Goodbye amnesia02

 志田洸(しだ ひかる)は自分の名前を確認して、本当に自分がそうである確認を更にした。洸の部屋には、洸が前に住んでいたマンションで使っていた物が全て運び込まれていた。
 思い出の品やなくなっては困るもの、そういうものが綺麗に部屋の隅に並べられている。大きなマンションで寝室すら十畳以上ある部屋を与えられ、個人的な個室として洸の部屋もあった。
 あの寝室だった場所は、第二のリビングだった場所を改造して病室にしていたけれど、洸が目覚め、医者からも太鼓判を押された一週間後には、機械の全てが撤去され、大きなリビングとして機能している。主に洸が日常的にいる部屋で、そこの大きな窓からは街が見下ろせるのである。とてもいい部屋なので、洸に使って欲しいと、一緒に住んでいる、義理の兄だった寺嶋和隆(てらじま かずたか)がそう言った。
 寺嶋和隆は、年齢は二十八歳。洸と出会った頃は大学院に通っていたらしいが、洸の事故後には大学院を辞めて、義理の父親だった荘吉の会社の手伝いをしているという。
 荘吉の会社は、荘吉の長男である連(れん)が後を継いで社長になっている。連は洸を可愛がってくれた人であったが、今は洸を混乱させたくないと言って尋ねてきてはくれていない。
 その会社の仕事をこのマンション内でできるようにして、常に洸の側で過ごしていたというのだ。
 洸は荷物からアルバムを取り出した。
 覚えている写真を開き、確認していく。自分が志田洸である証拠がここにある。
 その写真を捲っていくと、洸の覚えていない写真が出てきた。修学旅行の写真である。
「行ってないと思ってたけど、行ってるんだ」
 その時に仲良かった友人と楽しそうに旅をしていて、それを見ていて洸はその記憶がないことが悲しいよりも、他人の記憶を見せられている気がして不思議だった。
 その先には家族で撮った写真がいくつもあった。
 新しい家族と書かれた場所に、和隆が写っている。洸は和隆にしがみついて最高の笑顔を浮かべている。
 気持ちは分かる。家族は死んだ母親だけだと思っていたから、そこから家族が増えていくのが嬉しかったのだ。たぶん、和隆が優しいのだろう。どの写真を見てもちゃんと笑顔で写ってくれている。
 その写真の端の方に、もう一人の兄という人物、古瀬浩一郎も写っている。金髪の長い髪が裾の方でカールしている。前髪も同じように伸ばし、肩くらいの長さになっている。和隆が言っていたが、母親は海外の人間だったらしい。
 その人物は最初こそ写真に写ってはいたが、次第に写らなくなっていた。家族会にいるので、仲が悪いわけでもなかったようであるが、過去の洸は和隆以外に興味がないことが分かってくる。
 写真の端々には、「和隆と一緒に」など、とにかく和隆に執着している様子がはっきりと分かる。
 今の洸は和隆にそこまでの執着はないのだが、過去の自分が異常なレベルで和隆のことを好きなのが分かってしまった。
「僕、ここまで好きだったんだ……」
 写真を見返していると、近くに日記があった。
 日記を付けていた記憶はある。母親が死んだ時から、気持ちの整理のために付け始めたものだ。それは他の本と分からないような表紙にしてあるので、洸にしか分からないものだ。
 洸はその同じカバーをしている日記を引き抜いて眺めた。
 最初の覚えているところは飛ばし、覚えていない辺りを探すと、きっちり新しい家族が増えたという書いた覚えもない内容が出てきた。
 そこを見ると、兄が二人増え、新しい母親だという人は、海外の人で綺麗な人だと言っている。
 寺嶋和隆の父親と結婚した古瀬ジェーンという女性が浩一郎の母親だ。和隆の父親が事故で死んでから五年後に吉敷荘吉と結婚したことになる。最初から和隆のことを格好いいと素直に褒め、浩一郎のことはそこまで触れてはいない。
 相当和隆のことを気に入ったどころか、一目惚れをしたと書いている。
 どうやら、和隆が言っていた猛烈にアタックしたのは、洸であることは間違いはなさそうである。
「……恥ずかしいな、ほんと」
 その辺りを読んでいっても、四六時中和隆のことばかりである。
 その途中で洸は日記を閉じた。どうも自分の日記を読んでいるはずなのに、他人の秘密をのぞき見している気分になってしまったのだ。変な罪悪感が沸いてしまい、日記を元の本棚に戻した。
