switch

switch外伝9 play havoc2

 晴れやかな空の元、大本圭太(おおもと けいた)は、今日の取材の内容に手応えを覚えていた。うだつの上がらない芸能の記事を書いて小銭を稼いできたが、今日のような事件の話は滅多にあるものではない。どうしてこんな若手作家の過去が暴かれずにいるのか大本には訳がわからなかった。
 若手大物作家は、榎木津透耶(えのきづ とおや)という。今流行のライトノベルから少しだけ大人向けになる推理小説の若手ナンバーワンとされる作家。年齢はまだ二十五歳。しかし発売されている作品は年に五〜六冊というペースで発表を続けていたため、軽く三十冊は超えていた。どれも人気作で、実写ドラマ化もされ好評だ。その作品も次で最終となるらしく、映画化まで進められているという。
 ここまでなら彼も普通の人気作家であるが、榎木津透耶が大物と言われるのは、彼の家族に原因がある。彼の弟は国民的アイドルである榎木津光琉(えのきづ みつる)である。十五歳から芸能界でアイドルとして歌や演技をしてきた実力派で、現在でも年寄りにまで名前と顔が売れているもっとも認知度が高いアイドルだ。そんな光琉と透耶は双子だったのだ。顔はそっくりで見間違える人がいるほどだったと当時から言われていたらしい。さすがに髪型や青年になっての顔つきや体つきが変わって見分けられるようになったと本人が笑ってネタにするほど似ていたらしい。
 こんな話に読者は食いついた。あの容姿で作家となれば周りはちやほやする。ただマスコミのターゲットにされなかったのは、光琉が家族の事故で酷い目に遭っているのをマスコミがネタにしてスクープしたところ、国民からそんな行動をするマスコミが批判され敵視されかけたことで、マスコミ自体が榎木津光琉(えのきづ みつる)の家族のネタはNGだと思っていたところもある。光琉がネタにするのはいいとしてもそれ以上は許されない環境だった。
 そんな榎木津透耶がマスコミにかぎつけられネタにされたのが、女性連続誘拐監禁殺人事件という列島が震撼した大きな事件である。
 その犯人に榎木津透耶も誘拐され監禁されていたのである。その透耶が女性を助け逃げ出したところで犯罪が発覚、逮捕に至るまでに発展したことは有名だ。さらに犯人が榎木津透耶に酷く執着していることまでマスコミは知っていた。
 しかしその事件、被害者は十人以上いて遺体の破損も酷かったことから、報道するには事件が悲惨すぎると自粛されて、とうとう裁判の内容も報道できるようなものではないとして各報道が自粛し報道されなくなった。
 もちろん透耶への取材も盛んに行われていたが、ある筋から圧力がかかり上層部が榎木津透耶への取材を取りやめてしまう事態になったのだという。どこからの圧力だったのかを調べると、彼の従姉(いとこ)の本家が氷室グループであり、そこから報道の自粛がかかったらしい。透耶本人もグループ家族とは付き合いがあり、かばったのではないかと言われている。
 確かにあの事件は透耶をつついている時に被害者女性への取材の在り方が問題化し視聴者から批判が大きかった。透耶のことへの抗議も多く、光琉が兄への取材を断る場面が報道されると、透耶への取材に対して一層批判が募り、放送するだけで問題化するだけだった。そのうち、大物議員が収賄で逮捕されるとマスコミは問題の多い事件よりは取材しても批判されないどころか、もっと取材しろと言われるくらいの収賄事件の方を好んで取材し報道した。
 そのおかげか、一週間くらいで事件の取材はされなくなり、事件内容の方に関心が移ったこともあり透耶の周りは静かになったのだという。
 様々なものに守られているのも、榎木津透耶が同性愛者で、下手な刺激を与えると人権団体が騒ぎ出すというのもあるようだった。更に氷室グループという出版業界にも口利きが出来る存在が取材をしようという気にさせないらしい。
