switch

switch外伝10-1 perfect cadence

 深い森の奥にあるプライベートな土地は、日本を出てから一ヶ月後に訪れた場所だった。カナダのバンクーバーから少し奥に入ったところで、雄大な自然に囲まれた場所。
 榎木津透耶(えのきづ とおや)は、日本を出た時は、一ヶ月間、恋人である鬼柳恭一(きりゅう きょういち)と執事の松崎秀人(まつざき ひでと)にSPの富永と石山という最低限の人間を連れて、アメリカの自然を見て回った。グランドキャニオンなどを回ってから、避暑のためにカナダに渡った。 というのもエドワード・ランカスターに避暑地の別荘に招待されたからだ。
 エドワードたちは子供を連れて二週間ほど避暑地に滞在していた。そろそろ帰ろうかという時に鬼柳や透耶が、アメリカにいることを知ったのだという。
「どうせだから、こっちに来い。ちょうどいい自然があるぞ」
 そう言われて暑い夏に突入しかけているアメリカから抜け出したわけだ。
 深い森はどこまでも青くて素晴らしいもので、日本ではなかなかお目にかかれない広大さが眼下に広がる。わざわざ避暑をするために作られた場所は、いわゆる高級避暑地である。お金持ちの中でもお金持ちという人たちが滞在する場所で、周りにはホテルや避暑地用に建てられた別荘が建ち並んでいる。お店も多く、観光地に近い感覚で気軽に泊まることができるという触れ込みらしい。
「警備的にも安心できるし、透耶は行く気だし、仕方ない」
 鬼柳はそう言って透耶が行きたがっている気持ちを優先してくれた。
 エドワードは自分たちの別荘に透耶たちを呼んで、ちょっとしたパーティーをしてくれた。
 久しぶりに会ったセラフィーナは一歳になる子供を見せてくれた。  
 名前はアシュレイ・ルーシャス・ネヴィル・ランカスター。本当の名はものすごく長い名前になるらしいが、略してもここまで長い。なんでも祖父母になる両親の名前、セラの名字まで入ってるほど。その様子からどれだけアシュレイが生まれたことを両親たちが喜んでいるのかが分かる。
 小さな子供を見て透耶は嬉しそうに手を握ってみたりして、エドワードとセラフィーナにおめでとうとお祝いをした。生まれた時に写真を見せてもらったし、プレゼントも贈ったのだが、カードで書いたお祝いより、言葉の方で言いたかったのもある。
「ありがとうね」
 セラは笑って言い、わざわざ鬼柳に子供を抱かせて写真を撮ったりしていた。
 鬼柳はやはり器用に子供を抱いて、上手にあやして見せたので、エドワードが呆れた顔をしていた。
「お前は本当にできない家事はないのか?」
 そう言うと、鬼柳は鼻で笑って言う。
「宮本のところの奥さんの妹とかが子供連れてきていて、子守のバイトしたことがあるからな。おしめも替えられるし、ミルクもやれる」
 意外なことを知って透耶は目を見開いて驚いた。
「本当にできないことないんだ……」
 鬼柳は子供を抱いたまま、透耶にキスをして言う。
「花嫁修業はしたからな」
「……なんかもうね」
 鬼柳はにやにやして子供をベビーベッドに寝かせた。案の定、さっきまでしっかり起きていた子供はすっかり寝ていて、ベビーシッターが驚いている。
「すごいわ……いつもはもっとぐずるのだけど」
 感心したベビーシッターを残して、全員が下がってパーティーの続きをした。
 少しのお酒を飲んで、窓の外から吹き込んでくる風に当たって別荘地を見下ろすと、淡い光が森に反射して幻想的に見えて綺麗だった。
 しかし透耶はその日は移動とパーティーで疲れて、早めに寝室に入って寝た。鬼柳は透耶を寝かしつけると、少しだけエドワードに付き合って飲んでいたようだった。
 そこまでは普通だったと思うと鬼柳恭一は思う。

 次の日、鬼柳が起きた時、透耶はぐっすり寝ていたので九時くらいに起こせばいいかと、そのまま置いて自分は七時前に下へと降りた。
 居間のドアを開けたとたん、事態は一転した。