 とにかく今は過去を思い出すことよりも、日常になれていくことである。
 四年という記憶の喪失と二年の昏睡は、思った以上に世界の激変を知ることになった。
 まだ学生だからと言われて携帯電話しか持たせてもらってなかったのに、今は高校生がスマートフォンを持って歩いている。
 テレビ番組は、続きはWebでと平然と言い、それが当たり前のように誰もが日常をネット上にアップしている。
 興味があるか分からないがと、連絡用にと渡されたスマートフォンのOSは洸が知っている時よりも七つほどバージョンがあがっている。操作性は理想的なものどころか、音声で全てが解決する始末だ。
 メール自体が完全に一般から消え、アプリでの連絡が当たり前になっていて、洸はそれを覚えるのに必死だった。
 躰を動かすための運動はしているが、それ以外はまだ座っているしかないので、携帯自体が洸が世界を知る手段である。
 テレビには自分が見ている時に流行っていたものは既に廃れ、人気の俳優や歌手は大物以外は知らない新人ばかりになっていた。
 たった六年で世界から取り残されたような感覚に、洸は混乱するのを押さえるのに必死だった。
 それでもここから生活をしていかなければならないので、洸はテレビで情報仕入れ、分からないことはネットで調べた。
 まだ外出はできないので、車椅子を押して移動をし、やっとトイレやお風呂も付き添いなしで一人で勝手にいけるようになった。
 それまでは全て和隆が処理をしていたらしく、慣れた手つきで手伝われそうになって、洸は必死に抵抗をしたほどだ。
「さすがに、恥ずかしい……」
 洸がそう言うが、和隆は二年もの間、洸の全てを世話してきたので、キョトンとして、これくらい当然だろうと言われた。
「いや、これからは自分でできるから……っ」
 そう言ってトイレで座って抵抗する洸を出てくるまで和隆は待っていた。
 一週間して、洸が自分でゆっくりと歩いてトイレにいけていることや、お風呂にもシャワーを浴びるくらいはできるようになると、和隆は段々と手を引いてくれた。
「残念だけど、仕方ないかな……」
 本当に残念だと言われて、洸はちょっと引く。彼にとって洸の全てを管理することは、もはや日常だったのだろう。
 寺嶋和隆のことを昔の洸は好きだったのだろうが、今は恋人だと言われてもピンとこない。それよりも急に男の恋人がいましたと言われても、男に恋をする自分が想像できないのだ。
「何だって……よりにもよって身内なんだ……」
 赤の他人なら、記憶がない時点で別れて終わる。さらには意識不明の時点で、相手が諦めて消えていただろうに、身内では手に取るように状況を把握できる立場だ。しかも寝たきりを引き取って世話した間柄では、邪険にして離れるわけにはいかない。
「僕が押していたと言ってたしなあ……」
 あのイケメンの青年をがっかりさせるのは、心が痛くなるので、なるべく言われた通りにしているが、それでも許容範囲を超えることはできない。
「洸、お昼にしよう。今日は洸の好きなお寿司にしたよ。お医者からも許可も貰ったしね」
 そう言って和隆が洸の部屋にお昼のお寿司を持ってやってきた。どうやら出前を受け取ったところらしい。
「今日はこっちで食べよう」
 そう言って、洸のリビングのテーブルに配達されてきた寿司の入れ物を並べている。
「ちゃんと洸が好きなネタと、好きな店のだから味は間違いないよ。ああ、寿司屋の親父さんが洸が目を覚ましたって聞いて、凄く喜んでくれて、洸の好きなネタを一貫を祝いに入れてくれたよ」
 そう言われて洸は、アルバムなどをそのままにしてリビングの方へと入った。
 和隆は基本的にニコニコしており、優しい。洸が困っているといつの間にか助けに入ってくれて、至れり尽くせりである。
 洸の躰に触れるときも大事な物を抱くようにして柔らかく抱いてくれる。
 この人が本当に自分を好きなのだと、洸には分かってしまう。
 そしてそのことを心から自分が喜んでいることも分かってしまった。
 男の恋人なんてと思ってはいても、優しくされたら昔の自分が心の底から喜んでいるのか、ドキドキとして胸が高鳴るのだ。それが恋をしていることなのだろうが、他人の感覚を味わっている感覚が少しだけある。
 自分の心は正直に喜んでいるのに、頭にある自分が冷静に違うと言っている。
「わあ。中トロ多めだっ」
