Sugary-01

 大学で講義を受けているときだった。
「奥上さん、いる?」
 講義中なのに誰かが部屋に入ってきたかと思ったら、教授に話しかけ、教授が奥上奏(そう)を呼んだ。
「はい……」
「荷物を持ってきなさい」
 そう言われて奏は荷物を掻き集めて鞄に詰め込んで教壇まで行く。
「この人についていきなさい。いいかい気を確かに」
 そう教授に言われて講堂を出ると案内人が言った。
「君のご両親が事故に遭ったと警察から連絡があった。タクシーを呼んだからそれで病院に向かうといい。大丈夫かい、気を確かに」
 この話を聞いているうちに奏は目の前が真っ白になっていく。フラリとした体を抱えられて我に返った。
「すみません……分かりました」
 事故ってどういう事故なのか、電話を受けた人は聞いておらず、とにかく病院に来るようにという話だったと言われたらしい。
「……」
 突然のことに奏は慌ててタクシーで病院に向かった。
 病院に着くと、すぐに母親の友人が待ってくれていた。
「奏くん急いで。お金は払っておくから、早く! 間に合わないかもしれない!」
 泣きながら母親の友人がそう言ったので、看護婦に案内されながら急いで救急センターの治療室に入った。
 しかし到着したのと同時に、治療室から医者が出てきて言った。
「残念ですが、死亡が確認されました。到着時にはもう既に間に合わず……」
 医者の言葉に周りの親の友人たちが崩れ落ちて泣いている。
 どうして彼らがいるのかという疑問はすぐに思い出した。親は大学の同窓会に出ていたはずだ。休みを取って近所のレストランで食事を食べるだけの簡単な同窓会だ。
 だから両親がこうなった時に彼らが側で見ていたことになる。
「あんなこと起こるなんて」
「トラックが……」
「何てことだ……」
 様々な声が聞こえていたが、奏はそのまま治療室に案内された。
 父親も母親も治療は既に断念されていて、全身傷だらけで眠っている。
 その姿を見ると、今朝出かけるときに見た健全だった両親の姿からこの姿に塗り替えられてしまう。
 こんなことは起こるとは思っていなかった。
 だから心構えなんてしているわけもなかった。
 椅子に腰をかけるように言われて、奏は座るつもりもなかったのに、椅子に崩れるように座った。
 自然と足が立たなくなっていたようだった。
 もう心肺停止どころか、手の施しようもない状態で死んでいると言われた両親を前に、奏は呆然としたままで涙も出なかった。泣いてどうにかなるなら泣いている。けれどそんな感情すらも浮かばず、ただただ呆然をした。
 どうしたらいいのか分からずに立ち竦んでいるのを、周りの人たちが代わりに手続きをしてくれる。
「奏君の親族の誰か、来てもらえないかな?」
 申し訳なさそうに尋ねられて、やっと奏は我に返った。
「すみません……いろいろと……」
「いいのよ、できることはするけれど、親族とかじゃないと書類にサインができないの。それからお葬式のことなのだけど、病院から勧められている葬儀社があってね、そこでお願いすることになるけど、奏君のおうちはマンションだから葬儀社の葬儀場を借りてお葬式することになるのだけど、そうするといろいろと今日中に決めないといけなくてね」
 つまり死んだ人間を病院はもう置いてはくれない。
 事故の見聞も済んでいて、遺体を引き取ってもいいと言われた。けれど自宅に二人を運び込むことはできず、葬儀社に送迎を頼むわけだが、その手続きも親族がしなければならないわけだ。
 やっと現実的な問題になって、奏は椅子から立ち上がった。
「親族はいません、そう聞いているので……僕が何とかしなくちゃいけないんです。大丈夫です、あの分からないことは聞いていいですか?」
「ああ、そうなのね。いいわよ、うちもお葬式を出したこともあるし、相談には乗れるわ。さあ、こっちにきて」
 母親の友人が全ての手続きを手伝ってくれ、奏は二人を乗せた葬儀社の車で病院を後にした。
 目まぐるしいほどの忙しい時間が過ぎ、泣いている暇などないくらいに次から次へとやるべきことが出てきて、奏はその全てをこなし、両親の葬式までたどり着いた。
 葬儀場はマンションの近くにある葬儀社の葬祭場で行った。
 その時の出来事は、奏の運命を変える出来事だった。
 両親の見送りにはたくさんの人が来てくれた。しかしその中に、問題がある人物がいた。