 だが今回は違った。その透耶の過去の話を持ち込んできた人間は、音楽学校元同級生だという。どうやら透耶への私怨があるようで、聞きたくないこともぺらぺらと喋っていた。
 その内容は誰も知らないものだった。
 榎木津透耶がピアニストを目指して高校から音楽学校へ入り東京へ来た。それは知っているし、怪我をして夢破れたことも知っている。
 だが怪我をした原因が、友人のせいであり、その友人が目の前で自殺したことは知らない人が多い。さすがに噂になっていたらしいが、それでも衝撃的な出来事に生徒が混乱するという理由で話すことが禁止され、やがて進学のことで忙しくなった生徒からの噂も消えたらしい。辞めた人間と死んだ人間の話を持ち出してまで問題を大きくしても進学するのに母校に変な噂を立てられるのは面倒ごとにしかならないと判断して噂にもしなくなったのだろう。やがてそういう話は学校内の噂として残っている程度なのだという。
 真相を知っているのは家族や親友くらいである。
 そんな元同級生が語るには、友人が透耶に振られて自殺したのが真相だという。透耶はそれで怪我をしてピアノを諦めて転校したという。
 確かにこういう話であれば女性週刊誌は喜ぶところだ。
 ただ本人への取材だけはNGだろうから、記事は元同級生が語った話と、その同一人物が出版関係者なので話をそのまま書くことになった。

 榎木津透耶、過去に同性男性を振って自殺させる。
 元同級生の話。「榎木津って今作家やってんでしょ。その前にピアニストになりたくて学校に行ってたんですよ。そこで声楽の友人が榎木津の前で喉切って自殺したんですよ。ええ、もうびっくりです。榎木津ってあの顔でしょ?光琉に似てる顔で、ええかわいい感じですよ当時は。それで男にもてたんでしょうね。で友人が告白して振られたって話なんですが。実はデートもしていたらしくて、それなりに榎木津もその気にさせたようなんです。でも家が厳しいから別れちゃったらしいんですよ。で、相手が逆上して刃傷沙汰。学校も榎木津透耶側ももちろん被害者の親も隠したいわけですよ。そんな痴情のもつれで自殺なんて不名誉でしょ? ええ、そうです。話し合いで、理由は不明にして、警察も進学のことで悩んでいたということで納得したわけです。まあ多くの人が見ていたわけですし、自分で首を切るところをね。榎木津は無罪放免ですが、さすがに学校には出てこられなくて転校したわけです。傷を負ってっていうのもその時の怪我じゃないかな? ピアニストって繊細に見えて実は力がいるわけですよ、怪我の後遺症とかあってプロにはなれないって悟ったとか。案外、ほかのもめていた男と手を切るために転校してってこともあるかもしれないですね」
 出版業界の関係者。
「今こそ売れっ子ですけど、デビューは光琉を使ってごり押ししたって聞いてますよ。光琉が透耶のデビュー当時出版社に出入りしていたことは有名ですし、何せ双子ですから顔もそっくりで売り出すのにはちょうどよかったって。でも担当とかが透耶本人は顔出ししたがらないから当てが外れたってがっかり、社長なんかも光琉の顔とそっくりな容姿っていうのを売りにしてアイドル小説家みたいな感じで売りに出そうとしていたみたいですよ。全部、榎木津の顔を出したくないというわがままで企画がつぶれたわけです。ああ、確かに本は売れてますし、最初に光琉でごり押ししたら光琉のファンが買ってくれてるんでしょうね。毎回、宣伝もしているみたいですし。ほら、売れてるわりには賞はとれてないし、ライトノベルの域から出ないミステリじゃ限界があるらしくて、実は打ち切りになるんですよ。続いていた二つのシリーズと、読み切りの枠もなくなるらしいです。ええ、連載のものも企画が終了で。そうです全部なくなるんですよ。よっぽど何かしたんでしょうね、一気にすべて打ち切りなんて通常の対応じゃないでしょう? 作家も続けられるかどうか瀬戸際ですよね。人気はあるのに打ち切りってねえ」
