Goodbye amnesia05

 洸が電車で倒れ、和隆に助けられてから、目を覚ました時には洸は自宅に戻っていた。
 ふと目を開けると、知っている天井だったが、ベッドの感触が違うことに気付いて、洸はふっと横を見る。
 すると和隆が眠っていて、洸を抱え込むようにしていた。
「……え、わっなんで……」
 洸はどうしてこういう状況になっているか分からずに慌てたが、自分がシャツとパンツだけであることにも気付いた。
「なんで、こんな格好で……え?」
 洸は困惑する。何が起こってこうなったのか訳が分からなくなった。
 確か、自分は電車で過去に自分をレイプした男に動画を見せられて、混乱して記憶を全部思い出したはずだ。
 幸い、これまでの記憶も失ってはおらず、過去の記憶は大体の部分は思い出せた。
 特に、事実を知らされた部分は克明に思い出せており、どうやら記憶の保管の意味でも、知る必要があったらしいことが分かった。
 それでも洸は自分の痛みとして過去のことを感じるのだが、それでも今の自分が過去に経験した事実だとは思えないほど、何かのフィルターがかかっているかのように感じていた。
「……洸……起きたか?」
 和隆がそう言って躰を起こす。その和隆も上半身は裸である。
「あ、あの……なんで、こう……なって」
 洸が慌てて離れようとすると、和隆は洸を抱き寄せて胸に抱いた。
「わっわっ……ねえなんでっ」
 こういうことになる原因がさっぱり分からない。
「あの後、雨に降られたんだ……で、風呂入って、着替えも面倒だからそのまま寝た」
 和隆がそう言うのだが、なんでそこからこうなるのかも分からない。
「あの……僕、倒れて……その……なんでそこにいたの?」
「うん、倒れたね。無理して、思い出そうとしてたから、ちょっと気になって跡を付けた。そしたら私のマンションに辿り着いたから、管理人にお願いして、知っていることを話してくださいってお願いしておいたんだ」
 そう言われて洸は、なるほどと納得した。道理で普段いない管理人がいて、当時の記録を簡単に出してきて話ができたのか理解した。
「……思い出してほしくなさそうだったから、言えなかった」
「それも分かる……だから、洸の思う通りにさせようと思った。だけど、あんな輩に再会するとは想像もしてなかった」
 和隆がそう言い、怒りに震えている。
 その震えが洸に伝わってきて、洸は少し涙を流した。
 過去の洸が泣いている。悲しいのと、やっと分かって貰えたことで。
「……どうして、知ってるの?」
 洸の過去は洸の中にしかないはずだ。ましてあのレイプ事件など、洸は誰にも言ってはいない。その相談をしに行った先で、自殺を図ったのだから。
「洸の携帯。実は壊れてなかったんだ。そこに脅迫者から連絡が入り続けてた。だから、そいつら全員の居場所を掴んで、全員別の罪で刑務所に入って貰った」
 そう和隆が言う。洸の事件の他にも事件を起こしていた男達だったので、洸以外の人間が警察に相談していた事実を掴んだので、情報を全て渡したのだという。
「電車のヤツは零れたヤツだったから、弁護士を通して身柄の捜査をしてもらった。さっき、逮捕したって連絡を貰った。別の事件でも常習犯だったらしい」
 和隆がそう言う。
 洸の記録も入っているが、被害者は他にも沢山いる上に、洸の記憶が曖昧なこともあり、裁判では不利に働くことも警察は理解して洸のことは被害者に含めなかったという。
「本当ならもう終わっていたことだったんだが、洸の中で終わっているわけはないよな。あの日そのことを相談しに来ていたんだよな。それなのに、俺は弟離れをさせるために、嘘を重ねて、洸を絶望に追い込んでしまった……」
 和隆がそう打ち明けてきた話に、洸は目を見張る。
「……う、そ?」
「婚約なんてしてなかったし、女性は同じ研究所の人に事情を話してお願いをしたんだけど……厄介なことに関わらせてしまって、申し訳なかったと思っている」
 和隆は洸が異常に和隆に構うために、弟離れをした方がいいと感じ、一芝居打ったらしい。しかし洸の絶望は和隆の予想を超えていた。
