Allegro vivace07

 その日は快晴だった。
「わあ。桜、凄いよ!」
 電車から降りた町は、現在桜が満開の季節だった。
 昔は寂れた町であったが、この桜を眺める観光が盛んになってきたところ、温泉が突然湧いて出たために温泉街になった。小さな町なので至るところが旅館になっているが、それでも少数精鋭のため、予約を取るのも一苦労な観光地になった。
 そんな場所の更に専用バスで一時間の場所に秘境の温泉がある。
 この温泉は駅前の町とは違って、昔から温泉があるのだが、歩いていくのに一日掛かりだったために秘境とされた。道路が通り、一時間でいけるようになると、客足が増えた。更に駅前が栄えたために、更に秘境として知れ渡り、駅前を使った人が聞きつけて、そこに予約を入れていって、年がら年中予約で埋まっているのである。
 しかし予約のキャンセルが出ることも当然あり、予約の確認をするとたまにキャンセルで予約を入れることができる。
 嗣永の父親が秘書をしている政治家がそのキャンセルが出たら電話をくれるように伝えていたため、一ヶ月前にキャンセルを出たところにねじ込んで入れてもらったという経緯がある。
「政治家さんにお礼しなきゃね……」
 阿古がそう言うと、嗣永が言った。
「あの温泉の温泉まんじゅうでいいって言ってた。あそこ、そのまんじゅうも美味いって評判で、それだけ買いに行く人もいるくらい人気なんだって。それで駅前に店を構えて、温泉まんじゅうを売り始めたらしい。けど、宿で作っているのと、駅前の店で作っているのが、レシピは一緒なのに微妙に違うらしくて、宿の方の温泉まんじゅうを予約したから持って帰ってきてくれって言われてる」
「それ、お礼じゃなくない?」
「だよな。代金もらってるし、お使いなんだよな。でもそれでいいって言うから仕方ないよ。でも楽しんでいい思い出作って、後で楽しかったって言えればそれでいいんじゃないか?」
 嗣永がそう言った。
「うん、そうだね」
 嗣永の言葉に阿古は納得した。相手がそう言っているならば、こちらは全力で楽しんで、いい思い出を作るのに専念すればいい。沢山笑って、また行きたいと思えれば、それで十分なのだ。
「だから、沢山楽しもう」
 嗣永がそう言って阿古の手を繋いできた。
 阿古はその手を握り返した時だった。
「あれ、阿古? 阿古だよな?」
 そう人の声がした。
 阿古はその声に聞き覚えがあり、ギクリとして振り返った。
「やっぱ阿古じゃん」
 そう言っているのは、阿古の旧友だった人だ。
「……遠田(えんだ)……どうして……」
 遠田晴輝(えんだ はるき)は阿古の高校時代に友人である。百八十センチの高身長で、今は髪を茶色に綺麗に染め上げている短髪で、顔つきもすっかり大人になった印象を受ける。相変わらずの二枚目で、男らしさが高校時代とは比べモノにならない。
 だから声で分かったものの、姿を見た時には阿古はこれが遠田か?と一瞬迷ったほどだ。
「うわ、二年ぶりだっけ?」
「あ、うん……」
 そう言われて阿古は頷いたが、嗣永を繋いだ手は放さないままで強く握り返した。
 嗣永は阿古が少し困っていることに気付いたが、どういう関係なのか計りかねて様子をうかがった。
 遠田は笑みを浮かべて阿古に近づいてきて、当然のように阿古が座っているベンチの隣にドカリと座った。
「一人?」
 阿古がそう話を向けると、遠田は首を振った。
「いや、友達と来た。昨日まで飲んでて、皆寝てるから俺だけ散歩中」
「……そう」
 阿古は遠田の変わらない笑顔に少し気味が悪いものを感じていた。
 この遠田こそ、阿古の初恋の人であり、その恋に悩んだ阿古が縁を切るつもりで大学の進路を変えた。そのことで仲違いして以来、遠田とは連絡すら取らないままで縁が切れたはずだった。
 だから、こんなところで遠田に会うのも意外だったが、向こうから何もなかったように話しかけてきたのもおかしなことだった。
「今夜とか暇?」
 そう遠田が言い出し、阿古は首を振った。
「一人じゃないから……」
 阿古がそう言うと、遠田はやっと隣にいるのが阿古の友人だと気付いたらしい。
「あ、そっち友達だったんだ?」
 阿古の友達としては派手なタイプである嗣永であるからか、友達になるタイプではないと思われたのだ。まあ、つい一ヶ月前までの阿古なら、そう思われていても当然ではあったことだ。
 しかし友達ではない。
 阿古は、嗣永の手をぐっと握った後、それを高く上げてから遠田に見えるようにしてから言った。