榎木津透耶は本当に悪魔なのか。死んだ生徒との間に何があったのか。当方、榎木津透耶さんに取材を申し込んだところ門前払いをされましたが、関係者から彼の今後の作家人生を左右する出来事まで聞き込むことが出来た。
 彼は何をして作家人生を終わらせられるのか、そして彼が手に入れた受賞記録や成績の記録は七光りで得た物か、取材ができ次第続報を。


 こんな見出しの女性週刊誌が出た。
 榎木津透耶と大きく書いた文字と円で囲った写真は盗撮の写真だ。いつの間にか、玄関先を出るところを撮影されていたらしい。わざと後ろ姿にして、円で囲った写真も鮮明度が悪いというような感じにしている。盗撮であるが、有名人なら仕方ないと言わんばかりのものだ。
 だがこういう記事が出る時には必ずといっていいほど事前に話が通るはずだ。そうしたものさえないままの掲載だったので、出版社はただの噂話ではなく、犯罪事件として扱う気でいるのが分かる。
 けれど語っている内容がそもそも見当違いである。合っているのもあるが、筋は通っていない。何より、彼が死んだ理由は透耶に振られたからなんて生やさしいものではない。だが透耶はそれを知らなかった。
 記事を読んだ透耶は、今更の問題発言に不快感を持っていた。
 その雑誌は朝一番で送られてきたもので、書いた記者が送りつけたのだろう。案の定ではあるが、マスコミの一部が食いついた。
 透耶の過去を根掘り葉掘りと聞き回り、最後には光琉のところにまで堂々と取材に行ったという。その光琉は「元同級生の話は嘘ばかりが混ざっている。けれど亡くなった方の名誉があるからはっきり言うが、彼は兄に振られたとかそういうことで自殺を選んだわけではない」と言うのである。
 ワイドショーでそれが流され、それを見た透耶は不審な顔をしていた。光琉の言い方では彼が死んだ本当の理由を知っていることになる。
 最初は驚いたが、透耶は思い直した。
「そうか、俺が使えなくなってる時、光琉が代わりに立ってくれてたんだった……だから真相を聞いていたのかも……」
 あの彼が自殺を選んだのは透耶に振られたことも関係しているのは分かる。だがそれだけで死ぬことは普通はない。あの彼の諦めようともしなかった態度なら、何度も透耶に詰め寄っただろう。そう鬼柳恭一のように何度も何度も好かれるまで、透耶に告白を繰り返しただろう。
 だが彼にはそんな時間はなかったのではないかと透耶は思う。
 急におかしくなり、あんなことをした理由もまたそれと関係しているのではないか。
 けれどそれを今知ってどうなる。あの時、透耶が言葉を間違ったのは確かだ。強く否定することで彼の生命線を切ったのは揺るがない事実だ。
「しかしなぜ今なのか……ということですよね」
 石山がそう続けた。
 透耶は最近ずっと石山と行動をしているのだが、もちろん独り言も聞かれてしまう。それも一週間立てば慣れてきて、透耶はその生活に順応していた。石山は透耶のこういう性格は育ってきた環境が関係しているのだろうかと思った。自分の意思を押し込めることで相手の要望を受け入れ、それがどんなに理不尽でも必要とあればその環境に自分を順応していく。周りから見れば窮屈で可哀想に見えるのだろうが、透耶は不便とは感じない。
 とことん従順なところはボディガードをしている身としては、非常に扱いやすくありがたいのだが、可哀想だと思うことが増えてしまう。今やトイレや風呂、布団以外で透耶が一人になれるところはない。その三つでも外に人がいて心安まらないだろう。それでも不満は漏れたことがない。
