Sugary-08

 奏はその日はいつものように過ごしていた。
 マンションを出て大学に行き、講義の時間以外は教授の部屋で過ごした。
 その教授から与えられた手伝いは、今日やっと終わる。
 半年以上掛かった資料や本の整理が綺麗に本棚に収まり、手元の資料に一覧も作れた。
「奏くん、本当にありがとう。さあ、いつものコーヒーだよ」
 教授が奏の労力を労ってくれて、コーヒーを入れてくれた。
「ありがとうございます」
「お礼を言うのは私の方だよ。君は本当によくやってくれた。それに田北君のことも更生させてくれたみたいだし、本当にできた子だね」
 そう言われて奏はちょっとだけ照れた。
 そこで教授が提案してきた。
「実は、ここの本棚を見た隣の中摩教授が、君に本と資料の整理を頼みたいと言い出してね」
「はあ、でも僕は中摩教授とはそこまで親しいわけでもないので……」
 教授だからと言って誰とでも打ち解けているわけでもなかった。特に中摩の講義は奏は取っておらず、関わりもないに等しい。
 この時期にあまり見知らぬ人と関わり合いになるのは避けたいという気持ちが先行してしまい、いつもならば即決で手伝うと言い出すのだが、今回だけは渋った。
「そうかい、まあ、君が都合が付かないのなら、まあ、私が断っておくよ。そろそろ就職活動も始まるだろうし、片付かないこともあるかもしれないからね。この部屋だけでも七ヶ月はかかっていたし」
 かなり大変な作業であるし、中摩の部屋の様子はそれこそ教授の比ではないらしい。だからこれから半年以上懸けて奏が片付けてやる義理もない。
 そして奏は今、ちょっとしたトラブルであまり親しくない人とは付き合えないのだと教授に打ち明けた。
「知り合いの人とちょっともめていて、それでいろいろ被害が出ているので、あまり知らない人と付き合うのは駄目って言われていて。それで、中摩教授が悪いわけではないのです。ただ僕の方の都合が悪くて……どのみちお断りすることになるかと思います」
「何だって、どんなトラブルなんだい?」
 教授の言葉に少しだけ奏は躊躇してから答えた。
「お金のことなので……」
 そう奏が言うと、教授もああっと納得したような顔をした。
「そういうことかい。私に何かできることはないかい?」
「いえ、弁護士も入れてますし、警察も動いてくれるので、何かあってもそちらにお任せする形になってますから大丈夫です」
 奏がそう説明すると教授はホッとしたように胸をなで下ろした。
「そうか、割と本格的なんだね。なら、余計に面倒ごとは避けたいよね。分かった、中摩教授にはそうした家庭の事情でできないってことを言っておくよ。さすがにそこで機嫌を損ねるような人ではないだろうし」
 教授はそう言うのだが、それは外れていた。
 奏が断って教授が断りを入れたのが昨日だった。
 しかし翌日には中摩は奏の前に現れて、どうして手伝ってくれないのかと強固に手伝いをするように言うようになったのだ。
「申し訳ないのですが、家の事情で」
「だが、あの教授のは手伝ったじゃないか」
「だからそれは、もう少しで終わるところだったので、請け負った以上は最後までやり遂げたかったからです……ですので」
 そう奏が言うのだが、それをどうしても納得できないのが中摩教授だった。
 奏が講義から出てくると、必死に追いかけてきては奏に手伝うように強制し始め、奏は上手く断って逃げるのだが、ずっと一日中追いかけ回される羽目になった。
 さすがに見かねた田北が、教授に言ってくれたらしいが、中摩は注意をされてもどうしても奏に手伝わせると言い張ってしまい、言うことを聞かない。
 もちろん大学側の上の方にも話が通ってしまったが、奏が手伝えば済む話だといい、仲間の味方をする始末だった。
 それに辟易した奏は西ヶ谷に相談した。
「分かった、私から大学側に抗議しよう」
 顔色を変えた西ヶ谷がそう言うと、すぐに学長に話を通してくれた。
 どうやら学長まで話が通っておらず、途中の中間地点で問題が止まっていたようで、学長がかなりご立腹という有様になった。
 中摩は奏に対して接触を禁じられ、当面の間騒ぎを起こしたという理由で一ヶ月出勤停止の懲戒処分になった。
 奏もここまで問題を大きくするつもりは一切なかったのだが、どうも中摩は学長を前にしても一切意見を変えずに引かなかったらしい。
「申し訳ない……とりあえずまた何かあれば、すぐに報告して欲しい。奥上くんには本当に迷惑をかけてしまったね」