「あああー、やっと捕まえましたよ、恭一!」
 そう言って大声を上げたのは、鬼柳恭一が所属しているニューヨークにあるワシントン映像協会の人たちだった。
「げ、なんでエルギンにウォトキンにジェームスまでいるんだ!」
 驚いた鬼柳に三人が一斉に鬼柳の周りに集まってくる。
「恭一、写真集を作るって言ってから、何ヶ月経ってると思ってるんだ!」
「こっちは企画用意して待ってたのに、いつまで経ってもニューヨークに来ないと思ったら」
「取り込んでいるからと遠慮していたら、いつまでも連絡くれなくて、いざ連絡が取れたと思ったら、旅に出ましたって何なんですか!」
 三人が一斉に喋り出してしまい、鬼柳が怒鳴る。
「一斉に喋るな! 大体なんでここが……はっ!」
 なんで旅行中に急に決めた移動先を知っているのだと思ったのだが、ハッとして居間のソファに座ってくつろいで笑っているエドワードに気づいた。
「おーまーえーかー」
 鬼柳がそう言うと、エドワードがにっこりと笑って言うのだ。
「お前に二冊も写真集を出す企画があるなんて、私もつい一週間前まで知らなかったぞ。知っていればこうやってセッティングもしてやったというのに」
 そう言われて、鬼柳は天を仰ぎ見る。
 鬼柳の写真に執着があるエドワードが、こんな話を聞いて無視するわけがない。
 そう、ここに呼ばれたこと自体が罠だったのだ。
 鬼柳と透耶の行き先を知っているのは、日本にいる宝田だけだ。もちろん、宝田を通して話をすることはできるが、鬼柳たちの居場所を宝田が漏らすことはない。だがその宝田がうっかりと漏らしてしまう人間が何人かいる。
 そうエドワードは、鬼柳に写真集の企画ができていることを知り、その企画を放置したまま鬼柳が旅行に出ていることを知った。協会の人たちに泣きつかれて、上手く自分の別荘におびき出すために、宝田から居場所を聞いて別荘に誘い出した。子供の話をすれば透耶が行きたがることは予想できたことだ。
 そうしてやってきた二人が腰を据えたところで協会の人間を呼び寄せたわけだ。
「まさか、やらないというわけじゃないだろう?」
 ジェームスが鬼柳の気が変わったのかと不安そうに尋ねた。
「そりゃ……透耶と約束したから出すつもりはあるが、今じゃなくてもな」
 透耶との新婚旅行のような気分で旅行を楽しんでいたのもあり、水を差したくないという気持ちが勝っている。傷心の透耶の気持ちが上がるためなら何でもやるが、写真にかかりっきりになるようになるのは今は困る。
「というか、ここじゃどうにもできないだろう」
 写真は日本にあるわけで、今から戻るわけにもいかないし、戻るつもりはない。だがあと一ヶ月ほどすれば、色んな事情で一旦は日本に戻るつもりではある。だからその時でいいじゃないかというつもりだったのだが、興奮した協会の人間はそうはいかない。
「ですから、選ぶ写真はあなたの好きにして構いませんし、日本に戻った時に我々を呼んでくれればいきます。ですが、企画をちゃんと進めるためにはあなたとの契約が必要なんです。ですからいろんな書類にサインしてくださいよ。それに報道の写真はこっちにあるんですから、ニューヨークでの作業も必要ですよ」
 ジェームスが逃がすものかとたたみかける。他の二人も頷いていて、どうにも逃げられそうにない。
「……分かった……」
 寝ている透耶を人質に取られているようなものだから、ここで逃げ出すのも不可能だと、鬼柳は諦めて大量の書類にサインをするために読む作業に入った。


 透耶が起きると、隣に鬼柳がいないのを確認してからベッドから起きた。時計を見ると午前九時になっている。少し寝過ごしたかと思い、慌てて服を着替えて居間に降りていった。
 すると、居間には鬼柳を取り囲んで、何やら真剣な顔で商談をしている三人の見かけない人たちを見つけた。
「なんだろ……」 
 こんな予定は聞いてなかったなと思っていると、鬼柳が真っ先に透耶に気づいた。