「ううん、恋人。この人は俺の恋人」
 阿古はそうはっきりと遠田に告げた。
 嗣永は阿古がそう言うとは思わなかったので、少し驚いたが、心の中では飛び上がるほど嬉しかった。阿古はこれから嗣永のことをそう誰にでも紹介してくれるという、阿古の決意が見えたからだ。
 阿古が少し照れてそう言うと、遠田はそれを笑い飛ばした。
「お前、冗談が上手くなった……」
 大きく笑ってそう言った遠田は更に笑ってから阿古を見た。
 しかし阿古は真面目に遠田を見つめていた。その静かな目が本気を見せている。
「……は、マジ?」
 遠田の笑みが一気に消えた。阿古はその顔を見て頷いた。
「遠田がそういうのが嫌いなのは知ってる。でも俺は本気でこの人も本気で付き合っている。笑い飛ばされるような関係じゃない」
 阿古がそう言い切ると、遠田は急に阿古をこの世のモノとは思えないような顔をして見た後、急に必死になった。
「そんなの、お前、気の迷いだって……!」
「遠田に分かってもらおうとは思ってないよ。でも俺のことは今までみたいに忘れていてほしかった」
 阿古がそう言うと、嗣永がやっと察した。
 この遠田こそが阿古の初恋の人で、阿古の気持ちを察することもできず、離れたことだけで二年以上連絡すら寄越すこともなかった元友人なのだと。
「だから、そういうのは思春期の……!」
 遠田は認めることができなかったのか、それ以上阿古の気持ちを傷つけるように発言をしようとするのだが、それを嗣永が止めた。
「二年以上前に縁を切った元友人が、他人の恋沙汰に口出しできる存在だとでも思ってるのか?」
「な……っなんだと、俺は!」
 嗣永はこれ以上阿古と遠田を話させていても、遠田が阿古のことを理解することは一生ありはしないことだけは理解した。
 他人の性癖を真っ向から否定し、自分の望むとおりの人間でないことを批難する人間が、阿古にとってよい人とは思えなかった。
「お前のことなんて、どうでもいんだよ。阿古は俺の恋人で家族公認で付き合っている。もうお前が口を挟むようなレベルじゃないんだよ。聞いていて不快だから、どっか行ってくれる?」
 嗣永がそう言い切ると、遠田はガタリとベンチから立った。そして嗣永を睨んだ後、阿古を睨んでから言った。
「がっかりだよ、阿古。本当に」
 遠田はそう言うと、温泉街の方へと歩いていった。
 苦し紛れに吐き捨てていった言葉は、阿古に失望したという内容だったが、阿古は寧ろ、ホッとする。やっぱりあの時の自分の選択は間違ってはいなかったのだと、やっとここで証明できたからだ。
 この先の阿古の人生に遠田が一切関わることがないという事実が、ここではっきりとしたことで、自分の一瞬の迷いすら消えた。
「阿古、大丈夫か。とんでもなく不快なヤツだったな」
 嗣永は阿古の手を握り返してそう言った。
 せっかく旅行に来て、阿古といい感じになってきたところに、特大の邪魔が入ってきたばかりか、阿古の気分を害しただけでなく、思い出も蹴散らしていったのだ。
 今頃遠田は、阿古への罵詈雑言と共に呪いの言葉すら吐いているだろう。
 酷く言われた阿古は一瞬だけビクリとしたのだが、その後、嗣永が握り返した手の強さにハッとした。
「あ、……大丈夫。ちょっとびっくりしたというか……相変わらずなんだなと分かって、寧ろホッとしたんだ」
 阿古がそう言うので、嗣永が不思議な顔をする。
 それを見て阿古は言葉を選んだ。
「俺のことをああいう目で見るのは分かってたことだからね。ただ今は、遠田のことを思っているわけでもなかったし、友達とは言っても縁を切っていた人だから、こう、なんというか、感覚が違うところにあって」
 阿古は気持ちがここにはないことを空いた手を使って説明する。
「ここに気持ちはあるんだけど、仕舞い込んだものと今あるものみたいに区別が付いていたみたい。遠田がああいう嫌悪している気持ちも知っているから、遠田がああ言ったことで、やっぱり俺の選択は間違ってなかったんだってホッとしたんだ」
 阿古がそう言うと、嗣永はやっと理解できた。
「阿古は離れたことに罪悪感を持っていたけど、未来がこうだったから、あの時の罪悪感はなくなったってことか」
「うん、そう。悪かったなって気持ちと、引き摺っていた気持ち。それがパッと霧が晴れるみたいにパッとなくなったんだ。多分、遠田も分かったと思うよ。俺がどうして進路を変えたのかって。考えれば分かるんだ。俺が遠田の嫌いな性質を持ってい人間で、どうしようなく変えようがないから、離れたんだって」
