合いはぱったりと絶えた。彼が何処で何をしているのかはエドワードからは語られることはなかったし、仕事で忙しいエドワードやユージンもそれほど会っていたわけではなかった。ただ時々ボストンを訪ねてくるエドワードが知り合いを集めて食事をする時には、あのハウスで知り合った仲間が集まっていて、そこにユージンは必ず呼ばれるようになっていた。けれど鬼柳が現れることは一度としてなかった。
 もう会うこともないのかもしれない、そう思っていた。

 だからエドワードの結婚式で鬼柳を見つけた時は嬉しくて仕方なかった。

 あれから10年経っている。鬼柳の姿はあの時よりも逞しくなっていて、更に無茶な女性関係を清算して、ただ一人の人を愛するようになったと聞いて、居ても立ってもいられなかった。

 ユージンに鬼柳が興味がなかったのは分かっていたし、彼の私生活は他人を寄せ付けないのもあって、彼のことはほとんど何も知らなかったのだと分かっていた。

 でも、何かが違っていた。
 鬼柳が今ここにいることが、それを証明している。昔と変わらないのに、でも昔と違う部分を持って、彼はやってきてくれた。 そのことが嬉しくて仕方がなかった。