 両親の生前から奥上の家族に付きまとい、何かと奏を引き取りたがった男がいる。
 名前は桜庭公一という地元でも有名な不動産会社の社長だ。かなりのやり手で、奏たちが住んでいるマンションの管理もしている。
 最初に両親がマンションを買って住み始めた時はそこまでではなかったが、奏が生まれ、五歳を過ぎた辺りからこの桜庭の執拗な奏を引き取るという話が始終奥上家を悩ませる事態になっていた。
 しかし両親は奏以外の子供を作らずに、一人息子だから手放せないという理由を作ってまでして、決して奏を桜庭には渡さなかった。
 その桜庭は真っ先に奏を見つけて駆け寄ってきたのだ。
「奏君、とても残念だよ……」
「あ、はい、わざわざありがとうございます……」
 来てもらった以上は奏も挨拶をするのだが、桜庭は焼香には行かずに奏の隣に座ろうとしている。
 親族が誰一人としていないから構わないのかと思ってやっているようだったが、それは葬儀社の人間に止められている。それでも桜庭は平然と奏の隣に座り、奏にだけ話しかけてくるのだ。
「大事な話もあるのだよ。だから焼き場に行っている間にお話をしよう」
 そう桜庭は言う。何の話があるのだろうかとふと思うのだが、桜庭の言いなりになるのは嫌だった。さっきから桜庭は奏の手を握ってくるのだが、手を握るのに意味があるとは思えなかったし、何よりこの人は両親の死を悼んではいないことだけが伝わってきたからだ。  
 何とか葬儀社の人が桜庭を後ろの席に追いやり、人前であることや葬儀での騒動はさすがに桜庭も嫌ったのかやっと下がっていった。
 ホッとしたのと同時にやっと両親のために奏は祈ることができた。
 焼き場に向かうと、二時間ほど待たされた。
 その間に桜庭がやってきて、待合から奏を連れ出した。
 奏はできれば行きたくなかったが、桜庭からマンションのことで話があると言われた。

「あの、マンションのこととは、何でしょうか?」
 そう奏が問うと、桜庭は言いにくそうにしながら話を続けた。
「実は、奏くんのマンションの部屋だけど、実は欠陥があることが分かってね」
「え?」
 桜庭の話は寝耳に水で驚いた奏は桜庭を見た。
「ご両親には話していたんだけど、部屋の補強をするには数千万かかるので、部屋の修繕をして暮らしてもらうのは無理になったんだ。それでね、三週間後に出て行ってもらう話をつけていたんだ。もちろん、こちらの欠陥工事のせいだから、マンションは買い取りになる話で、でも中古物件価格になるから若干買った時よりは下がるのだけど、三千万は保証されるから大丈夫だよね」
 そう言われて奏は驚いた。
 部屋を出て行くことになるのは正直言うと今は困る。
 両親のこともあるのだが、それよりも奏には身内がいない。だからマンションを追い出されたら部屋を借りるための保証人がいない。
 こんな緊急に出て行けと言われて、奏は混乱した。ただでさえ両親の葬式中だ。こんな時にと思うのと同時に、こんな時だからこそ言わなきゃならないことだったのだろう。
「あ、あの、今はその……考えが思いつかなくて……」
「あーうん、分かるよ。それでね、奏君って親族の人はいないでしょ? 保証人とかいなくて次の部屋を借りられないよね? ご両親のご友人たちは保証人にはなってくれないと思うし」
 そう先に言われてしまい、奏は戸惑った。
 頼っていいと言われたのは、書類関係などのお金のかからない話だ。保証人になることになると話が違ってくる。そこまでの面倒をここまでみてくれている相手にかけることはできなかった。
 この時の奏には行政を頼ることは思い浮かばず、さらには知り合いから遠ざけられてしまい、今すぐに必要な判断が下せる精神状態でもなかった。
「どうしよう……」
 泣きたい気持ちがどんどん強くなり、思わず顔を覆った。
 すると桜庭が奏の肩を抱いてきた。
「そこでね、こちらとしてもこうなっている奏君を追い出すのはかわいそうだと思ってね。私が保証人になって部屋を用意してあげようかと思っているんだ。もちろんうちの物件だから、大丈夫、融通はできるよ。どうだい?」
 桜庭がそう言い出して奏はまた混乱した。
 不動産会社の社長が保証人なら、部屋はどこでも借り放題だろう。更にそれが桜庭の持ち物なら桜庭の一声でどうにでもなってしまう。
 できれば頼りたくもない相手であるが、奏には道がなかった。
「……あの……」
 判断を間違いそうになりかけたときだった。