 洸は絶望した自分を殺そうとしたほど、追い詰められていたのだ。
「あの後、女性に言われた。弟として見るのをやめなければ、同じことがまた起こる。もしそうする気がないなら、早々に距離を置いてあげるのが洸のためだって」
 そう言われた和隆は、洸の携帯のメモを見た。そこには和隆の言葉ばかりを書いたメモもあったが、それとは裏腹に荒れた生活も垣間見えた。
 義理の兄ではあるが、古瀬浩一郎とも寝ていた洸のことを知った母親が、とうとう離婚を申し出て、荘吉と離婚をした。
「洸と私のためだと言った。兄弟でいる限り、洸は救われない。私がどの選択をするのかは自分で決めろと言われたが、それでも洸のために選べと言われた」
 和隆が側にいるにしても、離れるにしても兄弟では洸を追い詰めるだけだ。全く関わり合いがない立場になるか、それとも洸にもっとも近い人間になるか。それが和隆の選択一つで決まる。
 和隆は洸のことは大事だったし、洸の気持ちも知った。
 周りからお膳立てもされたし、どうするか悩んだ。
 しかし、洸は目覚めなかった。
 荘吉から洸の側を離れ、大学院に戻れと言われた時、和隆の心は決まった。
 大学院を辞め、研究を片付け、洸を引き取った。
「どうして手放せる? こんなに可愛い洸に、二度と会うことが許されない立場になるなんて、私にはできないことだった」
 洸が常に和隆の可愛い子だった。それは愛を超えていた。それはすぐに認めた。
 世間の弟のために休日を全て潰す兄はいないと言われた時に、気付いていたことだ。
「でも……僕は……」
 洸が言いかけるのを和隆がキスで止める。
「言わなくていい……洸は正直だから、携帯にあった日記は覚悟を決めた時に全部読んだ。洸はずっと私の代わりを探していたんだな。私が答えられないことを知っていたから。でも、できなかった。私の代わりはいないから」
「……うん、和隆の代わりなんて、いなかった……そして馬鹿をみた」
 人を利用して、人の心を見なかった。
 小出は洸を好きだったと言った。それなのに洸はそれを知りながら小出を利用して、躰の関係だけ持っていた。小出は、きっと洸と同じ立場で、苦しんでいた。
 どうせ別れるなら、酷いことをしてしまおうと思った心は理解できる。
 洸はもっとも卑怯な手段で、和隆の心に残ろうとした。
「僕は、和隆が好き。昔も今も和隆が好き」
 洸はそういうと和隆を抱きしめる。それを和隆は受け入れて洸を抱きしめ返した。
 和隆は洸の心を癒やすように、洸を抱いた。
「この傷は、全て私のためのものだ」
 和隆はその傷にキスをして、洸の躰中を愛撫した。それは二年間、ずっと見てきたモノだったが、改めて洸の意識があるときに触るのは、洸が目覚めた後の一週間以来である。
「洸……よかった、生きていてくれて」
 そう言いながら、和隆が情熱的に求めてくる。
 洸はそれを受け入れた。
「あっん……ああっん」
「私の洸……私のモノだよ」
 和隆は譫言のように繰り返し、洸自身に勝手は許さないと言った。
「この命は私のモノ」
 そう言いながら、洸の躰を丹念に愛撫して、最後は孔すらも舐めて解した。
「あっ……ああっ……和隆……ちょうだい……」
「ああ、洸……」
 和隆が洸を貫いて、洸はそれに翻弄された。
 記憶の中には沢山の人とセックスをしてきた記憶がある。しかし、和隆が今触れている全ては今の洸の感覚では初めての感覚だった。
 天にも昇るような快楽の中で、洸は過去の洸が自分の中に溶けて消えるのを感じた。
 大好きな和隆に抱かれる。愛の言葉を口にして貰える。それは過去の洸が恋い焦がれて求め続けたものだ。未練があるなら、これだけのことだ。
 その過去が溶けてきても、洸の感情はまだベールに包まれている部分もあった。けれど和隆を好きだった狂気に似た感情は綺麗に愛しているという思いに昇華された。
「バイバイ……僕」
 洸はその昇華される自分に向かって、さよならをした。
 それを聞いた和隆は、笑って洸を抱きしめた。