 寿司屋の大将が祝いにくれた洸の好きな中トロが多めに入っているのが分かる。
「良かったな。これ大好きだもんな」
 和隆がそう言うのを聞きながら、洸はさっと座って手をお手拭きで拭いてからさっと中トロを口にした。蕩ける感覚に久しぶりに美味しい物を食べたという感覚が蘇ってきて、躰がどんどん寿司を欲しがった。
「ああ、ゆっくり味わって食べること。まだ胃がそこまで丈夫じゃないんだから」
 一昨日までオードブルを口にしていた洸は、美味しい物に飢えていたのもある。寿司をゆっくりと味わいながら、オードブル生活におさらばした。
「美味しいっ」
「そうか、じゃ、そっちのタコをくれたら、こっちの中トロもあげるよ」
 そう和隆が言うので、洸は目を輝かせてタコを和隆の器に入れて、中トロを掻っ攫った。
「本当に好きだね……」
 呆れるほどの早さで中トロを平らげてから、他のネタをゆっくりと楽しんだ。
 そこでやっと洸は和隆が本当に洸のことを何でも知っていることで、恋人かどうかは置いておくとして、もっとも近くにいた人であるのは間違いないと認めることにした。
「……本当に僕のこと何でも知ってるんだね……」
 洸がそう呟くと、和隆が笑って言う。
「コーヒーはミルクに砂糖二つ。お茶は静岡産の丸屋の物。可愛い物が好きで、お菓子でも可愛い物が好き。お茶菓子は大好きだよね、可愛い形が多いから。甘い物が大好きだけど、一番好きなのは一般的なスーパーにあるぷちんプリン。あれをうっかり洸に内緒で食べたら一週間口をきいてくれなかったっけ……。だから吉敷家の近くのパフェ屋まで連れて行って、プリンアラモード奢ったんだよね」
 そう言われて、洸は顔を赤らめる。
「も、そういうことは、言わなくていいっ」
 恥ずかしいったらありゃしない。どれも洸の現状でも同じの好きな物だ。家族じゃなければお茶の名産地や店までは知らないし、お茶菓子が好きなのも家族しか知らない。ましてや吉敷家の近くのパフェ屋のことは父親や友達だって知らないことだ。だって秘密にしていたから。
 そうしたことまで知っているということは、相当親しくしていたのが窺える。
 それに和隆と話していると、不思議と自然に毒気を吐いたり、フランクに話すことができていた。
 今のところ全然知らない人であるはずなのに、敬語が信じられないほど出てこない。彼の顔を見ていると自然とフランクに話してしまうのだ。それが習慣だったと躰が覚えていて自然とそうなるのだ。
 洸はこの辺のことはもう諦めて、自然となるように任せた。
「……それで、僕はどうして意識を失うほどの怪我をしたの?」
 ずっとその原因のことを聞いてこなかったのだが、洸はやっと尋ねた。最初の説明の時に父親の荘吉と和隆が、同じような顔をして理由を言いたがってなかったのが分かったので、ここまで尋ねずにきたが、もう知ってもいいと思う。
 そう洸が尋ねると、和隆は一瞬で顔色を変えた。
 その時のことを思い出したのだろう、お箸を持っていた手が震えている。
「……その、喧嘩をしたんだ、私と洸は。その日は洸の機嫌が悪かったが、私の機嫌も悪くて、言い合いになって……争っていたら、洸がベランダに出たんだ。興奮していて、危ないと思った時、足が滑って洸が転んだんだけど、その場所が悪くて……」
「場所?」
「そう、ちょうどデザイン的なもので、鉄柵になっている部分があったんだが、そこの鉄柵が洸の躰の重さに耐えきれなくて、元々破損していたんだろうけど、すっぽり鉄柵が抜けて、洸はベランダの向こうへ転がって落ちたんだ……あっという間で、助けることができなかった……」
 そういう和隆は手が震えているし、顔色も真っ青になっている。
「マンションって、僕のマンション?」
「いや……私が前に住んでいたマンションなんだ……」
「じゃあ、一緒に暮らしてた?」
「……その時はまだ一緒には暮らしてなくて……でも洸はよく来ていたよ」
「その喧嘩って……何が原因?」
 そこまでの喧嘩に発展するなら、それ相応の原因がありそうだ。
「それは……私が研究が忙しくて、洸を蔑ろにしてしまっていたから」
「それって、仕事と僕どっちが大事っていう話?」
「そうではなくて……研究に没頭しすぎて、自宅にも帰れていなかった私を洸が心配してくれて、それを私は……研究を優先したいがために暴言を吐いてしまったんだ。確実に私が悪くて……洸はそれで心配することも駄目なのかと怒ったんだ」