 弱い人間だから従順なのではなく、精神力や忍耐力が人より強いから耐えられていると言ってもいいくらいの心の強さだ。その強さは、鬼柳恭一が作った物でもある。彼がいるから透耶は強くなったし、彼の泣き顔なんて見たくないから強くあろうとしている。
 しかしいくら強くても限界はある。
 このところ続いている透耶への攻撃は透耶の心を蝕(むしば)んでいる。誘拐を企むストーカー、手紙を送りつける透耶への執着を持つ者、そして過去を暴こうとする人間や人々。
 誰かが榎木津透耶をどうにかしようとしているとしか思えないほど、透耶は見知らぬ人から攻撃されている。
 今回は学生時代の出来事だ。
 石山はこの事件のことはエドワードからの報告書で知っている。ただ真相はエドワードをもってしても調べることができず、どうして彼が自殺を選んだのかは分かっていないとされている。
 警察は進路に悩んでいたと結論づけたようだが、それも両親がそういう証拠を出したからだという話しか聞けていない。誰もが死んだ男を哀れに思っていることは間違いなかったし、誰も透耶を責めてはいなかった。真相にたどり着いたであろう両親も透耶を恨みに思うのをやめたというのだ。
 それくらいしか情報がないため、この話を掘り下げていいのかと石山は思う。透耶にとってトラウマである。彼の名前もいえないほどの。 
「石山さんはどこまで知ってますか?」
 透耶がそう尋ねる。
「真下柾登(ました まさと)が透耶様の前で自殺をしたことと、その理由は関係者でも限られた人しか知らないということです。私は真相は知らされていません」
 ここで初めて石山が彼の名前を出した。
 透耶は一瞬驚いた顔をしたが、それでもその名前の人物について尋ねたのだから石山が名前を口にするのは当たり前だと納得する。
 鬼柳は透耶が名前すら口にできないほどトラウマになっていることは理解して話を聞いてくれたが、今はその真相を知ることが先決である。
 彼が、真下柾登が死んでから、学校で説明をする時ですら呼ばなかった真下の名前を数年ぶりに透耶は口にした。
「俺は、……真下が自殺した本当の理由は知らないんだ。確かに俺の発言が最終的なトリガーを引いたことは分かってる。けど彼が何に悩んでいて何を思ってそうしたのか、本当のところ何も知らない。彼とは確かに親しくしていたと思うけど、音楽以外のことを話したことはないんだ」
 透耶は意外なことを言った。
「つまり、普通の友達にあるような家族の愚痴を言ったり、学校帰りに雑談したりというようなことをしたことがないってことですか?」
 石山は自分の認識が間違っていることを知って尋ねた。
 まさかそういう友人ではなかったとは思わなかったのだ。
「そういうのをした覚えがない。音楽以外で真下と俺は共通点がないんだ。俺がそういう関係を望んだからなんだけど、真下の親友が誰で誰と友達なのかというようなことに俺は一切興味がもてなかった。彼の家族が何人いて、どういう生活をしているとか……人として知るべきことを俺は知りたくなかったから」
 複雑なことではあるが、ある年代の子が悩んでいる時にすべてを達観しているような性格になることがある。透耶は未来に絶望していたから、そういう風に些細なことは知りたくもなかったのだろう。
 知ったところで何になるという感じであろうか。当時の透耶はそれこそゆがんでいたわけだ。
「真下の感情にも気づかないほどに、俺は音楽以外のことで真下を必要としたことがないって……酷い言い方だけどそれが事実だから」
 榎木津透耶は病んでいた。未来がない、未来が分かっているのに生きる辛(つら)さから、いつでも死ねるように願っていたくらいに病んでいた。
 とても他人を思いやれるほど心の余裕はなかったし、あの呪いがある以上、誰かを受け入れるわけにもいかなかった。当然真下柾登の思いを受け入れられるわけにはいかなかった。透耶の答えはどんなに真下がいい人で優しい人で透耶を包んでくれるような人であっても、受け入れられないと決まっていた。