「おかえり、私の洸」
「うん」
 洸はしっかりと和隆に抱きつき、絶頂を迎えた。
 酷く満ち足りた気分で洸は気を失った。
 ぐったりとする洸を和隆は抱きしめ、汗を掻いた額にキスをした。
 洸は幼さを残す寝顔を和隆に見せて眠っている。そんな安らかな顔は久しぶりに見る顔だった。
「私の洸……やっと戻ってきたね」
 和隆は満足して、洸を抱きしめた。


 荘吉は、その一ヶ月後に二人のマンションを訪ねた。
 二人は、大きなマンションに住み続け、洸は別の大学を受け直すことになった。
「ちゃんと勉強したいしね」
 そう言って笑う洸であるが、高校二年で止まっている勉学を受け直ししなければならないので、夜間の高校に通っている。
 その通学に出てしまった洸を荘吉は見送って、和隆に近況を聞いた。
「今の洸はどうだい?」
 洸自身に話を聞いたし、前よりも明るい洸は、それまでの洸とは比べものにならないほど明るい性格になっていた。
 洸の自殺未遂をする前の洸は、自堕落な生活を送っており、和隆に執着だけを見せる恐ろしいほどの子供だった。
 高校時代から急に性格が変わり、別人のように荒れていく洸を荘吉は止めることができなかった。もう一人の息子になった浩一郎は、その洸にどんどん知識を与え、洸はどんどん悪化していった。
 その悪夢はもう起きないのかと荘吉は心配をしているのだ。
「今の洸は、荒れていた頃の洸ではないですよ。他の人格は消えていきましたが、一番困難だった洸の裏側を仕切っていたリーダー格の輝(ひかる)は、洸が過去を思い出した瞬間に統合されていったようです」
 和隆がそう荘吉に報告する。
「事故の後に目覚めたのが、本当の洸で、人格交代したまま乗っ取られていた期間の記憶は、今の洸でも曖昧ですが、大体の主要事件は思い出しているようです。それでも大きな混乱はなかったようですので、多分、私の存在自体が洸の人格構成に影響していたのでしょう」
 和隆に愛されたいのに、そうならない自分を洸は認められなくて、別の人格を作った。その人格は洸を守るために輝となり、様々なことを経験した。その人格すらも元の洸の和隆への思いに引き摺られ、和隆を求める気持ちは一緒だった。
 しかし、矛盾する行動が引き金で、洸のレイプ事件が起こる。
 混乱した輝は、洸を守るために和隆に縋りに来るも、洸の素行を知らない和隆が間違った対処をしてしまった。
 弟の執着から逃れようとした和隆は、本当に婚約者を作ったのだ。
 それに輝は混乱し、洸にこの事実を伝えることができないと思い、生きている意味がないと判断した。そして自殺に繋がった。
 洸の記憶は間違ってはいない。ただ記憶のすり替えを和隆は先に情報を与えることで、上書きをさせた。
 洸の友人たちの連絡先を断ち、唯一近づいてくるであろう小出との接触を作り、和隆のマンションまで辿り着けるように情報まで置いた。洸はそれで和隆のマンションへ行き、和隆が管理人にお願いして嘘の情報を交えて、教えるようにした。
 洸はそれで何とか和隆が望む形の記憶の改ざんをしてしまったようで、上手くいっていたのだが、誤算は電車で出会った洸のレイプ事件の関係者だった。
 洸の事件は、洸に話した通り、洸の状況から事件化はしていない。しかしその犯人が野放しのままでいることは想像していなかったことである。
「危なく、余計なことをされるところでしたが、洸は余計なところまで思い出しはしなかったようです。その後、このままが一番だと納得したのでしょうか、輝は消えました。洸にはそれが何となく分かったようで、お別れを言っていました」
 和隆がそう報告した。
 この後、洸は通院として病院に通った時に、医者からも人格統合の成功だとお墨付きを貰った。洸には気付かないように診察をしたが、事故後に目覚めた洸からは、それまでに現れていた輝という人格は一切現れてはいない。
 元々落ち着いた性格で、明るい洸であったが、恋ゆえに歪み、それは周囲にも分かるほどだった。