「透耶、おはよう。ちょっとこっち来て」
 そう鬼柳が透耶を手招いて呼ぶ。すると書類を見ていた三人が一斉に立ち上がったのだ。
「……え?」
 びくりっと驚く透耶を尻目に、三人は透耶に駆け寄ると、手に手を取って早口の英語で話しかけてきた。
「ああ、あなたのお陰で恭一が写真集を出す気になってくれたのは感謝します!」
「あなたが神様ですな! 一昨年のニューヨークではお世話になりました。本当に実現したことはあなたの助言のおかげですよね!」
「あなたが恭一の恋人の透耶だね。いやあ、かわいいね。本当に!」
 三人が一斉に喋ってきたので、透耶はさすがに逃げたくなるほど怖かった。そうした三人の行動に鬼柳が割って入ってくる。
「お前ら、落ち着け。透耶が怖がってる」
 鬼柳はまず手を取ったジェームスの手を外して透耶を救出する。透耶を連れてソファに戻り、透耶を座らせてから鬼柳も隣に座る。
「こっちから、ジェームス。前に会っているだろ?」
 そう言われたジェームス・コネリーは四十五歳の初老だ。彫りの深い典型的な細身のアメリカ人で、確かにニューヨークで一度だけ会ったことがあり、彼は熱心に写真集を出そうと言っていた人だ。
「で、これがエルギン。こっちも一緒にあったことがあるだろう?」
 エルギン・サッチャーは褐色の肌をした陽気な人だ。やはり細身であるが長身で鬼柳と同じくらいの百九十くらいはある長身である。
「これがウォトキン。こっちは初めてだな」
 ウォトキン・ノーランドはアメリカフットボールでもやっていそうな筋肉質の三十歳くらいの若い男性だ。にこにこと愛想がよく、透耶をかわいいと褒めたのはこの人だ。唯一透耶とは初顔合わせである。
「榎木津透耶です。先ほどは失礼しました。よろしくお願いします」
 透耶がそう頭を下げて挨拶すると三人も笑って謝った。
「失礼しました。嬉しさのあまり驚かせてしまって」
「朝から早くから恭一を借りてます。あの写真集の企画の書類なので、今日一日あれば終わりますので」
 ジェームスがそう説明をしてきて、透耶はやっと「ああ」と思い当たることに納得した。
「恭ってば、あれから連絡してなかったの?」
「うん」
「……って、写真集を出すって電話してから一年くらい経ってるよね?」
「うん、忘れてた」
 鬼柳がそう言うので三人ががっくりと肩を落とした。
「……そんなことだと思ったよ……」
「相変わらず、クレイジーなやつだよ恭一は」
「本当に、写真集を出すってだけですごいことなのに本人は嫌がってるとかな。変人レベルだよ」
 三人がそう言うのは分かる気がすると透耶は思う。
 基本的に鬼柳恭一という男は、仕事以外で撮った写真に興味がない。撮ることや現像することには興味はあるようなのだが、撮ってできたものの管理すら適当になるような人なのだ。
 本人曰く「過程が必要なだけで、仕事のものは管理してもらってるから」という酷さだ。実際透耶が鬼柳の前の部屋に入った時は、写真をその辺に突っ込んでいたくらいだ。
 やっと透耶が管理するようになってから、写真は綺麗に保存され、状態がいいように保管されている。
 さすがにネガまでは難しいので透耶が口うるさく言って鬼柳が管理しだしたのが二人の家に引っ越してからである。
「それで、プライベートの写真の方は透耶が管理しているんだったね?」
 そうジェームスに確認されて、透耶は頷いた。
「はい、ネガの方は恭が管理してますけど、俺が目を光らせているので状態は大丈夫です」
「よかった、それなら。日本に行った時はよろしく頼むよ」
「はい」
 透耶がにこりと笑うと、ジェームスは安心したように言った。
「さあ、恭一。恋人がこう言っているんだ。恭一も仕事をちゃんとするんだぞ」
「じゃあ、恭。頑張ってね。俺、ご飯を食べてくる」
 透耶はそう言って席を離れた。
 鬼柳は名残惜しそうにしていたが、ジェームスが睨み付けるとため息を吐いてから書類に向かった。