 この真下の事件後、透耶はさらに病んで、鬼柳恭一と出会った時にはうっかりで死を選ぼうとしていた。
「とんな人だったんですか?」
真下柾登の評判は聞いている。声楽首席で人当たりもよく、面倒見もいい。親友や友達も多く、声楽科以外の生徒とも交流が深かった。そんな彼が一人でいる透耶に構うのは至極当然の流れで、彼は透耶が一人にならないように気を遣っていたという。
 それでも榎木津透耶は心を開くことがなかなかなく、声楽とピアノが組む授業になって初めて透耶が真下に心を開いたような態度になったという。
 真下が透耶に夢中になるのは、それからである。
 どんな人の忠告も聞かずに透耶に入れ込み、周りがあきれるほどの熱愛ぶりに本当に恋でもしているんじゃないかと言われていた。しかし本人は笑ってそういうことじゃない、あこがれだと言っていたという。
 だが透耶から見て真下はどういう人物だったのかは分からない。
「そうだなぁ、酷くお節介な人だというのが第一印象だった。放っておいてくれなくて、のけ者にされてるって思われてたからね。けど話をしているうちに俺が一人でいることの意味は理解してくれたと思う。俺が話す内容がほかの人とは違っていたから。俺は自分がどう弾けばいいのかに悩んでいたけど、ほかの人はいかに他の人より上手く弾くかに悩んでいたからその違いでずれていると分かったというか。真下はほかの人に合わせて話せるけど、俺は合わせられなかったからね。俺と話している時の真下は、酷く饒舌で、狡猾で、周りをよく見ている人だった」
 確かに他とは違う人間のようだ。本性を出せる相手に透耶が選ばれただけのようだ。
「悪くは言いたくないとは思うし、俺はそれでいいとは思っていたけど。今考えると子供なりのいいわけだった。真下は他人を持ち上げているようでいて見下していた。だから俺にはそこまでいい人だとは思えなかったけど、音楽のことだけは方向性が合っていたからどうでもよかったんだ」
 透耶の言葉は本当に真下柾登とは音楽だけでつながっていたといえるほど酷い感想である。だがそれが当時の透耶の気持ちでそれ以上はなかったという確かな証拠である。
 そこに微々たる恋愛感情すらあり得なかったのは聞いていて分かるくらいだ。
「何だろう、お節介なのは自分の思い通りにその人を動かしたいから助言しているだけで、それ以外の行動をした時はやっぱり腹が立つわけ。その時でも真下は怒らないでにこにこして「よくやったね」って褒めるけれど、それ以上深く付き合わないようにする。そうしていくと真下の都合のいい人間だけが周りに集まって、真下はすごいって言う。すると周りは真下はすごいって思い込んでいく。成績は首席だし、先生の扱いも上手かったから評判もよかった。そうやって周りが自分の思い通りに動き出すと、なんでも制覇してみたくなるんじゃないかな。俺なんか真下には嫌われる要素しかないような性格だったんだけどね」
 透耶はそう真下を分析していたらしい。透耶は近づくことなく相手のことを多少は見ることができていることだろうか。透耶の分析は当たっているだろうし、優等生の周りがそういう人たちでできていることはよくあることだ。
ただ真下は透耶のようにはみ出したものを自分の信者に仕立てることに快感を得るような性格だったようで、なかなか真下の性格も問題ありである。
 だが真下の計画が破綻したのは、榎木津透耶に関わってしまったからである。透耶はそこらのはみ出した者とは成り立ちが違った。さらには、妙に人を惹き付ける透耶だ。真下が音楽の方向性まで似たような透耶にはまるのは時間の問題だった。
 共通点なんて一つあれば、そこに運命を感じ勘違いをする人間は多い。