 そう説明されて、洸はおかしいなと感じた。
 和隆が全て自分が悪かったと思っているようで、洸に何の非もないように話してくる。それがおかしいのだ。喧嘩になったなら、洸にだって悪いところがあったはずなのだ。
「十階の高さから落ちたんだけど……幸い、大きな木があってそこに落ちたから、死なずに済んだんだ」
 そう言いながら、和隆が洸に近づいてきた。
「え?」
 洸が驚いていると、和隆は洸をぎゅっと胸に抱いて、震えながら言った。
「ああ、洸……本当に生きていてくれて……よかった……」
 心の底からそう思っているように、洸を大事に抱いて和隆が言った。
 その言葉には嘘はなく、本当にそう思っているのが伝わってきて、洸は何も言えずに抱きしめてくる和隆の腕の中で大人しくしていた。
 こんなに心を痛めているけれど、それでも洸が悪いとは言わないのだ。結果的に、洸が死にかけたという事実は曲げられない。あの時、本気で向き合っていたら、洸はこうはならなかったという気持ちが強いのだろう。
 たとえ、洸が悪かったとしても、和隆が自分が言葉を選ばなかった結果が、洸の意識と記憶の喪失として残っているから、どう言っても駄目なのだろう。
 その辺は荘吉の方がもっと分かりやすかった。
 荘吉は和隆を責めはしなかったし、洸に付き合うことはないと思っているようだった。
 病院に預けておけば、洸は完全看護で治療もできたのに、和隆はそれすらよしとしなかった。そこは恋人を放ってはおけないという気持ちがあったのかもしれないし、義理とはいえ、兄弟だった事実から付き合っていることを隠していたが、その後親が離婚したことで、兄弟ではなくなったから、恋人でいることを選んだのだろう。
 大学院は辞めているようで、そこまで没頭していた研究も全て捨ててしまった。
 そんな人を疑いたくはないと洸は思った。
 

 更に一週間経つと、洸は足を少しだけ引き摺ったようにして歩くことができた。
 躰の状態が段々と日常生活に近づいていくにつれて、洸の躰の動かない部分が残っていることに気付いた。
「動けるようになって、初めて不調が分かることもあるからね。でも走ったりしなければ、日常生活に困るような麻痺はないようだね。ただ足は骨折後の手術なんかでリハビリも遅れたから、少しだけ引き摺ってしまうかもしれないね」
 医者はそう言って、洸が足を引き摺ってしまうのは仕方ないと言った。
 洸はマンションから落ちた衝撃で、木の上に落ちたとはいえ、そこから意識がないまま四メートルの高さの木の上から落ちた時に胸や腰などを骨折した。
 肩や足には木の枝が刺さり、神経を少しだけ傷つけていたからなのだが、足だけが二度と走ったりできない後遺症をもたらしていた。
「まあ、陸上はしないし……スポーツもしてなかったし」
 走れないのはいろいろと不便であるが、全力疾走ができないだけで、足を引きずった状態でなら、少しだけ走ることはできる。
 マンションの十階から落ちてこれなら、寧ろラッキーな方だなという感想だった。
 毎日リハビリの体操を和隆がしてくれていたお陰で、必要最低限の筋肉は保たれていて、洸の回復を格段によくしてくれていた。歩くことは一週間でできるようになり、綺麗に歩けるようになったのは、更に一週間かかったが、病院のリハビリに自力で通えるほどにはなった。
 最初こそ和隆が付いてきて、あれこれしてくれたが、洸は一人でタクシーを呼んでそれで病院まで通った。まだ杖を持って用心しているが、家の中では杖も使っていない。
 さすがに駅を使うのは、体力がないので無理だと言われてタクシーを使うように言われているため、あまり外には出ていない。
 それでもマンションの隣にある小さな公園には一人で行くことができた。
 秋が深まっている公園は、昼間は色んな人が紅葉を見にやってきているが、夕方になると一気に冷えるので、人の足も速い。
 洸は小さな公園を一周して足を鍛え、持ってきた水をベンチに座って飲んだ。
 充実しているリハビリ生活であるが、洸の回復していく躰と裏腹に記憶は戻ってはこない。 
 最近は、忘れていることを忘れていると言っていいほど、現実が忙しい。躰を動かすことに必死になっていて、過去を思い出せないことで不都合は生じていなかった。
 ふと昨日、携帯をいじっていて気付いたのは、洸は一人の友人もいなかったことだ。
