R18novel短編

廃園の庭-1


 近くにある公園の中に、立ち入り禁止の林がある。
 その奥には昔、植物園をしていた時に建てたガラスの温室がある。大きな建物だったのと撤去に費用がかかりすぎるために、そのまま放置されている。
 中には肝試しに中に入ろうとする輩も多く、夜中には警備員の見回りがあるほどだ。そんな廃園に、安久津は昼間、一人で入っていった。
 中にある植物の花の絵を描くために入り込んだのだが、昼間だと人通りが多いせいか、ここには逆に人がいない。見つかることがなく、入り込んで一ヶ月以上も経っても誰かに出会ったことすらない。
 だからその日もそうだと思っていたのだが、裏口から中に入って初めて人がいることに気付いた。
 若い男だ。二十代後半くらいか。作業着のような灰色の服を着ている。
「あ……」
 この建物の管理会社の人間だと思い、慌てて逃げようとすると、その人物が安久津に気付いた。
「逃げなくてもいいよ」
 そう大きな声で言った。
「……え?」
 安久津が振り返ると、その男がこっちを見て笑っている。世間一般で言うイケメンという、整った顔をしていて、優しそうである。
「私も不法侵入しているんだ。君の仲間だよ」
 そういうのである。
「え? え?」
「ここ、この時期にくると日当たりが良くて気持ちがいいんだ。たまに私も来るんだけど、君に会うのは初めてだね」
 そう言った。
 どうやら管理会社の人間ではないようで、安久津はのろのろと男の前に姿を見せた。
「ははぁ、絵を描いていたんだ? もしかしてこの花?」
 男がにっこりと分かったと頷いてそう言った。
男が指を差したところにあるのは、ハイビスカスだ。どこでも今なら売っているものなのだが、大量に咲いているのを見るには、植物園に行くしか道がなかった。お金がない安久津には、この廃園の中に偶然入り込んで見つけた、ハイビスカスの大輪群は、まさに理想だった。
「……はい。こういうのは植物園じゃないと……見かけないので」
「入場料も馬鹿にならないからね、分かるよ」
 男がそう言ってから、にこりとして頷く。
「私は蜂屋という。この先にある屋敷に住んでいるんだけど、私もここの大きな花にはびっくりした口でね。毎年見に来るんだ」
「はあ……そうですか」
「ちょうどここの屋根が一部壊れていて、そこから雨水が入り込むらしくてね。水分補給が十分できていたらしい。環境的には寒さでやられるかと思っていたんだけど、割と丈夫みたいでね」
「へえ……」
 南国の花という印象が強いので、寒さには弱いと思っていたが、温室のお陰でそこまで温度が下がるのは深夜くらいなものらしい。
「邪魔はしないから、描いて描いて」
 蜂屋はそう言うと、すっと奥の方へ入っていった。奥にも別の花が咲いていて、今が見頃である。それを見に行ったのだろう。
「……ほっ」
 思わず息が漏れた。初対面に人間の前で、いきなり絵を広げてしまえるほどの度胸はなく、オドオドしていたので、それを見透かされたのかもしれないと思った。
 嫌な人ではないことは、気を遣ってくれたことで分かったので、安久津は大人しく、絵を広げた。まだ下描きをたくさんしているところなので、絵の具は持ってはいないから、スケッチブックを広げ、筆記用具を出し、絵を描き始めた。
 そうなると周りのことは気にならなくなる。
 黙々と絵を描いていると、外で大きなサイレンが鳴った。
 お昼になると、この公園ではサイレンが鳴る。はっきりとお昼だと分かるようにしているのは、公園内部で作業をしている人に分かるようにしているからだ。そのうち、サイレンを合図に、日曜などは親子がお弁当を広げる目安に使われていて、なくてはならないものであった。
「あ……」
 サイレンが鳴って、ふっと気付くと、後ろに人がいるのに気付いた。
「……え? あ」
 さっきの蜂屋という人が、いつの間にか安久津の後ろに立っていたのだ。
「あ、御免御免。どんな絵を描くのかなって思って、好奇心で見て見たら、すごく上手いから、びっくりして、どうやって描くのかなって見入っちゃった。ごめんね、でも凄く綺麗だ」
 さすがに黙って覗いていたのは悪かったと、蜂屋は謝ってくれた。それもちゃんと褒めてくれた。
「あ、いえ。ありがとうございます」
 上手いと言われて悪い気はしないが、絵を描いている人間からすれば、まだまだ荒削りだと言われる絵である。