 真下が透耶に填まってからは、元の仲間の忠告すら無視して夢中になった。「真下の態度が変わったのは、夏休みの後だったと思う。いつもの仲間と離れて、やたら俺と一緒にいたがったりして、よく考えればおかしなことばかりだった」
 真下がおかしくなり始めた変化には透耶も気づいていた。だがそれが自分に向けられるのはかなり切羽詰まった後だったようだ。
 そしてそれはいきなり刃になって透耶を襲った。
 この時の真下の精神状態は、周りが心配するほどだったという。だがその原因が透耶への愛情からと思っている人たちが多い。だが透耶はそれは違うという。
「何かへの苛立ちとともに音楽も馬鹿にするようになってた。俺はそんな話がしたいならと練習に付き合うのをやめようかと話したこともある。けれど真下はそれすら気にした様子はなくて、次の日にはいつものように愚痴を続ける」
 親友たち以外は誰も止められないほど、真下は透耶にべったりだった。
「あの日は特におかしくて……俺を……」
 透耶があの夜の出来事を話そうとして言葉を詰まらせる。
「そこは飛ばしても構いません……」
 石山がそう告げた。知っているという意味で告げられると透耶はほっとしたように息を吐いた。
「あの時は朝からだんまりで、夕方になって突然練習したいって言い出して。発表会も近かったし、俺は発表会も終わったばかりで時間は余っていたから付き合った。けど、あいつは学校内に人がいなくなるのを待って、俺を襲った。狡猾だっていう印象は、この時のものだよ。夜の学校で何かあっても俺がどこにも助けを求められないと知っていただろうし、真下に襲われたと言っても誰も信用はしなかっただろうってことまで分かってた」
だから怪我をした後、透耶はだんまりを続けて、自分で怪我をしたと言った。言えるわけもなかったし言いたくもなかった。
 真下のことは卒業を待つまでもなく、学科が違う理由でいくらでも避けられた。それでも真下は透耶に執着を続け、透耶の怪我の原因を真下が知ろうとしない様子から真下本人がやったのではないかと噂になるほどだった。
「怪我した俺が真下を避けるなんてことすれば、誰でも想像可能だよね」
 透耶はそう言って苦笑する。それこそ今こそ言える言葉だ。
そして事件に発展する。
「真下がおかしくなってから俺は真下が何を考えているのか知ろうとはしなかった。知りたくもなかったし、知っていたとしても同情はしなかったと思う」
 目の前で大切にしているはずの喉を切ってまで、透耶を求めた真下だったが、本当に彼に必要だったのは透耶ではないと透耶は思っている。彼の欠けた何かは透耶ではない。そうとしか思えないほど、真下柾登は愛情深くはなかった。
「俺のことを好きだという人はたくさんいたと思う。けれどどの人も己の感情だけを俺に押しつけ、俺の感情はすべて無視した。そういう人は、俺という入れ物を取得することに必死で、俺の心を欲しがる人はいない。真下はその典型的な人で、俺の話は一切聞いていないのに、知っているふりすらする人だった。今だからこそ言えるけれど、真下に俺が必要だったとはとても思えない。真下が求めていた俺という人間はそこにはいない気がしてならないから」
 鬼柳恭一(きりゅう きょういち)に出会ってから、惹かれていくに至った期間のことを思い出すと、その違いがよく分かるのだ。鬼柳恭一は頑なに入れ物の中身も欲しいと駄々をこね続けた。どんなにかかっても心も向いてくれと話しかけてきた。
 鬼柳とは三ヶ月くらいたくさん話した。くだらない話も思い出話も辛いことも何でもだ。でも真下とは一年付き合ったが透耶が自分のことを真下に話した記憶はほぼない。
 真下は透耶の入れ物に寄り添うだけで手に入れたように振る舞っていた。
「最初から言っているように、真下は自分の思い通りになる俺が欲しかったのであって、榎木津透耶が欲しかったわけではないと思える」
 透耶がそういう説明をしてきて、石山はそう思う原因が真下側にあったのではないかと思った。