 透耶はそれを苦笑して見てから居間を出て、キッチンに入った。
 食事は各自好きな物を食べるということだったのだが、キッチンに入ると透耶用の食事がちゃんと用意されていた。
「おはよう透耶」
 エドワードがキッチンに入ってきて透耶に挨拶をした。
「おはようございます、エドワードさん」
 透耶がそう言うと、エドワードは用意された食事を指さして言った。
「恭が用意したものじゃないが、私が作っておいた」
 そう言われて透耶は驚いた。
「エドワードさんが、ですか?」
「私とて食事くらい作れるよ。とはいえ、トースト用意して、スクランブルエッグ作ってベーコンを焼いておいただけだけどな」
 そう言ってエドワードは笑う。
「ありがとうございます、いただきます」
 透耶は一緒に笑ってから、トーストをトースターで焼き始める。テーブルなかったジャムやバターをエドワードが冷蔵庫から出しておいてくれた。そしてミックスジュースまで注いでくれた。
「ありがとうございます」
「いや、恭一のことは悪かったね。どうしても写真集の企画は進めて欲しくてね」
 エドワードが実は下心があったのだと打ち明けてきたので透耶はやっと納得したように笑い出した。
「だから、協会の人がいたんですね。エドワードさんは恭のファン第一号だから仕方ないですね」
 透耶がそう言って楽しそうに笑い出して、エドワードはクスリと笑う。
「確かに第一号となると、私しかいないな」
 鬼柳の昔の写真が残っているのはエドワードが盗んで保管していたお陰だ。鬼柳は大学を出た後、日本に渡る時に持っていた写真はすべて捨てたと言っていた。持っているのは撮らせてもらった人たちの写真だけだ。他はすべてない。だがそのほとんどをエドワードがネガを持ち出していたおかげで透耶がその写真を見ることができた。
 ただ所有者であるはずの鬼柳は、その写真があることを知っているのに返してくれとはいわないので、透耶はネガから現像してもらった写真だけもらっている。
「ただ本を出すまでは忙しくなるし、出した後も少し忙しいかもしれないから、透耶には悪いかなと思ったが、透耶の方が仕事をセーブしてくれて助かる」
「え?」
「ほら、仕事の写真はニューヨークにあると言っていただろう。あの写真の整理すら恭は透耶と離れたくないと言ってやりそうになかったからね。透耶の仕事が休みなら、透耶もニューヨークへいってくれるだろうから仕事もはかどるだろう」
 なるほどと透耶は思った。
 鬼柳が写真集を出したがらない理由の一つが、それだ。透耶と離れて仕事をするのが嫌だったからということなのだ。ふざけた理由であるが、やっと戦場から離れて透耶と一緒に暮らせるようになったのに、また離れるのかと思うと考えたくなかったのかもしれない。
 透耶の方はあの事件の余波もあり、一気に仕事を休む気になった。ただ物を書くことは好きなので、今は雑記のようなものは書いている。編集の手塚からもそうした雑記を将来的に本にして出したいのでという依頼も受けている。
 ただ何年かかるか分からない雑記なので、出版となると相当先の話だ。
 小説を二ヶ月に一本仕上げて出してきたという忙しさから解放された透耶であるが、鬼柳と遊ぶだけの毎日は楽しかった。これからも死ぬまで続くであろう遊びに、少々の寄り道があっても不思議ではない。
「そうですね。とりあえず恭の気分に合わせているので、恭がそれをやるというなら俺は付き合うだけですから」
 透耶がそう言うと、エドワードも頷いた。
 透耶が見たいと言ったから写真集を出すと口に出したのだろうが、一旦言い出したことはやるしかない。本人も忘れていたと言っているが、先延ばしにしたかっただけで本気で忘れていたわけではない。
 協会の人たちも透耶が巻き込まれた事件のことは知っていたようで、一応の解決まで連絡は待ってくれていたらしいので、透耶としては何も言えなくなってしまう。