 しかし、最近描いた絵がある展覧会で入選して、少しの自信は付いていたところだったので、そういう評論家のような人が荒削りという絵を綺麗だと褒めて貰えたところは素直に嬉しかった。
素直にお礼を言って笑うと、蜂屋が言った。
「あ、そうだ。その奥にある花の蜜、舐めたことある?」
「え? 花の蜜ですか?」
 急になんだ?と思いながら聞くと。
「小さな花なんだけど、すごく甘いんだよ。東南アジアじゃ、それを使って蜂蜜とか作るんだって。名前はど忘れしちゃったけど」
 蜂屋はそう言いながら、安久津の手を引く。
 何だか、茶目っ気のある人だなあと、安久津は思いながら、そういう花が咲いていることに、未だ気付いてなかったので、見ておきたいと思い、蜂屋に付き添った。
 蜂屋に連れて行かれた所は、奥にある更に頑丈な温室の個室になる。そこは安久津はさすがに入ったことはなかった。
「え、そこは……」
「うん、鍵がこの間までかかってたんだけど、誰かが開けて入った後、鍵を忘れてるんだよ。私も二週間前に気付いたんだ」
 そう蜂屋は言う。
「中に花があるのは知ってたから、気になっていつも鍵を確認していたんだ。それから毎日見てるんだ。中にある花がね……」
 そう言われ、本当にドアに鍵が掛かっていなかった。
 キィッと鉄が錆びた音がして、鉄枠のドアが開く。ドアの外からは緑が見える程度で、何があるのか分からないのだが、中に入ると一気に、緑の中に真っ白な小さな花が咲いているのが見えた。
 無数の花を付けた大きな木。まるで金木犀のような花をつけていて、圧倒的に美しいものだった。
 よく見ると、それが中央にあり、周りの木々は好き勝手に育っているようだったが、真ん中の白い花の木だけは、綺麗に手入れされている気配がした。
「ほら、凄いだろ?」
 圧倒的な美しさに見惚れてしまった。こればかりは、鉛筆で表現するのは難しいものだったからだ。
「うん、凄い」
 素直にそう言った。
 安久津の驚いた顔に、蜂屋は更に木に近づくように、手を引っ張っていく。
「近くで見て、いい匂いがするから」
 そう言われて気付いた。
 この温室の個室に入ってから、すごく甘い匂いがしていることに。
「この花の匂い?」
「そうだよ、いい匂いだろ?」
 確かに蜂屋の言う通りにいい匂いが充満している。充満しているのに、金木犀のような近づくと鼻につくような濃さの匂いではなく、ほのかな香りが漂っている。どうやら、そこまで匂いが強いものではなく、通常の空間では匂いが飛んでしまって、分からないのかもしれない。
「いい匂い」
 鼻をクンクンとして、匂いを嗅ぐ。
 すると、蜂屋がその花を幾つか摘まみ、それを安久津に差し出した。
「?」
「こうやってね、花の中の方を舌に乗せる。で、上から押すとちょうど密が舌に付くんだ」
 蜂屋はそうやって花を舌に乗せて、密を舌に付けている。
 安久津も見よう見まねで、同じようにしてみると、確かに微量であるがストロベリーのジャムのような甘さを持った蜜の味がした。
「わ、凄い、イチゴのジャムみたいな味がする」
「あっちの方でジャムにするって言う話、分かるだろ?」
「うん、これなら美味しくできるね」
 安久津は思わず納得して笑った。
蜂屋が取ってくれたのは、二十個ほどあったので、それを安久津は夢中で舐めてしまう。一回味わうと、何だかもっと味わいたくなり、何度も繰り返してしまった。
「花も食べられる……よね?」
「まあ、ジャムにするくらいだから」
 蜂屋が苦笑しているが、安久津はそのまま花を食べてみた。花自体にそこまでの味はなかったのだが、蜜の味がしっかりと口の中に広がった。
「わあ、これ凄い……美味しい」
 まるで果物でも食べているような、糖度がしっかりある味が濃く口に残る。
 その味が気に入って、安久津は舐めた後の花を一個ずつ食べていく。
 口の中に広がるそれが美味しくて、ムシャムシャと食べていたが、ふっと急に酒に酔ったみたいに、視界が揺らいだ。
「……え?……え?」
 目の前にいる蜂屋が、グニャリと歪んでいく。自分がその場で円を描いて回っているような視界になってしまう。
「はち……や、さん……?」
 グルグル回る視界に戸惑って、蜂屋の方に手を出し、蜂屋を掴もうとしたのだが、その手が空を切って、安久津は前に倒れた。
 蜂屋にぶつかったと思ったが、蜂屋が避けずに安久津を受け止め、コンクリートの地面に激突はしなかった。