 高校時代の仲が良かった友人の名前は、元の携帯からは削除されていて、覚えている名前を探しても誰も登録されていなかった。
 別々の大学に入ってしまったようで、その後の連絡を取らずに四年だ。
 携帯には知らない人の名前は一切なく、家族の連絡先しか登録されていなかった。
 最近の知り合いはいないのかと不思議に思っていると、どうやら事故の時に持っていたスマートフォンは一緒に落下して破損し、更に近くの川に滑り落ちたらしく水没によってデータもマイクロSDも破損したのだと和隆に言われた。
 つまり大学時にできた友達の連絡先などは全てそこにあったわけだ。なるほどと納得したが、それでも元の携帯の高校時代に友人の連絡先を消してしまったのは、何でだろうと不思議が一つ残ってしまった。
 連絡先のデータ移行はしたはずなので、もし今連絡をとっていなくても、昔の連絡先は残って放置していたはずなのだ。それなのにわざわざ消している。
「洸っ!」
 ずっと考え事をしていると、急に名前を呼ばれた。
 ふっと振り返ると、和隆が走ってくる。
「あ、和隆……どうしたの?」
 そう洸がキョトンとして尋ねると、和隆は必死になって洸を抱え上げた。
「わっなにっ……」
「帰ろう、こんな時間までいて、躰が冷えてしまっている。風邪を引くよ」
 そう言ってくる和隆の方が、上着を着てもいないワイシャツにネクタイだけのスーツ姿で、寒そうである。
 相当慌てたのだろうか、薄着で飛び出してくるほどに洸が戻ってこないことに不安になって出てきたのだろう。
 空はとっくに暮れていて、周りは薄暗くなり、街灯が点灯し始めている。
 考え事をしていたので、時間が早く過ぎてしまったことに、洸は気付いてなかったのだ。「心配したよ、倒れているじゃないかって……」
 そう言って和隆が洸をギュッと強く抱く。
「ごめんなさい……ちょっと座って考えごとをしていたから」
 そう洸が言うと、マンションの中に入り、エレベーターに乗ると和隆は床に洸を下ろしてくれた。
「何をそんなに考えていたんだい?」
「あ、うん。二年も経ってたら、友達もみんな忘れちゃってるよなって」
 そう洸が言うと、和隆がそれは違うと言った。
「入院をした時はお見舞いに来てくれた子もいたけど、こちらからお断りをしたんだ。寝たきりでいる洸を見せたくなかったし、そのうち忙しくなって彼らが来られなくなって、段々と見舞いに来ることも負担になるし、洸の昏睡は長期化することは確定していたから、それを説明して病院に来ないようにお願いした。まあ、そのすぐ後に洸を私が引き取ることになったから、どのみち彼らは会いには来られなかっただろう」
 そう和隆が言うので、洸はなるほどと納得した。
 二年なのだ。そんな長い期間、入院した友人の元へ通うなんて、相手の負担にしかならない。大学に入って忙しくなっているから、次第に来られなくなり、月一回が数ヶ月と長くなり、何だかんだで来なくなるのだ。
「だからって忘れてた友人のことを恨んではいけないよ。彼らには普通の生活をして貰いたいんだ。これから就職だって始まる。そんなときに、洸が負担になるなんて言われたら、私は悲しい」
 そう言って和隆が悲しい顔をする。
「あ、あの。大丈夫、僕は。ただちょっと二年経っているって感覚がなくて、それでつい数週間の感覚で言ってしまっただけで……ごめんなさい」
 洸が慌ててそう謝ると、和隆はなるほどと納得した。
「そうだね。洸はまだ高校生の気分でいるんだよね。仕方ないことだけど、段々と現実が分かってきて、こういう事実も出てくるから、先に言っておくけれど」
 そう和隆が言い、話を進めた。
「君の高校時代の友人達の電話番号や連絡先を携帯から消したのは私なんだ」
「え? なんで?」
「君の記憶が高校時代で止まっていることが分かった時に、君がうっかり連絡を取って、友人達の現実を知って混乱したりしないように……予防を取らせて貰ったんだ」
「……あ……そうか……記憶喪失なんて聞いたら、きっと驚くし困るよね」
 洸は自分のことだけを考えて、友達と連絡を取ろうとしていたことを恥じた。
 友達の方だって、久しぶりに連絡をくれた相手が、つい二週間前まで意識が混濁していて、寝たきりに近くて、しかも記憶喪失で高校時代の記憶が半分ありませんなど言われたら、どう返していいか分からなくなるはずだ。