学長からの謝罪は西ヶ谷経由で受け取ったが、教授にも奏は謝られた。
 どうやら発端は、教授の本棚を見た中摩に教授が奏の自慢をしたことらしいのだ。
「ただ丁寧にやってくれて助かっていると言ったんだ。それでお願いされて、本人の意思の問題だから聞いてはみると安請け合いしたせいでこんなことになるとは……本当に申し訳ない」
 教授が謝罪をしているが、それを奏は問題とは思わなかった。
「世間話をしただけで、どうして全て同じようにやってもらえると思えるのか、少し分かりません」
「だね」
 話を聞いていた田北がそう言って奏に同意した。
「中摩教授はどうやら、ご家庭がちょっと問題あって奥さんが実家に帰ってしまったらしいんだ。それから精神不安定になっているようで……まさかそこまで悪いとは思わず……」
 どうやら中摩はあの調子で奥さんに接していたせいで、奥さんがノイローゼになってしまい、奥さんの両親が娘の様子がおかしいことに気付いて実家に連れて行ってしまったのだという。
 とにかく中摩が奏に接触してくることはもうないと言われたので、奏は教授がいるところには当面の間出入りしないようにと言われた。
 用事はもう済んでいたのもあって、奏はその日から早めの帰宅をすることになった。 裏門から外に出ると、いつもの及川ではなく西ヶ谷が待っていた。
「疲れただろう?」
 西ヶ谷がそういうので奏は側まで行って頷いた。
 どうしてこんなことになっているのか本当に訳が分からなかった。
 だから混乱もしていたし、どうしたらいいのかも分からなかった。
 車に乗ると、奏は西ヶ谷の腕を掴んで離さなかった。
 不安で、怖くてずっと我慢していた甘えが、西ヶ谷を久々に太陽の下で見たらホッとして出てしまったのだ。
 西ヶ谷も何も言わなかったし、奏はそれをいいことに西ヶ谷の腕を掴んだままでずっといた。
 マンションに着いてからも、奏は西ヶ谷から離れず、西ヶ谷は奏を自分の部屋に連れて行った。
 初めて奏は西ヶ谷の部屋に入った。
 同じモノトーンの色彩に統一しているのは奏の部屋と変わらないが、やはり使っているモノは微妙に違うので部屋の様子も違っていた。
 けれど、西ヶ谷の部屋は凄く綺麗で人が住んでいると実感できるのはベッドのシーツの乱れくらいしか分からない。
 本当にこの部屋で過ごしているのかと疑うような感じであるが、西ヶ谷が言うには。
「寝るためだけの部屋だからな」
 ということで、食事もほぼ外で取ってしまうから、ここで食事もしないのだという。
 そうした部屋の居間にあるソファに座ると、西ヶ谷がコーヒーを出してきた。
「ありがとうございます」
 それを受け取って一杯飲むと、何だかホッとした。
「大変だったが、何とか決着は付いたな」
「はい。いろいろとありがとうございます。大丈夫ですから」
 そうは言っても、気を張り詰めて生活をしていた上での面倒ごとだったために、奏のメンタルは既にボロボロになりかけていた。
 様々な悪意に晒され、知らない人からまで恨まれ、好意でしたことが誰かの悪意に繋がって、奏を苦しめにくる。
 たった四ヶ月の間に奏は何もかもをなくして一人になった。
 西ヶ谷たちも助けてくれているけれど、結局のところ奏は一人だった。
 その現実に奏がだんだんと耐えられなくなってきていた。
 疲れ切っている奏の姿に、さすがに西ヶ谷も気付いて、奏の心を宥めようとした。
 けれど奏の心はそう簡単には開かなくなっていた。
 何を言っても奏は大丈夫だといい、仕方のないことだとうちに心を閉ざす。
 どうしても開いてくれない。
「奏……」
 西ヶ谷が隣に座って奏の手を取ると、奏はその手を引いてしまった。
「大丈夫です……」
 少し顔を赤らめてから、奏は何かを思ったらしく手を握りしめた。
 西ヶ谷には奏の心が読めないけれど、奏は酷く落ち込んでいるのだけは分かる。
 けれどその慰め方は全く分からない。
 奏が望んでいる慰めや言葉は、きっと皆がもう口にした言葉ではないのだろう。気休めにしかならない言葉で現状がどうこうなるものでもなかった。
「大丈夫です。ただ大学の方は残りの三ヶ月は休学にしてもらいました。大学側が、問題解決のために僕の休息が必要だと言ってくれて、単位は間に合っているので、四月の四回生からまた通うことになりました」
 奏がそう言ってきた。
 それは西ヶ谷が大学側に被害届を出さない条件で飲ませた条件だった。
「その話は聞いている。しばらくは休んで……」
 そう言う西ヶ谷に奏は何か訴えるように西ヶ谷を見る。