「では、母親があなたを訴えると言った時、何かそれらしいことは言ってませんでした?」
「……あまり覚えてはないんだけど、たしか、光琉に聞かれたんだ。「お前、休みの日や夏休みに一度でも真下に会っていたか?」って」
「どういうことでしょうか?」
「光琉に聞けばたぶん分かるだろうけど……。俺はそれに対して、休みに俺が何をしていたかなんて光琉がよく知っていると。小説を書いていたから、外出はしないから夕飯とか食事を持って光琉がよく来ていたんだよ。夏休みは始まったと同時に京都に帰るから、お祖父様の用事で遊んでいる暇はなかったと答えて、光琉はだよなって納得していた」
「真下側はそうした期間に透耶様と真下が会っていると思っていたということですか。本人がそう言っていたのか……そういう記載されたものが残っていたか」
「その両方じゃないかな……ピアノ科首席の榎木津くんっていえば、出かけやすかったとか? そういう風に利用するのはあったのかも」
 音楽家の息子を育てようとして専門学校のようなところに放り込むような親が、息子の行動に関心がないとは思えない。どういう人と付き合いがあるかで態度も変わるものだ。そうなると理事である透耶の祖父の関係上、透耶の名前を出せばある程度自由になったという推理はあっているだろう。
「とにかく透耶様には、こうした元同級生なる人物と記事が突然出てきたのは今回の誘拐やおかしな手紙と何か関わりがあると思われますか?」
「よく……分からないけど……相手が真下のことを持ち出してでも俺に何かしたいっていう執着が見えるだけで……ただ、確かにこのことを持ち出されれば俺は思い出して動揺はするけれど、この内容じゃとても」
 透耶はそう言う。透耶にとってのトラウマは、こうした噂を立てられて責められることではなく、当時に受けたことを同じようにされることである。そのことで前に鬼柳とももめて透耶は死にかけたくらいだ。
「この内容じゃ……真下の家族も刺激していて、あの人の方がマズイかもしれない」
 透耶がそう言うのは真下柾登の母親のことだ。
 事件当時も透耶のことを目の敵にしていたのが真下の母親だ。いわゆる長男だけを溺愛する人だったらしく、取り乱し方が変だった。真下が透耶に告白したことや両思いだったという真下の言葉をそのままに受け取って、透耶に認めろと怒鳴り込んだくらいなのだ。真下の言うことはすべて正しいと思っていたようで、それでかなりもめた。だがそのうち父親の方が謝罪にきた。それ以降、母親はぱったりと姿を見せなくなったのだという。
「真下家の方で決着がついたのでもう迷惑はかけませんって……そういう説明だった。光琉はあの母親のことがあってからは、真下家の人間と俺を直接会わせることはしなくて、光琉本人が説明を聞いたんだけど、内容は言わなくて終わったことだからって言って終わらせた。だから俺は聞いてないんだ」
 本当に透耶は壊れていた。そんな事件の後に両親が飛行機事故で行方不明になり、祖父が交通事故で死んだことも関係して、この時の透耶の記憶は今でも整理がつかないほど酷く途切れ途切れなのだという。
「では光琉様に理由を聞いてみましょう。透耶様がお聞きになりにくいのでしたら、私が光琉様に聞いてきますが?」
 石山がそう言った。ここで聞かない選択を選ぶことはできない。これから未来の榎木津透耶(えのきづ とおや)がこれを知らないことで傷つく恐れがあるのだ。それを見過ごすわけにはいかなかった。
 だが透耶にはこうしてやっと話ができるくらいになったとはいえ、これ以上に耳をふさぎたくなるような出来事だったら、とてもじゃないが一人で聞いていられる自信がない。
 こういう時に鬼柳がいてくれれば、心構えも違うのだが。
 透耶は震える手を握って開いてを繰り返しながら、なかなか返事はしなかった。