「つまり、阿古ははっきり嫌悪されて良かったってことか?」
「そう。思い残すことないなーって、ポジティブに考えるとだけどね」
 阿古はそう言って柔らかく笑う。
 初恋が上手くいかないことなんて分かっていたが、もしかしてという気持ちが少しは残っていたのだろう。でもその可能性はゼロにした。自ら隠してきたことを暴露して、受け入れて貰えないことが分かった。
 だから余計な気持ちが消える。残っていた初恋に対する気持ちが、ただの思い出にと変わる。
「でも、それもこれも嗣永がいてくれるから、そう思えるんだよ。一人だったらきっと傷ついていたと思う。嗣永が隣にいてくれるから、俺の絶対的な味方だから、俺ははっきりと自分を隠したりしなくて済んだ。胸張って言える関係でありたいから、俺は」
 阿古がそう言い切ると、嗣永は阿古の頬に触れるだけのキスをした。
「わっ!」
「阿古、お前、本当に強いな。そういうポジティブなところ、俺は好きだよ」
 嗣永はそう言った。阿古もそれに笑顔で答えた。
 その時に駅前のバス停に小さなバンがやってくる。
 宿の名前、桜宿と書かれたバンで、そこに乗り込んだのは阿古と嗣永の二人ともう二組の夫婦だった。
 宿に泊まることができるのは十組だけで、大体は車でやってくるのだという。駅からバンに乗る客は少ないのだが、今日は満員だ。
 二人は後部座席の一番後ろに座り、二人で手を繋いだままで静かに宿まで黙っていた。ここで話せる内容ではなかったし、これ以上何か話すこともなかったのもあった。
 旅館に到着すると、部屋への手続きをして仲居さんに案内してもらった。
「真崎様から、一番良い部屋をとお願いされまして、普段は特別な時に開けている別館がありまして、他のお客様とは少し違うお部屋になります」
 そう言われて本館の建物から渡り廊下を伝って別棟に移動する。ちょうど離れのような場所に小さな平屋の家がある。そこが普段は解放していない別室らしい。
 一般客とお得意様を一緒にできないので、スイートルームのように予約は入れないで、特別なお客の時に開けて使っている離れだそうで、食事や風呂なども全部仕様が違う。
「私ども仲居も、玄関先にて全てのお荷物やお食事などをお渡ししまして、あとはお客様がお好きになさって構いません。中には小さな台所もありますが、お飲み物とお酒類のみが入っているだけですので、お食事やおつまみは本館の受付に連絡をお願い致します」
 そう言われて入ると、玄関に当たる小さな部屋には、受付用にテーブルが備え付けられていて、電話のインターホンまである。
 どうやら政治家がお忍びでやってくることが多いらしく、仲居が余計なことをしないように玄関で対応するようにしたらしい。もちろん頼めば布団の上げ下ろしや、風呂の用意などしてくれることもあるが、大抵は一泊か二泊くらいなので、布団は最初に敷かれたままで放置が多いらしい。
 二泊の予定の二人は、政治家先生達と同じく、食事以外は放置してもらう流れでお願いをした。
 部屋に入れば、二人の世界にしたかったからだ。


 仲居が玄関から出て行くと、二人は荷物を持って部屋に入った。
 玄関通路を奥まで行くと居間がある。十畳ほどの部屋にはソファなどがあったが、他の部屋を見ると、どうやら待ち合わせ用の部屋らしい。その更にに入ると同じく十畳ほどの部屋があり、そこが泊まり客がくつろぐ部屋で、テレビやテーブルに座布団と旅館らしい部屋になっていた。
 もう更に奥が布団が敷かれている寝床で、左側が廊下、右側が露天風呂になっている。居間の右隣が内風呂もあり、左は廊下。この廊下が待合の左隣にある台所へと続いている。その廊下は障子で仕切られているが、開けておけば大きな窓があり、その窓の外は庭になっている。立派であるが小さな庭園で、季節ごとに風景が違うという。
「すごい、こんな立派なところなんて……わあ、露天風呂もあるよ!」
 阿古ははしゃいで露天風呂まで出てみている。個室の風呂は、檜造りの板張りで、風呂も檜風呂である。それを露天にしてある。もちろん雨でも入れるように屋根があり、周りも見られないように大きな塀で囲まれているから、露天という雰囲気が味わえるというものであるが、岩場の露天では気後れする人にはこういう方の露天がよかった。
 阿古の気後れする方で、露天でも人がいるのが苦手だと言っていたので、ここが選ばれたらしい。