 奏は西ヶ谷に求めていることは、そういう言葉ではない。
 西ヶ谷にもそれは分かっているのだが、奏の本当に望む言葉は分からなかった。
「奏、何か言いたいことはあるか? 大丈夫以外を聞きたい」
西ヶ谷がそう言い出すと、奏は困ったように縮こまった。
 しかし何か言いたいことはあるようで、でもそれを口に出すことを憚っているようでもあった。
 きっと奏の中では重大であり、他人に迷惑をかけてしまうことでもあるのだろう。今までそうして生きてきたから、誰かに迷惑がかかるようなことを言ったりはしないのだろう。
 だが、今日はどうしても聞かなければならないと西ヶ谷は思っていた。
 奏の限界が近づいているのは、誰の目にも分かる状態だったからだ。
「僕のお願いはきっと、西ヶ谷さんに迷惑をかけることになると思います」
 奏は慎重に言葉を選んでいる。西ヶ谷はそれを真剣に聞いた。
「こんなお願いをするのは、僕がずっと思っていたことで、それがだんだんと強くなってしまったからで、すごく我が儘になります」
「奏の願いは何?」
 奏はそれでもなかなかはっきりとは言わないで、西ヶ谷に迷惑がかかることや、西ヶ谷に嫌われることを恐れているような気がした。
 西ヶ谷には奏が何を願っているのか、この時点でも分からなかった。
「もし、何かあって僕がとても不幸になった時、僕はこの願いを胸に抵抗ができるんだと思う。だから、迷惑になるのは分かっているし、西ヶ谷さんが断ることもできるから、願いが叶うわけでもないことも分かってます」
 奏は慎重に慎重に言葉を選んだあと、西ヶ谷の腕を掴んでから震える声で言った。
「僕を可哀想だと思うなら、抱いて下さい」
 奏がそう言った瞬間、西ヶ谷は呆気にとられた。
「何を……言っている」
 奏の言葉に驚く西ヶ谷は言った。
「そんなことで、奏は救われるのか?」
 たかがセックス一つで、奏の心が救われると思えるほど、西ヶ谷は奏の境遇を軽いものだと思っていない。
 西ヶ谷にそう言われた奏は、必死になって言った。
「僕の幸せは僕が決めることで、西ヶ谷さんにはそんなことでも、僕には幸せなことです。僕は重荷にはなりたくはないけれど、僕はあなたが好きです」
 奏の言葉に、西ヶ谷は今まで感じていた奏からの視線で感じる好意は、間違いではなかったのだと気付いた。
「奏……気の迷いではないか?」
 西ヶ谷は一応の確認を取る意味で尋ねた。
 奏にとって西ヶ谷は正に刷り込みにより絶対的な善人になっている。
 しかし奏にそこまで信頼されるほど、西ヶ谷は自分ができた人間だとは思ってはいない。だからこそ奏には思いとどまって欲しい気持ちと、ずっと自分が助けてきた奏に好意を持たれていたことや、触れたいという気持ちを押し隠してきたのもあり、叶えたい気持ちも増してしまう。
 迷っているように見える西ヶ谷を奏は必死になって見つめて言った。
「僕のことが少しでも大丈夫なら、お願い、抱いて下さい……何かって、その……初めてが嫌な人になったりしても……そのなんというか」
 奏の言葉に西ヶ谷はやっと奏が本気でそう思っていることを知る。
 自分の身が、そういう意味で危険であることは奏は分かっている。だからこそこの先も大丈夫だとは言えない。何が起こるかなんて本当に分からない。
 大学で巻き込まれた出来事で、奏は本当にそう思ったのだ。
 だから傷ついた時に少しでもダメージが少ない方法を取りたかった。
「駄目なら……そう言って下さい……それで諦めます」
 奏がそういうのだが、ここで西ヶ谷が断ったら、きっと奏はそれ以上西ヶ谷を求めることもなくなるだろう。
 ターニングポイントはここであり、西ヶ谷は予定もしていなかったが、奏に確認をしていた。
「本当に、私でいいんだな?」
「はい……」
 断られると思っていた奏は、パッと顔を煌めかせた。
 涙で潤んだ瞳が必死に西ヶ谷を見つめてきて、その瞳に西ヶ谷は観念をした。
「奏、君を抱けるほど、私には下心があったことは認める。この先のことは分からないが、奏が今抱いて欲しいと言うならば、私はその通りにしよう」
 西ヶ谷の返答に奏は泣きそうなほど喜んだ。
 断られることを前提にした告白だったが、西ヶ谷は奏を見放したりはしないでいてくれる。
 もしこれが善意のまま行われているのだとして、それによって奏は救われる。
 ただ一度でもいい。
 そう願った思いが叶うのだ。
 奏には今日が命日だと言われても、納得できてしまえるほどの奇跡が起こってしまった。