 一ヶ月はあちこち回ったので、ここらで少し休憩を兼ねてもいいかと透耶は考えた。
 


 その日の午後だった。
 エドワードのところに一人の青年が尋ねてきた。
「ここに恭一がいると聞いて」
 そう言ったのは、透耶と大して年が変わらない日本人っぽい顔立ちの青年だったが、透耶よりは大きく百七十五センチほどある身長。運動をよくしているという体格のよさで透耶より随分大きく見える青年だった。
「やあ、藤丸(ふじまる)。元気にしていたか?」
 そう言って出迎えたのはエドワードだった。
 エドワードを見つけた藤丸と呼ばれた青年はにこりと笑って頭を下げた。
「お久しぶりですエド。恭一はいますか?」
「仕事をしているよ。そこの居間だ」
「ありがとうございます」
 藤丸はそう言うと、仕事中だと言ったのを無視して居間に入っていく。
 ソファで仕事をしている鬼柳を見つけると、持っていた荷物を放り投げて鬼柳に向かって走って行く。
「恭一!」
 そう叫ばれて鬼柳はやっと藤丸を見た。さすがに見知った人がここにいることが信じられないような顔を一瞬だけして青年の名前を呼んだ。
「藤丸、お前、なにやってんだ?」
 本当に何でいるのか理解できないように言った。
「恭一がきてるって父さんから聞いたから、わざわざきたんだよ。俺の大学、カナダだって忘れてるだろ」
 藤丸はそういうと鬼柳に抱きついて嬉しそうにするのだが、鬼柳の方は邪魔そうに藤丸の体を離した。
「忘れてるも何も、宮本からは何も聞いてないからな」
 鬼柳がそう言うので藤丸は少し拗ねる。
「なんだよ、十年ぶりなのに冷たいなー。俺は楽しみにしてきたのに」
「そういうお前は全然変わってないな。体だけ大きくなりやがって」
 鬼柳がそう言ったので、藤丸はにこりと笑った。
 そうした騒動に周りの部屋にいた人たちが集まってくる。もちろん、遅い昼食を取りに降りてきた透耶もそれを目撃した。
「俺、二十歳過ぎたよ! これで恋人にしてもらえるよね!」
 藤丸がそう叫んだのだ。
 周りに静寂が生まれ、最初に声を発したのは、そう言われた人、鬼柳恭一(きりゅう きょういち)だった。
「……は?」
「昔、恭一がそう言った。付き合うなら二十歳超えてないとって。俺ももう二十四になった。十分だよな!」
 にっこりとして念を押されるのだが、鬼柳は冷たく言い放った。
「恋人はいるし、そもそもお前となんて無理」
 それを聞いて藤丸(ふじまる)は叫んだ。
「は!? 恋人ってどういうことだよ! 恭一はそんなの作らない人だっただろ!」
 信じられない人を見るように藤丸(ふじまる)が言った。
 昔の鬼柳恭一(きりゅう きょういち)なら、榎木津透耶(えのきづ とおや)と出会う前の鬼柳恭一(きりゅう きょういち)ならまさにその通りの人だった。
「作らないっていうか、作るのが面倒だっただけで、欲しいとは思ってたけどな」
 鬼柳がそう言い返して、驚いている人たちの中から透耶を見つけた。
「ああ、透耶こっちへ」
 そう急に呼ばれて透耶は驚きながらも前に出た。藤丸(ふじまる)はそんな透耶を見下ろし、なにこれというような顔をした。
「恋人の榎木津透耶だ」
「こんにちは、初めまして、榎木津透耶です」
 鬼柳が笑顔になって透耶藤丸(ふじまる)に紹介した。透耶も紹介されたので自己紹介をした。だが、それを聞いた藤丸がこの世の出来事とは思えないほど恐ろしいものを見たように二人を見た。
 紹介された榎木津透耶は、いわゆる美少年と呼ばれるくらいの幼さを持った顔つきと足りない身長を持つ子供に見えたのだ。たしかに美人と呼ばれる部類のものであろうが、大人びた美女や青年を相手にしてきた鬼柳の相手としては、あまりに貧弱だった。
「あ、あり得ない。こんなのを恭一が選ぶなんて……」
 藤丸はよろよろとふらつきながら、透耶を睨み付けた。
「こんなのは認めない!」
 透耶を指さして叫んで言ったのだが、それに鬼柳が突っ込む。
「お前の許可なんかいるか」