 高校時代の友人は誰一人して洸とは連絡を取っていない。洸の性格が変わり始め、おかしくなっていっているのを気味悪がって離れたのだ。
 その輝と仲が良かった小出は、輝を最終的に裏切った。
 それが引き金となり、輝の洸を守るという行動が全て裏目に出ているところで、和隆の一言が引き金を引いたことになる。
「全ては上手く収まっていますよ、お父さん」
 和隆は薄ら笑ってそう言った。
 荘吉はそんな和隆を少し気味悪く思った。
 まるで今度は和隆の方がおかしくなったかのような反応なのだ。
「頼むから、洸を不幸にはしないでほしい。私の願いはそれだけだよ」
 荘吉はたとえ和隆がおかしくなっていたとしても、それは洸を守るためなのだと言い聞かせた。
 二年間、一時も離れず洸を看病してきた人が、洸を不幸にするはずはない。
 それだけの実績を和隆は作って、洸を手に入れた。
「もちろんですよ。私が洸を幸せにします。この命をかけて」
 和隆はそう言う。そしてまた笑って言うのだ。
「洸が命を賭けてくれたように、私も賭けますよ」
 洸は和隆を諦めるくらいなら死を選んだ人である。和隆が洸に振られる時は、和隆が死ぬ時である。そう運命が決まっている。
 二年の間に和隆は、洸への愛を歪ませていた。荘吉の誤算はそこだった。
 洸のためになるなら平気で嘘を作り上げる。洸のためには自分の未来さえ変えた。洸と離れ離れになるかもしれないと思った時に、心は既に歪み始めていたのかもしれない。
 それでも和隆は心地よかった。
 ずっと可愛い弟と思い込むことで、恋心を錯覚だと思ってきた。
 しかし、それは間違いだった。
 障害である弟という立場を親の離婚で消してしまえば、堂々と洸に告白できた。
 今は結婚の代わりになるように、洸は和隆の籍に入っている。名目上は和隆の息子扱いになるのだが、洸はその方が納得できると言った。
 今までのように兄弟としてでは、和隆の気持ちが決心が鈍ったままで、気持ちが収まらない。なので、和隆の籍に洸が入ってしまった方が今後のためにはいいだろうと判断したのだ。
 洸はそれが日本でできる同性同士の結婚であると知って喜んでいた。
 もちろん、荘吉の戸籍に和隆が入る方もあるのだが、和隆は遺産の問題なども出てくるのが嫌で、更に洸と本当に戸籍上で兄弟になるのは、それこそ二の舞であるから断った。
「君は、本当に洸のことを愛しているんだね。最初から」
 その荘吉の言葉に、和隆は頷いた。
「一目惚れをしたのは洸だけではなかったんです。私も同じです。ただ私がこだわりすぎたせいで、洸を追い詰めた。その二の舞はしません」
 和隆の決心は強く、荘吉もこれ以上口を挟むのはやめにした。
「分かったよ。でも君の息子になってしまったとしても、私の息子である事実は変わらないから、洸のことは任せても、可愛がらせてもらうよ」
 荘吉が玄関でそう宣言する。高校時代に洸は本当に可愛かったのだ。その洸が戻ってきたのだから、荘吉は可愛がりたいのだ。
「ええ、分を弁えてくだされば、お好きにどうぞ」
 余計なことはするなよと、和隆が釘を刺したので、荘吉は笑う。
「この吉敷荘吉を脅せる人間が、この世にいるとは思わなかったよ。それじゃまた」
 荘吉はそう言って部屋を後にした。
 酒造メーカーの最大手の会長にして、不動産王の吉敷荘吉は政界にも顔が利く人間である。六十を前にして精力的に働き、息子を社長にした今でも権力をほしいままにしている。そんな人間だ。
 そんな人を脅して平然としている寺嶋和隆は、その荘吉の不動産王の後継者として社長に就任し、活躍している。


 午後九時を回る頃には洸が帰宅する。
 今日は和隆が休みの日だったので、自宅にいることを知っているから、洸は走って帰ってきた。
「ただいま」
 そう言って洸は和隆に抱きつく。
 そんな洸を抱きしめて、和隆は洸に言うのだった。
「おかえり、私の洸」
 そう言っておかえりのキスをするのだった。

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