「内風呂もあるって言っていたから、躰を洗うのはそっちでやって、ここから出てくるわけか」
 そう言って嗣永がドアを開けている。内風呂への出入り口があり、内風呂も温泉を引いているものだ。
「豪華だね……」
 やっと居間に戻って座り、お茶を出してくつろいだ。
 いろいろあって疲れたので、暫く二人でゴロゴロとしながら、さっきのことを話し合っていた。
「あいつ、ああいうヤツだったのか?」
 阿古に対して、遠田という男は偏見が酷い男なのかと嗣永が聞いた。
 阿古は暫く思い出すように考えてから言った。
「忘れていたけど、自分の中の正義を曲げることができない。そんなふうに意志が強かったかな。遠田の偏見は親からの刷り込みだから、本人のせいではないんだ」
「親?」
「教師の親で、男は男らしく、女は女らしくって昔考えの人ってこと。もちろん、性差別への偏見は強くて、おかまとかゲイとか言う人は病気だって本気で思ってる。そういう家庭で育ったから、最近の風習は受け入れられないみたい」
 阿古がそう言うと、嗣永は察したようだった。
「多少の興味はあるんだと思う。俺が勘違いしてしまうくらいに、スキンシップは人より多かったし、それはそれで嬉しかったんだけど……ある時、俺より早くに告白した人間がいたんだ。仲良くしていて、遠田は親友の一人だって言ってた。でも、それで親友じゃなくなった。言いふらしたりはしなかったけど、ことあるごとにホモとは付き合えないって言うようになって、そこで俺はもしかしたらという希望は捨てた」
 阿古がそう言って懐かしそうな顔をしたのを嗣永は見逃さなかった。
 阿古にとって遠田のことは既に終わったことで、思い出でしかない。ほろ苦い思い出の一つ、そこに初恋があって、失恋もあった。
「遠田にとっての普通と俺にとっての普通は全く違っていて、俺は多分この先その違いを見せつけられるたびに苦しくなって耐えられなくなるんだって思って、とにかく知られるのが怖くて、逃げればいいって逃げたんだ」
 阿古はそう言って寝転がったままで、嗣永の手を取った。その手を嗣永が握り返すと、阿古は先を話し始めた。
「とにかく地元を離れなければって思って、でもそう遠くへはいけなくて。それでも実家を出たらきっと生活が変わって、きっと忘れられると思ってた。志望大学を変えたことで、遠田とはそこで終わったけど、俺は知られて終わるよりはずっといいと思ってた」
「いい思い出として、残りたかった?」
「それも期待したし、いつか思い出になって笑って会える気がした。そんなのはまやかしで、生き方が違うことは隠しようがないって今日は思い知った」
 阿古はそう言うと、嗣永の手を握って引き寄せて、その手にキスをした。
「俺は自分の生き方を変えてまで、遠田と生きたいわけじゃない。それがはっきりと分かったし、離れている間に遠田への思い出が、美化されてて……その意外に不快なことをはっきり言うタイプだったことを思い出したんだ……」
 そう阿古が言うと、嗣永はやっと気付いた。
「友達かと聞いたのも、思春期の~とか気の迷いだ~だのって、あれ、阿古が不快に思うの分かってて言ってたことか……つまり、阿古がゲイだって途中で気付いてたのか?」
 遠田の当たりが強かったのは、阿古が変わってしまったことへの当てつけではなく、阿古がゲイだと気付いたのに、自分に都合が悪かったために、阿古へ圧力をかけて勘違いと言わせてしまいたかったというのだ。
「そう……俺が昔、妥協していた部分、同調する性格なのを思い出したんじゃないかな。そうかもしれないって考えるようにわざと言うの。イエスなのをノーと言わなくてもノーに近いグレイな反応程度にはしていたと思う。惚れた弱みでね。だから、遠田は俺が二年もの間、変わることなく生きてきていたと信じていたんだと思う」
 阿古はその間に父親にカミングアウトし、味方を得ていた。環境も変わり、高校生の気分は二年の間にすっかり抜けた。遠田のいない日々に慣れ、遠田の言う通りの反応をしなくなった。
「俺は二年で変わったと思う。特に嗣永と出会ってから凄く変わった。俺にとっては生きやすくて、心地いい変わり方をしたと思う。ああ、凄く嗣永を好きだって思えるんだ」
 阿古がそう言って起き上がると、寝転がっている嗣永の上に跨がるように座った。

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