「だって何の気の迷いでこんなのを選んだんだよ!」
 そうまで言われた透耶は複雑な気分だ。ここまで全面的に否定をされたのは初対面のエドワードに言われた時くらいだったような気がする。
「お前にとってこんなのでも、俺にとっては愛おしいんだよ」
 鬼柳はそう言って透耶を抱きしめる。それが余計に藤丸(ふじまる)を苛立たせる。
「それ! それがすでにキャラじゃない! デレデレなびくなんて恭一らしくない! こんなの俺は認めないから!」
 藤丸はそう叫ぶと鬼柳が透耶を抱きしめているのを引きはがそうとしてくる。だが鬼柳の腕がそう簡単に外れるわけもなく、藤丸は透耶の腕を掴んで引っ張った。
「お前、離れろ!離れろ!離れろ!!」
「い……痛い……っ」
 力一杯藤丸(ふじまる)が掴んだ透耶の腕は、爪が食い込むほどの強さで、透耶はそれに引っ張られて痛みを感じる。
「離れろ!」
「藤丸!」
 藤丸が透耶を引っ張る手を鬼柳が掴んで強く握り返した。
「いった!」
 さすがに骨を折るつもりで握り返した鬼柳の手に驚いて、藤丸は透耶の腕から手を離した。
 透耶はやっと腕が離れてほっと息を吐いたのだが、その腕を見た鬼柳が蒼白な顔をしていた。
「透耶、血が出てる。早く消毒を」
 そっと鬼柳が透耶の腕を引いてソファに座らせられた。
 痛いとは思っていたが、まさか爪が食い込んで切れるほどに捕まれていたとは透耶も思ってもみなかった。
「……あ、本当だ」
 そういうと鬼柳の側に執事の松崎(まつざき)が現れ、救急箱を持ってやってきた。この家の執事からそれを受け取ってきたらしい。
「透耶、腕を伸ばして」
「うん、でもちょっと切れただけだから」
 そういうのだが、それでも捕まれたところは赤く腫れていて、藤丸の手の形になっている。
「この手形も一日くらい消えないぞ。全部隠すから包帯だな」
 そう鬼柳が言って傷の消毒をすると塗り薬をした後にガーゼを当てて包帯までしだした。怪我の割に大げさな処置になってしまったが、手の痕が見えれば周りから不審がられるから仕方ない。まだ怪我したと言った方がマシだった。
「透耶、傷が痛かったりおかしい感じがするなら、ちゃんと言ってくれ。化膿したりしたら厄介だ」
「うん、分かってるよ」
 鬼柳が処置をした後にそう言うのだが、その顔が不安そうな顔をしていて、透耶は少しだけ微笑む。鬼柳は透耶が傷を付くと自分が傷ついたように落ち込む人なのだ。今回も早く止めればよかったと後悔をしている。
 とりあえず透耶が無事であるのを見た協会の人たちは、書類をまとめ片付け始めた。
「これじゃこの先のことは頭に入りそうにないね」
「そうだね。恭一、明日にするかい?」
 ジェームスがそう言うと、鬼柳は頷いた。
 鬼柳の落ち込み具合が酷く、さすがのジェームスも今日の鬼柳は使い物にならないなと判断したようだった。
「あ、でも……」
 透耶の方が気にしたのだが、鬼柳が透耶にべったりとくっついて離れようとしない。
「大丈夫だよ、企画自体の契約は済ませたから、あとはちょっとした書類の確認で企画の内容についての細かなところと、その後の写真展のことなども」
 ジェームスがそう説明すると、透耶がくっついている鬼柳に向かった言った。
「恭、仕事が残ってるよ? ちゃんとしよう?」
「……やだ」
「俺はここにいるから、ね。終わらせよう?」
 透耶がそう宥めると、最初は嫌だと言った鬼柳だったが、渋々というような顔をして書類を手に取り始めた。
 鬼柳は透耶に寄りかかったようになりながらも、書類を読み始め、納得したものにはサインを始める。
 透耶がジェームスを見ると、ジェームスはにっこりと笑っているので、どうやらこの方法でも仕事が進むのは有り難がっているようだった。
 まあ、避暑で遊びに来ている透耶たちとは違い、仕事で来ている彼らは、早く書類をまとめてニューヨークへ帰りたいわけだ。
 ただでさえ機嫌でどうにかなる鬼柳の行動が、乱入者のせいでおかしくなったのはジェームスにとっては痛手だった。