「その決断については、遺産相続の話が終わった後にしてもらうよ」
 急に若い男の声が聞こえた。
「何だ、貴様」
 そう桜庭が露骨に邪魔をした男を警戒したように苛立って声を荒らげた。
 奏がふと男を見ると、そこに立っているのは百九十はあるであろう長身の細身の男だった。
 細い顎にすっと通った鼻筋、彫りの深い目元などで日本人の顔からは濃いと言われるような顔立ちだ。けれどひどくそれが綺麗で、奏は見惚れた。
 喪服を着ているがその黒色がよく似合っていて、男の立ち姿を美しくしている。
 ゆっくりとその手が伸びてきて、がっしりと無骨な男の手が奏の腕を掴んで引っ張ってきた。
「あ……」
 ふらりと奏は蹌踉けたが、男がしっかりと奏を抱えるようにして支えた。
 身長が百六十ちょっとしかない奏は、その男の体にすっぽりと収まった。
「君が奏だな?」
 男から呼び捨てされ、奏は頷いた。
 この人が誰なのか知らないが、桜庭に迫られた選択肢の強制が両親を見送るまでは先伸ばされることは確実だった。だから誰でもよかったのだ。今この場を助けてくれるなら、奏はそう思って男の腕を掴んだ。
 その奏の手が震えていたのに男は気付いた。
「貴様、何なんだ」
 そう桜庭が自分が無視されていると気付いて男に噛みつくように言った。
 すると男は言った。
「この子の両親に呼ばれた男だ。あっちに弁護士もいる。そういった込み入った話は今後弁護士を通すように」
 そう言われて桜庭がふんと鼻を鳴らしてから言った。
「胡散臭いぞ。奏君そんな男を信用しちゃいけない。さあ、私と来るんだ。そうすれば奏君の生活はちゃんと保証するから、さあ」
 桜庭の言葉に奏は自然と首を横に振っていた。
「後悔することになっても知らんぞ!」
 桜庭は奏が靡いてこないことに苛ついて脅迫めいたことを言った。
「奏、気にすることはない」
 男が堂々とそう言い切ると、その男の後ろから別の黒服の男がやってきた。
「西ヶ谷さん、奏君はいましたか?」
「いたぞ」
「なら早く連れてきて下さい、皆さん心配していますよ」
「すぐ行く。奏、来なさい」
 西ヶ谷と言うのが男の名前らしい。
 男がそう言って奏の肩を抱いて歩き出すと、桜庭が舌打ちをしたがその後は追ってこなかった。
 あからさまにホッとした奏に、西ヶ谷と呼ばれた男が真剣に言った。
「こういう行動はあまり感心しない。次からは気をつけるように」
「……はい、すみません」
 桜庭が危ないことは知っていたのに、ノコノコとついていったことを責められ、奏は素直に謝った。
「それで何を話していた」
 西ヶ谷がそう聞き返してきたので奏は桜庭との話を繰り返した。
「あの、桜庭さんがすぐにマンションを出てくれと言ってきたのです。両親とは話がついていたと……」
「それで?」
「僕には親族も身内もいません。なので次の部屋が借りられない。保証人を誰かにお願いするのもできそうになく……それで、桜庭さんが自分の持ち物の物件なら保証人は自分がなるのでと……そう言い出して……それで」
「うっかり頷きそうになったと?」
「はい……どうかしていました」
 今考えても恐ろしい。何の対策も講じてないのに桜庭の手を取ろうとした。その事実に奏は体を震わせた。どうしても桜庭の手が気持ちが悪いのを思い出す。
 震えている奏に向かって西ヶ谷が言った。
「葬儀の行程が全て終わるまで気をしっかりしなさい。こんなところで無様を晒したら、奏は悔やんでも悔やみきれない後悔を残すことになる。両親にやってあげられることは、もう少ない」
 そう西ヶ谷が言うので奏はハッとした。
 その通りだ。もう両親にしてやれることは何一つない。
 こうして見送ること。そして墓に入れてやることまでが奏の仕事だ。それを満足にできないままでは後でああしてやればよかったと泣く羽目になる。
 葬式は、生きている人間が区切りをつけるための儀式だと聞いたことがある。奏はまだ区切りは付かないが、それでも泣いてでもここを乗り越えて、一人で生きていかなければ両親に申し訳が立たなくなる。
 そう思うと、奏は自然と涙が出た。
 すると西ヶ谷はそんな奏を椅子に座らせて泣かせてくれた。
皆が待っていると言ったはずの男の方が待合に入っていって何か説明をしてくれたのだろうか、奏は両親が戻ってくるまで西ヶ谷の側で泣き続けた。
 今は泣いても誰も責めやしない。
 だからここで涙が涸れるまで泣いて、涙を出し切ろうと奏は思った。