「それもあるが、もう既に連絡を取ってない友人達もいたと思う。その人からすれば、ただのネタにしかならない。面白がって家に来られても困るから」
 和隆がそう言ったので、洸は驚く。そんなことがあるのだろうかと思っていたら。
「最近は面白い話があるとネットで呟くのが流行っているんだ。中には個人的な配信をしている人だっている。それ自体は悪くはないと思うのだが、そのネタが洸の悲劇だとしたら、私は耐えられない。だからその前に連絡手段を消した」
 和隆がそう言い切った。悪いとは思ってないという態度である。
 しかし、他人の不幸を喜んでネタにする人間がいることは洸だって知っている。それがネットという世界を通じて全世界に配信されるのだというから、さすがにそれは困る。
 その辺を警戒して早めに対策を採ったのだと言われたら、まさに洸がうっかりやろうとしていたことを和隆の懸念通りにしていることになる。
「……ごめんなさい、深く考えないで行動しようとしていた……そうだよね。僕の事情なんて相手は知ったことじゃないんだよね。だってもし連絡を取っていたとしても、もう二年経ってるし、僕の記憶は六年前で止まってるし、いろいろ面倒になっちゃうよね」
 やっと洸は自分の状況が、二年、または六年以上過ぎていることを蒸し返すように話をしても、相手からすれば困るだろう。実際、今の話を友人達がし出したら、洸も置いてけぼりにされるから困ってしまうのと同じことだ。
 一回くらいは思い出話には付き合ってくれるだろうが、それ以上は絶対に会えない。
「……分かってくれて、嬉しい。洸には辛いことだけど、洸は今の生活をしっかり作って、社会復帰までできたら、きっと過去のことなんて気になる暇もなく、皆と同じように生きていくことで精一杯になっていくと思う。だから、無理に昔に向き合わなくていいと思う。私は、それでいいと思っている。今の洸も大好きだから」
 そう和隆が言うと、エレベーターが最上階に着いた。
 最上階の三十七階のタワーマンションであるのを、最近外から眺めて、洸は生活環境すら変わっていることに気付いていた。
 連絡だけではない。洸のマンションはそのまま資産として残しているが、今は貸し出していて知らない人が住んでいると聞いた。家賃として払われるお金が洸の貯金に振り込まれていて、それが一応の資産だ。
 置いておくだけよりは貸し出した方が、部屋が傷まなくて、さらには管理も任せられるのでそうしたと言われた。
 洸の帰る場所はこのマンションしかなく、別のマンションに住んでいるはずの和隆は、元のマンションを売り払って、ここのマンションを買ったらしい。その資金援助を荘吉がして、洸のための療養施設にした。
 何もかも準備されている環境を抜け出して、生活をする余裕や知識は今の洸にはなく、これからそれらも学んでいかなければならない。
 過去を気にして、悩んでいる暇がないのだ。四年、その知識が洸には足りないのだ。
「洸、思い出すなと言うわけじゃない。ただ、思い出すことに熱中して、今を生きるのを辞めないで欲しい。それだけはお願い」
 和隆がそう言ったので、洸は頷いた。
「分かったよ、和隆。ちゃんと生きていけるように、僕、リハビリを頑張る。当面は今の世界情勢になれることだよね。いやあ、まさか記憶がないうちに首相が二人も代わってるなんて思わなかったもんね」
 洸はそう言って笑う。
 世の中が進んでいく以上、前を向いて生きるしかない。
 過去を思い出すよりも、今が大事なのは分かっている。それに自分が誰というような記憶喪失ではなく、自分が誰なのか分かっていることは、不安を少なくさせている。
「今日の夕飯は、山下亭のハンバーグだよ。私のお勧めだから、楽しみにしてて」
 和隆がそう言って、洸は目を輝かせた。
 ハンバーグは洸の好きな食べ物の一つである。
「やった、楽しみ」
 洸がそう言って部屋に入ると、和隆は部屋のドアを閉めて、チェーンを二重にかけた。
 洸がここで療養しだしてから、二重のチェーンを用意した。ここから洸が逃げ出せないように、逃げ出すにしても手間取るようにした。
 和隆は玄関の鍵がかかっているのを確認してから、洸の後を追って居間に向かった。

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