 それにしてもと透耶は、さっきの乱入者を見る。
 藤丸(ふじまる)はさすがに透耶に怪我をさせる気はなかったらしく、気まずそうにしていたところを執事に案内されて下がっていくところだった。
 エドワードが入り口で申し訳ないと言わんばかりの顔をしていたのを見ると、エドワードですら藤丸(ふじまる)の行動は予想外だったらしい。
 鬼柳は書類をあっという間に片付けてしまうと、透耶に聞いた。
「ここ、痛くなったり熱くなったりしてないか?」
「ん、大丈夫だよ。痛みもあんまりないし」
「……側にて怪我をさせた……ごめん」
 鬼柳がそう言うので透耶は鬼柳の頭を撫でた。
「仕方ないよ。でもちょっと恭もあの子を煽ったでしょ?」
「……だからごめん」
 鬼柳がそう白状した。
 鬼柳は藤丸(ふじまる)に対して、恋人を自慢した。ただ自慢しただけでなく、鬼柳を好きだから恋人になりたいと言っている相手に対してそうしたのだ。
 恋人自慢を失恋させた相手にすれば、当然、それだけでは済まない。女性の場合なら殴られるくらいの激高はされるだろう。それが分かっていながらも鬼柳は自慢をした。
 相手が昔の知り合いで、相手が二十四歳と言っていたから、二十六歳の透耶より少しだけ年下であるが、鬼柳は大学時代の知り合いだったので思わず十歳から十四歳くらいの相手のつもりで接してしまったのだ。
 当時は鬼柳に懐いていただろうし、そのつもりの対応をしてしまった。
 昔の鬼柳なら絶対にしないことをしまくって相手の混乱を招いていたのも大きかっただろう。
「まぁ、恭一が変わったのは事実だからね。ここまで恋人にべったりになるとは誰も予想はしなかったさ」
 ジェームスが仕方ないことだと言う。それにエルギンとウォトキンも頷いている。
「俺は前から、恋人には何でもしてやるって言ってただろうが……」
 そう言う鬼柳の言葉に全員が思い出したように言った。
「ああ、確か、本命には猛アタックしてどうたらこうたらってやつか」
「アレ実行したんだ?」
 どうやら具体的に言うとマズイような言葉を濁してエルギンとウォトキンが聞く。
「実行したけど、なかなか落とせなくて、散々振り回されてやっとだった」
 鬼柳がそう言うと、三人がマジかと透耶を見る。それこそ簡単に恋仲になってそうな雰囲気を醸し出しているというのに、なかなか落ちずに鬼柳を必死にさせたことが意外だったらしい。
「一緒に暮らして何年だ?」
「七年だ。半分は仕事で一緒にいなかったかもしれないけど」
「こりゃ本物だな。恭一が誰かと七年も一緒に暮らせるはずもないしなぁ」
 ジェームスが感心したように言った。七年経っても鬼柳が飽きるどころか、ますますベッタリなのがその証拠だ。そのベッタリに恋人である透耶はいつものことだといわんばかりに普通にしている。
「まあ、幸せそうでよかったけどな恭一」
「そうそう、俺は変わってよかったと思うよ」
「こうやって写真集も出せるようになったわけだし」
 三人が鬼柳恭一が変わっていたのは、結果的によかったことだと頷いている。
 人を排除して生きてきた過去を持つ鬼柳であるが、透耶と出会ってから、それは少しだけ変わった。
 それを聞いて鬼柳が少し微笑む。
「俺もそう思うよ」
 実感したように言う鬼柳の笑顔を見た三人は。
「オーマイガッ、そんなものを見ることがくるとは思わなかった」
「おおおおお、信じられないものをみた」
「……お、そこまで変わっていたのか」
 協会の三人の驚きには、さすがの透耶も苦笑するしかなかった。
 透耶はさすがに鬼柳の過去がどれだけ酷かったのか、ちょっと想像できないくらいの領域にあったのかと思うしかなかった。
 それでもその変化を誰もが歓迎して、二人のことを祝ってくれた。
 鬼柳恭一という男は、それだけ過去から魅力があり、不思議な人を引きつけるような存在で、それは今も変わっていないらしい。